第漆章 小早川秀秋…蛮勇総大将



虐殺者小早川秀秋
虐殺対象朝鮮民衆
虐殺行為一般民衆への攻撃・犠牲者への鼻削ぎ
虐殺要因総大将としての力量誇示
応報左遷
 云わずと知れた豊臣秀吉の養子で、実父・木下家定は秀吉の正室・お禰の兄で、秀秋はその五男だった(初名は辰之助で、ついで秀俊、最晩年は秀詮と変わるが、本項では「秀秋」で統一)。拙房では『菜根版名誉挽回してみませんか』以来の登場である。
 
 本能寺の変の起きた天正一〇(1582)年に生まれた秀秋は、権力と財力と武力を欲しいままにしながらも実子に恵まれなかった子煩悩男・羽柴秀吉(豊臣秀吉)の養子となり、他の養子達(豊臣秀次、結城秀康、宇喜多秀家、智仁親王)と供に秀吉に可愛がられたわけだが、縁で見れば秀吉の正室の兄の子(=義理の甥)であることから秀吉の姉の子(=実の甥)である秀次に次いで可愛がられていたと云って良いだろう。

 だが、朝鮮出兵文禄の役の最中である文禄二(1593)年八月に秀吉の次子・お拾(おひろい。後に秀頼)が産まれると秀秋は紆余曲折(詳細は『菜根版名誉挽回してみませんか』参照)を経て、文禄三(1594)年に小早川隆景の養子となった。
 文禄四(1595)年の隆景の隠居、二年後の隆景逝去を経て、筑前名島城主となり、筑前及び筑後の一部三五万石(五〇万石とも)を治める太守となった。

 だが弱冠一二歳の少年に史上最大の立身出世男・豊臣秀吉並びに智将・小早川隆景の養子であるという事は大変な重圧があった。
 年齢もあってか、さすがに養父隆景の五大老を継がされる事はなかった(後任は上杉景勝)が、三〇万石オーバーの大身だけでも並の少年に背負い切れる責務ではない上に、慶長の役に際しては遠征軍の総大将まで任じられたのだ。
 しかも初陣………なのに世間は碧蹄館(へきていかん・ペチェグァン)の戦いで圧倒的不利の戦況下で明の援軍を加えた明・朝鮮連合の大軍を見事撃破した小早川隆景を見る目で秀秋を見たのである。
 常識で考えてまともな采配が出来る訳がなかった。ここに一人の少年が織り成すジェノサイドの種が潜んでいた。


 勿論、秀吉も小早川家中も馬鹿ではない。
 朝鮮出兵自体が戦国武将の誰にとっても初めての経験であり、動かす軍勢もかつてない規模だ。間違っても一二歳の少年に務まる軍務ではなかった。
 「総大将・小早川秀秋」とは名目上の話で、毛利家からは毛利秀元(毛利元就四男・穂井田元清の子・輝元養子)、小早川家中からは稲葉正成(秀秋側近。春日局夫)、秀吉からは黒田如水が秀秋補佐・監督の為に同道する事となった。

 だが、好色なりに、愚者なりに、若僧なりに、笑い上戸なりに(←以上、すべて小早川秀秋に陰で囁かれていた悪口)、秀秋秀秋で戦に一生懸命だった。
 慶長二(1597)年一二月一二日に明・朝鮮軍が慶尚南道蔚山(ウルサン)城を包囲して水源を断つと、一二月二六日に小早川・毛利・黒田軍は蔚山の北方の西生甫に集結。明けて慶長三(1598)年一月四日に蔚山城を包囲する明・朝鮮連合軍の背後を突いて潰走させ、城中の加藤清正軍を救出した(←これ自体は立派な手柄)。
 だが、ここで血気の若大将が、総大将としての力を見せんとしたが為に一つのジェノサイドが為された。

 蔚山での戦いにおいて小早川秀秋自ら抜刀すると明・朝鮮連合軍相手に大暴れすると敵兵の首級十数個を挙げるに及んだ。敵将を一人生け捕りにしたとも云われる。
 通常戦場で二桁の首を取り、敵将を生け捕ったとあればかなりの軍功と見られる。
 だが秀秋の奮闘は総大将という立場故に、秀吉の元養子にして秀頼対抗馬の一人になりかねなかった故に、初陣に似つかわしくない活躍故にジェノサイドと見做された。

 形式上とはいえ、小早川秀秋は遠征軍の、在朝日本軍の総大将で、自ら抜刀しての奮戦は「大将らしからぬ匹夫の振る舞い」として石田三成から秀吉に報告された。
 また小早川秀秋の活躍が名声を博すと、秀吉の跡目相続争いが万一起きるような時には、「秀頼公に対する厄介な対抗馬」となる可能性からも、秀秋の「戦功」は「殺戮」にされた方が都合が良かったとの説もある。
 極め付けは秀秋が挙げた首級の内容にあった。
 普通に考えて戦場で相手の首を二桁も取るような奮闘は武芸の達人でも容易な事ではない。誰だって死にたくないから、相手を殺す事に消極的な人間でも、殺されない事には大半の人間が積極的だ。死に物狂いの相手の首を二桁も取るには余程の達人でなければ難しく、故に秀秋が挙げた首級は女・子供・降伏した朝鮮兵、といった非戦闘員に近いとの見方もあったのだった。

 いずれにしても軍監・石田三成の報告を受けた秀吉は秀秋に激怒。
 秀秋を筑前名島三五万石の大身から越前北ノ庄一五万石に左遷する旨を決めた。
 秀秋の大将らしからぬ蛮勇による益なきジェノサイドを秀吉が怒り、大将に不要な殺戮は秀秋に左遷という形で返って来た。正に因果応報であった。

 さて、ここまでの文章を読んだ大半の方が、小早川秀秋をジェノサイダーとする事に疑問を覚えるのではなかろうか?
 実際の所、薩摩守自身、『菜根版名誉挽回してみませんか』に取り上げた要因が同情であったこともあり、前頁の面々に比べてそんなひどいジェノサイダーと見ている訳ではない。
 敢えて秀秋をジェノサイダーの一人にエントリーしているのは、一人の若輩者を権力者達が自分達の都合でいい様に利用し、それに対する反発と変動時のプライドへの固執がどんな暴走を生むかの悲劇に注目せんが為である。

 初陣でいきなり異国との戦の総大将に任ぜられ、自分なりに全力を尽くした結果が「無用の殺戮」とされて(←あながち間違いではないのだが)、予想だにしない叱責を受け、減封まで云い渡された少年の心はかなり荒んだと云って良いだろう。
 幸か不幸か秀秋を叱責した秀吉は四ヶ月後の慶長三(1598)年八月一八日に伏見城で薨去し、後の政治を託された徳川家康は五大老会議で秀秋の罪を不問とし、減封を取り消した。
 養父と恩人の板挟みになった秀秋が二年後の関ヶ原の戦いで優柔不断の果てに家康の発砲督戦を受け、西軍を裏切り、東軍勝利に大きく貢献したのは有名だが、翻弄され続けた事への反動の様に戦場での秀秋の殺戮に臨むが如き戦振りが続いた。

 関ヶ原の戦いの勝利後、秀秋は家康から西軍に属して伏見城を攻めたこと(この戦いで家康の股肱の臣・鳥居元忠が自害)を赦す代わりに、石田三成の居城・近江佐和山城攻めを命じた。
 経緯における気まずさを払拭せんとしたのか。秀秋は狂った様に佐和山城を攻め立て、石田正継(三成の父)、正澄(三成の兄)、三成室も焼け落ちる城と運命を供にし、三成の幼子・重家だけが僧籍に入る事を条件に助命された。
 石田方に降伏を申し出た形跡は見られないが、小早川側にも降伏を勧告した形跡は見られない。

 そしてその二年後、慶長七(1602)年一〇月一八日、小早川秀秋は謎の多い死を遂げ、嗣子なきが故に小早川家は改易となった。時に小早川秀秋享年二一歳。
 秀秋の死の原因は諸説あるが、確実な事実として、秀秋が重臣・杉原紀伊守を斬り、もう一人の重臣・稲葉正成が逐電した事実がある。
 抜刀し、斬り殺し、殲滅する事以外の戦いと自己のアイデンティティーを見出せないのはすべての人間の不幸である。
 地位と権力に追い込まれ、翻弄され過ぎた人間が人殺しにしか行動の術を見出せない悲劇は決して戦国時代だけのものではないと薩摩守は考える。




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令和三(2021)年五月五日 最終更新