第陸頁 日蓮……辻説法で他宗派に喧嘩売りまくり!

名前日蓮(にちれん)
生没年貞応元(1222)年二月一六日〜弘安五(1282)年一一月一四日
宗派天台宗→日蓮宗
弾圧者鎌倉幕府・北条時頼・平頼綱
諡号日蓮大菩薩・立正大師
略歴 云わずと知れた鎌倉新仏教の宗派の一つ、日蓮宗(法華宗)の宗祖である。
 貞応元(1222)年二月一六日安房国長狭郡東条郷片海(現:千葉県鴨川市)の小湊にて父・三国大夫、母・梅菊との間に誕生。幼名は善日麿
 日蓮が生まれた日、安房国近海に大量の鯛が海面に現れてその誕生を祝した、との伝説があり、地元の人々はこの伝説を尊んで、鯛を食べないらしい。鯛好きの薩摩守には耐えられんな(苦笑)。

 一二歳となった天福元(1233)年、清澄寺(せいちょうじ)の道善房に入門。五年後の暦仁元(1238)年に正式に出家し「是生房蓮長」(ぜせいぼうれんちょう)の名を与えられた。
 寛元三(1245)年、比叡山・定光院に移り、俊範法印に学び、寛元四(1246)年に三井寺、宝治二(1248)年に薬師寺・仁和寺・高野山五坊寂静院、建長二(1250)年、天王寺、東寺へ遊学した。
 建長五(1253)年、清澄寺に帰山し、四月二八日朝、日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱え、立教開宗した。同日正午には持仏堂で初説法を行い、名を日蓮と改めた。時に日蓮三二歳。

 建長六(1254)年、清澄寺を出て、武家政権の首都である鎌倉にでて、辻説法を開始した。

 その内容は「四箇格言」 (しかかくげん)といい、「真言亡国(真言宗は国を滅ぼす)、禅魔(禅は仏道を妨げる天魔である)、念仏無間(念仏は無間地獄に落ちる)、律国賊(律宗は国賊なり)として四つの宗派を非難するもので、日蓮は辻々に立ってはそこを通るに人々を老若男女問わず片っ端から訴えかけていった。
 そして四つの宗派でもなく、それ以外の宗派でもなく、ただ法華経のみを信ぜよ、とした。

 訴えた相手は民衆だけではない。時の権力もまた重要な説法相手だった。
 それが文応元(1260)年七月一六日の『立正安国論』呈上である。
 時の鎌倉幕府執権は第六代目の北条長時だったが、実権が得宗(宗家当主)にして前執権である北条時頼に在ったのは誰の目にも明らかで、日蓮は時頼に『立正安国論』を提出した。

 その内容は、相次ぐ災害の原因は人々が正法である法華経を信じずに浄土宗などの邪法を信じているから、として対立宗派を非難し、これらの宗派を放置すれば国内では内乱が起こり外国からは侵略を受けると唱えた。
 そしてそれを防ぐ為には、正法である法華経を中心とする(立正)ことで、国家国民は安泰となる(安国)と主張した。

 その内容は忽ち内外に広まり、四〇日後にはこれに激昂した浄土宗の宗徒による日蓮襲撃事件を招いた(松葉ヶ谷草庵焼き討ち)。
 日蓮は難を逃れたが、熱烈な禅宗信者の時頼も激昂して、「政治批判」として翌年には日蓮を伊豆国に流したが、この事は「教えを広める者は、難に遭う」という『法華経』の言葉に合う為、「法華経の行者」としての自覚を深める事になった。

 弘長三(1263)年、流刑が御赦免となり、故郷に帰った日蓮は文永元(1264)年、安房国小松原(現:千葉県鴨川市)で地頭・東条景信(念仏信者)に襲われ、左腕と額を負傷、門下の工藤吉隆と鏡忍房日暁が殺された(小松原法難)。

 文永五(1268)年にはモンゴル帝国から表向き通交を、内容的に遠回しに臣従を要求する国書が届けられた。そんな折、幕府内では時頼の遺児である執権北条時宗が異母兄時輔と争い、朝廷では後深草上皇と亀山天皇が対立の様相を見せ始めた。
 このことから『立正安国論』がこの事態の到来を予知した予言書としての重みを持ち、これに自信を深めた日蓮は執権北条時宗、平頼綱、建長寺蘭渓道隆、極楽寺良観等に書状を送り、他宗派との公場対決を迫った。

 文永八(1271)年、七月に極楽寺良観の祈雨対決の敗北を指摘。 九月に良観・念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴えた。
 平頼綱は幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で日蓮を捕らえ、腰越龍ノ口刑場(現:神奈川県藤沢市)にて処刑されかけたが、免れた(龍ノ口法難)。
 一〇月、名目通り佐渡へ流罪。流罪中の三年間に『開目抄』『観心本尊抄』等を著述。また法華曼荼羅を完成させた。

 三年後の文永一一年(1274)年春に、御赦免。幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれるが、日蓮は「よも今年はすごし候はじ」と答え、同時に他宗を排し、法華経を立てることをまたも幕府に要請した。
 その後、身延一帯の地頭である南部実長(甲斐源氏武田流)の招きに応じて身延入山。身延山を寄進され、身延山久遠寺を開山した。

 予言から五ヶ月を経た文永一一(1274)年一〇月五日、モンゴル帝国改め、元帝国の軍が対馬を襲撃し、文永の役が始まった。周知の通り、新兵器・新戦法に幕府軍は苦戦を強いられたが、暴風雨の助けもあってこれを撃退した。
 だが、自然の助けを得ての撃退ゆえに誰しもが再度の襲来を懸念した。
 弘安元(1278)年に『立正安国論』の改訂を行い、更に二回提出し、合わせて生涯に三回の「国家諫暁」 (弾圧や迫害を恐れず権力者に対して率直に意見すること)を行った。

 弘安四(1281)年五月二一日、南宋を滅ぼした元軍が再襲来(弘安の役)。幕府は沿岸に築いた防塁と夜襲と暴風でもって、敵に上陸を許さず、これを撃退した。
 その翌弘安五(1282)年九月八日、日蓮は病のため、南部実長の勧めで彼の領国である常陸国へ湯治に向かう為に身延山を下山した。
 一〇日後の九月一八日、武蔵国池上宗仲邸へ到着。池上氏の館がある谷の背後となる山上に建立した一宇を開堂供養し、長栄山本門寺と命名。
 だが病状は悪化し、死期を悟った日蓮は一〇月八日、弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定める(彼等は「六老僧」と呼ばれる)。
 一〇月一三日、池上邸にて日蓮逝去。享年六一歳。

 死後、後光厳天皇より「日蓮大菩薩」を諡号される。更に時代を経て大正時代、元寇を予言して国防を促した功を讃えて、大正天皇より「立正大師」の大師号を諡号された。
 「立正」は勿論『立正安国論』にちなむもので、現在でも立正大学や立正佼成会にその名を残している。


弾圧 何せ他宗派に対して排撃的で、国家権力に対しても遠慮しないものだから日蓮に多くの敵が生まれたのは当然の成り行きだった。そんな日蓮には「四大法難」と呼ばれる法難に遭遇している。だが法難よりも、法難後の対処に不当弾圧の匂いを薩摩守は感じる。

 「四大法難」はそれが起きた地名から名づけられている。第一は「松葉ヶ谷法難」と呼ばれる。
 松葉ヶ谷こそは日蓮が建長五(1253)年〜文永八(1271)年までの約一八年間布教活動の拠点とし、『立正安国論』を著した場所でもある。
 その『立正安国論』を文応元(1260)年七月一六日に北条時頼へ提出し、地震、風水害、疫病、飢餓の原因は念仏・禅等の「邪教」に在りとし、法華経のみを「正法」として信仰すべし、と促した。
 この内容は忽ち内外に広まり、八月二七日夜に浄土衆の信者達数千人が大挙して日蓮の草庵を焼き討ちするに及んだ。論争ならともかく、問答無用の集団焼き討ちとあってはさしもの日蓮も逃亡せざるを得ず、下総国中山に避難。
 その後、幕府からも政治批判を咎められ、日蓮は鎌倉に戻った後、弘長元(1261)年五月一二日に伊豆へ流罪となった。当時の時代風潮から云って、政治批判者を「お上に逆らう不届き者」として処罰したのは分からないでもないが、いきなり焼き討ちを掛けた浄土宗側が何の咎めを受けていないのも不公平な話である。

 流刑直後に起きたのが「四大法難」の二つ目となる「伊豆法難」である。
 伊豆に流罪となった日蓮が到着前に伊東沖の「俎岩」という岩礁に置き去りにされたのである。よく漫画などで島流しを表現するのに海の中に畳一畳分ぐらいの岩場が突き出た所に流刑囚が座している絵が描かれるが(笑)、それと同じ状況に置かれた訳である。
 結局、弥三郎なる漁師に助けられた。流刑が正式な刑罰なら執行人には無事に日蓮を伊豆の所定の場所まで送り届ける義務がある。恐らくは幕府内の日蓮に対して厳罰を与えんと考える一派が流刑中の遭難に託けて日蓮を野垂れ死にさせようとしたのであろう。刑法の執行に携わる者が絶対にやってはならない事である。

 「四大法難」の三番目は小松原で起きた「小松原法難」である。
 弘長三(1263)年に伊豆流刑が赦免された日蓮は翌文永元(1264)年、故郷の母に会う為に安房国に帰郷し、再会を果たした。
 その後、小松原の鏡忍寺にて日蓮は弟子と供に襲撃された。襲撃したのは安房国長狭郡東条郷の地頭・東条景信で、彼は念仏信者で、「念仏無間」と主張していた日蓮を深く恨んでいた(土地を巡る訴訟も絡んでいた)。

 日蓮が天津の領主で信者でもあった工藤吉隆の元へ招かれた帰途を待ち伏せて襲撃し、結果、弟子・鏡忍房日暁と工藤が殺され、日蓮自身も額に刀傷を受け、左手を骨折した。本人は死なずに済んだとはいえ、重傷を負い、遂には犠牲者まで出てしまった。
 東条景信も斬りつけた際に落馬して負傷。そのまま逃亡した。東条のその後は不詳で、襲撃の二七年後に病死したらしい。

 「四大法難」の最後は最も有名な「龍ノ口法難」である。龍ノ口は処刑場で、文永の役後に元の使者として来日した杜世忠(とせいちゅう)はここで斬られている。
 数々の法難を受けて尚も『立正安国論』を呈上する日蓮に業を煮やした鎌倉幕府は文永八(1272)年九月一二日に再度日蓮を捕縛した。逮捕名目は佐渡への流罪だったのだが、北条得宗家の御内人(みうちびと)・平頼綱は日蓮を斬ることを命令した。
 逮捕の翌日である九月一三日丑の刻、斬首が執行されようとしたが斬首は失敗した。
 伝説によると日蓮が「南無妙法蓮華経」の題目を唱えるや、首切り役人の刀に落雷が起き、斬ることが出来なかったとのことである。日蓮宗を信じる方々にとってこれほど日蓮の神秘性を現したエピソードはないだろう。
 普通に考えるなら、本来流刑とする所を斬首が行われようとした不法行為に「待った」が掛ったと見る所だが、真相はどうだろう?
 結局、日蓮は名目通り、佐渡への流罪となった。

 四大法難を通じて注目すべきが、日蓮宗や『立正安国論』に対する是非はともかく、これらの法難をしかけた側は法律的に極めて不当な行為を働いているということである。
 松葉ヶ谷法難れっきとした放火殺人未遂で、伊豆法難龍ノ口法難正式な刑を無視して殺そうとした不法行為で、小松原法難に至っては完全な殺人事件である(日蓮は負傷したし、二名が殺害されている)。
 にもかかわらず、不法行為を働いた側(念仏宗門徒、東条景信、平頼綱)は誰一人として罰せられていないのである。

 日蓮が単純に「政治批判」だけを理由に罰を受け、評決通りの刑が執行されていたり、法に寄らずして日蓮を襲った側も然るべき刑罰を受けていたりすれば、薩摩守がこれらの法難を「不当弾圧」と見ることはなかっただろう。
 勿論「不当弾圧」は非難されるべきで、実際に薩摩守は今非難しているが、如何に日蓮及び日蓮宗が時の権力や他宗派から危険視されていたかが分かる。

 尚、日蓮宗では正法であればある程迫害=法難を受ける、としている。当然、上記の四大法難を受けたことを含め、日蓮宗に対する攻撃はすべて同宗派が「正法であることの証左」とされているのは云うまでも無い。ましてその法難が不当なものであれば尚更である。
 今でこそ仏教がいきなり武力・暴力に訴えたり、逆に国家権力側が武力・暴力で抑えつけたりする例は極少だが、相手を「間違えている」として非難したい時程公正・公平に徹しないと、相手に「不当な目に遭わされる可哀想な存在」とのイメージを与え、「こんな酷い事までするのは不当な弾圧者にとって都合の悪い正しい存在だから」と主張する材料を与えることになる事を日蓮に対する弾圧例からは良く分かる。

 まあ、毒ガスを撒いた例の団体に対する弾圧は全く不当じゃなく、甘いぐらいだと思っているが。


実態 注意しなければならないのは、日蓮はかなりきつい論調で鎌倉幕府や他宗派を避難しまくったが、暴力に訴えることはしていない(言葉の暴力は凄まじいが)。
 権力者に対する批判や直訴が罪になった時代ゆえに法的に、政治的に罪人とされたが、現在なら殺傷事件や刑事事件にはまずならない。というか、暴力を仕掛けた側の「負け」である。

 一応、私情を挟ませて頂くが、薩摩守は真言宗の信者なので「真言亡国」を唱える日蓮宗に好意的になることはない。
 日蓮宗も枝分かれして、すべてをいっしょくたには出来ないが、とある信者から真言宗の信者であることを理由に「ゴミ野郎」呼ばわりされたこともあった。勿論、本作は宗派の是非や優劣を語るのが目的ではないからにその点をとやかく云うつもりはないが、文章を綴る私に私情が絡むことを明らかにしておくことで、本作を読まれる方々に薩摩守の論調から私情分を差っ引いて、公平に近い見方をすることを要請したい。

 そしてその上で、そんな薩摩守の中に「日蓮宗は好戦的である。」とのイメージがこびりついていることを踏まえた上で一つの疑問を呈したい。
 それは日蓮が取った行為が「好戦的」と映ったことが多くの敵を作るとともに、敵と戦うことを生業とする人々の拠り所になったのではないか?ということである
 加藤清正が日蓮宗の熱心な信者であったことは有名だが、大日本帝国軍人に日蓮宗の信者が多かった。清正は「南無妙法蓮華経」の旗をもって朝鮮半島で暴れ回り、満州国建国の記念写真には壁に大きく「南無妙法蓮華経」と書いた紙が貼られている。これを見たアジアの仏教徒は日蓮宗をどう見ているかが気になる。

 安国の為に法華経を信仰するべし、と説いた日蓮だが、果たして海外に攻め入る際に題目を持ち出す事まで望んでいただろうか?望んでいた気もするし、そうでない気もする。
 いずれにしても日蓮は本気で政治・国防・宗教を変えるなら罪人になることも厭わず、喜んで法難に遭っただろうけれど、自身は武力を用いていない事実は見据えるべきだろう。


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令和三(2021)年五月二五日 最終更新