第捌頁 顕如……戦国武将達も恐れた一向宗勢力の親玉

名前顕如(けんにょ)
生没年天文一二(1543)年一月七日〜文禄元(1592)年一二月二七日
宗派一向宗(浄土真宗)
弾圧者織田信長
諡号無し
略歴 天文一二(1543)年一月七日、石山本願寺第一〇世証如(しょうにょ)を父に、庭田重親の娘を母に長子として誕生。幼名は茶々(←女性の淀殿と同じなのは驚き)。長じて顕如。諱は光佐(こうさ)で、本願寺光佐(ほんがんじこうさ)とも呼ばれるのはそのため。
 院号は信樂院(しんらくいん)。本願寺を浄土真宗一派の中における大教団とすることに成功し、一向宗を称し始めた蓮如は第八世で、高祖父(ひいひい爺さん)に当たる(下記家系図参照)。


 天文二三(1554)年八月一三日に父・証如が三九歳の若さで示滅し、顕如は一二歳で法主を継いだ。
 弘治三(1557)年四月一七日、如春尼と結婚。如春尼は三条公頼の三女に生まれたが、細川春元、次いで六角定頼の猶子になっていた。姉は武田信玄正室の三条夫人。つまり顕如は信玄の義弟にあたった。
 バリバリの政略結婚だったが、夫婦仲は至って良く、教如・顕尊・准如といった子宝にも恵まれた。

 顕如は本願寺教団を率いて、八世蓮如の時代以来進めてきた各地の一向一揆の掌握、管領の細川家や京の公家衆や各地大名との縁戚関係を深めた。
 地理的にも経済的・軍事の要衝である石山を拠点としていたことを利して大名に匹敵する権力・武力を有し、教団は最盛期を迎えていた。

 しかし、永禄一一(1568)年、前年に暗殺された一三代将軍・足利義輝の弟・義昭を奉じて織田信長が上洛してくると、顕如と信長の対立が徐々に始まることとなった。
 信長にとって、武家でもないのに財力・武力に優れ、権力との結び付きも強い組織である本願寺は、延暦寺や堺衆同様に目障りな存在だった。

 元亀元(1570)年、野田・福島の戦いを皮切りに本願寺と信長は交戦状態に入った。直後に一五代将軍に就任していた足利義昭は信長と反目し、甲斐・武田信玄、越前・朝倉義景、近江・浅井久政・長政父子等に信長打倒の書状を送って反信長包囲網を構築した(義昭には「手紙魔」との揶揄もあるが、薩摩守は義昭のこの戦略眼は優れていると思っている)。
 勿論、本願寺も包囲網の一角に入ることとなり、顕如「法敵・織田信長を討て!蜂起しない門徒は破門する!」との檄まで飛ばした。
 これは一向宗をキリスト教に置き換えて、ローマ法皇から「決起しなければ破門じゃ!」と云われたら……と想像してみて欲しい。これ以上の参戦強要もなかなか無いだろう
 当然顕如も自ら石山本願寺に籠城し、雑賀衆等の友好関係にあった土豪勢力や地方の門徒組織を動員して信長に対抗した。

 しかし、元亀四(1573)年四月一二日に武田信玄が死んだことで反信長包囲網は瓦解した。同年の内に義昭は京を追われ(室町幕府滅亡)、朝倉・浅井も立て続けに滅ぼされた。
 その後も木津川口の戦いなどで抵抗を続けた本願寺も最終的には抗戦継続を諦め、朝廷の仲介を入れ、天正八(1580)年に勅命に従う形で信長と和睦した。
 顕如自身は石山を退去し紀伊国鷺森別院に移ったが、息子達は抵抗を続けんとして、これが元で本願寺は、浄土真宗は後に東西に分裂することとなった。

 顕如は天正一〇(1582)年六月二日に信長が本能寺に倒れると、その後畿内の実権を握った羽柴秀吉(豊臣秀吉)と和解し、天正一三(1585)年には秀吉が石山本願寺の寺内町をモデルに建設した摂津中島(現:天満)に転居し、天満本願寺を建立。
 そこは低地で、壁をめぐらしたり堀を掘ったりすることを禁じられたことで本願寺は豊臣政権の強い影響下に置かれることになった。

 天正一四(1586)年、秀吉の九州征伐に従軍を命じられ、下関に滞在。
 天正一七(1589)年、京都聚楽第の壁に落書を書かれる事件が勃発。犯人が本願寺寺内町に逃げ込み、更に天満に秀吉から追われていた斯波義銀(元・信長の主君)・細川昭元・尾藤知宣が隠れているという情報を得た石田三成によって、寺内町の取締と、下手人達を匿ったとされた二町が破壊された。

 犯人隠匿容疑で天満町人六三名が京都六条河原で磔とされ、顕如は二月二九日に秀吉から浪人の逃亡を見過ごしていたことを理由に叱責を受けた。
 三月八日には犯人隠匿容疑で願得寺顕悟に自害が命じられ、既に領主権力は有ったものではなかった。

 天正一九(1591)年、秀吉から京都の七条堀川に寺地を与えられ、京都に本願寺教団を再興。翌文禄元(1592)年一一月二四日入滅、顕如こと本願寺光佐享年五〇歳。

 顕如が没すると、三男・准如が後を継いで一二世法主となるが、これは長男・教如が徹底抗戦を主張して石山本願寺退去に反対することで顕如に逆らったためである。
 後に教如は徳川家康による寺地の寄進がなされ、慶長七(1602)年に東本願寺を建立。これにより准如率いる元祖・本願寺は東本願寺と呼ばれることになったが、当然双方とも「本願寺」を称している。
 大韓民国が朝鮮民主主義人民共和国を「北韓国」と呼び、朝鮮民主主義人民共和国が大韓民国を「南朝鮮」と呼んでいるのと同じだな(←そうか?by道場主)。


弾圧 石山本願寺が弾圧されたというよりは、戦国中期以降における一向宗自体が各地の戦国大名の脅威だった。つまり顕如は「法主」というよりは全国各地に散る「武装勢力の親玉」と見做されていたのである。

 本来、洋を問わず、宗教団体は世俗を離れた存在(の筈)である。世俗を離れるということは王権の支配を受けないということで、日本史の例を挙げると荘園制度における不輸・不入権を持ち、現在でも宗教法人は非課税である。
 極端な云い方をすれば国家権力に頭を下げる必要もない。アニメ『一休さん』では蜷川新右衛門が親子ほど年の離れた一休を敬称付けで呼んでいるのも御記憶の方もいらっしゃると思うが、これも一休が僧侶だからである(まあ実在した新右衛門さんは成人後の一休に弟子入りしたのだが)。あの傲慢不遜の足利義満も機嫌の良い時は「一休殿」と呼んでいたのだ。それほど宗教団体とは国家権力を拒める存在なのである。

 だが、税金を払い、忠義や礼儀を払うことで法の保護を得る訳だから、国家権力の介入を阻み、税も礼も尽くさない以上は、その保護を受けられないことを意味する。それゆえ自衛が必要となり、不殺生戒を説く筈の寺院に僧兵というものが存在することとなった。海外の例を見ればテンプル騎士団や拳法僧やムジャヒディン(イスラム聖戦士)の存在が確認出来る。

 その中にあって一向宗は僧侶以外にも、武士・農民・商工業者等に幅広く門徒を持ち、土豪的武士や自治的な惣村に集結する半農半兵の農民が「進むは極楽浄土、退くは無間地獄」と死を恐れずに掛って来た訳だから日常的に戦い慣れていた戦国大名達でさえ、とんでもない苦戦を強いられた。
 一例を挙げると………
 となると石山本願寺と織田信長の戦闘が大戦争になったのも無理はなかった。何せ「第六天魔」とも称された信長は比叡山延暦寺を丸焼にし、長島一向一揆に派大虐殺を敢行している(拙サイト、『戦国ジェノサイドと因果応報』『反故にするんじゃねぇ』も参照されたし)。

 上記の例でも挙げたように、信長は一向宗との戦いでは多くの身内(弟・信興、庶兄・信広等)を失っている。私怨は満載なのである。比叡山や長島でやったような大殺戮が敢行されてもおかしくなかった……………が、所謂石山合戦は前例程には凄惨な戦いとはならなかった。

 元亀元(1570)年九月一二日から天正八(1580)年八月二日までの一〇年以上に及んだ石山合戦の舞台となった石山本願寺は後の堅城・大坂城の元となった要塞でもあり、籠城されると簡単に攻められる相手ではなかった。
 何せ本願寺には顕如の生まれる一一年も前の天文元(1532)年八月に、当時本拠地だった山科にて、その勢力を恐れた細川春元に糸引かれた日蓮宗徒によって焼き討ちされたという過去があった(天文の錯乱)。
 大勢力を保持していた加賀は京都から遠いため、顕如の父・証如は大坂御坊を本願寺の本拠とし、石山本願寺としていたのだった。
 天険の要塞化が図られたのは当然の成り行きで、実際、細川晴元の追い打ちに対しても証如は天険と軍備でもってこれを完全撃退している。信長の力をもってしても苦戦したのは当然のことだった。

 元亀元(1570)年九月一四日、淀川堤で信長軍と戦い、劣勢となって石山に引き返した本願寺軍は早くも籠城に入っている。
 一向宗に怒り心頭になって容赦ない攻撃を加えたい信長だったが、政治的に見ると、この時信長は足利義昭考案の反信長包囲網の中にあり、本願寺は必ずしも四面楚歌の信長軍と無理に戦う必要はなかった。
 信長も感情に任せて冷静さを失う馬鹿ではない。監視の為の軍を置くと、朝廷に働きかけて本願寺軍に矛を収めるよう勅書を出させ、早くも戦闘回避に出て、第一次対戦は、一ヶ月も戦っていなかった(実質戦闘はもっと短いだろう)。

 同じ一向宗でも長島の方が遥かに脅威且つ、痛手を被っており、元亀二(1571)年五月に信長は長島を攻めるが、多数の兵を失った。
 元亀三(1572)年七月、信長は家臣に一向宗禁令を出し、一向宗に対する政治的弾圧に出たが、顕如の義兄・武田信玄が仲介し和議を結んだ。
 だがその信玄が亡くなった天正元(1573)年、信長は朝倉・浅井を滅ぼした勢いで再度長島を攻め(失敗)、一向宗との対立姿勢は崩さなかった。

 顕如もその間ぼーっとしていた訳ではなく、義兄・武田信玄を初め、毛利輝元等とも密かに同盟を結んび、反信長包囲網の強化維持を図った。
 信長は天正元(1573)年に朝倉を滅ぼして獲得した越前を越前一向一揆に奪われ、顕如が越前守護に下間頼照(しもつまよりてる)を派遣すると、和議は壊れ、四月二日に石山本願寺は再挙兵した。
 信長は長島・越前・石山に点在する本願寺勢力に対して各個撃破を図り、七月に大動員令を発して長島を陸上・海上から包囲し、兵糧攻めにした。長島は九月二九日に降伏・開城したが、その後の大虐殺は拙サイトでも何度も触れたとおりである。

 天正三(1575)年、本願寺と結託した高屋城主三好康長を降伏させ、武田勝頼を長篠の戦いで破った信長は八月一二日に越前に進発し、これを平定。九月には北ノ庄に戻り、更に岐阜へと戻って石山を牽制した。
 長島と越前が敗れ、大虐殺が敢行されたことを受けて顕如は信長に自らの行為を詫び、さらに条目と誓紙を納めることで再度和議を結んだ。
 だが信長の態度は硬化しており、「今後の対応を見て赦免するかを決める」と出た。

 天正四(1576)年春、顕如は足利義昭(この時、毛利輝元の庇護下にあった)と組んで三度挙兵。信長は四月一四日、明智光秀に命じて石山本願寺を三方から包囲し、長島同様の兵糧攻めに出た。
 だが本願寺は海上から弾薬・兵糧を補給。木津を攻められた際も一万を超える軍勢でこれを返り討ちにした。天王寺砦では織田方の原田直政を討ち、名将・明智光秀も砦に立て篭もって、信長に救援を要請する有様だった。
 信長は三〇〇〇程の兵を連れて来ると天王寺を包囲している一万五〇〇〇余の本願寺軍を攻め、包囲を突破して砦に入って光秀と合流。砦の内外から挟撃された本願寺軍は浮き足立って本願寺内に退却した。
 その後、信長は更に包囲を強化し、顕如は経済的に毛利輝元に援助を要請。輝元は七月一五日に村上水軍など毛利水軍の船七〇〇〜八〇〇艘でもって兵糧・弾薬を大坂湾から運び込み、これを妨害せんとした織田方の九鬼水軍は毛利水軍の数の利と火器の前に大敗した。

 翌天正五(1577)年二月二日、本願寺に協力していた紀伊の雑賀衆と根来寺の一派が信長に内応。信長は一三日に京都を出て、和泉・紀伊に攻め入り、降伏に追い込んだ。
 一方水上戦では九鬼嘉隆に有名な鉄甲船を造らせ、天正六(1578)年六月二六日、熊野浦から大坂沖に向けて出航。
 本願寺はこれを迎え討つべく、淡輪(現:大阪府岬町)で攻めかかったが、鉄砲も火矢も通じず、逆に大砲攻撃の前に多くの船を沈められ、制海権を奪われた。
 九鬼水軍は七月一七日堺に着岸し、翌日から石山本願寺への海路を封鎖した。一一月六日に、毛利水軍が駆け付けてくれたが、やはり鉄甲船団に敵わず、本願寺包囲網は崩せなかった。

 だが織田方でも不利が生じていた。天正六年一〇月、摂津有岡城主にして石山本願寺討伐の要であった荒木村重が信長から離反。三木で別所氏と戦っていた羽柴秀吉も背後を取られる形となり、中国征伐軍が危機に瀕した。
 信長は朝廷を動かして和解を勧めんとしたが、意気上がる毛利が応じる筈もなく、朝廷からの勅使に対しても顕如は「毛利氏の賛同が無いと応じられない」として拒否した。
 やがて再度毛利水軍を破り、村重を滅ぼした信長は、海上封鎖で弾薬や食料の欠乏に本願寺が苦しむのを見計らい、天正七(1579)年一二月、顕如が密かに朝廷に先年の和解話のやり直しの希望を伝えるや、信長からも再度朝廷に講和の仲介を働きかけ、互いが和睦を望んだ結果、翌天正八(1580)年三月一日、「勅命講和」が成立し、長い戦いはようやく終結した。単純計算で信長は人生の四分の一近くを石山合戦に費やしたのである。

 八月二日、顕如が織田軍に石山本願寺を引き渡して退去すると織田方はこれに火を放ち、火石山本願寺は三日三晩燃え続け、完全に焼き払われた(退去をよしとしなかった教如が火を付けたという説もある)。

 この後も、徹底抗戦派の教如と信長軍がもめるが、顕如VS織田軍には関係ないので割愛。さすがに両者が長きに渡ってここまで戦い、決して一方的なものではなかったことを考えると、顕如が受けた弾圧は弾圧でも、武装勢力間の小競り合い交じりの散発戦といった方がイメージとして正しいだろう。

 織田信長という男は、意外にも宗教に対して、教義そのものや個人の信仰には殆ど口を挟んでいない。だが、対顕如戦において、状況や力が許せば長島・越前同様の目に遭わせようとの意志は充分にあっただろう。
 石山本願寺跡に羽柴秀吉改め豊臣秀吉が大坂城を建てたのは有名だが、信長がこの地を利用することはついに無かった。


実態 本来、第八世法主の蓮如は「王法為本」(俗世では支配者の統治に従うこと)を説き、門徒の政治行動を否定していたが、周囲の状況がそれを許さず、また彼の本意を認めなかった。
 顕如の時代には権力・武力・財力的に石山本願寺は完全な武装勢力にして、戦国大名にとっては各地の一向一揆を裏で糸引く黒幕と見做されていた。
 つまり本作の趣旨に従って、国家権力に嫌われ、その攻撃を受けた高僧を『怪僧』とするなら、本願寺代々の法主を採り上げなければいけない。
 だが顕如だけを取り上げたのは人数が多過ぎて面倒臭いのと顕如が信長と戦う際には「蜂起しない門徒は破門じゃ!」ときつい事を云いつつも、朝廷を仲介とした和睦・開城には応じて合理的に動いているからである。
 何が云いたいのかというと、口ではキツイ事を云いながらも顕如自身は勝てない戦をしてまで門徒達を苦しめる気はなかったのではないか?ということである。
 そういう意味では顕如は歴代法主の中では一味違う気すらする(実際、長男の教如は父の方針に従わなかった)し、権力者から『怪僧』と見られるのが不当な気がしたので、取り上げた訳である。

 実際顕如は信長が足利義昭を報じて上洛した直後、将軍家の名目で「京都御所再建費用」の名目で矢銭五〇〇〇貫を要求された際にはこれを支払っていた。
 また「戦わない奴は破門」と云いつつも、薩摩守が知る限り、実際に信長との戦闘を避けて破門になった門徒の存在は皆無である

 顕如も信長もやる時は好戦的なまでに戦う男だが、利の無い無駄な犠牲は避ける合理主義者であることも間違いない。もし両者がもう少し感情に流されるか、もう少し馬鹿だったら、石山は長島以上の地獄になっていたのではなかろうか?くわばら、くわばら……。


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令和三(2021)年五月二五日 最終更新