第漆頁 一休……権威権力への抵抗はアニメよりも凄かった

名前一休宗純(いっきゅう・そうじゅん)
生没年明徳五(1394)年一月一日〜文明一三(1481)年一一月二一日
宗派臨済宗大徳寺派
弾圧者五山の腐敗僧
諡号無し
略歴 応永元(1394)年元旦に京都の民家で生まれた。父は北朝最後の天皇・後小松天皇、母は南朝方の貴族・花山院家の娘(実名不詳)である。幼名は千菊丸

 一休が生まれる二年前、室町幕府三代将軍足利義満の力によって南北朝による両統迭立状態が終わり、南朝の後亀山天皇が譲位したことで、父・後小松天皇は唯一の天皇となっていた。この影響で南朝方の貴族は没落。母の実家・花山院家も例外ではなかった。
 それどころか、後小松天皇の命を狙っているとの讒言すらなされ、それがために宮中を追われ、民家にて千菊丸は生まれた。

 六歳になると、山城の安国寺(京都市中京区)の小僧となった。アニメや頓知話はこの時代を舞台とするが、当時の名は周建(しゅうけん)。
 つまりさよちゃん(CV・桂玲子)は「い・きゅう・さーん!」ではなく、「しゅう・けん・さーん」と呼ぶのが正しく、足利義満(CV・キートン山田)は「これ一休!」ではなく、「これ周建!」と高飛車に命じるのが正しい。そして間違えて「はっ(8)・きゅう(9)・さーん(3)!」と叫ぶと怖〜いお兄さんが登場することになるので注意が必要だ(←何のこっちゃ)。

 師事した住職は象外集鑑(ぞうがいしゅうかん)で、足利尊氏との関連や庭園設計でも有名な夢窓疎石(むそうそせき)の孫弟子に当たる高僧で、安国寺自体、アニメに出ていたような貧乏寺ではなかった。
 仏道修行に励むになった周建は、橋の中央を渡ったり、壺を割ったお詫びに自害する為に毒を飲むと称して水飴を舐め尽したり、縄を持って虎の屏風の前で構えたり……………………というのは勿論、アニメや講談の世界で、師・象外集鑑を日々観察し、これに追い付き、追い越さんとした。

 修行の成果か、持って生まれた素質か、早くも詩才に優れ、十代前半にして漢詩が洛中の評判となるほどだった。
 応永一七(1410)年、更なる修行を求めて安国寺を出た周建は一七歳で謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となり戒名を宗純と改める。だが応永二一(1414)年に謙翁は死去、相当ショックだったようで、宗純は自殺未遂を起こしている。
 だが結局は師亡き後の寺を出て、応永二二(1415)年、京都・大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となり、師の、
 「洞山三頓の棒」
 という公案に対し、
 「有ろじ(有漏路=迷い・煩悩の世界)より 無ろじ(無漏路=悟りの世界)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」
 と答えたことからで一休の道号を授かった。
 アニメのアイキャッチで「慌てない慌てない、一休み一休み」と云っていたのは名前に対する単なる駄洒落ではなく、深い意味と由来があったのだった(笑)!!

 応永二七(1420)年ある夜、カラスの鳴き声を聞いて悟りを開いた。時に一休二七歳。 一休
 「偉い人は世に少なく、偉ぶっている人はたくさんいる。そういう人ほど、本当は性質が悪い。特に五山の僧達は腐敗・堕落し、全員でないにせよ、大半が派閥抗争に明け暮れている。
 だが、そのろくでもない連中が知恵と金がで幕府に媚び、身分を保証されている。  悪事は公にされず、処罰もされない。だから、端目には『偉い人』だが、実態は『偽善者』なのに庶民は騙されている。
 否、騙している筈の五山の僧達自身が、実際は魔物に騙されている。ゆえに自分達のしていることが醜いことに気づかない。
 五山の僧達の真の在り様を庶民達に知らしめ、伏魔殿中の彼等の目を覚まさなければならない。」

 と考えた。

 そうなると一休には既存の価値観や名誉などどうでもよくなった。師・華叟が印可状を与えようとしたのを、一休は辞退。華叟はそれを「馬鹿者」と笑いながら送り出したというが、嘲笑ではあるまい。
 以後は詩、狂歌、書画と風狂の生活を送った一休だが、勿論僧侶としてのお務めを蔑ろにした訳ではなく、ここからが本番だった。そしてその戦闘スタイルはかなり異様だった。

 京都の街へ出た一休は髪も髭も剃らず、ぼろ布を纏い、木刀を腰に差し、髑髏を掲げ、尺八を吹いて真の禅の在り様を庶民達に説いて回った。一休の肖像画にも、かなり髪や無精髭が多いことに見覚えのある方も多いだろう。
 木刀は朱色の鞘に収められていたが、これは「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」ということで、外面は立派でも中身の無い、形骸化した当時の仏教界を風刺し、批判し、警鐘を鳴らしたものであったとされている。

 杖の頭に髑髏をしつらえ、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩く一休の奇抜な言動は中国臨済宗の唐僧・普化(ふけ)と通じるものがあり、教義の面では禅宗の「風狂の精神」の表れ、ともされ、奇抜なスタイルで既存の戒律や形式に捉われない人間臭ささで庶民の中に飛び込んだ一休は庶民達と一緒になって酒を飲み、肉を食らい、女と通じた。当然、当時の僧には禁じられていたことばかりで、いずれも生臭仏教徒・道場主の大好きな……………………ぐわあああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ〜……(←道場主の螺旋壊体搾りで全身を締め上げられている)。
 イテテテテテテ、ともあれ、女犯を行った一休には盲目の森侍者(しんじしゃ)という側女に、岐翁紹禎という実子がいたという。

 中には「お坊様がこんなことをしてもいいんですか?」と聞く庶民もいたが、その問いこそ一休の待っていたもので、一休は「偉ぶっている五山の僧達も、隠れてこういったことをしている。」と答えたのだった。
 勿論これにより庶民の五山の僧達を見る目は一変した。
 好奇の眼でジロジロ自分達を見る庶民に、疾しい事のある僧は恥ずかしくて外へ出歩けなくなってしまった。勿論平然としている僧もいた訳だが。

 一休の人気は洛中の一般民衆の間だけではなく、心ある皇族・武士・貴族の間でも次第に上昇していった。正長元(1428)年、称光天皇が男子を残さずして崩御。後継者として伏見宮家より後花園天皇が迎えられて即位したが、それには一休の推挙があったという。後小松天皇の御落胤とはいえ、一休が正式に皇族の一員に迎えられた履歴はない。それでも影響力を持ったのは血筋も少しはあっただろうけれど、一言で行って人気だろう。
 かくして一休の奇行と人間臭さによる皮肉りによって世の浄化が為されるかに見えたが、そう簡単に事は運ばなかった。

 称光天皇即位の同年八月、近江の庶民達が徳政を求めて暴動を起こした。世にいう正長の土一揆である。九月に入ると京都の庶民も暴徒と化し、酒屋や土倉を襲撃して借用書を燃やして借金をチャラにする「私徳政」を行い、略奪暴行を繰り返した。
 この暴動に管領・畠山満家は軍を出動させて暴徒を蹴散らしたものの、暴動は瞬く間に畿内各国へ拡大して追い付かず、畿内各国の守護や大寺社は、一揆側の要求を呑んで徳政令を発令した。

 暴れて借金がチャラになるとなると、現代の多重債務者の中にも暴れたがる輩は続出するのではあるまいか?庶民達は味をしめ、正長の土一揆が治まった翌年以降も暴動は播磨・丹波・伊勢等で次々起こった。

 そんな中、播磨等守護の赤松満祐は前々から不仲だった六代将軍・足利義教の粛清が及ぶのではないか、との恐怖に駆られて嘉吉元年(1441)六月二十四日、義教を私邸に呼び出して暗殺した。


 さて、本作には関係ないが、ここでチョットした話を。
 この暗殺計画において、満祐は手紙で義教を自邸での酒宴に誘い出したのだが、恐怖政治で有名な鬼将軍・足利義教を誘い出した文面が、
 「うちの庭の池を泳ぐカルガモの親子が可愛いから見に来ませんか?」
 だったのには恐れ入った。
 その文面にノコノコ応じた義教も義教だったが


 閑話休題。
 義教を暗殺して領国に引き上げた満祐は約一ヶ月後に討たれたが、室町将軍権威は完全に失墜していた。
 七代将軍には義教の子・義勝が就任したが、一年も経たない内に僅か一〇歳で赤痢にて急逝。勿論子供はなく、弟が八代目に就任したが当然お子ちゃまである。

 そして応仁元(1467)年、この八代将軍・足利義政の後継者問題で悪名高い応仁の乱が勃発。不毛な争いは一一年に及び、多くの寺社・仏閣・民家を灰にし、何よりこの後の戦国時代は様々な意味で日本を地獄にした。

 一休が奇行と人間臭さで腐敗を弾劾した五山の寺々もほとんどが炎上し、壊滅に近い大打撃をこうむった。一休が促した浄化や反省をしようにも組織として態を為していなかったのである。
 彼が価値観や行動を共にした庶民の力が幕府と五山に大打撃を与えるという皮肉に陥った。勿論一休以前に幕府や五山の自業自得が大きいのだが。
 一休自身は応仁の乱が起こる一〇年以上も前になる康正二(1456)年に京都南郊外に酬恩庵(しゅうおんあん・京都府京田辺市)に住み、難を逃れてはいたが、乱で荒れた洛中の再興に尽力し出した。

 応仁の乱がまだ終わらぬ文明六(1474)年、既に八一歳になっていた一休に後土御門天皇から大徳寺の住持に任ずるとの勅命が下った。一休はこれを受けはしたが、寺には住まず、乱で荒れた洛中の再興に尽力し続け、塔頭の真珠庵は一休開祖として創建。
 前述の酬恩庵は後に「一休寺」と呼ばれるようになった。

 文明一三(1481)年一一月二一日、酬恩庵においてマラリアにより多くの弟子達に看取られて一休宗純逝去。享年八八歳。今際の際の言葉は「死にとうない」だった。
 尚、一休の墓は酬恩庵にあるが、宮内庁管理下の御廟所であるため、一般の立ち入り・参拝は不可。


弾圧 実の所、一休はこれと云った弾圧を受けていない。
 洛中を練り歩いたコスチュームこそ不真面目に映るものだったが、前述した様にこれは一休の不真面目ではなく、五山僧の不真面目な実態を反映したものであった。勿論奇行も同様である。

 中には一休を疎ましく思う五山僧や幕府重臣もいたことだろう。足利義満・義持・義教・義政辺りの歴代将軍様の中にはアニメの義満同様に一休に無理難題を吹っ掛けたいと思う者もいたかも知れない。何せ一休応仁の乱の原因となった足利義政・日野富子夫妻も著書にて非難している。恥知らずの義政はともかく、気の強い富子はさぞ一休を疎ましく思っただろう。
 だが、彼女が一休を弾圧した形跡は見られない。恐らく、一休を弾圧すれば、それは自らの腐敗を認めるに等しいからであろう。

 権力者の弾圧を受けず、権力や地位を妬まれた訳でもなく、心有る人々に愛され、本来なら本作で定義する『怪僧』に最も相応しくない人物である。しかし、高潔に見えて腐敗していた真の意味での『怪僧』に対するアンチテーゼとして敢えて一休を採り上げたことを述べておきたい。


実態 一休の奇抜な格好も奇行もすべてはエセを暴き、真の仏教に注目させ、真の仏教に立ち返らさん為のものだった。
 少し話が逸れるが、現在一休と同じ臨済宗の僧侶がTVに出演しては、僧侶らしからぬ言動で時に人気を博し、時に顰蹙を買っている。名誉棄損になるのが怖いので実名を出さないが、誰のことを云っているかは大体御理解頂けると思う。その御仁は無礼を咎められても「これが俺の礼儀だ!」と居直り、僧侶としての禁忌はすべて破ったことを隠さず、「俺(こそ)は凄い仏教徒」と豪語するが、好意的に見れば彼は一休の再来かもしれない。
 まあ、薩摩守には好き勝手やっているだけにしか見えないのだが……。

 話を戻して、既存の仏教団体のエセぶりを非難する一休は僧侶としての名誉に執着しなかった。まあ、仏教とは本来執着から脱却するものなのだが…。
 つまり宗教人以外の側面が強く、漢詩・筆・川柳に優れ、人当たりの良かった一休には様々な弟子がいた。

 主だった人々を列記すると……
名前職業
一条兼良(いちじょうかねら)摂関家の者として、一度は摂政・左大臣を務めたが、後の古典学者としての方が遥かに高名。
宗祗(そうぎ)連歌師
村田珠光(むらたしゅこう)禅僧・茶人(侘び茶の創始者。後に足利義政の師範)
山崎宗鑑(やまざきそうかん)連歌師
金春禅竹(こんぱるぜんちく) 猿楽師。猿楽金春座を中興
六角定頼(ろっかくさだより)近江守護、管領代
宗長(そうちょう)連歌師
曽我蛇足(そがじゃそく)水墨画の達人
 等の錚々たる面子が、皆一休の弟子だったのである。

 アニメ『一休さん』や頓知話の影響が余りにも大きく、子供の内は一休の実態を誤解しそうになるが、こうして見ると文化人としての側面も強く、もし当時の室町幕府や五山が正常に機能していれば、一休は奇装奇行の無い文化人高僧として歴史に名を残したのではあるまいか?まあその場合はこれほど有名なってはいなかっただろうけれど。

 最後に参考までに一休の残した詩の中で皮肉の効いたものを紹介して締めたい。格言としても有名な「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」が一休の作だったり、プロレスラー・アントニオ猪木が引退セレモニーにて「この道を行けばどうなるものか…」と詠んでいたのが一休の作が基になっていたり、と知らない内に一休の作に触れていることがあるのもまた興味深い。
 額面通り捉えたら、とんでもない破戒僧の詩だが、ここまで読んで頂いた方々には誰に対する強烈な皮肉かは御理解頂けると思う。


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令和三(2021)年五月二五日 最終更新