第拾壱頁 沢庵……紫衣事件はどこまで脅威だったのか?

名前沢庵宗彭(たくあん・そうほう)
生没年天正元(1573)年一二月一日〜正保二(1646)年一二月一一日
宗派臨済宗
弾圧者金地院崇伝
諡号普光国師
略歴 天正元(1573)年一二月一日、蕎麦で有名な但馬国出石(いずし)に生まれた。父は秋庭綱典(あきにわつなのり)で、但馬国主山名祐豊の重臣だった。幼名は……………ご存知の方、誰か教えて下さい(苦笑)。

 主家である山名家は天正八(1580)年、織田信長から中国征伐を命ぜられていた羽柴秀吉の侵攻に遭って滅亡し、父は浪人した。天正一〇(1582)年、一〇歳のときに出石の唱念寺で出家。法名は春翁(しゅんおう)である。
 四年後の天正一四(1586)年、出石の宗鏡寺に入り、希先西堂に師事。秀喜と改名した。ゴジラではない………………(シーン)……………………いや、そりゃ、ウケると思っちゃいませんでしたが、何なんでしょうねぇこの静けさは………………………。

 気を取り直して……天下が秀吉によって統一された翌年の天正一九(1591)年、希先が入滅した、出石城主・前野長康によって、大徳寺から宗鏡寺の住職に招かれた薫甫宗忠(とうほそうちゅう)に師事した。
 その薫甫が大徳寺住持となった為、文禄三(1594)年に師と共に上京し、大徳寺に入った。
 大徳寺では師・薫甫の更に師である三玄院の春屋宗園(しゅんおくそうえん)に師事し、この時に宗彭と改名した。

 慶長四(1599)年、薫甫が佐和山城に移ったのに同行。
 これは石田三成の要請によるもので、三成は城内に亡母の供養のために瑞嶽寺という一寺を建立し、親交のあった春屋に住職の派遣を依頼し、春屋は薫甫を住職に任命したのだった。

 翌慶長五(1600)年九月一五日、関ヶ原の戦いが起き、その余波を受けて二日後の九月一七日には東軍の軍勢が佐和山城にも押し寄せた。
 宗彭は薫甫とともに城を脱出し、春屋の元に戻った。この後、春屋と宗彭は一〇月一日に処刑された三成の遺体を引き取り、三玄院にてこれを手厚く葬った。

 慶長六(1601)年、薫甫が亡くなり、和泉国堺にて文西洞仁(ぶんせいどうじん)の門下に入った。
 慶長八(1603)年に文西が亡くなると南宗寺陽春庵の一凍紹滴(いっとうじょうてき)に師事。そして慶長九(1604)年八月四日、遂に悟りを開き、沢庵の法号を得た。時に沢庵宗彭三二歳。

 慶長一二(1607)年大徳寺首座となり、大徳寺塔中徳禅寺に住み、南宗寺住持も兼任した。
 慶長一四(1609)年大徳寺住持(第一五四世)に就任。だが名利に興味を持たない沢庵は三日で大徳寺を去り、堺へ。
 一一年後の元和六(1620)年、郷里出石・宗鏡寺に戻って庵を結び、これを投淵軒と名づけて、隠棲の生活に入った。沢庵の性格からいって静かに穏やかな余生を過ごす筈だった。

 しかし寛永四(1627)年七月、京都所司代が後水尾天皇の勅許・下賜した紫衣を没収する事件が起きた。所謂『紫衣事件』である。
 これに反発した沢庵は京に上り、玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)、江月宗玩(こうげつそうげん)と共に大徳寺の僧をまとめた後、妙心寺の単伝士印(たんでんしいん)、東源慧等(とうげんえいとう)らと共に反対運動を行い、寛永五(1628)年、抗弁書を幕府に提出した。

 これを法度違反とした幕府は沢庵達を罪に問い、寛永六(1629)年彼等を江戸へ召喚した。沢庵は江戸城内にて弁論したが同年七月に有罪とされ、沢庵を出羽国上山への流刑となった(同様に玉室は陸奥国棚倉、単伝は陸奥国由利、東源は津軽へ流された)。

 寛永九(1632)年、大御所・徳川秀忠の死により大赦令が出され、天海、堀直寄、柳生宗矩等の尽力もあって、『紫衣事件』に連座した者達は許された。
 沢庵も流刑を解かれたが、帰京は許されず、一先ず江戸に出て、神田広徳寺に入った。同年冬、赦免に尽力してくれた堀直寄の別宅(現:東京都豊島区駒込)に身を寄せた。
 寛永一一(1634)年夏、玉室と共に大徳寺に戻り、この時上洛した将軍・徳川家光との謁見を天海、堀直寄、柳生宗矩に勧められた。
 これにより、沢庵は家光の帰依をうけ、一旦は郷里出石に戻ったが、翌寛永一二(1635)年、幕命により再び江戸に召し出された。寛永一三(1636)年に家光より江戸逗留を要請され、近侍することとなった。

 柳生宗矩の下屋敷に逗留し、家光の召しに応じて登城して禅を説く日々を送りながら、度々上方へ戻ったが、寛永一五(1637)年に後水尾上皇より国師号授与の内示があった。が、沢庵はこれを辞退。代わりに大徳寺一世・徹翁義亨へ追諡を願った。
 翌寛永一六(1639)年江戸に戻ると、家光によって創建された萬松山東海寺に初代住職となり、寛永一八(1641)年、大徳寺・妙心両寺の寺法を旧に復すことが家光より正式に申し渡され、『紫衣事件』が完全に終結した。

 正保二(1645)年一二月一一日、江戸にて臨終を迎え、弟子に辞世の偈を求められ、「夢」の一文字を書き、筆を投げて示寂。沢庵宗彭享年七三歳。
 「自分の葬式はするな。香典は一切貰うな。死骸は夜密かに担ぎ出し後山に埋めて二度と参るな。墓をつくるな。朝廷から禅師号を受けるな。位牌をつくるな。法事をするな。年譜を誌すな」と「するな」尽くしの遺言をしたが、さすがに弟子として墓は作らない訳にはいかず、宗鏡寺と東海寺に墓が立てられた。
 そして自身が固辞した国師号が三〇〇回忌となる昭和一九(1944)年に宣下された。「普光国師」と諡された。


弾圧 弾圧のすべては『紫衣事件』にあった。この事件で沢庵宗彭は法律に違反した重罪人として流刑を課せられた訳だが、それには事件もそうだし、その背景も良く見る必要がある。そこで第玖頁・第拾頁でも触れた『紫衣事件』の詳細を記しておきたい。

 前頁でも触れたが、「紫衣」は朝廷が宗派に関係なく徳の高い僧に敬意と評して紫色の衣や袈裟を送り、収入源とした(笑)ものである。
 だが、草創期に足元を固めたいと欲する江戸幕府は武家・朝廷・寺社のそれぞれに法度を制定し、その行動に規制を掛けたが、紫衣に関しても規制が掛った。
 それはまだ豊臣家が滅びる前から始まっており、慶長一八(1613)年に『勅許紫衣法度』『山城大徳寺妙心寺等諸寺入院法度』を、二年後の慶長二〇(1615)年七月一七日には『禁中並公家諸法度』を制定し、その第一六条にて朝廷が幕府に許可なく紫衣や上人号を授けることを禁じた。

 これは本来なら天皇の臣下である筈の征夷大将軍率いる出先機関が主君である朝廷の人事を命令するという、君臣の道無視も甚だしい法令だったが、紫衣を授ける為に幕府が提示した条件はもっと無茶苦茶だった

 紫衣の勅許を前に、幕府の許可を得る為に必要とした条件とは、

 とあったが、相当長生きしなければならないし、公案は九六三しか実在しない
 有りもしない物まで持ち出して要求したのだから、はっきり云って嫌がらせである

 そして、更に質の悪いことに、幕府はこの法度をたてに既に天皇によって過去に下賜された紫衣までをも京都所司代の手で没収させたのである。
 これは、謂わば、事後法で裁くもので、(古今の違いがあるにせよ)後から定めた法律を過去に遡って適用・処罰することは、法律の世界ではそれこそ御法度である。

 時代は大きく異なるが、薩摩守は無茶な戦争で大日本帝国を荒廃・滅亡させた昭和のA級戦犯達は厳しく裁かれたことには一部例外を除いて同情しないが、それでも連合軍が事後法でもって裁いた極東軍事裁判は不当と思っている。
 少年法改正派として、過去の一部の凶悪少年犯罪に対して加害者を今からでも死刑にして欲しい感情を持ってはいるが、それでも法改正後にその法を過去の事件に当て嵌めて適用するのは間違いだと思っている(二重処罰禁止の観点からも)。
 それぐらい、後出しジャンケン的な裁きとは不当なものであることは万人の目に明らかなことと云えよう。

 ともあれ、幕府の無茶苦茶なこの仕打ちに後水尾天皇は幕府に無断で退位を決めた程だった。
 これでは沢庵ならずとも全臨済宗の僧侶が激怒したとしても不思議はなかった。
 これに抗議した沢庵の云い分は宗論の正論を述べるもので、

 「悟りとはそも、電光石火の如くやってくるもので、修行の年数や公案の数による物ではない。」

 と主張して抗議したが、この問題を取り扱ったのは前頁登場の金地院崇伝であった。
 崇伝自身も臨済宗の僧で、後陽成天皇から紫衣を下賜された人物であることを思えば、余計怒りも大きかったことだろう。
 だが、宗教人としては同じ臨済宗の僧侶でも、この時崇伝の中身は完全な政治家だった。如何にして寺社世界を統制下に置くかだけを考えていた崇伝は宗教的な是非など全く無視して、表向きの理由は大徳寺住持正隠宗智を出世させたことを「法度違反」として、その一言で沢庵・玉室宗珀・江月宗玩を遠島に処そうとした

 だが、恐らくは無茶苦茶云っていることの自覚は幕閣内にもあったのだろう(無ければ政治組織としてかなり致命的だ)。流刑は流刑でも天海や柳生宗矩らの取り成しによって、減刑され、沢庵は出羽上山に、玉室は陸奥棚倉への配流となり、江月に至ってはお咎めなしとなった。

 天海はその後も赦免運動を続け、寛永九(1632)年一月二四日に大御所・徳川秀忠薨去に伴う大赦令で『紫衣事件』による処罰を受けていた者たちは全員赦免された。
 そして翌寛永一〇(1633)年一月二〇日に金地院崇伝が入滅するともはや事件の影はすっかり薄まった。

 沢庵は将軍・徳川家光の帰依を受けるようになり、沢庵は寺法の旧復を家光に訴えた。その甲斐あって、寛永一八(1641)年、大徳寺・妙心寺の寺法旧復が家光の名で申し渡され、正隠宗智を初めとする大徳寺派・妙心寺派寺院の住持等の紫衣も戻され、『紫衣事件』は完全に過去のものとなった。

 また、流刑中・上山藩藩主・土岐頼行が沢庵に好意的だったのも救いだった。
 頼行は沢庵の権力に阿らない姿勢と「心さえ潔白であれば身の苦しみなど何ともない」との言を尊敬し、草庵を寄進するなどして厚遇。沢庵もその草庵を春雨庵と名づけ、愛居した。
 そして頼行は藩政への助言を沢庵に仰ぎ、赦免後も二人の交流は続いた。


実態 恐らく『紫衣事件』というものが無ければ、沢庵宗彭の名はかなり影の薄いものとなり、『沢庵漬け』も別の名前になっていたかも知れなかった(笑)。

 沢庵は本作の定義に最も近い『怪僧』で、権力者にとって、阿らず、利で釣れず、規制に逆らう非常に厄介な存在だった。但しそれは金地院崇伝の様な「締めつけたがる者」から見た話で、名僧としての沢庵は権力者にも慕われた。正に「徳、弧ならず」(by『論語』)である。

 当世の代表的禅僧として知られ、受け答えも当意即妙。禅の教えを身近なものに例えて教授する話も魅力的で、彼を慕った人物は徳川家光を始め、柳生宗矩・堀直寄・土岐頼行等がいて、その他多くの大名・貴族が帰依した

 そして沢庵本人は名利を求めない枯淡の禅風を崩さず、自らは「一禅僧に過ぎない。」とし、国師号を辞退し、晩年家光の厚遇を受けた我が身を「つなぎ猿」と蔑称し、「権力に媚び諂っている。」と自嘲したが、これは自らの為ではなく、臨済宗の為だろう。家光に近侍する沢庵を「大名好き」と揶揄する者達もいたが、彼等は寛永一八(1641)年の寺法旧復を受けて沢庵を批判したことを大いに恥じたという。

 何度か前述したように沢庵は自身の出世には興味がなく、大徳寺住持を就任三日で辞して、その後郷里出石・宗鏡寺に戻っていたが、その時の庵名が「投淵軒」で、これは中国春秋戦国時代末期に楚の滅亡を憂えて汨羅の淵に身を投げた屈原の故事に因んでいる。

 求めない姿勢は自らの死後にも及んでおり、前述したように墓も名も香典も葬式も求めず、自身が行った禅の在り様を弟子が継ぐ事さえ禁じ、「継いだ者は法賊」とまで云う程だった。
 他にも高貴な人々の面会を断ったり、家光からの寺や大邸宅の下賜を何度も断ったり(最後には折れたが)、欲を捨てた例は枚挙に暇がない。

 恐らく、金地院崇伝とて『黒衣の宰相』の立場に無ければ、沢庵にこうまで辛く当らなかったのではないだろうか?
 崇伝と同じ立場にあった南光坊天海は沢庵「抗弁書を書いたのは自分だから、罰するのは自分だけにして欲しい。」との言に心打たれ、減刑に奔走している。
 もっとも、人格者・沢庵和尚も崇伝を『天外魔道』と呼び、彼に対してだけは人格者になれなかったようだったが(苦笑)。


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平成二九(2017)年一一月六日 最終更新