第玖頁 天海……長命ゆえの怪人扱い

名前南光坊天海(なんこうぼう・てんかい)
生没年天文五(1536)年〜寛永二〇(1643)年一〇月二日
宗派天台宗
弾圧者金地院崇伝?真言宗徒?ネタを欲しがる史学者?
諡号慈眼大師
略歴 単純なイメージで「怪しい」を語れば、本作で取り上げる僧侶の中で一番「怪しい」のがこの南光坊天海かも知れない(勿論異論はあると思うが)。何せ時代に関係なく一〇八歳まで生きただけでも稀有な存在だ。もっとも、江戸幕府的には全然怪僧ではないのだが。
 生年には諸説あるが、それでも享年が一〇〇歳を超えたことは間違いないとされている。当時の人間にはとんでもない怪物に映ったとしても不思議はない。

 出自は三浦氏の一族である蘆名氏で、陸奥国に生まれたとされる(蘆名氏の女婿である船木兵部少輔景光の息子)。但し、本人は「氏姓も行年忘れていさし知らず」として、天海は自らの出自を弟子達に語らなかった云われている。また異説では第一一代将軍足利義澄の子とする説や、第一二代足利義晴の御落胤とする説もある。

 幼少時に会津・龍興寺にて出家して、当初は随風(ずいふう)と号した。一四歳で下野国宇都宮の粉河寺の皇舜に師事して天台宗を学び、比叡山延暦寺を拠点に三井寺、大和・福寺にて修行を積んだ。
 しかし元亀二(1571)年九月一二日、同地が織田信長の焼き討ちにあったため、延暦寺に好意的だった武田信玄の招聘を受けて甲斐を頼った。

 その後故郷・会津の蘆名盛氏の招聘を受けて黒川城(若松城)の稲荷堂に住み、上野・長楽寺に移った。天海と改めたのはこの頃とされている。
 天正一六(1588)年武蔵川越(現:埼玉県川越市)・喜多院の住職となり、家康に仕えたことがはっきりしているのは家康が既に大御所となっていた慶長一四(1609)年になる。この時既に天海七四歳だったが、この時点で一〇〇歳を超えていたという伝説もある。尚、浅草寺の史料によれば豊臣秀吉の北条征伐の時点で、天海は浅草寺の住職忠豪とともに家康の陣幕にいたとされている。
 慶長四(1599)年に豪海の後を継いで北院の住職となり、この頃、家康の参謀として朝廷との交渉を担ったともいわれる。

 慶長一二(1607)年に比叡山探題執行を命ぜられ、南光坊に住して延暦寺再興に関わった。その功によるものか、家康に仕えたことが確実と云える慶長一四(1609)年朝廷より権僧正の位を授けられた。

 慶長一八(1613)年七月二一日、豊臣秀頼が亡父・秀吉の供養の為に再建した方広寺の鐘に刻まれた銘文・「国家安康 君臣豊楽」が家康を呪って、豊臣家の繁栄を願ったものだとして、家康がブチ切れた。
 所謂方広寺鐘銘事件である。天海は金地院崇伝と供に豊臣方の釈明に聞く耳持たずの態度で出たが、この事件が豊臣方と開戦したいが為の家康の云い掛かりであることは呪われた筈の鐘が鐘銘と供に現存している事からも明らかである。
 だが、必死に釈明する豊臣方の聞き手に回った五山の僧は天海と崇伝を恐れて、完全に「右に習え」的に豊臣方を詰った。その中でただ一人妙心寺の海山元珠(かいざんげんじゅ)だけが「愚にもつかぬ僻事(下らん云い掛かりじゃ)」と云い切った。
 この海山元珠こそが、かの塙団右衛門の師匠………………えっ?依怙贔屓で関係無い奴に言及していないで、天海の話を進めろって?…ごもっとも……。

 元和二(1616)年四月一七日、大御所・徳川家康が薨去した。事前に家康は自らの死後に関して埋葬や神号に関する遺言を天海等に託した。
 同年七月に大僧正となった天海は神号を巡り崇伝、本多正純等と論争となった。  天海は「権現」を推し、崇伝は「明神」を推した。この論争は豊臣秀吉に豊国大明神の神号が贈られた後の豊臣氏滅亡の例から「明神」は不吉であると提言した天海に軍配が上がった。かくして家康の神号は「東照大権現」と決定された。

 寛永元(1624)年、江戸・上野に寛永寺を創建。上野は江戸城から見て鬼門の位置にあり、天海は風水に基づいて江戸鎮護構想から寛永寺創建を提言していた。
 風水では東に川、西に大通り、南に大池、北に山があるとそれぞれに青龍・白虎・朱雀・玄武が住まい、その地を守ってくれる(四神相応)。平安京では東に鴨川、西に山陽道、南に巨椋池、北に船岡山が該当し、江戸城では東に隅田川、西に東海道、南に江戸湾、北に麹町台地が該当する。
 薩摩守的には東の川が特に重要だが、分かる人だけ笑って欲しい。
 そして四神に守られていない鬼門=北東に鎮護の為に、平安京では比叡山延暦寺が置かれ、江戸城では寛永寺は置かれた。寛永寺の山号が東山なのも、「東の比叡山」を意味すればこそである。

 寛永二〇(1643)年一〇月二日、南光坊天海入滅。享年一〇八歳。家康と同じ日光に眠り、五年後の慶安元(1648)年に、朝廷より慈眼大師大師号が追贈された。同年、天海が生前着手していた『寛永寺版大蔵経』が、幕府の支援により完成した。


弾圧 弾圧とはチョット異なるが、前半生に不祥なことが多い事や、怪物じみた長寿から、数々の逸話が多く、とてもそれらすべてが史実とは思えない。そんないじられぶりこそ、個人への不当弾圧かもしれない。

 山岡荘八の『徳川家康』では堺の納屋蕉小庵と知己で、今川家人質時代の家康を鍛えたり、徳川信康配下の小者を武田勝頼への内通から防いだり、北条氏直に小田原城の運命を伝えて、北条家家臣に斬られかけたりしている(すべて随風名儀)。

 天文二三(1554)年、一九歳の時に川中島の戦いを山の上から見物し、上杉謙信に斬りつけられた武田信玄が軍配で凌いだという名シーンを見ていていたとのことだが、あの八幡原の霧の中でそんな個人の動きまで見ていたとは恐れ入る(笑)。
 関ヶ原の戦い天海が参加していたという話もあり、何と云っても忘れてはいけないのが、「明智光秀・南光坊天海同一人物説」である。
 以前拙サイトでも『生存伝説……判官贔屓が生むアナザー・ストーリー』でも「明智光秀・南光坊天海同一人物説」を扱った事があり、薩摩守はその信憑性を「0ではないもののかなり低い。」と見ている。何せ、天海と顔を合わせたであろう大名の中には黒田長政・加藤嘉明・福島正則・春日局・稲葉正成・前田利常・藤堂高虎等の様に、明智光秀を知る者も少なくない。つまり天海として彼等と引見した途端にばれ、周囲に話される可能性が高いからである。

 いずれにしても徳川家康のブレーンである天海に正面切って喧嘩を吹っ掛ける者などまず皆無で、秀忠・家光にも敬意を持って接せられた天海が権力や武力で攻撃されることなど全く考えられなかった。
 それゆえ、天海を悪し様に云う者がいるとすれば、「政敵」か、彼の権力の「被害者」を自認する人々による遠回しな報復と云える。まして「一〇〇歳オーバー」という当時の人間から見て化け物ともいえる齢は格好のいじり材料だった。
 長生きは立派な能力だが、並外れた能力となると人を怪物化させる材料となり得るのは寿命も同じだったと云える。その本質はしょーもない嫉妬に過ぎないのだが。


実態 南光坊天海の実態を薩摩守は、「真言宗に異常な対抗意識を持つ以外はまともな理論と実例の対比に優れた能文家」と捕えている。

 実際天海は権力でもって他を攻撃することは殆どなく、政争によって罪を受けた者の特赦を願い出ることもしばしばであり、大久保忠隣・福島正則・徳川忠長など赦免を願い出ている。
 紫衣事件(詳細は第拾頁・第拾壱頁参照)に関しては堀直寄、柳生宗矩と共に沢庵宗彭の赦免にも奔走した。

 だが、ここに天台宗・真言宗が絡むとかなり人が変わる。方広寺鐘銘事件では落慶法要の招待に対して、「真言宗徒の同列断固反対」、「絶対に天台宗を上座に据えよ」とゴネまくった。
 「豊臣家は方広寺の大仏開眼供養にわしを招いてきた。席順は真言宗よりも天台宗を左(上位)にしなければ、儂は出席せぬ!」と云い張った訳だが、天海と同じ家康ブレーンには都合が良かった。
 前述したように天海叡山最高職探題で、天台宗のボスといっても良かった。そして豊臣秀頼が贔屓していた醍醐寺座主・義演(ぎえん)は真言宗のトップの座を東寺派・高野山派と取り合っていた。この真言宗と天台宗の対立が淀殿・秀頼に難題を吹っ掛けたいチーム・大御所ブレーンズにはどう映ったかは説明の必要はあるまい。

 前述した家康への「権現」追贈をこじつけた時のゴネ振りも天台宗一筋から来る一途さであった。天海にとって、比叡山の神・日吉山王を祀る「山王一日神道」による「権現」をつけることは天台宗からの至上命題と云って良かった。崇伝との論争に勝ち得たのもの、宗教一色で決して退かない天海の姿勢に、政治的打算を図ってしまう崇伝が妥協してしまったから、と見るのは穿った物の見方だろうか?

 もし天海がその能力を家康側近としてのみ発揮すれば金地院崇伝以上に「黒き怪僧」として「弱者からの弾圧」に遭ったかも知れない。だがそうなるには彼は純粋に僧侶過ぎた。それも天台宗一色の。そこが彼の人間臭さを醸し出し、怪僧カラーを弱めているのだからこの男の実態は単純に見えて複雑である。


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令和三(2021)年五月二五日 最終更新