第肆頁 児島高徳………『太平記』の作者?

名前児島高徳(こじまたかのり)
生没年?〜弘和二/永徳二(1382)年一一月二四日
身分南朝武士
主君後醍醐天皇→後村上天皇→長慶天皇
薩摩守による実在度
実在を疑われる要因『太平記』以外に名前が見られない。
通説における略歴 本人の名前よりも、戦前の文部省唱歌に歌われた「天句践を空しゅうする莫れ時范蠡無きにしも非ず」の歌詞の方が有名な児島高徳は、生年も不詳なら、その出自も諸説ある。

 鎌倉時代末期に備前児島郡林村で、土着の豪族だった父・児島頼宴、母・信夫(しのぶ。和田範長の娘)の三男とされているが、その出自は山伏とも、悪党とも云われている。
 血筋にしても、皇胤説や渡来系説があり、前者では後鳥羽天皇や宇多天皇を祖とする説があり、後者では天之日矛(あまのひぼこ。『日本書紀』『古事記』に登場する新羅王の子。日本へ渡来し、但馬に土着し、垂仁天皇の治世において帰化したと云われている)の後裔と云う。

 ともあれ、幼名は高丸。長じて、三男に生まれた故に一五〜一七歳で元服した際に、児島三郎高徳と称した。
 幼少の頃より、朝廷に対して政治のみならず皇位継承に至るまで、幕府が干渉することに対して強い反感を抱いていたと云う。

 元弘元(1331)年の元弘の乱以降、後醍醐天皇に対して忠実に仕え、南北朝分裂後も一貫して南朝側に仕え続けた。
 乱に敗れた後醍醐天皇は翌元弘二(1332)年に隠岐へ流された。この時高徳は、播磨・備前国境の船坂山において、一族郎党二〇〇余騎で佐々木導誉ら率いる五〇〇騎の天皇護送団を強襲し、後醍醐天皇を奪還せんと画策したが、移動経路の把握を誤り、失敗に終わった。
 作戦は完全に失敗したが、高徳は一人諦めず、美作守護の館へ夜陰に乗じて侵入したが、天皇宿舎付近の厳重極まりない警護を前に天皇奪還を断念し、傍にあった桜の木へ「天莫空勾践 時非無范蠡」という漢詩を彫り込んだ。

 句践(こうせん)とは、中国春秋戦国時代の「臥薪嘗胆」の故事で有名な越の王で、范蠡(はんれい)はその句践に仕えた重臣だった。
 呉との戦いで呉王闔閭(こうりょ)を戦傷死に至らしめた句践・范蠡だったが、闔閭の子・夫差(ふさ)は薪に臥してその痛みで復讐心を忘れず(臥薪)、三年後に句践・范蠡は降伏に追いやられた。
 屈辱的な臣従を経て何とか命が助かった句践は苦い胆を嘗めて復讐心を忘れず(嘗胆)、范蠡と共に国力回復に努め、二四年後に夫差と呉の国を滅ぼした。
 つまりは、句践に范蠡という重臣がついていた様に、後醍醐天皇を決して見捨てない忠臣がいることを述べたもので、翌朝桜の木に彫られた漢詩を発見した兵士は何と書いてあるのか解せなかったが、後醍醐天皇はその意味が理解し、大いに勇気付けられたと云う(←さすがにありとあらゆる記述を自分に都合よく解釈する能力は天才的だ(嘲笑))。

 余談だが、句践と共に呉を滅ぼした范蠡はその後、「句践は、苦労を共には出来ても、楽しみは共に出来ない人物」として、官を捨てて下野し、商人となった(句践の下に残った范蠡の同僚・文種(ぶんしょう)はその後讒言によって自害に追いやられた)。
 高徳は、最終的に范蠡が句践と袂を別ったのを知っていたのだろうか?(笑)

 話を戻すが、良くも悪くも執念の人である後醍醐天皇は隠岐を脱出。元弘三(1333)年、船上山の戦いにおいて幕府軍に対し勝利を収めた後醍醐天皇は、名和長年ら中国地方周辺の勤皇派諸将を結集、京への還幸の為の露払いとして頭中将・千種忠顕を総大将とした先発隊を送り込み、先に京を囲み南北六波羅探題を攻撃していた播磨国の赤松円心と合流させた。
 高徳はこの先発隊に従軍していたものの、総大将・千種忠顕との作戦上での衝突が原因で別働隊を率い布陣を行った。この時大将の忠顕は功に逸り大敗、布陣途中であった高徳は先に後醍醐天皇方に回った足利高氏(尊氏)勢らの京都総攻撃に遅れをとり、戦功を挙げることなく退却し、備前児島へ帰還した。

 鎌倉幕府滅亡後、論功行賞にて、高徳は旧領安堵に加え、鳥取荘(現・岡山県赤磐市)を賜った。
 だが、幕府を憎み抜いていた後醍醐天皇による論功行賞は皇族(但し、持明院統を除く)・公家に厚く、武士に薄かったため、すぐに足利尊氏らの反感を招いた。
 建武二(1335)年、足利尊氏に呼応して備中で反乱が起こると高徳はその討伐に向かったが、却って拠点・備前三石城を奪われ、配下の内応によって一族の大半が討たれてしまった。
 翌年には新田義貞とともに足利方の赤松円心を攻めるものの大敗、養父・範長は赤松軍によって自害させられ、本人も戦闘中に気を失ってしまい、居合わせた甥の機転によって辛うじて逃げ延びる始末だった。
 その後は義貞や宗良親王とともに北陸や東国を転戦。後に故郷において再起を図るもこれにも失敗して吉野の後村上天皇の元へ逃れた。
 正平七/文和元(1352)年、後村上天皇を奉じて上洛を試みたとされるが、それ以後の消息については諸説があって詳らかではない。

 晩年、出家し、志純義晴と号し、弘和二(1382)年一一月二四日、上野邑楽郡古海村に於いて病没。児島高徳享年七二歳とされているが、他の箇所の記述から正確とは云い難いと見られている。

 明治一六(1883)年八月六日、正四位を追贈。



実在を疑われる要因 昨今では、『太平記』の傍証となる史料や、今木・大富・射越らの備前邑久郡地方の土豪との一族であったことも考慮され、実在性への懐疑は薄らいでいる。

 正直、薩摩守自身、文部省唱歌でしか児島高徳の名を知らず、本作か南朝方に特化した作品でも作らなければ彼に注目することはなかっただろう。
 つまりはそれほど高徳の影は薄い。逆に高徳の影を濃くするため、彼の事績をクローズアップせんとしたらまず注目されるのは、忠誠心となるのだが、それ以外がない。また具体的な事績にも乏しい。
 鎌倉幕府に対する壊滅的一撃は足利高氏に出遅れ、とどめの鎌倉攻めは新田義貞が為し、その後の南北朝の対立でもこれと云った活躍も無ければ、新田や楠木正成の様に後醍醐天皇に殉じもしなかった(←注:それが悪いと云っているのではありません)。
 同時に、正平七/文和元(1352)年、後村上天皇を奉じて上洛を試みたとされるのを最後に没するまでの三〇年の長きに渡って事績が不詳なのも―出家したことで半ば世捨て人になっていたことを考慮しても―変と云えば変である。

 正平七/文和元(1352)年は足利直義が兄の尊氏に毒殺された年で、南北朝の動乱が終息するどころか、室町幕府すら一枚岩ではなかった。そして南北朝が再統一されたのは高徳の死の一〇年後だった。高徳ほどの忠義心があれば、その間何もしなかったと云うのも解せない話ではある。
 勿論、活動自体は行っていても、史料に残る程のことが出来なかっただけかも知れないし、自力の限界を悟って本当に世捨て人になっていた可能性もあるのだろうけれど。



薩摩守所感 「反動の犠牲者。」と例えられるでしょうか?
 薩摩守的には、両親の名前さえはっきりしている人間が実在しなかったとは考え難いと思っています。実在が疑われるのも、高名な時とそうでないときのギャップが激しいからでしょう。

 そして児島高徳の知名度を考察すると、戦前と戦後では天地ほども違いがあり、いうまでもありませんが、それは文部省唱歌に寄る所が大きい。
 日本史上の超有名人物である楠木正成にしても、戦前に忠臣の鏡として数々の唱歌や修身授業の題材にされたことに比べれば現代では知名度も注目度も低下していることでしょう。
 そこをいくと高徳は唱歌での注目度が高過ぎ、戦後教育にて振り向かれなくなったという反動ゆえに知名度が下がったばかりでなく、他の材料がないばかりに実在まで疑われることとなったのでしょう。

 さて、実在性の話とは逸れますが、この児島高徳の例を見ていても、薩摩守は世の価値観の推移における個人への注目に対して、「もう少し何とかならんか?」と云いたくなる時があります。
 時代の流れとともに、歴史教育において何が尊重され、何が事実であるかの内容に多少の推移があるのは当たり前だが、何某かの理由があって注目されていた人物を、尊重内容が変わったからと云って、扱いが小さくなるのは止むを得ないにしても、一顧だにしなくなるのは感心しません。
 それは過去の価値観を完全に否定し、一つの歴史を史観的に抹殺するに等しい愚挙と薩摩守は思っています。

 薩摩守は戦前の忠君愛国教育は「戦争を苛烈な物にしたり、忠義の名の元に無用の犠牲を強いたりした。」という意味では否定的ですが、愛国心自体を否定したことは一度もないし、そういう教育があった事実や、それが重んじられた背景や、その考え自体が持っていたり、為したりした長所は正確に伝えられなければならないと思っています。

 児島高徳が歴史になした事績はお世辞にも大きいとは云い難いが、そこにある純粋な想いは理解されたり、重視されたりするべきですし、かといって、その考えを過大評価したり、共感することを強要されたりすることは慎ましまれなければならないと考えます。


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新