第拾頁 崇伝……『黒衣の宰相』は腹も黒かったか?

名前金地院崇伝(こんちいんすうでん)
生没年永禄一二(1569)年〜寛永一〇(1633)年一月二〇日
宗派臨済宗
弾圧者南光坊天海? 朝廷・僧侶 ネタを欲しがる史学者?
諡号無し(朝廷に嫌われてちゃなあ……)
略歴 慶長一〇(1605)年四月一六日、徳川家康は三男・秀忠に征夷大将軍の位を譲り、駿府に隠居して「大御所」と呼ばれるようになった。だが、引退は表向きのことで、実権を握り続けたのは誰の目にも明らかだった。その家康の側でブレーンを務めた人物といえば本多正純・安藤直次・成瀬正成等の名が挙がるが、その中に僧衣を纏った人物が二人いた。
 一人は前頁で採り上げた南光坊天海。もう一人がこの頁の主人公で、この時南禅寺金地院住職となった金地院崇伝である(「以心崇伝(いしんすうでん)」とも呼ばれる)。

 永禄一二(1569)年、室町幕府第一三代将軍足利輝晴の家臣・一色秀勝の子に生まれた。父の没後に南禅寺にて名僧・玄圃霊三(げんぽれいさん)に弟子入りし、南禅寺塔頭の金地院の靖叔徳林に学び、醍醐寺三宝院でも学ぶ等、厳しい修行・研鑽を積んだ。
 その甲斐あって、福厳寺や禅興寺、更には鎌倉五山の一つ建長寺住持となった。

 慶長一〇(1605)年、前述したように臨済宗の誇る京都五山の筆頭・南禅寺住職(二七〇世)に就任したが、この時、後陽成天皇から紫衣を下賜されている。どこまで政治力あるんだこのおっさん………しかもこの時、崇伝たったの三七歳……。

 慶長一三(1608)年、大御所・家康の招き応じ、以後駿府に住むようになった。駿府での崇伝は異国の外交文書の解読や作成に携わっていた。その仕事振りを感心した家康に気に入られ、家康は崇伝のために駿府に金地院を建てた程だった。

 その後もキリシタン禁教令追放令の起草で才能を認められ、この才能は方広寺鐘銘事件における豊臣家の云い掛かりに発揮された(詳細は前頁参照)。
 実際、云い掛かり材料となった鐘銘の「国家安康 君臣豊楽」に目をつけたのは崇伝だった。鐘が完成するや、京都所司代・板倉勝重を通じて早くも清韓文英(せいかんぶんえい)起草のこの銘文を入手していた。恐らくは前々から云い掛かり材料を探していたのだろう。

 確かにこの時の崇伝の云い掛かり振りはえげつないの一言である。
 銘文を起草した清韓文英は崇伝が所属する南禅寺の「長老」である。崇伝は釈明の為に豊臣家家老・片桐且元とともに駿府に赴いた大先輩を、本多正純を通じて阿部川宿に謹慎させ、天海と共に豊臣家を呪った銘であることを認めるよう散々に詰問したのである。
 「国家安康」「君臣豊楽」も極普通に使われる四字熟語で、亡き秀吉への冥福の為、並び立てた縁起の良い言葉であることなどすぐ分かって貰えると思っていた文英は崇伝達の余りの云い掛かりに唖然とするしかなかった。

 更に崇伝は幕府が五山十刹の学僧に銘文諮問を命じる前に天海・林羅山と共に学僧等を呼び出してのその査定を行っていた。
 つまり、学僧達への諮問は権力追従に裏打ちされた完全な茶番で、学僧達は「銘文が長過ぎて勧進帳の様だ。」だの、「御名を裂いて、間に「安」の字を入れたのが悪い。」だの、「かような文章は、田舎僧のもの」と悪し様に批判した。
 それはとても仲間である文英に対する態度ではなかった。そんな中、唯一人、「愚にもつかぬひがごと」と権力に阿らずに云い切ったのが塙団右衛門の師匠………えっ?二度もやるなって?………Очень Извинйте………(←ロシア語で誤魔化している)

 程なく、慶長二〇(1615)年五月八日、豊臣家滅亡。これにより年号は「慶長」から「元和」にかわり、平和の到来は『元和偃武』と呼ばれた。
 江戸幕府を、この平和を更に盤石な物とする為に大御所・家康、将軍・秀忠は様々な勢力の力を削ぐのに尽力した。それによって『武家諸法度』が発布された。
 江戸幕府開府以来、家康と秀忠は精力的に大名達(特に豊臣恩顧)の取り潰しを行っていたが、これに関しては家康よりも秀忠の方がえげつなかった。
 そしてその裏で自らの所属である筈の寺社仏閣に権力の牙を剥いていたのが崇伝である。『武家諸法度』が大名の行動を制限する法として、『禁中並公家諸法度』が朝廷の行動を制限する法として、そして『寺院諸法度』が仏教勢力の行動を制限する法として施行された。
 大名家は勿論、公家や寺社が悲鳴を挙げたのは云うまでも無い。

 元和二(1616)年四月一七日に家康が死去すると神号を巡って天海と争う。崇伝は「明神」号を主張したが、天台宗徒として壮絶な熱意を示した天海の主張に敗れ、家康への追贈は『東照大権現』に決定した。

 元和四(1618)年、江戸にも金地院を建立。翌元和五(1619)年、僧録(僧侶の登録・住持の任免などの人事を統括した役職)となり、金地院僧録は崇伝の法系に属する僧で占められた。その後南禅寺金地院と江戸金地院を往還しながら政務を執った。

 寛永四(1627)年、元和の法度を更に強めたことで紫衣事件が起きた。事件に対する幕府の措置に対して、沢庵宗彭(たくあんそうほう)、玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)、江月宗玩(こうげつそうげん)等が反対意見書を提出すると、崇伝は三人を遠島に処すつもりであった。

 というのも、そもそも紫衣事件そのものが崇伝の横暴といっても過言ではなく、これに逆らう者に甘い顔をすることなど崇伝には出来なかった。
 前述の『寺院諸法度』だが、実態はもっと細かく、慶長一七(1612)年に幕府は「曹洞宗法度」を発布し、翌慶長一八(1613)年には「勅許紫衣の法度」を、そして慶長一九(1615)年には五山十刹諸山・妙心寺・永平寺・大徳寺・総持寺に対してもそれぞれに法度を出していた。勿論崇伝が糸引いたものである。
 当時朝廷は宗派に関わらず、高徳の僧に紫衣を下賜していた。紫は仏教における最も高貴な色で、朝廷から紫衣を賜ることは僧侶にとっても大変な名誉だった。まあ、朝廷はしっかり金を取って、収入源としていた訳だが(笑)。
 ちなみに本作において採り上げている僧の名を紫色の太字で示しているのも、仏教における紫の意味を重んじてのことである。贔屓の僧侶に対する本作での待遇がお気に召さない仏教徒の方々もこれで機嫌を直して欲しい(苦笑)。

 そして幕府は、崇伝は法度名からも分かるよう、ここに圧力と制限を掛けたのである。数々の法度でもって朝廷に紫衣の授与を規制したのは想像に難くない所だが、規制については次頁の『沢庵』の項に譲りたい。
 問題は規制だけではなく、後水尾天皇が十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えたことを法度違反・勅許無効として、京都所司代・板倉重宗にこれらの紫衣を剥奪させた。
 ゆえに事は沢庵・玉室等が流刑になっただけでは済まず、後水尾天皇の幕府の横暴に怒って、これに無断で退位する始末だった。
 尚、後水尾天皇は当時大御所となっていた秀忠の末娘・和子(まさこ)の夫で、現将軍家光の義弟にあたる人物だったので、この方を武士の世の影の薄い歴代天皇と一緒に見てはいけない。

 さすがに、いくら何でもこれはひどいと思われたか、天海や柳生宗矩らの取り成しによって、沢庵は出羽上山に、玉室は陸奥棚倉への配流に減刑され、江月はお咎めなしとなった。
 そして寛永九(1632)年一月二四日、大御所・徳川秀忠が薨去すると大赦令が出され、紫衣事件で罰せられた者たちは赦免された。沢庵に至っては後に徳川家光の厚遇を得た。
 翌寛永一〇(1633)年一月二〇日、江戸金地院にて金地院崇伝入滅。享年六五歳。もう一人の政僧・南光坊天海に先立つこと一〇年早い逝去だった。えっ?天海と寿命比べされちゃ可哀想?ごもっとも……。


弾圧 弾圧された方じゃなくて、弾圧した方である(笑)。ただ世間の評判においては家康の政僧として、天海よりも金地院崇伝の方が遥かに嫌われ、叩かれた。

 云うまでも無いことだが、江戸幕府は武家政権である。主役である武士にとって、公家・政商・政僧等がデカい面しているのは決して愉快な話ではなかった。しかも表向きは隠居の側近に過ぎない存在なのである。
 武士達にはさぞかし「君側の奸」や「虎の威を借る狐」に見えたことだろう。しかも古巣である五山や南禅寺にも一切の手心を加えず、幕府による統制を強めた訳だから、僧侶たちにとって崇伝は身に纏っているものこそ黒衣でも、中身は完全な政治家だっただろう。

 加えて云い掛かりその物の方広寺鐘銘事件に代表される強引な政治手法が繰り返されたのである。これでは好かれようが無かった。

 かくして、その権勢の大きさと強引な手腕により、誰も崇伝の名を呼ばなくなり、付けられた渾名が『黒衣の宰相』『大慾山気根院僭上寺悪国師』、沢庵に至っては『天魔外道』と評するほどだった。
 ただ、ここまで世上の評判が悪くては幕閣も考えざるを得なかったようで、崇伝を特に気に入っていた家康亡き後は天海の下位に立ったと見られている。年功序列は自然でもあるし。

 ただ、崇伝自身が悪し様に云われている自分の身の上をどう見ていたのかは分からない。
 石田三成の様に主君に認められていれば満足する性格だったのか?
 幕府草創期の汚れ役に密かな誇りを感じていたのか?
 地位と財があれば世間の噂など気にしなかったのか?


実態 一言で云えば、「金地院崇伝は幕府草創期の汚れ役を担った。」と薩摩守は考えている。崇伝のやり方は確かにえげつなく、朝廷や寺社に掛けた圧力は眉を顰めたくなる物があるが、これは誰かがやらなくてはいけない事でもあった。

 慶長七(1603)年に江戸幕府が開府されたとき、日本には豊臣家が存在したし、豊臣恩顧の大名も力を持っていた。また伝統的に武家政権を快く思わない旧態然とした古き勢力も存在した。勿論朝廷と寺社勢力で、幕府はそれ等のすべてに対して力で上位に立つ必要があった。

 そんな組織の草創期には得てして崇伝の様な人物が必要である。ただでさえ成立したばかりの政治組織には敵も多い。戦いとなると「兵は詭道なり」という局面はどうしても出て来る。必要とされても謀略かが好かれることは少ない。
 幕府草創期において、梶原景時、高師直、本多正信・正純父子等がどういう目で見られているか考えると分かり易いだろう。ここまで組織の意に沿うて、嫌われる法令を先頭に立って発布し、施工してくれる人物は組織のトップとして物凄く有り難い。事実、家康を初め、秀忠も、家光もついに崇伝を罰することはなかった。
 現代でもデカい組織程、組織内で嫌われながら、社長には可愛がられている人はよく見受けられる。もっとも、可愛いがられれば可愛がられる程、納得の行かなさと嫉妬で当の本人は益々嫌われるのだが。

 勿論このあざとさは崇伝一人が行った訳ではない。ブレーンは他にもいたし、将軍や大御所の認可なしに横暴が出来る程には崇伝の権力はでかくない。
 悪名高い方広寺鐘銘事件や数々の法度には同じ政僧として南光坊天海も絡んでいる。だが僧侶としてよりも政治家としての色彩が強い崇伝の方が世評においては貧乏くじを引く羽目になった。
 もっとも、家康への追号論争に見られるように、意地の張り合いとなったら僧侶カラーの濃い天海の方が我は強かった(笑)。

 ただ、この崇伝、全くの恩知らずだった訳ではない。僧録就任後、南禅寺や建長寺の再建復興にも尽力し、古書の収集や刊行などの文芸事業も行っていた。著作の『本光国師日記』『本光国師語録』、外交関係の記録に『異国日記』があり、これから純粋に優れた学僧であったことも明らかとされている。
 付け加えると、崇伝の横暴で彼自身の地位や利益の為に行われた者は見られない。幕府に忠実だったことは疑いようがないのである。

 『黒衣の宰相』と揶揄された金地院崇伝が世間で抱かれているように腹まで黒い人間だったかは分からない。それが簡単に分かるようでは謀臣が務まらなかったであろうことは皮肉だが。


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令和三(2021)年五月二五日 最終更新