第参頁 親鸞…………一遍の陰に隠れて

名前親鸞(しんらん)
生没年承安三(1173)年四月一日〜弘長二(1263)年一一月二八日
身分浄土真宗開祖
師匠法然
薩摩守による実在度一〇
実在を疑われる要因自らの伝を残すことに全く興味がなかった。一遍が有名過ぎた。
通説における略歴 承安三(1173)年四月一日、日野誕生院付近(現・京都市伏見区日野)にて、日野有範の長男として誕生。母については不詳。

 世は平家全盛期に翳りが見えた頃で、平清盛が世を去ったのと同年の治承五(1181)年に、叔父である日野範綱に伴われて京都青蓮院に入り、後の天台座主・慈円の元で得度し、範宴(はんねん)と称した。
 出家後、比叡山延暦寺の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の常行堂において、天台宗の厳しい修行を二〇年に渡って積んだが、自力修行の限界を感じるようになった。

 建仁元(1201)年の春頃、比叡山と決別して下山し、聖徳太子が建立したとされる六角堂にて百日参籠を行い、九五日目の同年四月五日の暁に聖徳太子が夢の中に現れ、そこで示された文言に従って、法然に師事するようになった。

 そして法然から専修念仏の教えを学び、法然より綽空 (しゃっくう)の名を与えられ、元久元(1204)年一一月七日に記された「七箇条制誡」に連署した一九〇人の門弟の中で、八六番目に綽空の名が見られる。
 だが翌元久二年(1205)年には、法然から門弟の中でもごく一部の者にしか許されなかった『選択集』の書写を許されるまでになっていた。
 同年閏七月二九日、親鸞に改名。だがこの年、対立する興福寺が朝廷に「興福寺奏状」なる九箇条の過失を挙げ、朝廷に専修念仏の停止(ちょうじ)を訴えた。

 専修念仏は建永二(1207)年二月に後鳥羽上皇の怒りに触れ、専修念仏の停止、西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房遵西の四名の死罪、法然・親鸞を含む七名の流罪が命じられた。
 流罪となった法然・親鸞等は僧籍を剥奪され、公式には親鸞藤井善信(ふじいよしざね)の俗名を名乗らされ、越後国府(現・新潟県上越市)に流された。

 直前、親鸞は妻帯し、流刑先で愚禿釋親鸞 (ぐとくしゃくしんらん)と自称し、非僧非俗の生活を開始した。
 五年後の建暦元(1211)年一一月一七日、順徳天皇より赦免の詔勅が下り、法然は一足先に入洛も許可されていた。だが、越後の豪雪で入京が叶わぬ間に、建暦二(1212)年一月二五日、法然は八〇歳で入滅した。
 師弟再会が叶わなくなった親鸞は越後に留まったととも、一旦帰洛した後に関東に赴いたとも云われているが、確かな史実として、赦免三年後の建保二(1214)年には東国(関東)にて布教活動を行い、信濃善光寺、上野佐貫庄、常陸を転々とした(滞在した時期・期間には諸説あり)。

 やがて、笠間郡稲田郷の領主・稲田頼重に招かれ、同所の吹雪谷という地に草庵を結び、この地を拠点に布教活動は約二〇年間に及んだ。
 そして、天福二(1234)年頃、親鸞は帰京。帰京後は、著作活動に励むようになった(帰京理由は諸説あり、確定していない)。
 弘長二(1263)年一一月二八日、実弟・尋有が院主だった善法院にて入滅。親鸞の享年は九〇歳!当時としては化け物とも云える長寿だった。流罪以来、非僧非俗の立場を貫いた果ての終焉だった。



実在を疑われる要因 通常、新しい宗教や新しい宗派を立ち上げた者は、その教えを広めたい目的からも、宣伝に力を入れることになる。
 何せ今までなかった教えを広めると云うことは、既存の教えの一部(或いは全部)を否定することで、それを広める為には、書籍を初めとしたさまざまな媒体を用いての、内容に関する相当な周知が必要である。その例外ともいえる存在が親鸞と云える。

 それは浄土真宗の教えに即すればこそであろう。
 浄土真宗の教義は、「慈悲深き阿弥陀如来が、迷える衆生を救うべく、すべての人間を対象に、亡くなった際には自らが統べる極楽浄土に往生させるとの結願(けちがん)を立てた。ゆえに阿弥陀仏の慈悲に感謝し、その御名を唱えん。」とするものである。
それゆえ、特別な修業・苦行・学問を必要とせず、ただただ「南無阿弥陀仏」を唱えればいい、という分かり易い教義はそれまで仏教と無縁に近かった一般大衆にも爆発的に受け入れられた。
 ただ、逆を云えば、生前の善悪・所業・思いに関係なくすべての人々が極楽往生を遂げると云うのは「決定事項」で、いうなれば、「南無阿弥陀仏」と唱えなくても、何もしなくても極楽往生するのである。それを著した有名な文句は「善人もて往生を遂ぐ、況や悪人をや(善人でさえ極楽往生を遂げるのに、悪人が遂げられない筈があろうか、いやない)。」であろう。
 それゆえ親鸞及び彼に続いた者達(妻帯を隠さなかった故、世に残った親鸞の子孫を含む)は教義を説いたり、著作を綴いたり、ということには尽力しつつも、所謂「宣伝活動」には然程力を入れなかった。まして、親鸞は自分のことを特別な存在と思っておらず、それどころか僧侶とすら思っていなかった節があり、自分の名を広めようなどという意とは一切なかった。

 後年、浄土真宗は石山本願寺や全国の一向一揆が織田信長・上杉謙信・朝倉義景・徳川家康といった名立たる英雄すら苦戦させ、完全屈服させるに能わなかった大勢力となったが、それは「本願寺中興の祖」と云われた蓮如の存在があればこそだった。
 それ以前の本願寺は時代によっては「世に忘れられた宗教」となっており、世に人々は「念仏」と云えば「浄土真宗の親鸞」ではなく、「時宗の一遍」を思い浮かべた。
 確かに「南無阿弥陀仏」に対して、浄土真宗の「ただ唱えればいい。」よりは、時宗の「その有難味に踊り出したくなる。」という教義の方が目に映るものとしても大きかっただろう。

 ただ、前述した様に浄土真宗はその歴史において蓮如という宣伝の天才を得た。本願寺の力は名立たる戦国大名のそれをも凌ぎ、織田信長とて完全屈服は成らず、政治力にて調停の介入を得て「和睦」という名の「開城」をもって戦闘に終止を打つしかなかった。

 そしてその後、本願寺が東西に分かれたこともあって、蓮如及びその子孫(証如・顕如・教如等)が余りに有名となったこともあってか、自らのことを多く語らなかった(その必要もないと思っていた)親鸞の名は次第に人々の記憶から薄らいだ。

 そして明治の世に入り、歴史のタブーが変化したとき、世の歴史学者達は以前の時の権力者の下では切り込めなかった歴史の謎・疑問に切り込むことが可能となった際に、親鸞の実在を疑った。
 前述した様に、親鸞自身が自分のことを書き残すのに熱心ではなく、当時の朝廷や公家の記録にその名が見えないことを理由に村田勤、田中義成、八代国治といった学者達が親鸞を架空の人物とする学説を唱えた。

 親鸞が完全に実在の人物と証明されたのは大正一〇(1921)年のことで、西本願寺の宝物庫から越後に住む親鸞の妻・恵信尼から覚信尼(親鸞と恵信尼の娘で、越後にて親鸞の身の回りの世話をしていた)に宛てた書状が発見され、その内容が従来云われていた親鸞の動向と一致したことによるものだった。



薩摩守所感 「至誠天に通ず。」という言葉があります。つまり、本当に正しい、素晴らしい教えはわざわざ声高にその内容を叫ばずとも自然と世に広がる、としたものですが、現実にはそう簡単には広まりません。
 それどころか、宣伝に天才的な才能を持つ者の手によると暴論すら正論として世に広まった例が歴史上に散見されます。

 一例を挙げれば、演説の天才ヒトラーと宣伝の天才ゲッベルスを得たナチスはその筆頭と云えるでしょう。結果、多くのイスラエル人(ユダヤ人)が迫害の前に命を落とし、今尚ネオナチが生き残り、ホロコーストを否認する者が後を絶ちません。
 日本では、オウム真理教の麻原彰晃がその悪しき例でしょう。実際彼はヒトラーを尊敬し、確かにその説法の在り様にはある種の魅力があります。
 そして彼等ほどではないにしても、世の中が不況だったり、世情が不安定だったりすると、人は頼りになる存在を求め、多少いい加減でも力強い主張をする者を頼り、不安のぶつけ所=「敵」を求め、何か(大抵は外国人)を排斥する論に容易に同調してしまうときがあります。
 実際、インターネット上で何者かを中傷する内容を論述し、そこに「拡散希望」と書いてるのを見ると、「真実ではないのを分かっていて、それでも自分に都合の良いその論を広めたいから、そんなことを書いているのか?」という気分に捉われ、反吐が出そうになります(まあ、当の本人にそう問うても、「事実を書いているまでだ!」、「広く知らしめなくてはならない真実だ!」としか云わないでしょうけれど)。

 つまりは、内容の是非・正誤に関係なく、ある内容を広めたいと欲すれば、ありとあらゆる媒体を駆使し、その内容を力強く広める活動が必要となります。
 ただ、その一方で純粋にその内容を正しいと思う者ほど、その内容が当たり前過ぎてわざわざ文言にしない傾向があるのも事実です。人は当たり前過ぎることをいちいち口にしません。
 私事ですが、うちの道場主は過去にネット上で悪評をばら撒かれたとき、それに対して黙って無視していたことがしばしばありました。道場主が云い訳しない性格だったからではありません(それどころかリアルの道場主は云い訳大魔王です)。自分の方が絶対的に正しいと思い上がり信じていたので、「わざわざ反論する必要もない。」と思っていたからです。
 しかしながら、放置した結果、「人の噂も七十五日」とはならず、噂は尾鰭胸鰭が付き、その解消のためには大きな権力を頼らざるを得ず、今でも完全に消えてはいません。
 マスコミが第四の権力と云われる様に、認めたくないことですが、喧伝する力の前に真実や実態が歪められるのは古今東西に実在しています。

 しかしながら、「正しい内容をいちいち声高に叫ぶ必要もない。」という想いがあるのも事実です。
 例えが異なりますが、御釈迦様も、イエス・キリストも、孔子も自らは書を残していません。仏典も、聖書も、『論語』も、彼等に心酔した弟子達が偉大な師の言動を広めようとして書き残したものです。
 それは師に対する敬意もあったでしょうし、自分達が師程の伝導能力がないと見たこともあったでしょう。

 そんな世の実態があるからこそ、すべての事柄を鵜呑みにせず、しっかり咀嚼し、考えることが大切なのですが、興味本位や売名効果の為に云い掛かりに等しい疑いの視線も如何なものかと考える今日この頃です。


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新