第陸章 伊達政宗…師を激怒させた報復戦争



虐殺者伊達政宗
虐殺対象小手森城兵・畠山義継とその家臣達
虐殺行為撫で斬り・義継一行の皆殺し並びに、目と耳を殺いでの梟首
虐殺要因過剰なまでの新国主としての示威と父の仇への報復
応報畠山義継の暴走と残虐な仕打ちに応酬の国人達が挙って義継遺児に合力
 伊達政宗という遅れて来た英雄は何とも不思議な男である。
 猛将の様でもあり、智将の様でもあり、智勇兼備の一方で人間臭さも多分に強い。
 何者をも恐れぬ様でありながら、必要とあらば派手なパフォーマンス(豊臣秀吉への謁見)や露骨なごますり(徳川家光就任時の挨拶)で権力にも迎合することも出来た。
 なかなかに一言では形容し難い男なのだが、若い時分には血気の猛将の色合いがかなり濃かった。
 そしてそれゆえのジェノサイドがあり、その因果応報は政宗の奥羽統一を遅らせ、それこそが政宗をして「遅れてきた英雄」たらしめた一因にして、最大の因果応報なのかも知れない。

 天正一二(1584)年一〇月一日に、弱冠一八歳にして伊達家の家督を相続した新進気鋭の政宗。この時、父の輝宗は四一歳の働き盛りで、隠居するには余りにも早過ぎた。
 この早い家督移譲には、幼少時に疱瘡(天然痘)を患って独眼・痘痕面になった嫡男・政宗を厭い、美貌の次男・竺丸を偏愛する義姫の動きから伊達家中の内紛を懸念した輝宗が政宗の当主としての立場を磐石のものにし、伊達家の結束を堅めんとの意があったと見られている。
 そしてそんな背景を意識してか、政宗は内外に威を示す言動を多用した。


 当時、一八歳と云えば立派な大人で、現代でも婚姻が許される年齢である(平成二七(2015)年には選挙権が得られる年齢にもなった)。
 戦国時代の事だから一八歳と云っても数え年で、実質は一七歳である事を考慮しても「一人前とされた年齢」には違いないのだが、現代の二〇歳が大人の世界でどう見られているかを想像して頂きたい。
 やはり「若僧」、「青二才」、場合によっては「餓鬼」とも見られる。勿論年齢=才覚ではないのは誰だって理屈で承知しているのだが、やはり道場主も若き日はそう見られ、今現在若者をそう見ていないとは断言できない。
 曾祖父の伊達稙宗が子福者で、南奥羽の多くの大名家・国人領主に稙宗の娘が嫁いだ事から政宗の周囲は大半が遠縁の身内で、彼を疎んじた母・義姫の実家・最上家の視線も意識したものか、年齢も血気の頃の政宗は威武強大に努めた。
 既に初陣を済ませ、戦働きも心得ていた政宗の第一七代当主にして総大将としての初陣はいきなりジェノサイドに始まった。

 天正一三(1585)年八月、政宗は小浜(現:福島県安達郡)の大内定綱の領内に攻め入った。
 大内定綱は元は伊達家の被官でありながら会津の芦名義広(あしなよしひろ)に寝返り、かと思えば輝宗に帰参を申し出るなどと向背定かならぬ存在だった。
 同年正月に政宗の家督相続の祝い言上に訪れ、その際に向背定かならぬ態度を揶揄され、政宗に愛想を尽かし、輝宗の取り成しで小浜に戻ると米沢には帰らず、輝宗が送った帰参要請にも応じず、政宗を非難する有り様だった。
 米沢を出陣した政宗は、小手森(おてもり)城を八月二四日に包囲し、八月二七日これを陥落させるや、降伏した城兵はもとより、女子供を含む八〇〇有余、更には生あるものは牛馬に至るまで斬殺した!
 この一大ジェノサイドを世の人々は「八百人撫で斬り」と称して恐れおののいた……。

 若き政宗の苛斂誅求に恐れをなした大内定綱は家臣も見捨てる形で芦名領に逃げ込み、「次は自分の番だ…。」とばかりに二本松の畠山義継が恐怖した。
 歴史の結果を知る後世から見た結果論だが、小手森の「八百人撫で斬り」という名のジェノサイドがなければ、この後の義継の破れかぶれの暴走も、伊達輝宗の悲劇も生まれなかったかも知れない。謂わばこれも因果応報と云えなくもない。
 畠山義継は大内定綱と同様に、伊達と芦名の狭間に苦慮する国人勢力の一つで、これまた大内同様に向背定かならぬ態度を政宗に揶揄されており、政宗が小手森城を包囲する九日前の八月一五日には大内とともに月見の宴を楽しんでいた仲でもあった。
 進退極った義継政宗に降伏を申し出るも、政宗は信じず、「嫡男を人質とすること」「北は油井川から南は杉田川までの五ヶ村を残して所領没収」と云う、義継の領主としての家格を完膚なきまでに叩き潰す条件を突き付けた。

 窮鼠と化した義継は隠居の輝宗に泣き付いて、「杉田川以南の所領没収だけでも免除して欲しい。」との旨を伝え、輝宗も政宗に取り成した。
 一〇月八日に所領没収を一部免除された事に御礼言上に訪れた畠山義継は不在の政宗に代わって引見した輝宗の隙を突いて脇差を宛がい、輝宗拉致の暴挙に出た。
 政宗の奥羽統一の足手纏いとなる事を案じた輝宗は、救出に駆け付けた伊達成実(政宗従弟)に自分諸共義継を撃つ事を命じるや、義継の手を取って、義継の手にある刃を自らの身に突き立てた。
 義継と供に銃弾を浴びた輝宗は義継の最期の力を振り絞っての斬撃を浴び、政宗の眼前で斬殺された。
 怒り心頭の政宗義継の首級の目を刳り貫き、耳を削ぎ落として城下に晒すよう命じた……(別の史書にはその場で斬り刻んだ義継の遺体を藤蔓で繋ぎ合わせて、改めて磔にしたともある……)。
 だがこの過剰な報復は政宗に悪因悪果となって返って来た。


 卑怯な手を使ったとはいえ、政宗から突き付けられた難題ゆえの暴走の果てに無惨な死に様を晒された義継と、その遺児・国王丸(一二歳)に街道七家(佐竹・芦名・白川・相馬・石川・岩城・畠山)が同情し、国王丸を救うべく集結した兵は三万に達した(対する伊達勢は約八〇〇〇)。
 輝宗の初七日の法要を済ませた政宗は怒りも露わに、側近・片倉小十郎景綱の静止も聞かず、二本松に攻め入った。
 だが、国王丸側の結束は思いの外固く、八〇〇〇対三万の兵力差もあって押し捲られた伊達勢は老臣・鬼庭左月入道の犠牲の末に要衝・人取橋を死守したが、政宗自身矢を一本、銃弾五発を浴びており、危地を脱出するや倒れ込む有り様だった。

 民家にて目を覚ました政宗を迎えたのは怒髪天の虎哉宗乙だった(あ、「怒髪天」って、髪なかった……)。
 拙作『師弟が通る日本史』でも取り上げた様に、虎哉は政宗の師で、突然の再会に喜ぼうとした政宗を虎哉はやにわに殴りつけた。
 驚く政宗に虎哉は、先君輝宗が信心深く、人に突け込まれはしても恨みを買わない人物だったのに比して、血気に逸る政宗が敵を追い詰め、暴走させ、輝宗を死に追いやったことを責めた。
 そして、過剰な報復に走らず、義継の首を清めて二本松に丁重に送り返せば、国王丸も父の姦計を恥じて伊達に随身し、無用の戦も起きなかった、と叱り付けた。
 虎哉は暗殺されたり、戦死したりしたすべての者を「仏の子」として、政宗の所業を「悪鬼の所業」として痛罵・打擲し、さすがの政宗も師の激怒にぐうの音も出なかった。


 だが結果として、良き師を持ち、自らの行為を振り返り得た事が政宗の命運を救ったのかも知れない。
 人取橋にて政宗をあわやの状態にまで追い込んだ二本松・芦名の連合軍は突如として退却。謎の退却には諸説あるが、政宗の悪運としか云い様がなかった。
 結果、大きな犠牲を払ったものの政宗は「寡兵でもって三万の大軍を破った」との箔を着け、翌年には二本松の国王丸を会津に追い、着々と会津侵攻を押し進めた。
 天正一七(1589)年四月、芦名領内の安子島城と高玉城を攻めた政宗はすぐに降伏した安子島は許し、徹底抗戦した高玉は陥落後に城兵を「撫で斬り」にしたが、四年前とは異なり、同じ「撫で斬り」を駆使するにしても降伏と徹底抗戦に応じて硬軟両面を使い分け、威武と懐柔を上手く使い分ける巧者振りが弱冠二三歳の伊達政宗をして、会津の名家・芦名氏を滅亡させしめた。

 血気の暴走と父の死、それに伴う激戦という苦難を経て一皮剥けた若き奥州の覇者に育った愛弟子に安堵した虎哉宗乙は以後、伊達輝宗の菩提を弔いつつ政宗の良きアドバイザーとして静かな余生を過ごした。

 政宗の為したジェノサイドは「若気の至り」で済ますには余りにも犠牲が大きかったが、百の犠牲で万の命を救うよりなかったような非道の時代にあって、尊い犠牲の果てに奥羽の覇者が立つ事で後々の戦国の完全終息までの間に奥羽の地に大戦争が起きなかった事でその犠牲は浮かばれないものだろうか?
 余談だが、道場主は昨今の少年犯罪が少年法の前に殺人や強姦・強盗さえも「未成年に更正の機会を」の声で処罰より更正が優先され、被害者の感情が軽視されている現状に憤懣やる方ない想いを抱いている。
 勿論殺される側には武将による「ジェノサイド」も「クソガキによる面白半分の虐殺」も、「非もないのに理不尽に殺された!」という事実・無念・怒りに変わらないだろう。
 「若気の至り」にしても時代背景・立場・動機・事件から派生されたものを考えた時、いくら「未来の糧」とはいえ、その犠牲にならなければならない謂れは微塵も感じられない。
 それを思えば、政宗の為した事は為した事として直視し、その犠牲を悼まなければならないし、まして政治も軍事もない身勝手な動機による犯罪は一緒にしてはならず、重き責任とその因果を背負わすべき、と考えずにはいられない。




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令和三(2021)年五月五日 最終更新