第陸頁 東洲斎写楽………重なる別人説

名前東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)
生没年?〜?
身分浮世絵師
主君無し
薩摩守による実在度
実在を疑われる要因たった一〇ヶ月しかない活動期
通説における略歴 世に名高い浮世絵師・東洲斎写楽の経歴は本当に「略歴」でしか語れない。何せ上の表にも記載しているが、歴史上に写楽の活躍が確認出来るのはたったの一〇ヶ月間でしかない。
 その一〇ヶ月間とは、寛政六(1794)年五月から翌寛政七(1795)年一月にかけてで、征夷大将軍は第一一代徳川家斉の御代で、在位していた天皇は第一一九代光格天皇だった。
 出来事としては、年号の「寛政」から、松平定信による寛政の改革を連想する人も多いと思う。また伊能忠敬が日本全国の測量を始めたのも寛政年間の出来事だった。

 寛政六(1794)年五月、当代の名優を描いた「市川鰕蔵の竹村定之進」を初めとする二八点の作品を引っ提げて浮世絵界に鮮烈にデビューした。勿論、何処から来たのか、それまで何をしていたのか、どんな交友関係を持っていたのかは一切不明である。

 ともあれ、写楽が刷った浮世絵のタイトルは「(役者名)の(配役名)」となっている。現代の俳優で例えるなら「渥●清の車寅▲郎」と云う感じで、つまりは役者のブロマイドを画いた訳である。
 特に注目すべきは、大人気役者のみならず、チョイ役や悪役も描いていたこと。これは当時では珍しい事だったらしい。

 ただ、既存や伝統と大きく異なる個性や型破りは確かに強烈なイメージ(←実際、凄い表情しているもんな……)を残すが、それが人気を博すとは限らない。いつの世も保守的なファンの受けが悪く、直後においては不人気であることも少なくなく、写楽もまたそうだった。
 何せ、容貌の長所のみならず、短所をも大きくクローズアップ・デフォルメするものだから、描かれた当の役者本人からも不評が出たそうだ。

 ともあれ、デビュー時を第一期として、第四期まで少し少しの変化を遂げつつ、活動期に版行した作品は一四五点余に及んだ。そのすべては蔦屋重三郎(つたやじゅうさぶろう)が版元として刊行された。
 蔦屋は写楽が姿を消した二年後に脚気衝心の為に四八歳の若さで没しているが、写楽以外にも喜多川歌麿・歌川広重の浮世絵も出版し、曲亭馬琴や十返舎一九も世話になった業界大人物である。

 正直、過去作・『酒好きな奴等』の横山大観の頁でも触れたが、薩摩守は芸術とは全く無縁の男で、東洲斎写楽の魅力を語ったり、他の芸術家と比較したり、などは不可能ゆえ、歴史の教科書的な分野でしか語れないが、それでもそれなりの年齢に達した人なら、代表作の「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」「市川鰕蔵の竹村定之進」の名は知らずとも、見たことのない人は殆どいないだろうし、独特の目付きや厳めしさを押し出した表情を見たら、即、「写楽の浮世絵だ!」と判別出来るだろう。否、初めて見た作品でも、作者が写楽であることを判断するのが容易なほどその画風は独特である。

 だが、それほど強烈なイメージを世に出しながら、世がそれに反応するより早く東洲斎写楽の名は世間から消えたのだった………。



実在を疑われる要因 正確には、「実在しなかった」と見られているのではなく、「別の高名な画家が一時的に東洲斎写楽を名乗った」と見られている。

 くどいが、写楽の活動期はたった一〇ヶ月間でしかなかった。インターネットは疎か、瓦版ぐらいしか媒体のなかった時代、一年に満たない時間は世間が反応するにはあまりにも短い時間だったことだろう。

 そんな短期間で葛飾北斎と双璧を為す知名度を日本美術史に残している。それ程力を持った浮世絵師が無名からいきなり史上のビッグネームになったのも変なら、生死も行き先も不明のまま世間からいきなり消えたのも変だと考えるのは自然な事であろう。
 『キン肉マン』が好きな方なら、ザ・サムライがラリアート一発でマンモスマンの巨体を場外まで吹っ飛ばしたシーンで、これほどのラリアートを持つ超人がそれまで誰にも知られなかったことは有り得ない、として即座にその正体がネプチューンマンに違いないと推測された例を挙げれば分かり易いだろうか?(←何のこっちゃ(笑))

 当然、世間も、後世の史家も芸術家も、写楽のその後を追うより、写楽の「正体」を追い求めた。
 「写楽の正体」とされる中で最も有力なのは、「斎藤十郎兵衛説」である。
 証家・斎藤月岑が天保一五(1844)年、つまり写楽活動期の五〇年後に著した『増補浮世絵類考』に、「考写楽斎」の項目があり、そこには

 「俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者也」

 とある。
 つまり、「斎藤十郎兵衛と云う名で、八丁堀に住んでいた阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者」だというもので、長らくこれが江戸時代に書かれた写楽の素性に関する唯一の記述とされていた。
 時代劇で岡っ引き達が屯していた場として有名な八丁堀は、当時徳島藩の江戸屋敷が存在し、その中屋敷に藩お抱えの能役者が居住していたのは史実である。
 前述の蔦屋重三郎の店も、写楽が画題としていた芝居小屋も八丁堀の近隣に位置していた。同時に「東洲斎」の名も、「江戸の東の洲」とするなら、該当するのは八丁堀と築地のみで、話の筋は通る。また、「東洲斎」は「さい・とう・じゅう(斎・藤・十)」のアナグラムと見る向きもあるが、江戸時代中期の人々にアナグラムを好む傾向があったかどうかは薩摩守には分からない(苦笑)。

 勿論反論もある。斎藤十郎兵衛にしても長年の実在を確認出来る史料が見当たらず、また能、つまり他の本職を持つ者ににこれほどの見事な絵が描ける才能があったのか?との疑問の声もあった。
 それゆえに「写楽」は他の有名な絵師が一時的に用いた変名ではないか?という声も多く、薩摩守がそれに賛成している。
 ただそれでも、蔦屋が無名の新人の作を多く出版したのは何故か?前期と後期で大きく作品の質が異なるうえ、短期間で活動を辞めてしまったのは何故か?と解明されていない疑問は多い。

 近年、能役者の公式名簿である『猿楽分限帖』や能役者の伝記『重修猿楽伝記』、更には蜂須賀家の古文書である『蜂須賀家無足以下分限帳』及び『御両国無足以下分限帳』に斎藤十郎兵衛の記載があることが確認されたことで、斎藤十郎兵衛の実在や、八丁堀に住んでいた事実が明らかとなり、現在では再び写楽=斎藤十郎兵衛説が有力となっている。

 少なくとも八丁堀に阿波の能役者である斎藤十郎兵衛と云う人物が実在したことは間違いない。

参考
東洲斎写楽の正体とされる主な人物
職種名前
絵師初代歌川豊国
歌舞妓堂艶鏡
葛飾北斎
喜多川歌麿
司馬江漢
谷文晁
円山応挙
歌舞伎役者中村此蔵
洋画家土井有隣
戯作者山東京伝
十返舎一九
俳人谷素外
版元蔦屋重三郎
朝鮮人画家金弘道
 他にも諸説あり、画壇や史家に軽視されている説まで含めれば膨大なものになるだろうし、写楽の謎の多さを鑑みれば、異説・珍説はいくらでも容易に取り上げられそうである(笑)。



薩摩守所感 東洲斎写楽が世間から消えて程なく蔦屋重三郎が夭折したことが謎を深めているのは誰の目にも明らかでしょう。
 となると、写楽の正体は蔦屋に近い人間で、状況証拠的にも斎藤十郎兵衛であろうとの説が妥当と薩摩守も思うのですが、その斎藤も長らく実在がはっきりしない人物だったと云うのもどうも解せません。藩お抱えの能役者なら、浮世絵師以上にその実在記録ははっきり残っていそうな気もします。

 となると、斎藤は本職の能役者よりも浮世絵に熱の入っていた人物と見れるのですが、これほどの才能が埋もれた理由が一番解せず、あくまで感覚的なものですが、「やはり東洲斎写楽は高名な浮世絵師が一時的に名乗った名前ではないか?」との想いが拭えません。


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平成三一(2019)年一月一八日 最終更新