第参頁 俊寛……ただ一人許されなかった帰還

名前俊寛(しゅんかん)
生没年康治二(1143)年〜 治承三(1179)年三月二日
宗派真言宗
弾圧者平清盛
諡号無し
略歴 貴族の時代から武士の時代への過渡期を目前にした康治二(1143)年に俊寛は生まれた。血統は村上源氏の出身で、父は仁和寺院家の法印寛雅、母は宰相局(源国房の娘)。真言宗の僧侶で、僧都(大僧正・僧正に次ぐ)の地位にあったことから「俊寛僧都」と呼ばれることも多い。

 後白河法皇の側近で法勝寺執行の地位にあったが、安元三(1177)年に京都東山の麓、鹿ケ谷(ししがたに)の俊寛山荘にて、後白河法皇、大納言・藤原成親・西光法師、多田蔵人行綱(源行綱)、判官平康頼等とともに平氏打倒の討議が為された。
 参加メンバーの中でも藤原成親は、妹が平重盛(清盛嫡男)の妻でありながら、右大将の地位を平宗盛(清盛三男)に取られていたことから平家を激しく憎んでいた。

 だが、この時点で日本最大軍閥である平家に武力で刃向かうだけの力が参加したメンバーの誰にある訳でもなく、具体案に欠ける愚痴めいたぼやき合いに過ぎなかったが、成親が立ちあがった拍子に瓶子(へいじ。早い話、徳利)が倒れ、「ややっ?瓶子(平氏)が倒れましたぞ!」とベタな親父ギャクをかましたことで場の空気が変わった

 後白河法皇はこの駄洒落の後に続く事を参加者に命じ、ベタなギャグを「縁起良いや」とばかりに調子に乗った参加者の誰かが「平氏(瓶子)が多過ぎて、酔ってしまいました。」と云えば、西光が「ならばそんな平氏の首など斬ってしまえ!」と叫んで瓶子の首の部分を叩き折って大笑いした。こいつ等こんな低レベル駄洒落が、本当に面白かったのか?

 鹿ケ谷で騒いでいた連中にしてみれば謀議と云うよりは、悪口を肴にした自棄酒大会だったのかもしれない。だが後白河法皇が自らの守護と思っていた多田行綱がこれを密告した。
 密告を受けた平清盛の動きは素早く、早々と西光が捕えられた。捕えられて尚清盛を罵った西光はその場で斬られた。成親はその妹が平重盛(清盛嫡男)の妻だったことから減刑が為されたが、それでも備前に流された(後に流刑地にて変死)。そして俊寛は藤原成経(成親の子)・平康頼と共に薩摩国・鬼界ヶ島という島流し史上最悪とも云える最果ての地へ流された
 ちなみに謀議の参与に白を切り通した後白河法皇(まあ、この狸親父はそうするだろうな……)は直接の関係はないとされたが、平家によってその権力は大幅に抑制された。

 鬼界ヶ島に流された後の俊寛等三人は都と余りに環境が異なり過ぎる異郷の地で愕然とした日々を過ごすこととなった。望郷の念から成経と康頼は熊野神社に似た地形の場所を神社に見立てて日々参拝して帰郷を祈り、望郷の和歌を記した卒塔婆を作り海に流し続けたが、流刑生活に愕然とする余り神も仏も信じられなくなった俊寛(←おいっ!アンタ真言宗のお坊様でしょ?!)は、二人の願掛け行為に加わらず、日々ゴロゴロしていた。

 成経と康頼が流した卒塔婆は千本に及び、やがて、一本の卒塔婆が安芸国厳島に流れ着いた。拾われて回り回ってこれが清盛の元に届くと、これを見た清盛はさすがに惨過ぎる流刑と考えたものか、娘・徳子(高倉天皇妃)の安産祈願を名目とした恩赦を行い、翌治承二(1178)年に赦免船を鬼界ヶ島に送った。
 だが、赦免船に乗ることを許されたのは成経と康頼のみで、清盛は「俊寛だけは許さん!」としてただ一人島に残すこととなった。偏に謀議の張本人とされたゆえのことだった。
 赦免状に自分の名前だけが無いことが信じられず、何度も赦免状を読み直し、船員にも必死に自分を船に載せてくれることを泣いて嘆願した俊寛だったが、勿論受け入れられず、最後まで船にしがみつくも、振り解かれ、船は島を離れた。
 成経・康頼も俊寛を哀れに思いながらも、彼に付き合って島に残る程お人好しではなかったし、もしそんな気持ちがあっても鬼界ヶ島の環境は余りにも過酷過ぎた。

 絶望し、悲嘆に暮れる俊寛の下、翌治承三(1179)年、俊寛の侍童だった有王が鬼界ヶ島を訪れ、変わり果てた姿の俊寛と再会した。有王は俊寛の娘からの手紙を持参しており、それを読み、妻と息子の死を知った俊寛は自らも死を決意した。
 それから俊寛は食を断つことで二三日後に自害して果てた。俊寛享年三七歳。遺灰が有王によって京へ持ち帰られたことにより、俊寛は都に無言の帰宅を果たした。
有王はその後出家して俊寛の菩提を弔い続けたと云う。


弾圧 何と云っても「最悪の流刑地・鬼界ヶ島に流された」の一言に尽きる。流刑にも、近流(こんる)・中流(ちゅうる)・遠流(おんる)という言葉が有り、軽い罪なら都の近場に流される程度で、左遷や都からの所払いと大して変わらないものもあった。だが重罪人には最果てとも云える地への流刑が待ち構えていた。  一般に過酷な流刑地としては「金山に入ったら(重労働で)三年で死ぬ」と云われた佐渡島や、「鳥も通わぬ」といわれた八丈島が有名だが、平安時代には八丈島への流刑は確立していなかった(八丈島に中央政権の施政が及んだのは室町時代)。
 大和朝廷の勢力も北は奥六郡、南は薩摩までで、その地より遠い所は、云わば『外国』だった。それどころか、時代を少し遡れば東北も九州も蝦夷・俘囚・隼人と呼ばれた異民族の住まう地だったのである。

 そしてその九州最南端の薩摩国の南海に広がる薩南諸島に鬼界ヶ島が在ったと伝えられている。鬼界ヶ島が現代で云うどの島を指すのかは諸説紛々で、硫黄島(現:鹿児島県鹿児島郡三島村)とも、喜界島(現:鹿児島県大島郡喜界町)とも云われ、何故か薩摩ではない伊王島(現:長崎県西彼杵郡)との説もあり、三島とも俊寛の銅像がある。
 いずれにしても現代に至っても場所が特定できない様な辺境の地に間違いなく(←現地にお住まいの皆様、ごめんなさい)、藤原広嗣や菅原道真や藤原伊周が北九州にある太宰府に左遷されたことが島流し同然に見られたことからも鬼界ヶ島がとんでもない流刑地であったことは想像に難くない。

 そして前述した「異なり過ぎる環境」についてその詳細を触れたい。
 鬼界ヶ島は都から船で何十日も掛り、田畑も村里もなく、火山だけが異様に目立つ小さな島だった。僅かに住まう現地の住人は色黒で、言葉は鳥がさえずる様で、都人には何を云っているのかさっぱり分からなかったらしい。
 俊寛達には現地の食事(詳細不明)は喉を通らず、供に流された藤原成経の舅が平教盛(清盛弟)だったことから援助物資が届いたことで辛うじて食事が出来る有様だった。
 また『平家物語』によると、俊寛は後に訪ねて来た有王に島の生活を
 「日の長閑なる時は、磯に出でて、網人釣人に手をすり、膝をかがめて、魚をもらい、潮干の時は貝を拾い、荒海布を取り、磯の苔に露の命をかけてこそ、憂きながら今日まではながらえたれ」  と語っている。
 その有王が成経と平康範が都に戻って来た後に、身を案じて来島して見た俊寛は蚊とんぼの様に痩せ衰え、幽霊の様で、とても三七歳の壮年には見えない有様だった。

 さて、ここで少し述べておきたいのが、ここまでの記述・描写が『平家物語』『愚管抄』(ぐかんしょう)によるところが大きい、と云う点である。
 ともに鎌倉時代に成立した『平家物語』『愚管抄』は重要な史料ではあるが、ともに正史ではなく、前者に至っては創作である。勿論全くの作り話と云っては『平家物語』が可哀想で、中国史で云えば『三国志演義』の様な立場にある、と云った方がよかろうか?
 いずれにしても史料は正史であっても編纂者の立場による誇張、偏見、場合によっては捏造すら疑って掛る必要もあり、それは時代が下る程注意を必要とする。
 そんな中で薩摩守が気にするのは鬼界ヶ島と島民に対する記述である。

 「僅かに住まう現地の住人は色黒で、言葉は鳥がさえずる様で、都人には何を云っているのかさっぱり分からなかった」と前述したが、鹿ケ谷事件から鎌倉時代にかけて当時の人々は鬼界ヶ島や島民をどんな目で見ていたのだろうか?
 「色黒」は分からなくもないし、「何を云っているのかさっぱり分からなかった」というのも現在でも鹿児島弁や琉球の言葉が標準語基準で聴くと分かり辛かったり、明治時代の段階で東北人と九州人の会話が成立しなかったりした例を鑑みるとこれも分からなくはない。
 ただ分からないのは「言葉は鳥がさえずる様で」という所である。平康頼・藤原成経・有王・その他誰の証言によるものか分からないし、音・語感・口の動きのいずれからそのような印象を受けているかも断じ難い。
 あくまで薩摩守の独断と偏見だが、外国語を聴いているとそれぞれの語に独特の音が有り、中国語やハングルは日本語より高い音に聴こえる。骨格や食べている者や風土に対する呼吸器官の順応によって音が大幅に変わることはあるかもしれないが、人と動物を取り違える程異なる様には思われない。
 古来、人類は我が民族と異民族との違いをかなり誇張した目で見て来た。欧米人はアジア人を「黄色人種」と呼ぶが、薩摩守は日本人の肌を黄色いと思わない。逆に「白人」や「黒人」と呼ぶほど欧米人や赤道付近にすむ民族の肌が白や黒と思わない。前者は肌色に対して茶色の度合いが薄く、後者も褐色に近いと思っている。ま、黒人とされる人々の中にはかなり黒に近い肌の方もいるが、程度の差はかなり広いと思う。
 また大航海時代にアメリカ大陸に降り立ったヨーロッパ人はネイティブ・アメリカンの肌を「赤」と呼ぶが、当然薩摩守の目にネイティブ・アメリカンの方々の肌が血の色に見えることはない。それだけ人間は自らと異なる点については大きく受け止めやすいということだろう。

 鹿ケ谷事件当時も、『平家物語』『愚管抄』成立当時も、近代以降に比して外国人との接触が少なく、異民族への思いやり意識も乏しかったであろうと思われるが、当時のアジアに蔓延していた中華思想的な見下しが無かったと思いたい所ではある。

 本題に戻るが、後世、俊寛の末路は多くの人々の同情を誘ったのか、俊寛にちなんだ作品が数多く生まれた。有名所では世阿弥の『俊寛』、近松門左衛門の『平家女護島』があるが、近代に入ってからも生まれ続け、内容も多様化した。
 大正七(1918)年に倉田百三が作った戯曲『俊寛』では有王から家族の全滅を知らされた後、俊寛は岩に頭をぶつけて自害したことになっている。また大正一〇(1921)年に書かれた菊池寛の『俊寛』では、俊寛は島の娘と結婚し、健康に暮らしていたという(←坊主なのに?)。その翌大正一一(1922)年芥川龍之介が書いた『俊寛』は倉田・菊池の作を踏まえたものである。
 そして直近では平成九(1997)年に三味線音楽の作曲家・本條秀太郎(ほんじょうひでたろう)氏が『俚奏楽 俊寛』を作曲している。如何に俊寛の末路が同情されたかで、政治的な絡みを除けば菅原道真に匹敵するかも知れない。


実態 実の所、俊寛が何をしたのか?と問われれば、目立った言動は見られない。
 前述したように、鹿ケ谷謀議は「平家打倒の陰謀」としてのそのレベルはメチャクチャ低く、本気で平家打倒(の気持ちがあったとしても、それ)を狙うには稚拙過ぎ、酔っ払いの愚痴&駄洒落による戯言大会に近かった
 勿論、身分の高い者に対する叛意や悪意が死に繋がることもあり得た中世のこと、今と同じに考えてはいけないだろう。平家とて多田行綱による訴え出があった以上、取り締まらない訳にはいかなかっただろう。
 そして俊寛にとって致命的だったのは「謀議の場」であった鹿ケ谷山荘が俊寛の物だったことである。「場を提供した者」として重罰対象になったことは想像に難くない。

 一方で、この謀議事態が平清盛によってでっち上げられたものだとする説も近年では重視されている。勿論、謀議なんてものは隠れて行うものだから、やっていてもやっていなくても取り調べに対して「No」を答えるに決まっている。
 後白河法皇は(当然の様に)白を切っているし、西光の自白も苛烈な拷問によるもので、端からみんな認めた訳ではない。それゆえ謀議の実在について歴史学者でもない薩摩守に真偽を立証することは出来ないが、それに少しでも近付く為にも背景に関する考察は行いたい。
 当初は後白河法皇と平清盛は蜜月状態にあった(もっとも、後白河法皇の狸親父は必要な時は誰とでも組むのだが)。その蜜月状態に翳りが差したのは安元二(1176)年七月八日に起きた建春門院滋子(けんしゅんもんいんしげこ)の薨去だった。
 建春門院は清盛の妻・時子(二位尼)の妹で、後白河法皇の妃で、高倉天皇の母でもあった。平家にとっても皇室と繋がるキーパーソンだったが、高倉天皇にとっても、院政で政権を手放さない父・後白河法皇に対する大切な拠り所だった。
 既に成人していた高倉天皇は清盛の娘・徳子を妃とし、その徳子は後に安徳天皇を産んでいる。必然、高倉天皇は平家を後ろ盾とした親政を画策する。それゆえに院政継続を望む後白河法皇とは暗に対立する兆しが存在した。

 となると、後白河法皇を擁する院近臣勢力は反平家に傾く。建春門院薨去の翌安元三(1177)年正月の除目で、平重盛が左大将、平宗盛が右大将となったが、前述したようにこれによって右大将就任に漏れた藤原成親は面白くなかった。
 また同年三月二二日には比叡山延暦寺の大衆が白山の末寺・宇河寺を焼いた藤原師高・師経兄弟(西光の子)の配流を求めて強訴を起こすという事件が勃発した。
 山門衆の怒りは後白河法皇による師経備後国流罪の宣告でも収まらず、四月一三日には神輿を持ち出して内裏向かった山門衆と、警備に当たっていた重盛の兵との間で衝突が起き、死者も出て、事態は更に悪化した。
 その後の流れに激昂した後白河法皇は近衛大将であった重盛・宗盛に対して坂本封鎖・延暦寺攻撃を命令(←本当に何とかして欲しい、この狸親父……)。驚いた二人が父・清盛に判断を仰ぎ、容易ならざる展開に清盛も直ちに上洛し、二八日に後白河と会見して攻撃を思いとどまらせようとしたが、押し切られる形で、近江・美濃・越前の武士も動員される始末だった。
 そしてその出撃直前の六月一日、清盛の西八条邸を訪れた多田行綱が平氏打倒の謀議を密告したのだった。

 薩摩守は後白河法皇の人柄を擁護する気は全くないが、それでも状況的に平家を率いて山門を攻撃しようとしている、つまりは平家の力を必要としている時に平家を除く様な思考・行動に走る様な馬鹿とは考え難い。
 我の強い後白河法皇のことだから、後々平家を除く事を考えていても全くおかしくないが、この時点での平家打倒謀議はいくらなんでも時期尚早と思われる。
 実際、この「謀議」は前述したような、酔っ払いの愚痴大会とも、比叡山攻撃の方針を確認した会合とも見られている。密告人とされる多田行綱は過去に僧兵捕縛に失敗したという行きがかりがあり、会合の目的が延暦寺攻撃・平氏打倒のいずれにしても何らかの軍事行動に加わる立場にあったと推定される。
 だが、背景はどうあれ、清盛は直ちに西光を呼び出して拷問にかけ、すべてを自供させると首を刎ねた。そして西光に深い恨みを持ち、近江西坂本まで下っていた山門衆はこの動きを知ると、清盛に使者を送って敵を討ったことへの感謝を述べて山へ戻っていった。
 となると、この逮捕劇は山門との衝突を回避するためにでっち上げと見ることも出来る。実際、清盛に呼び出された際に西光も成親もすんなり出頭に応じている。余程油断していたか、平家打倒の意識が皆無に近かったかのいずれかだろう。
 ちなみに俊寛逮捕はその三日後のことだった。西光が斬られたのに逃げなかったのだろうか?

 とまあ、鹿ケ谷事件の背景を見てみたが、親政派と院政派の対立、山門との揉め事、言動のいずれをみても俊寛が他の参加者に比べ、取り立てて厳罰を喰らわなければならない要因は見当たらない。「謀議の場提供」が薩摩守の認識以上に大罪であれば話は別だが。
 一説には清盛は俊寛を可愛がっていて、それだけに裏切られたショックが大きく、「可愛さ余って、憎さ百倍」的に厳罰に処したと云う。また『平家物語』での俊寛は「傲慢で不信心な性格」と評されているが、それ以外では高潔な人物に書かれることが多い(行動には問題があるが)。鬼界ヶ島くんだりまで有王が訪ねて来る程、慕われていたのが俊寛僧都の実態、と見たいのは真言宗徒である薩摩守の贔屓目であろうか。


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令和三(2021)年五月二五日 最終更新