第肆頁 法然……旧宗派からの非難

名前法然(ほうねん)
生没年長承二(1133)年〜建暦二(1212)年一月二五日
宗派浄土宗
弾圧者後鳥羽上皇・比叡山延暦寺・南都興福寺
諡号慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・他多数
略歴 すべての人々を自らの浄土である極楽浄土に往生させるという誓いを立てた阿弥陀如来を信じ、「南無阿弥陀仏」(「阿弥陀仏に帰依します」の意)と念仏を唱えれば、死後は平等に往生出来るという専修念仏の教えを説き、後に浄土宗の開祖と仰がれたのが法然である。
 法然とは房号で、諱は源空(げんくう)。つまり、一般に呼ばれる「法然」よりは「源空」の方が存命中に呼ばれていた僧名として適切なのだが、ややこしいので、本作では「法然」で統一する。

 源平台頭の発端となる保元の乱を遡ること二三年、長承二(1133)年四月七日、美作国久米(現:岡山県久米郡久米南町)の押領使・漆間時国(うるまときくに)を父に、秦氏君(はたうじのきみ)を母に、生まれる。幼名は勢至丸(せいしまる)で、勢至菩薩にちなんで命名された。

 保延七(1141)年、土地争論に関連して、父が明石貞明の夜襲を受けて致命傷を負った。この時、仇打ちを誓う勢至丸「仇討ちをすれば、その子がまたお前を仇と狙う。」と諭して、負の連鎖を断ち切り、自分の菩提を弔うことを遺言したのは有名である。
 程なく、時国は没し、勢至丸は遺言に従って菩提寺の院主であった、母方の叔父にして僧侶であった観覚の元に引き取られた(父の死と出家は無関係とする説もある)。
 観覚は、勢至丸の才能が高いと見込み、学問に励ませた後、比叡山での勉学を勧めた。

 天養二(1145)年、比叡山延暦寺に登り、源光に師事。源光の教えを学び尽くすと久安三(1147)年に皇円の下で得度し、天台座主行玄を戒師として授戒を受け、正式に出家した。

 久安六(1150)年、皇円の元を去り、比叡山黒谷別所にて叡空を師として修行に励み、その様を叡空から絶賛されたことで一八歳にして房号・「法然房」と諱・「源空」(元の師・光と叡から一字ずつ貰った)を授かった。
 保元元(1156)年、「智慧第一の法然房」と称された法然は黒谷を出て、清凉寺や醍醐寺に遊学。時に法然二四歳で、世は貴族の世から武士の世に移ろうとしていた。

 承安五(1175)年、善導の『観無量寿経疏』によって回心を体験し、専修念仏を奉ずる立場に進んで浄土宗を開き、比叡山を下りて東山吉水(よしみず)に住んで、念仏の教えを広めた。この為、法然の教団は「吉水教団」とも呼ばれる。
 またこの経緯から浄土宗では善導を「高祖」、法然を「元祖」としている。

 この年が浄土宗の立教開宗の年とされており、浄土真宗・曹洞宗・臨済宗・日蓮宗・時宗と共に「鎌倉新仏教」の一派とされる浄土宗だが、成立時に世はまだ平安時代で、鎌倉幕府の成立がまだだったのは勿論、平清盛すら健在だった。
 その後、法然の下には延暦寺の官僧・高僧が次々と入門。その中の一人に有名な親鸞(しんらん)がいたのは云うまでもない。

 平清盛が世を去った養和元(1181)年、戦火で焼失した東大寺の大勧進職に推挙されるが辞退し、重源を推挙。
 建久元(1190)年、自らが大勧進に推挙した重源から依頼されて再建中の東大寺大仏殿に浄土三部経を講ずる。
 鎌倉幕府二代目将軍・源頼家が殺された元久(1204)元年、後白河法皇一三回忌法要である「浄土如法経法要」を長講堂(現:京都市下京区)で営んだ。

 同年、比叡山と興福寺の僧徒が専修念仏の停止を迫って前者は天台宗座主に、後者は朝廷に訴えを起こした。法然『七箇条制誡』を草して門弟一九〇名の署名を添えて延暦寺に送り、一旦収まったかに見えた。
 しかし、翌元久二(1205)年、後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に院の女房達が法然門下の遵西(じゅんさい)・住蓮(じゅうれん)が東山鹿ヶ谷草庵で開いた念仏法会に参加・出家して尼僧になる事件が起きた。
 これに怒った上皇は承元元(1207)年専修念仏停止の断を下した(詳細は下記の「弾圧」にて後述)。

 この処分で女房との不義密通を疑われた遵西・住蓮は斬罪となり、法然は還俗させられ、「藤井元彦」と改名させられ、土佐に流罪となった(実際には讃岐に留まった)。同時に親鸞も越後国に流された。世に云う「承元の法難」である。
 そしてこれが師弟の永遠の別れとなった。

 配流は一〇ヶ月で終わり、同年一二月に赦免。讃岐から摂津国豊島郡(現:大阪府箕面市)の勝尾寺に移り、建暦元(1211)年には京に入った。
 翌建暦二(1212)年一月二五日、京都東山大谷(現:京都市東山区)で逝去。享年八〇歳。

法然上人に大師号が贈られるようになったのは、五〇〇年遠忌の行なわれた正徳元(1711)年である。それ以降五〇年毎に天皇より加謚されたため、大師号は円光大師東漸大師慧成大師弘覚大師慈教大師明照大師和順大師法爾大師、と多数存在する。


弾圧 弾圧の詳細を見る為、「承元の法難」について詳しく述べたい。
 元久(1204)元年一〇月、比叡山の衆徒は、吉水教団に対して専修念仏の停止 (ちょうじ)を天台座主・真性(しんしょう。平家に打たれた以仁王の第三子にして後白河法皇の孫)に訴える決議を行った。
 この訴えは「延暦寺奏状」と呼ばれ、下記の箇条書きになっていた。

延暦寺三千大衆 法師等 誠惶誠恐謹言
天裁を蒙り一向専修の濫行を停止せられることを請う子細の状
(薩摩守意訳:特別に天の裁きを受け、ただ一つの修業だけ行うことが氾濫していることを止めさせることを要請する為、その詳細をしたためました)
一、弥陀念仏を以て別に宗を建てるべからずの事(阿弥陀如来を本尊とした新たな宗派を立てちゃダメよ)
一、一向専修の党類、神明に向背す不当の事(念仏を唱えるのみの輩は神仏に向き合う・刃向かうに関して不当なんですよ)
一、一向専修、倭漢の礼に快からざる事(念仏を唱えるのみの輩は日本・中国伝来の礼式にとって不快なんですよ)
一、諸教修行を捨てて専念弥陀仏が廣行流布す時節の未だ至らざる事(数々の仏道修行を捨て阿弥陀仏の名前を唱えるだけの行いが世間に広まるのは時期尚早なんですよ)
一、一向専修の輩、経に背き師に逆う事(念仏を唱えるのみの輩は経典に背いて、師匠に逆らっておりますぜ)
一、一向専修の濫悪を停止して護国の諸宗を興隆せらるべき事(念仏を唱えるのみの輩の悪行を止めさせ、国を護る為の諸宗派の盛り上がりを助けなきゃね)

 と訴えたのである。

 翌元久二(1205)年九月には、奈良は南都の興福寺(←藤原氏の菩提寺。阿修羅像で有名ですね)から朝廷に対して吉水への提訴が行われた。翌一〇月に「興福寺奏状」と題して「九箇条の過失有り」として非難し、専修念仏の停止を訴えた。
 その内容は以下の通り。

興福寺僧網大法師等 誠惶誠恐謹言
殊に天裁を蒙り、永く沙門源空勧むるところの専修念仏の宗義を糺改せられんことを請ふの状右、謹んで案内を考ふるに一の沙門あり、世に法然と号す。念仏の宗を立てて、専修の行を勧む。その詞古師に似たりと雖もその心、多く本説に乖けり。ほぼその過を勘ふるに、略して九ヶ条あり。

(薩摩守意訳:特別に天の裁きを受け、永らく修行僧源空が勧めている、ただ念仏を唱えるだけの教えを但し、改めることを願う書面です。そのことをお伝えする内容を考えました所、一人の修行僧がいて法然と名乗っています。念仏を唱えるだけの宗派を立て、だだそれだけを修行とすることを勧めています。その言葉はいにしえの師匠達のそれに似ていると云っても、その本質は多くの宗派とかけ離れたものです。その過ちを探ってみました所、省略しても九ヵ条に及びます)
九箇条の失の事
第一 新宗を立つる失(奴等、正統な論拠を示さず、勅許も得ずにして、新宗派を作りやがったんでさぁ)
第二 新像を図する失(奴等、専修念仏の徒のみが救済されるという、根拠に乏しい図像を弄しやがったんでさぁ)
第三 釋尊を軽んずる失(奴等、阿弥陀如来礼拝のみを勧めて、仏教の根本であるお釈迦様を軽んじているんでさぁ)
第四 不善を妨ぐる失(奴等、称名念仏だけを重んじて、造寺造仏などの善行を妨害し、これを阻止していないんでさぁ)
第五 霊神に背く失(奴等、八幡神や春日神など日本国を守護してきた神々を軽んじ、侮っていやがるんでさぁ)
第六 浄土に暗き失(奴等、極楽浄土のことについて特殊で偏向した立場にこだわっていて、分かっているとは思えないんでさぁ)
第七 念仏を誤る失(奴等、念仏について称名念仏偏重で、念仏を正しく理解していると思えないんでさぁ)
第八 釋衆を損ずる失(奴等、往生が決定したなどと公言したから、死後の地獄行きを恐れなくなって悪行を働く不心得者を多く生み出しやがったんでさぁ)
第九 国土を乱る失(奴等、国を守護すべき仏法の立場をわきまえず、正しい仏法のあり方を乱しているんでさぁ)


 この奈良・平安時代以来の勢力の訴えに対して法然は云い訳せず、『七箇条制誡』に門弟ら一九〇名の署名を添えて、自らを戒むることの決意を延暦寺に送って伝えた。
 旧勢力からの弾圧では「一念往生義」(念仏は一回唱えれば充分)と説いて布教に大きく貢献した行空と、法会で人気を博していた遵西が特に槍玉に挙げられ、非難されていたのを受け、延暦寺に考慮した法然は行空を破門した。
 もっとも、古今東西、ある宗派が存在そのものを許さない他宗派を排撃する様はえげつないぐらいで、一人の高僧を追い出したぐらいで収まるものではなく、法然の法難も同様だった。

 一方、興福寺の訴えを受けた朝廷は、朝廷内にも信者がいることもあり、当初訴えに対しては「不良行為を行う一部の門弟もいるだろう」という見解で静観していた。
 訴えのあった三ヶ月後の元久二(1205)年一二月一九日、法然に対して「門弟の浅智」を非難して、師匠の弟子に対する監督不行き届きを咎める形で事を穏便に済ませようとした。
 勿論興福寺側は納得せず、翌元久三(1206)年二月に高僧を上洛させ、縁の深い摂関家(つまり藤原系氏族)に対して更なる処罰を働きかけた。

 結果、三月三〇日に遵西と行空の処罰を確約した宣旨が出された。法然が行空を破門したのは同日のことである。
 興福寺側も一旦これを受け入れたように見えたが、五月に入ると再度強い処分を望む意見が届けられた(←しつこいな)。
 朝廷では連日協議が続けられたが、結局はうやむやに終わった(←お役所仕事の典型ですな)。強訴もなく、六月には近衛家実の新摂政就任を祝って興福寺別当が上洛したが、その際に専修念仏停止履行を促すような言動も見られなかった。

 だが、事態の悪化は内裏から発した。
 建永元(1206)年、後鳥羽上皇が熊野神社参詣の留守中に、上皇が寵愛する松虫姫と鈴虫姫という女房が、御所から抜け出して「鹿ケ谷草庵」にて行われていた念仏法会に参加する。
 この時、遵西と住蓮に魅了され、世を憂いていた松虫と鈴虫は出家を懇願した。両僧は上皇が留守中で、許可が得られる状態にないことで躊躇したが、結局剃髪を行った。
 尼僧となった二人は更に遵西の説法を聞きたがって両僧を上皇不在の御所に招き入れ、夜遅くなったことを理由にそのまま御所に泊めたと『愚管抄』には記されている。

 この行為に後鳥羽上皇が激怒したのは云うまでもない。勝手な出家もそうだが、自分の不在中に僧といえども男を御所内に泊めた訳だから、上皇の怒りは無理もない。
 現代でも、旦那が出張から帰って来た際に、妻が男を家に泊めていたら…………たとえその男性に社会的地位があって、妻が「何もしていません、ただ泊めただけ。」といっても、まず通らない。本当に泊めただけだとしても「やってない筈ない。」という目で見る人は多いだろう。
 まして後鳥羽上皇の性格では、真実がどうあれ、「女房が男を引き入れた」という事実だけでブチ切れる理由としては充分だっただろう。

 建永二(1207)年二月、上皇は専修念仏の停止を決定。遵西・住蓮は死罪を云い渡され、遵西は近江で、住蓮は六條河原で斬罪に処された(他にも二名が斬られた)。
 更に同月二八日、上皇は、法然と七名の弟子(親鸞を含む)を流罪とした。法然の流刑先は、土佐国番田だったが、円証(九条兼実)の庇護もあって、九条家領地の讃岐国に配流地が変更された。

 流刑そのものは一〇ヶ月で御赦免となったが、入洛は許されず摂津に逗留することとなった。四年後の建暦(1211)元年一一月になって、ようやく入洛許可が下りたことで、晴れて法然は罪人の身から解放された。
 同年同月、親鸞も赦免されたが、越後の豪雪に阻まれる内に二ヶ月後の建暦二(1212)年一月二五日、法然が死去したことで、ついに師弟の再会は果たされなかった。


実態 朝廷より正式な刑罰を受けていることで、法然は物凄い弾圧を受けたようなイメージがあるが、専修念仏の停止を命じたのが後鳥羽上皇でなかったら、或いは法然の流罪も無かったかも知れない、と薩摩守は見ている。

 後鳥羽上皇は後に鎌倉幕府倒幕を目指して承久の変を起こしたことで有名だが、気の強い人物だった。この点を少し紹介しておきたい。

 後鳥羽上皇は高倉天皇の第四皇子で、祖父は後白河法皇だった。
 平家が兄の安徳天皇と三種の神器を持って都落ちした際に、後白河法皇はこれに対抗して新帝を立てんとした。そこで亡き高倉天皇の子にして自分の孫である第三皇子・第四皇子(つまり後の後鳥羽上皇)と引見した。
 その際、第三皇子はその面相を怖がって泣き出し(←この狸親父、人間性だけじゃなく、顔も怖かったのね)、第四皇子は平気な顔をしていたので、これを新帝・後鳥羽天皇に立てることとした。つまり幼少の頃から気が強かったのである。
 更に、状況的に止むを得ないとはいえ三種の神器無しに即位したことが政敵や皇位を狙う他の皇族達の非難の的とされたため、コンプレックスを跳ね返さんとしたものか、勝ち気な性格はエスカレートし、当時の天皇としては珍しく、剣術や馬術の習得にも励んだ。
 勿論退位後は大人しく隠居する筈もなく、白河・鳥羽・後白河同様の院政を行った。この性格ゆえか、後鳥羽上皇は武家政権に納得がいかず、承久の変を起こした訳である。

 この様な人物が吉水教団にブチ切れたのだから、怒りの矛先が遵西と住蓮という当事者だけで収まらなかったのは必然だった。
 つまり後鳥羽上皇が専修念仏停止要請に応じたのはまさに「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」で、「遵西・住蓮」という「坊主」と共に「吉水教団並びに責任者・法然」という「袈裟」まで憎んだのである。
 激しい怒りを抱いた時、その怒りを当事者のみならず、当事者が属する組織やそのトップにまで及ぼす例は世に数多存在するが、どこまで波及するかは概ね怒りを抱いた人間の怒りの大きさに比例する。つまりどれだけ怒りっぽいかに依存する訳だ。
 このサイトをご覧になられている方々の中にも業務上のトラブルを抱えた際に、自社に非があるから謝罪の意を抱いているのに、相手方が不必要にトラブルを大きくする(例:小さなトラブルでも「責任者出せ!」、「訴えてやる!」に固執する)ことに辟易された経験をお持ちの方もいらっしゃると思う。
 勿論、上皇の許可を得ない女房の出家に応じたり、上皇不在の御所に宿泊したりした遵西・住蓮にも落ち度はあるが、二人を死罪にしただけでは飽き足りず、いくら監督行き届きとはいえ、法然や教団にまで厳罰を課したのは私怨に任せた不当弾圧と薩摩守は見ている。

 次に見てみたいのは浄土宗を不正な新興宗教として訴えた比叡山と興福寺である。
 既に触れているように、日本の仏教は当初官学としての色合いが強かった。薩摩守は真言宗の信者ではあるが、真言宗・天台宗よりも浄土宗を含む鎌倉新仏教と呼ばれる宗派の方が仏教の大衆化に貢献した功績は遥かに大きいとの見方に賛成している。
 「阿弥陀如来はすべての人々を例外なく自らの極楽浄土に往生させることを誓ったから、「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば、往生出来る。」という教義は子供にも分かり、実践も極めて容易で、前代未聞の大衆化を遂げたのも無理ない話である。
 そして工業製品でも学問でも、流行れば流行る程簡素化が図られ、念仏に対しても行空の様に「一念(一回唱えれば)で充分」としたり、「すべての人々を極楽往生させるという阿弥陀如来の誓いは絶対だから、本来なら念仏さえ必要ない」としたりする者さえ現れた。

 平安以前の旧仏教勢力とって、この簡易性は脅威であり、同時に仏教の重厚性を損ねるものと映っただろう。それゆえに比叡山も興福寺も、専修念仏の停止を訴えた際に、その理由として、「念仏以外の修行を軽んじている」ことをメインに既存価値観を軽んじていることを根拠としたのである。
 同時に注目すべきは、「誰でも往生出来る。」、「極楽往生は決定事項である。」との教えが多くの罪人を生んだ、との云い分である。死罪になる罪人に念仏を唱えることを勧めたところ、「わしは念仏を唱えてから悪いことをしたから、唱えなくていい。」等と嘯いた者までいた。
 確かに法然なら「その様な方でも往生出来ます。」と云うだろう。だが、薩摩守は浄土宗が犯罪者を増やしたなどという主張は云い掛かりに等しいと思っている。
 どんな教えがあろうと、裕福に生きていようと、悪いことする奴は悪いことをするし、云い訳する奴は云い訳するし、どうせ死罪に処されるならふてぶてしく振舞おうとする奴はいつの世にも存在する。
 「「南無阿弥陀仏」を唱えればどんな悪いことしても大丈夫!」等とほざく奴は悪いことをする大義名分(?)が欲しかっただけで、そういう奴は他に悪事を働く材料になるものがあれば喜んでそっちに傾倒しただろう。
 西洋史の例を挙げれば、混迷極めるイタリアの内乱を鎮める手段としてマキャベリが「君主たる者、獅子の如き勇猛さと、狐の如き狡猾さが必要」として記した『君主論』を、自らが好き勝手を振る舞う大義名分にしたフランスのルイ14世と同じ穴の狢なのである(おかげで21世紀の今日でも「マキャベリズム」は独裁容認論みたいに思われている)。

 同時に訴えておきたいのは、「念仏唱えたから何をやっても…」も、「君主は何をやっても…」も、「人間の本性は悪だから…」もエゴイストどもの都合のいい曲解、原論主張者に責を負わせるのは筋違い、ということである。
 無論、法然も親鸞も「念仏を唱えたら何をやってもいいんです。」等とは一言も云っていない。現在の浄土宗・浄土真宗も念仏=免罪符論をきっぱり否定している。
 逆を云えば、浄土宗に反対する勢力は何を云ってもここに固執する。いつの世にあっても、揚げ足の取り合いとは非常に醜いものである。

 最後に法然その人について。
 「念仏は一念か多念か?」の論争時に法然は「私は日に六万遍唱えています。」と云う一方で、「信心を得る為の一念も大切です。」とも云っている。悪く云えばどっちつかず、よく云えば双方の顔を立て、双方の大切な点にしっかりと言及している。
 また親鸞が妻帯を申し出た時、喜んでこれを認めている。本来、僧侶は妻帯しないものだが、当時は隠れて妻帯することは珍しくなかった。後に親鸞は僧侶の妻帯・肉食を是としたが、法然自身は妻帯せず、肉食もせず、念仏以外の修業も続け、流刑を恨むことなく、流刑地でも布教に務めた。
 偏に弟子が後鳥羽上皇を怒らせさえしなければ、法敵の主張もただの嫉妬で受け流せたのではあるまいか。


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令和三(2021)年五月二五日 最終更新