第伍頁 親鸞……不鮮明ならざる長寿人生と弾圧

名前親鸞(しんらん)
生没年承安三(1173)年〜弘長二(1262)年一一月二八日
宗派天台宗→浄土宗→浄土真宗
弾圧者後鳥羽上皇・比叡山・興福寺・鎌倉幕府
諡号見真大師
略歴 承安三(1173)年四月一日に、法界寺(現:京都市伏見区日野)にて、皇太后宮大進・日野有範(ひのありのり)を父に、清和源氏の八幡太郎義家の孫娘の吉光女(きっこうにょ)を母に長子として誕生。幼名は、松若磨松若丸十八公麿とも伝わる。

 治承五(1181)年、京都青蓮院において、後の天台座主・慈円の元で得度・出家し、範宴(はんねん)と称する。時に範宴九歳(この年、平清盛死去)。

 出家後、天台宗・比叡山延暦寺に登り、慈円が検校(けんぎょう)を勤める横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)において、不断念仏の修行に励み、以後二〇年に渡って厳しい修行を積むが、自力修行に限界を感じるようになる。
 この間、鎌倉幕府が成立し、武士の世に突入していた。

 建仁元(1201)年春頃、叡山を下山。聖徳太子を「和国の教主」として尊敬し、観音菩薩の化身として崇拝した範宴は太子建立の六角堂(現:京都市中京区)にて百日参籠を行う。
 その九五日目である同年四月五日の暁、夢の中に現れた聖徳太子からお告げを受け、これに従い、夜明けとともに東山吉水の法然の草庵を訪ね、後百日に渡ってその元を通い続けて師事した。時に法然六九歳、範宴二九歳。
 入門を機に法然より、「綽空」(しゃっくう)の名を与えられ、修行を積む内に法然に高く評価されるようになった。
 入門から五年を経た元久二(1205)年四月一四日、法然より『選択本願念仏集』の書写を許されたが、これは門弟の中でも極一部の者にしか許さなかったことだった。
 またこの頃、法然に改名を願い出て許され、「善信」(ぜんしん)に改名したと云われる。

 元久二(1205)年(1205年)、師・法然と供に前頁で紹介した「承元の法難」に遭う。
 一旦は収まったかに見えたが、建永二(1207)年二月、女房の勝手な出家(及び不義密通疑惑に)怒り心頭の後鳥羽上皇は専修念仏の停止(ちょうじ)と西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房遵西の四名を斬罪とし、法然・善信・その他六名の弟子が流罪となった。
 法然・善信は僧籍を剥奪され、善信は「藤井善信」(ふじいよしざね)という俗名に改名させられた。流刑先は越後国国府(現:新潟県上越市)となり、四国に流された師とは今生の別れとなった。

 無理矢理還俗させられたとはいえ、地位や名誉に執着しない善信は法然ともどもこの流刑を地方布教の好機と捉えた。
善信」が元々使っていた名前ということもあり、「愚禿釋親鸞」(ぐとくしゃくしんらん)を名乗った。ちなみに「親鸞」の「」は「天菩薩」から、「」は「曇大師」から取っている。
 そして親鸞非僧非俗(ひそうひぞく。僧侶でもなく、俗人でもない)の生活を開始する。
(※親鸞の改名には諸説あります。)

 承元五(1211)年三月三日、息子・明信が誕生。同年、一一月一七日、順徳天皇の宣旨を報じて、岡崎中納言範光が赦免を伝えて来た。同じ頃、既に流刑は赦免されていたが、入洛を禁じられていた法然にも入洛許可が下りた。
 親鸞・恵信尼夫妻は流刑前に自分達の結婚を喜んで認めてくれた法然に再会し、子供達を見て貰いたいと願ったが、冬の越後の豪雪を前に足踏みしている間に法然は入滅してしまった(建暦二(1212)年一月二五日)。
 師との再会が叶わないことと、子供が幼かったことから親鸞は京都に帰らず越後に留まった。

 三年後の建保二(1214)年、家族や性信等の門弟と共に越後を出発し、信濃善光寺から上野佐貫庄を経て、常陸に向かった。そこで「小島の草庵」を結び、建保四(1216)年「大山の草庵」(茨城県城里町)に移った。
 その後、笠間郡稲田の領主・稲田頼重に招かれ、吹雪谷に「稲田の草庵」を結び、この地を拠点に精力的な布教活動を行った。その活動はその後二〇年に及んだ。
 主著となった『顕浄土真実教行信証文類』(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい。以後、『教行信証』と省略)は同地にて四年の歳月をかけ、元仁元(1224)年に草稿本を撰述したと伝えられる。

 大陸ではモンゴル帝国が女真族の金帝国を滅ぼした天福二(1234)年頃、還暦を過ぎた親鸞は約三〇年振りに帰京した(帰京の理由は諸説あり)。
 帰京後は、著作活動に励むようになる。主に『教行信証』の編集・校正・改訂・補足を続けていたとされており、寛元五(1247)年、弟子・尊蓮に『教行信証』の書写を許した。

 宝治二(1248)年〜正嘉二(1258)年にかけて膨大な数の書を撰述。その間、建長三(1251)年には常陸で起きた門徒同士による「有念無念の諍」を書状でもって制止せしめた。
 また日蓮が日蓮宗を立ち上げた建長五(1253)年頃、息子・善鸞、その息子(つまり孫)・如信を布教の為に東国(関東)へ派遣。しかし善鸞は異義異端を説いたとして、建長八(1254)年五月二九日付の手紙で、善鸞に義絶の旨を伝えた(ちなみに如信は陸奥国大網(現:福島県石川郡)にて「大網門徒」と呼ばれる大集団を築いた)。

 弘長二(1262)年一一月二八日、押小路南、万里小路東にて弟・尋有が院主をしていた善法院にて、尋有や覚信尼(末娘)等に看取られて親鸞入滅。享年九〇歳。流罪の時より生涯、非僧非俗の立場を貫いた。

 いつもながらこれのどこが「略歴」だ?と思われるかも知れないが、親鸞上人が当戦国房に本作にて初めて登場したことと、九〇年もの長寿ゆえに長くなってしまったことで御勘弁頂ければ幸いである(苦笑)。


弾圧 宗教人は誰しも、自らの教えを正しいと信じて布教に努めている。ゆえに自らが信じる教義と部分的にでも異なる新勢力が面白くないのは世の常で、親鸞もまた数々の弾圧を受けた。ま、昨今の新興宗教を見ていると、自分達に対する反論が権威のある所から出たとき程「宗教弾圧だ!!」と金切り声を上げることが多く、「弾圧」もその当不当をしっかり見極める必要があるのだが。

 親鸞への弾圧を考えると、僧侶としてまずは法然と供に受けた「承元の法難」があるが、これは前頁で詳しく述べているのでここでは触れない。ただ一点だけ述べておきたいのは法然と親鸞で配流距離と赦免に相違があることである。
 法然が流された土佐は海を隔てているものの京からさほど遠い訳ではないし、九条家の好意で実際には讃岐に留まっている。そして一〇ヶ月で赦免となっている(入洛が許されることで完全放免になるにはまだ時間はかかったが)。
 だが、親鸞の場合は東国・越後である。日蓮が佐渡に流されたことに比べれば、現在の県庁所在地である新潟市よりも関西寄りである上越だったのは然程酷刑ではなかったかも知れないが、当時は東国であればかなり辺鄙な地方に送られたと云えた(鎌倉幕府の成立で東国を辺境と見る傾向は弱まりつつあったかもしれないが)。
 そして親鸞は配流から四年も経ってようやく赦免されたのである。まあ法然との年齢差は四〇もあり、早期の赦免も高齢を考慮したのかも知れない(昭和において、極東軍事裁判で終身禁固刑となった戦犯達の仮釈放申請も、「高齢」を理由に訴えた例がある)。

 親鸞に対する次なる弾圧は鎌倉幕府によるものであった。
 当時、建保七(1219)年の源実朝暗殺によって開府者である源氏の血統は途絶えており、政権は執権である北条氏の手に握られていた。そして北条氏もそうだが、武士の多くは禅宗に好意的だった(禅の物事に動じない無念無想の境地が戦場に立つ武士達に支持された、と云われている)。そして鎌倉幕府は天福二(1234)年に専修念仏を禁止・弾圧したその頃に親鸞は関東を離れ、京に帰っている。
 前述したように約三〇年振りの、しかも老齢になっての帰京の理由は諸説囁かれており、これほどの決断がたった一つの理由で為されたと思えないし、親鸞が弾圧に屈する人物も思えないが、老齢の身を厭って弾圧を避け、自分と法然を罰した後鳥羽上皇が−承久の変に敗れて隠岐島に流されていて−いない京を活動拠点に選んだとしても不思議はない。

 親鸞に対する「弾圧」とはチョット異なるが、親鸞が命まで狙われた例として弁円(べんえん)による暗殺未遂事件がある。
 弁円は山伏で、常陸で修験道の布教を行っていたが、当時常陸にいた親鸞を妬み、これを殺害せんとした。
 だが、稲田の草庵に押し掛けた弁円は、堂々と相対した親鸞に対面した途端に悔悛し、親鸞を殺害せんとして押しかけたことを詫び、その場にて山伏を捨て、弟子となった。この弁円が弟子入り後に親鸞直弟二十四輩の一人・明法(みょうほう)となったのである。

 しかし、布教活動で後れを取ったからと云って殺害を図るなんてのも極端な話だが、会った途端にそれまでの教義を捨てる程「改心」するというのも解せない話である。有り体に云えば「現実離れしている。」と云いたい訳だ。
 浄土真宗門徒の方々には申し訳ないが、薩摩守はこの話を「全くの嘘」や「捏造」とまでは云わないものの、元となった話があって多少の誇張が入っている、と見ているのである。薩摩守自身そこまでのカリスマを持った人間に出会ったことがないゆえに。
 勿論話半分だとしても相当な人間力であるとは思っています。門徒の方々怒らないでね(←微妙に弱気)。
 ちなみに親鸞には山道で山賊に出会った時に身ぐるみくれてやった後で、「他に差し上げるものがある。それは死後極楽に行く方法です。」と云って、「儂等山賊は死後地獄に行くに決まっているだろ。」とせせら笑うのを「南無阿弥陀仏」と唱えさせることで、改心させた伝説を薩摩守は聞いたことがある。
 二人の山賊はそれまでの悪行を恥じ、弟子入りまで申し出たが、親鸞は「念仏を唱える度に皆が僧になったら、日本中坊さんだらけになってしまいます。」と云いながら返された法衣を纏うと「南無阿弥陀仏」を唱えつつ旅路に復したらしい。

 最後にチョットした冗談として、親鸞に対する「弾圧」を挙げるなら、「名前の漢字が難しい」という現代の受験生からのクレームであろう(笑)。ちなみに中学時代の道場主は「糸+言+糸+鳥」と覚えたが、道場主が挑んだ歴史のテストにて「親鸞」の名を筆記することは一度もなかった(苦笑)。


実態 御釈迦様、イエス・キリスト、孔子、ソクラテスは自身が著述を行っていない事で知られているが、親鸞自身も著述自体は盛んに行ったが、自らのことは記さず、教団を大きくすることに関心はなかった。

 というのも法然を師と仰ぐことが出来たのを生涯に喜びとし、その後の人生において「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、更に高めて行く事に力を注ぐ事とし、自らが開宗する意志すら無かったからである。
 何せ、万人の極楽往生は阿弥陀如来の本願(四十八願)による「決定事項」で、凡人が何をしたからと云って変わる訳ではないのだ。自身が特別な存在である必要はなく、非僧非俗の立場から人間として振る舞い、妻帯はおろか、肉食までした。
 「善人もて往生を遂ぐ 況や悪人をや」(善人でさえ往生出来るのだ。悪人が出来ない筈がない)という有名な言はよく聞けば、「普通、逆じゃないか?」とツッコミたくなるが、阿弥陀如来の本願は正に迷える衆生のためにあることを云い表すからこそ、この順番となるのだろう。それだけ強固な決定事項であることに従って極論すれば「南無阿弥陀仏」と念仏することすら不要と云えた。
 物凄く簡素で人間臭いのだが、だからこそ親鸞の教えは真に大衆の為の仏教として根を降ろした

 前述したように、ただ教えを広めることだけを目的としたので、親鸞自身は厳密には浄土真宗を開宗していない。弟子達が『教行信証』の冒頭にて、釈尊の出世本懐の経である『大無量寿経』が「真実の教」であるとしてあるところから、阿弥陀如来の本願によって与えられる名号「南無阿弥陀佛」を浄土門の実の教えとし、宗派名を「浄土真宗」としたのである。
 これまた前述済みだが、如来の本願によって万人が臨終を待たずに浄土へ往生することが決定しているのは「如来の本願力」という『他力』によるものであり、凡人の力=『自力』によるものではないとし、『絶対他力』とまで云われた(親鸞自身は自著にて一度も『絶対他力』という語は使っていない)。
 「他力本願」という言葉がこの浄土真宗に端を発しているのは云うまでもない。

 そんな親鸞だから名前や名誉や組織にこだわらなかった。布教活動は独自の寺院を持たず、各地につつましい念仏道場を設けて教化する形を取った。著述は多いが、自らのことは記さなかった。
 それゆえ、親鸞の生涯における詳細には諸説あり(例:恵信尼との結婚時期や改名時期等)、一時は実在さえ疑われた。
 浄土真宗の立教開宗自体、定められたのは親鸞の没後で、弟子達によって『教行信証』が完成した寛元五(1247)年とされた。
 そんな有り様だから、戦国時代の一向一揆のイメージの悪さも手伝って、江戸時代には「念仏」と云えば親鸞よりも「踊念仏」の時宗・一遍の方が遥かに有名だった。
 そして明治に入ると村田勤が『史的批評・親鸞真伝』において、親鸞存命当時の朝廷や公家の記録に名が見られないことや、親鸞が自らについて残した記録が無いことから、親鸞を架空の人物とする説を提唱し出した。
 これには田中義成(東京帝国大学教授)と八代国治(國學院大学教授)も親鸞抹殺論」にてこれに同調した。

 大正一〇(1921)年になって西本願寺の宝物庫から、越後に住む恵信尼から覚信尼(当時京都で親鸞の身の回りの世話をしていた)に宛てた書状が発見され、実在が証明された。
 史学上の実在証明よりも半世紀近く前の明治九(1876)年一一月二八日、明治天皇は「見真大師」(けんしんだいし)の諡号を追贈。西本願寺・東本願寺・専修寺の御影堂の親鸞木像の前にある額の「見真」はこの諡号に基づく。

 詰まる所、親鸞はただただ阿弥陀仏の本願を信じ、念仏を唱えることを説くことで、九〇年の長い人生において教義を直向きに実践し、浄土真宗の教えと在り様を行動と著書で説き続けたと云える。ただ、その為に教団という組織を拡大したり、権力者の力を借りたり、凝った宣伝をしたりすることは考えなかったのだろう。
 真言宗に興教大師・覚鑁(かくばん)という中興の祖がいたように、浄土真宗にも蓮如(れんにょ)という中興の祖がいた。両師は云わば、宣伝の天才でもあった。「正しい教え」といえども「正しい」だけで世に広まるとは限らず、伝え方を考えなければならない時は確かにあるだろう。
 ただ、宣伝は手段であって目的ではない。宣伝力があるにこしたことはないが、それに捉われて本質を忘れては本末転倒である。そして親鸞上人はそこに捉われなかった。その直向きさこそが法然に愛され、弁円を改心させた基だったのではなかろうか。


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令和三(2021)年五月二五日 最終更新