第伍章 川尻秀隆…殲滅への報復



虐殺者川尻秀隆
虐殺対象旧武田家中残党
虐殺行為武田家滅亡後の旧臣達への執拗な残党狩り
虐殺要因織田信長に習った甲斐国人殲滅
応報本能寺の変後の残党蜂起により切腹に追い込まれる。
 織田家武将・川尻肥前守秀隆(かわじりひぜんのかみひでたか) は恐らく本項で取り上げられた人物の中では一番マイナーな知名度の武将であるが、惨めな最期がなければ柴田勝家・明智光秀はおろか、豊臣秀吉・徳川家康とさえ比肩し得たかもしれない人物である。

 少し人物紹介を交えて見てみたいのだが、大永七(1527)年に川尻親重の子として生まれた秀隆は最初織田信武に仕えた。
 織田大和守信武は尾張守護斯波氏の配下で、守護代として尾張下四郡を実効支配し、同じく上四郡を実効支配する織田伊勢守と尾張八郡の支配を巡って争っていた。
 そんな中、織田信武の配下である三奉行の一人が次第に力をつけ、尾張一国支配の土壌を作った。秀隆はやがてその実力者となっていた織田信秀に使えるようになった。

 秀隆は信秀に仕えると小豆坂の戦いに奮闘し、信秀の子の信長の代になると信長の親衛隊とも云える黒母衣衆の筆頭格となり、永禄元(1558)年には信長の弟・信行の二度目の反逆において信行殺害を務めるなどど、信長の信頼に比例して血生臭い働きも大きくなった。
 以後も桶狭間の戦い始め、美濃、伊勢攻略などに従軍し、その信頼は天正元(1573)年に信長の嫡男・織田信忠の補佐役となるほどで、その軍功は美濃岩村城主として五万石を得るほどであった。

 天正三(1575)年に秀隆長篠の戦いに参加するとその後も滝川一益と供に信忠を補佐しながら武田討伐に邁進。
 そして天正一〇(1582)年三月、天目山の戦いにおいても大いに活躍し、ついに武田家を滅亡に追いやった。
 川尻秀隆はそれまでの功績により、信長から甲斐一国を拝領した。
 数多い信長の配下にあって、城持ち大名さえ秀隆の他には明智光秀・柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀ぐらいで、まして一国拝領の身は皆無に近かった。
 だがこの川尻秀隆一世一代の晴れ姿である甲斐一国拝領の陰にこそ秀隆の為したジェノサイドと、その因果による破滅が隠されていた。

 周知の通り、織田信忠軍の武田討伐徹底した殲滅戦だった。
 早期に降伏した穴山梅雪や木曾義昌は武田勝頼の身内であってもその身分を保証されたが、土壇場で裏切った小山田信茂「古今未曾有の不忠者」として斬首され、武田信廉(信玄の弟・信虎三男)、武田信豊(武田信繁の嫡男。信繁は信玄の弟で信虎次男)、も残党狩りの渦中で織田軍に殺されたのだが、信廉は降伏勧告に応じながら殺され、信豊は降伏の手土産の為に配下に首を取られた
 そして織田信忠と供に武田家中殲滅を指揮したのが川尻秀隆であった。

 戦闘の最中に捕えられて殺された一条信龍(信玄弟・信虎八男)や、最後の最後まで降伏勧告を拒んで奮戦後に自害した仁科盛信(信玄五男)の様な例は「落命したのもやむ無し。」と云えるだろう。
 また、事前に「降伏すれば城主は切腹させるが、城兵とその家族の命はすべて助ける。」との条件提示が有った上で責任者が処刑されるのならまだ分からなくもない。
 だが、織田信忠と川尻秀隆のやり方は騙し討ちに近かった。
 「大人しく降伏したものは身の安全を保障し、恩賞を与える。」との廻状を出して投降を呼びかけながら、実際に降伏した者を皆殺しにするというもので、しかも残党狩りは盲目故に僧籍に入っていた信玄の次男・龍芳にも及び、龍芳は自害し、武田家の菩提寺である恵林寺まで焼かれ、住職の快川紹喜(かいせんじょうき)は「心頭滅却すれば火もまた凉し」の名言を残して火中に燃え尽きた
 武田氏並びに武田家臣団の残党、心ある甲斐の人々が信忠・秀隆を恨まない筈が無かった。


 織田信忠が甲斐を後にし、新領主として甲斐に留まった秀隆は、甲斐支配にあたって、武力と恐怖をもって臨んだ。
 武田勝頼の時代から連年に渡って重税に泣かされ続けていた甲斐の村々に対してそれ以上の重税を課し、それに反発して一揆を起こそうとする国人には軍勢を派遣し、徹底的な武力弾圧を行ったのである。あたかも猟師が巣穴の狐を煙で燻り出すが如く、圧政による一揆の誘発で国人を討ち果たした。
 主君・信長が武田家中に容赦がなかった路線を引き継いだのであろうか?

 当然のことだが、甲州人達は川尻を憎悪し抜き、隙あらば一揆でも起こして殺してやりたいと常に云い合っていた。つまりジェノサイドへの報復の種は必然的に燻っていたのである。

 そこに天正一〇(1582)年六月二日の本能寺の変が起きた。
 六月七日、堺から伊賀越えで命からがら三河に逃れた徳川家康は甲斐の動向を探る為、家臣の本多百助信俊と名倉喜八郎信光を川尻秀隆の元に派遣した。
 信俊と信光は騙まし討ちに近い秀隆武田残党狩りとそこから生まれた悪評に呆れつつも秀隆に会った。
 そして、信長亡き後の混乱収束の為に、川尻軍に家康の領国通過等の協力の意志があることを伝えた。
 だが故信長が一目を置いた家康を警戒する秀隆は、家康に「信長様の死に乗じた甲斐奪取の野心があり、信俊・信光は自分を殺しに来た刺客に違いない。」と見做した。
 秀隆は家康の使者である両名を謀殺しようとして、一先ず積翠寺(せきすいじ)に歓待し、六月一三日に(その日に明智光秀が討たれたのだが、当然当時の情報伝達手段では知る由もなかった)光秀討伐とその間の甲斐統治について善後策を検討したい、という旨の使者を寺に送って二人を呼び出そうとした。
 だが、信長という巨大な後ろ盾を失った秀隆甲斐国人の格好の標的になっており、ジェノサイドに対する因果の手は既に迫っていた。

 その夜、積翠寺に一人の浪人が本多信俊と名倉信光を密かに訪ねて来て、秀隆が二人を謀殺せんとしている事を伝えた。
 そう、この時既に秀隆への報復の手は城中にも及んでいたのであった。この密告により、信俊一人が秀隆に会い、信光は積翠寺に残った。
 果たして家康を疑った秀隆は信俊を歓待して、寝所に案内するや家臣に寝首を掻かせた。だが、まさにその時、武田家にその人ありと云われた山県三郎兵衛昌景の旧家・三井弥一郎が武田軍残党を率いて府中城に押し寄せてきていた。
 秀隆の名を呼ぶ三井に秀隆は楼上より答えた。
 三井の要求は本多信俊に会わせろ、というものだった。三井は秀隆が信長の仇討ちの為に甲斐を引き払えば、徳川に降伏するとの意を信俊に伝えんとしたのだが、当の信俊は殺された直後で、それを伏せつつ三井の要求を断った秀隆に三井は翌日の襲撃を宣言して兵を率いて立ち去った。

 翌朝、軍議に臨まんとした秀隆を驚愕させる事態が起きていた。
 二〇〇〇いた城兵の大半が秀隆に愛想を尽かして城中から退散し、残った兵はたったの八〇人に過ぎなかった!
 八〇人は秀隆に潔い切腹を奨め、自分たちもそれに殉じると申し出たが、秀隆はそれを拒絶し、逆に自らが自害したので首を渡す、と偽って三井達一揆の首謀者五人を城内に呼び込んで謀殺せんとした(←呼び出し・騙まし討ちの好きな奴だ……)。
 だがこれには僅かに残った八〇名の大半が大きく失望した。
 五〇人以上が秀隆を見限って退散し、代わりに三井弥一郎率いる国人一揆勢が城中に呼び込まれた。
 秀隆の進退は完全に極り、秀隆の元に残った二二人の内八人が討死し、残りは一揆勢に降伏した。
 今度こそ観念した川尻肥前守秀隆は介錯を申し出た三井の言に従い、切腹して果てた。享年五六歳。
 秀隆のジェノサイドは甲斐国人をして「徳川家康には従っても、織田家中には従うまい。」と思わしめ、その非道は多くの彼の直属さえ愛想の尽かすものだった。

 秀隆の末路には甲斐に野心を持つ家康が甲斐国人を裏で糸引き、愚直で戦には向いていても外交には向かない本多信俊が殺されるのを予測した上で秀隆の元に派したとの説もある(薩摩守は家康に甲斐奪取の野心はあったものの、性格からして信俊を人身御供にしたのはあり得ないと思っているが)。
 だがそんな家康の謀略を易々と許す土壌が信長・秀隆主従の武田残党狩りにあった事は否めない。

 余談だが、『信長公記』によると信長が嫡男・信忠に対し、「秀隆を父と思って何事も相談せよ。」と述べたと云うから、合理主義者にして実力第一主義の信長から信頼を得るだけの人物ではあったのだろう。
 にもかかわらず知名度が低いのは、圧政の報復にて名も無き地侍の手にかかった情けなさによるものだとしたら、それこそが川尻秀隆のジェノサイドに対する最大の因果応報なのかもしれない。




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令和三(2021)年五月五日 最終更新