第伍頁 山本菅介…………活躍も容姿も諸説紛々

名前山本管介(やまもとかんすけ)
生没年明応二(1493)年〜永禄四(1561)年九月一〇日(※明応九(1500)年生まれの説もある)
身分今川家間者→武田家軍師
主君今川義元→武田信玄
薩摩守による実在度一〇
実在を疑われる要因『甲陽軍鑑』への信頼度
通説における略歴 一般に、「山本勘助」の名で知られるが、本作では史実を重んじて「山本菅介」で通します。

 主に『甲陽軍鑑』の記述を元に通説における山本菅介を記すが(それゆえ、史実と年代が異なる箇所も出て来ます)、それによると三河宝飯郡牛窪(現・愛知県豊川市牛久保町)の生まれ。別説では駿河富士郡山本(現・静岡県富士宮市山本)の吉野貞幸と安の三男に生まれ、三河牛窪城主牧野氏の家臣大林勘左衛門の養子に入ったというものもある。
 他にも、三河国八名郡加茂村(現・愛知県豊橋市賀茂)出身説を初め、諸説ある。

 生年は『甲陽軍鑑』における武田信玄に仕えた際の年齢に関する記述から、逆算して明応二(1493)年生まれとされているが、同書の別箇所の記述によると明応九(1500)年生まれとも取れる。

 二六歳のとき、つまり永正一五(1518)年に武者修行の旅に出て、一〇年に渡って四国、九州、関東を渡り歩き、兵法・築城術・戦法を極めた。
 天文五(1536)年、駿河にて今川義元に仕官せんとし、家老庵原忠胤の屋敷に寄宿し、重臣朝比奈信置を通して仕官を願った。
 だが、義元は菅介の異形な容貌(色黒・隻眼・全身の無数の傷・不自由な足・指も揃っていなかった等)を嫌い、初めは召抱えようとはしなかった。そのため、菅介は牢人のまま数年間を駿河にて無為に過ごした(小説などでは今川家の忍びとして暗躍し、晴信による父・信虎追放にも関わって、晴信の知遇を得たとされるものも多い)。

 しかし、山本菅介の兵法家としての名は諸国に聞こえ、それを聞き付けた甲斐武田家重臣・板垣信方は駿河国が主君・武田晴信(信玄)に菅介を推挙。
 晴信は天文一二(1543)年に知行一〇〇貫という破格の待遇で菅介を召し抱えんとし、菅介は甲府に赴いた。そして実際に菅介と対面した晴信はその場でその才能を見抜き、知行を二〇〇貫とした。

 仕官の同年、晴信の信濃侵攻に際し、菅介は九つの城を落とし、その手柄で一〇〇貫の加増を受け、知行は三〇〇貫となった。
 翌天文一三(1544)年、晴信は信濃諏訪の諏訪頼重を滅ぼし、その娘を側室に迎えんとした。勿論これは晴信を「親の仇」と見る者を寝所に置くことを意味し、いつ寝首を掻かれてもおかしくない危険な行為で、重臣達は挙って反対した。
 だが、菅介だけはこれに賛成したと云う。

 天文一五(1546)年、晴信は信濃小県郡の村上義清を戸石城に攻め、生涯でも数少ない大敗を喫した。世に云う「砥石崩れ」だったが、武田勢が総崩れとなる中、菅介は晴信に献策して五〇騎を率いて村上勢を陽動し、この間に体勢を立て直し、村上勢を打ち破った(←史実とは時間や順番に相違があります)。
 この逆転劇に武田家家中も驚愕・畏怖し、菅介は五〇〇貫の加増と、武田家家臣からの軍略への信頼を勝ち得た。
 翌天文一六(1547)年、遂に晴信は村上義清を信濃から追い、義清は越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼った。これをきっかけに晴信と景虎が五度に渡って川中島に対峙したのは周知の通りである。

 そして越後に備えるべく、天文二二(1553)年、晴信改め信玄は北信濃に海津城の築城を命じ、春日虎綱(後の高坂弾正昌信)を城主とした。その虎綱は、菅介が縄張りしたこの城を「武略の粋が極められている」と語った。
 その後、その海津城を舞台の一つとして、永禄四(1561)年、第四回川中島の戦いが勃発した。狭義において「川中島の戦い」と云えばこの第四回を意味するように、第一回〜第三回、第五回は睨み合いや小競り合いに終止したものが殆どだった。
 そんな中、第四回は信玄も上杉政虎も本気で互いを潰さんとした。

 政虎は一万三〇〇〇の兵を率いて川中島・妻女山に入り、海津城を脅かした。これに対して信玄も二万の兵を率いて甲府を発向し、海津城に入った。
 両軍は数日間対峙する中、武田方では軍議にて菅介と馬場信春は有名な「啄木鳥戦法」を提案した。啄木鳥が嘴で木を叩き、驚いた虫が飛び出てきたところ喰らうが如く、軍勢を二手に分けて、別働隊(一万二〇〇〇)を夜陰に乗じて妻女山を裏手から奇襲させ、慌てて下山した上杉勢を本隊(八〇〇〇)が八幡原にて待ち受け、挟撃・殲滅線とするものだった。
 だが、この作戦は政虎に見抜かれ、上杉勢は密かに山を下りた。別動隊が妻女山を攻めたときにはもぬけの殻で、上杉勢は八幡原の信玄本隊を急襲。数で劣る上に、作戦を見抜かれて狼狽えた武田勢は苦境に立たされた。

 激戦の中、武田家中からは名立たる武将が相次いで討ち死。信玄の実弟武田典厩信繁を筆頭に、諸角豊後守虎定、初鹿源五郎等が命を落とし、その中には山本菅介の名も連なっていた。 その死に様は書籍・講談・伝承によって様々で、有名どころでは、啄木鳥戦法を政虎に見抜かれたことに責任を感じ、敵中に突入し、激戦の渦中に討ち死にしたというものがある。山本菅介享年六九歳。

 だが、見破られたりとはいえ、菅介の啄木鳥戦法は戦術として間違ったものではなかった。
 実際、妻女山で肩透かしを食らった別動隊が山を越えて八幡原に駆け付けると、当初の目論見通り挟撃が為され、武田勢は攻勢に転じた。
 つまり挟撃作戦は正しいもので、政虎自身、挟撃が始まれば不利になることは充分承知しており、別動隊が駆け付けるまでに信玄の首を取らんとして、車懸かりの戦法で勝負を急いだし、挟撃が始まると撤退に転じた。
 前半と後半で明らかに逆転した戦況に、武田・上杉の両軍は戦後、双方が「我が軍の大勝利」を喧伝(笑)。『甲陽軍鑑』も、「前半は謙信の勝ち、後半は信玄の勝ち」とした。ちなみに薩摩守は第四回川中島の戦いの勝敗は、 (北信から上杉勢を追ったという意味で)勢力的には武田の勝ちだが、人員的には大損害を被った武田の大敗と見ている。



実在を疑われる要因 まずは『甲陽軍鑑』以外の文献での確認が乏しかったことにある。
 武田二十四将に含められ、武田の五名臣の一人にも数えられて、武田信玄の伝説的軍師としての人物像が講談などで一般的となっていた、「山本勘助」の名は『甲陽軍鑑』やその影響下を受けた近世の編纂物以外の確実性の高い史料では一切存在が確認されていないため、その実在について長年疑問視されていた。
 そしてその『甲陽軍鑑』自体、学界にて長年、偽書・信憑性の低い資料との酷評を受けていた(余談だが、長年『甲陽軍鑑』を一級史料と主張して来た作家の井沢元彦氏は、平成三〇(2018)年一〇月三一日放映の『歴史秘話ヒストリア』にて小和田哲男静岡大学名誉教授が『甲陽軍鑑』を認めているの見て、手持ちの中で一番高い洋酒で乾杯するほど喜んだ)。

 まして、作り話に出て来そうな怪異な容貌、「軍師」という言葉が「参謀」よりは「占い師」という意味合いが強かった時代に諸葛孔明ばりの参謀振りを発揮したこと、史実と計算の合わない『甲陽軍鑑』上の記述(←何せ武田信玄初陣の日付を間違っており、その事が史料としての扱いを低くしていた)、講談や小説で極端に脚色されたことが、歴史の真実を追わんとする者達に「山本勘助」を「実在しなかったのでは?」と思わしめた。

 また、「山本勘助」の諱とされる「晴幸」については、主君・武田晴信(信玄)の「」の字が、第十二代将軍足利義晴の偏諱を受けたものであることからも、将軍家から見て陪臣に過ぎない者の名に「」の字があるのはおかしい、とも考えられ、その事も菅介の存在に対する信憑性を落としていた。

 尚、近年では「山本勘助」と比定出来ると指摘される「山本菅介」の存在が複数の史料で確認され、その実在はほぼ間違いないものとされている。



薩摩守所感 詰まる所、少し少しの食い違いが数多くあったことが、講談や伝承の世界で実像との乖離を拡大し、実在が疑われることになったと云うことでしょう。
 『平家物語』『三国志演義』『太平記』にも云えることですが、余りに有名過ぎる所が必ずしも史実に忠実でないとなったとき、人気のある人物が正史に余り出て来ないとなるとまずその実在が疑われる傾向にあります。

 前述の聖徳太子や武蔵坊弁慶にも同じことが云えますが、山本菅介 (山本勘助)の場合、先の二人よりも新しい時代の人物で、事績も必ずしも人間離れしたものではなかったにもかかわらず、怪異な容貌や史実との食い違い、更には当時にはなかった軍師像が「どうも作り話っぽい………。」と思わせたでしょうし、実際に、部分部分では創られたものもあったでしょう。
 ただ、飛鳥時代や源平時代に比べて現代に近く、史料が多いとはいえ、戦国時代にもまだまだ謎は多く、史実に殉じていても誇張・脚色・過誤も決して少なくはありません。
 武田家自体、あれ程有名で、数々の研究の進んだ名家でありながら、義信事件、諏訪御寮人の性格、真龍院(信玄三女)の実母等について謎が多く、三条夫人のように長年悪女扱いされた例からも実像との乖離はまだまだ多いことを認識しなくてはならないと薩摩守は考えます。


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新