第拾頁 正中の変……御都合朱子学者の執念は傍迷惑だ

事件番号kamakura-0010
事件名正中の変(正中元(1324)年九月一九日)
事件の概要後醍醐天皇による親政復権を巡る政争
原告日野資朝・日野俊基
被告後醍醐天皇
関連人物大仏維貞(北条維貞)、北条範貞
罪状内乱策謀 部下への責任なすりつけ。
後世への影響悪党の跳梁激化・形だけの「無礼講」を作った。
事件の内容 元亨四(1324)年六月二五日、大覚寺統長老にして、院政を行っていた後宇多法皇が崩御し、今上帝・後醍醐天皇は親政を手にした。
 後醍醐天皇の即位は文保二(1318)年のことで、即位前年に交わされた文保の和談を守るなら、嘉暦三(1328)年には持明院統の皇太子に皇位を譲らねばならず、その後の天皇も亡き兄・後二条天皇の皇子・邦良親王が継ぐのが正統だった。

 実際、今際の際にも後宇多法皇は後二条天皇から邦良親王への血統を重んじるように云い残したが、後醍醐天皇は「天皇である自らが親政することが絶対原則である!」と信じ、院政も、両統迭立も許そうとはせず、その想いは昂じて、「皇位問題に干渉する鎌倉幕府許すまじ!」というものになった。

 鎌倉幕府を倒すとなると、最初の敵となるのは六波羅探題である。
 実際、六波羅探題は承久の変後に、「建前は朝廷守護、本音は朝廷監視」の為に常置された幕府の出先機関で、後醍醐天皇も、六波羅探題南方である大仏維貞(おさらぎこれさだ。第一一代執権・北条宗宣の子)が公用で鎌倉に出向いて京都を離れる時が好機、と考えていた。

 打倒鎌倉幕府の為の打ち合わせを、側近の権中納言・日野資朝(ひのすけとも)、蔵人・日野俊基(ひのとしもと)と行い、資朝は東国へ、、俊基は畿内を巡って各地の武士や有力者に討幕を呼び掛けていた(ちなみに資朝俊基は六代前の先祖が兄弟)。
 資朝俊基に誘われ、無礼講の宴会を装って行われた鎌倉幕府打倒計画には、美濃の土岐十郎頼兼(ときじゅうろうよりかね)、土岐左近蔵人頼員(ときさこんくらんどよりかず)、多治見四郎次郎国長(たじみしろうじろうくになが)、中納言花山院師賢(かざんいんもろかた)、左近衛中将四条隆資(しじょうたかすけ)、右近衛少将・洞院実世(とういんさねよ)、中宮亮平成輔(たいらのなりすけ)、聖護院の僧・玄基(げんき)、僧・游雅(ゆうが)、三河の足助重範(あすけしげのり)、他、延暦寺の僧兵達といった面々が参加していたと云われている。

 しかし、無礼講を装った参加者の一人である土岐頼員が、謀議を浮気と勘違いした妻に問い詰められ、誤解を解く為に倒幕の為の密議であることを漏らしてしまった。
 夫が浮気していた訳ではないことに安堵するも、頼員の妻は六波羅の奉行人・斎藤利行(さいとうとしゆき)の娘で、妻は夫の計画遂行が父の死を意味することを悟り、父に夫の計画を密告した。
 娘からの密告を受けた利行(←何か気になる名前だ)は思い悩んだ挙句、自らと婿の命を守る為に頼員を説得し、倒幕計画を六波羅探題北方・北条範貞(ほうじょうのりさだ。常盤流北条氏)に通報し、密議は発覚した。

 密告を受けた北条範貞は九月一九日に、土岐・多治見に気付かれぬように兵を集める為、河内国葛葉(現・大阪府枚方市)の農民暴動を討つ為、と称して兵を集め、六波羅方の山本時綱が一〇〇〇騎を率いて土岐頼兼を三条堀河に、同じく小串範行(おぐしのりゆき)率いる二〇〇〇騎が多治見国長を錦小路高倉に攻めた。

 早朝の不意討ちを受けた頼兼は抵抗もならず腹を十文字に掻き切って果て、多治見は不意討ちにも完全武装で応戦したが多勢に無勢で同じく切腹し、一族郎党二二名が運命を共にした。
 強弓を引絞って最後の最後まで奮戦した小笠原通弘という武士は櫓の上から刀を口に突っ込んで飛び降りるという壮絶な自害を遂げた。

 組織的抵抗力を殺がれた後醍醐天皇側に対して、捕えられた者達から追及の手が天皇の元にも及ばんとしたが、逮捕されて一〇月に鎌倉に護送された日野資朝日野俊基は詮議が後醍醐天皇に及ばせない為に罪を被った。
 資朝は自分が首謀者で、後醍醐天皇は勿論、俊基も無関係であると云い張って、両名の関与を頑として否定し、首謀者として佐渡に流刑となり、天皇側近・万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)の釈明もあり、後醍醐天皇俊基は嫌疑不充分で不問とされた。

 こうして正中の変は解決したが、後醍醐天皇の辞書に「懲りる」という字は無く、鎌倉幕府及び執権への憎悪を一層燃え上がらせていたのは云うまでもない。



事件の背景 後醍醐天皇は皇位が臣下である幕府の意向によって決まると云うことに大いに不満を持っていた。
 三一歳での即位は決して若いとは云えず、その即位にしても亡兄・後二条天皇の皇子が幼少だった為の中継ぎ的な物で、自らの皇位も一〇年で政敵である持明院統に譲らねばならないことになっていて、在位中も前半は父・後宇多上皇が院政を行っていた。
 そんな境遇もあって、後醍醐天皇は院政を嫌い、政敵・持明院統を憎み、我が子を皇太子に出来ない境遇を呪い、陪臣の身で皇位継承問題に干渉する鎌倉幕府執権を恨んだ(←周囲を憎んでばかりの可哀想な人生だな……)。

 そんな後醍醐天皇にとって、自らの権力奪取活動の基本理念であり、活力となったのが、朱子学だった。

 朱子学について詳しく論述するとそれだけで一つのサイトになりかねないので、簡単に誤解を恐れず云えば、儒学の一派にして東アジア諸国で君臣関係の確立、大義名分、尊皇の基として官学に擁された学問である(特に李氏朝鮮、琉球王国、江戸幕府では顕著)。
 後醍醐天皇は朱子学の熱心な信徒で、日野資朝俊基とは朱子学を共に学んだ学友でもあった。

 しかし何てことはない。
 後醍醐天皇にとっての朱子学は、欧州のマキャベリスト達にとっての『君主論』だっただけのことである。
 『君主論』の著者・マキャベリはローマ法皇までも加わって混迷を極めてイタリアの内乱を終わらせる為の「手段」として、「君主たるもの、獅子の如き勇猛さと狐の如き狡猾さを併せ持つべし。」との論を展開したが、目的の為に手段を正当化しようとする自己中な連中はこれを自己に都合よく曲解し、「マキャベリスト」という言葉は本来マキャベリが目指した姿から見れば極めて不本意な「自己中の代名詞」になっている。
 しかしながら、古今東西、古人の著書や学問や主張から自らの立場や主張や大義名分に相応しいものを、相応しい部分をピックアップして正統性の証にした例は枚挙に暇がない。
 朱子学とは、今上天皇の立場にあった後醍醐天皇にとって、極めて都合のいい学問だった

 今一度ご注目願いたいが、「今上天皇の立場にあった後醍醐天皇にとって」である。

 実際、後醍醐天皇の立場は前述した様に、「大覚寺統の立場のみ」に立脚しても、「亡兄・後二条天皇と甥・邦良親王の中継ぎ」で、本来の朱子学から見れば、両統迭立の元凶である「後嵯峨上皇の遺志」に沿うなら大覚寺統の嫡流を重んじて後醍醐天皇の皇位は約束通りの一時的な物になるし、「長子相続」に立脚するなら後深草院に始まる持明院統が重んじられるべきとなる。
 つまりは、後醍醐天皇が即位した時点」を出発点として朱子学の理論を発動させたから院政も、両統迭立も、幕府の皇位継承問題干渉も「糞食らえ」になるのである
 この点をみても、後醍醐天皇という人物が如何に朱子学を自分に都合よく曲解していたかが分かる。

 余談だが、天皇が「○○天皇」と呼ばれるのは、所謂「諡号」で、崩御後に生前の事績や理想や境遇、元号等に因んで死後に追尊されて送られる尊号で、いわば本人が崩御した後に残された人達が決めるものなのだが、後醍醐天皇は例外的に生前から自らの諡号を「後醍醐」と決めていた。
 それは彼が平安時代の醍醐天皇の時代を、天皇親政が執られた理想の時代として、醍醐天皇にあやからんとして、「後醍醐」たらんとした為である(←道場主「醍醐天皇って、結構藤原時平達に左右されたり、菅原道真の怨霊に脅えたりで、理想の親政を行えていたか?」)。

 後醍醐天皇にとって、鎌倉幕府は安定した政治力を備えているとは云い難い状態にあったのが幸いした(?)。
 元寇後の恩賞問題による御家人達の幕府不信から畿内などでの活動が活発であった悪党、奥州での安東氏と蝦夷の対立等、政情不安に乗じて、倒幕を画策するに至った。
 また一四歳で執権に就任した北条高時は、闘犬狂いで、政治を代行した得宗家御内人にして内管領の長崎高資(ながさきたかすけ)は、日本史上田沼意次と並ぶ収賄政治家の代表選手とも云える人物で、幕府のトップがそんな人物で占められていることも、付け入る隙としては充分なものがあった。

 公武共に、その筆頭が我儘者では周囲の者は堪ったものではあるまい。



原告側人物
日野資朝(ひのすけとも)
略歴 正応三(1290)年生まれ。藤原北家の流れを汲み、室町時代には将軍夫人を輩出した氏族として有名な日野家にて日野俊光の子に生まれた。

 最初は持明院統寄りで、花園天皇の院司を務めていたが、共に朱子学を学んだ縁で元亨元(1321)年に親政を始めた後醍醐天皇によって側近に取り立てられたが、父・俊光からは持明院統に対する裏切りとして非難され、勘当された。

 正中の変では後醍醐天皇の懐刀として同志を募る為に東国を巡り、土岐頼兼を説得する際には山伏の装束で現れ、「源行家に扮している。」と告げた(※源行家は源頼朝の叔父で、以仁王の令旨を持って頼朝の挙兵を促した。その際に山伏姿で頼朝の元を訪れており、山伏装束は主上の為の挙兵促進を示していた)。

 密告により倒幕謀議が発覚し、日野資朝は六波羅探題の兵に一族の日野俊基共々捕らえられ、鎌倉に護送された後も自ら首謀者である、と云い張り、徹底的に後醍醐天皇俊基を庇い、佐渡島へ流罪となった。

 佐渡島にて流人としての生活を送ること七年、懲りない後醍醐天皇元弘の変を起こすや、元弘二(1332)年六月二日に本間入道によって斬罪に処された。享年四三歳。
 全然関係ないが、資朝が刑死したちょうど二五〇年後に本能寺の変で織田信長が命を落とした。

被った被害 はっきり云って人身御供にされた、の一言である。
 倒幕密議は後醍醐天皇が首謀者であるのは動機からも、その後の史実からも明らかなのだが、側近の使命として日野資朝はすべての罪を被り、鎌倉幕府も状況証拠から首謀者がはっきりしていても立場上、天皇を処罰することに躊躇いを覚えたことから資朝を佐渡に流した。
 だが、当の後醍醐天皇は懲りることを知らず、資朝は何の行動も起こしていない元弘の変のために斬首されたのも極めて理不尽である。

事件後 佐渡にて流人として過ごしていたが、元弘の変に際して斬首に処された。
 尚、日野資朝を斬った本間三郎は後に資朝の子・日野邦光に討たれた。



日野俊基(ひのとしもと)
略歴 生年不詳。日野種範の子。日野資朝とは同族で、六代前の先祖が兄弟同士である。
 文保二(1318)年に後醍醐天皇が即位すると蔵人となり、朱子学を共に学んだ。
 倒幕の為の仲間を募って機内を巡るが、密告により正中の変が発覚すると六波羅探題に捕らえられ、鎌倉に連行されて尋問を受けたが、資朝がすべての罪を被ったために後醍醐天皇共々嫌疑不充分で処罰を免れた。

 しかしながら後醍醐天皇は倒幕を諦めず、七年後、元弘元(1331)年の元弘の変で再び後醍醐天皇に與して再度六波羅探題に捕らえられた。
 さすがに二度の助命はならず、翌元弘二(1332)年六月二日、鎌倉葛原岡にて処刑された。同日、資朝も佐渡で斬られた。

被った被害 同族の日野資朝共々倒幕失敗の人身御供にされた。
 後醍醐天皇に詮議が及ばないように鎌倉幕府の尋問に応え、後醍醐天皇の関与を否定する為に天皇側近・万里小路宣房が鎌倉に下向して釈明したが、日野兄弟の為に何かした形跡はなく、資朝の有罪を決定付けたと云える。

事件後 結局この正中の変の延長の形で、元弘の変が起き、日野俊基は落命を余儀なくされた。
 後に倒幕の協力者、足利尊氏、新田義貞、楠木正成達に恩を感じた気配が欠片もない後醍醐天皇が自らの身代わりになって死んだと云ってもいい俊基の死を悼む様子は見られないが、明治になって南朝が正統とされると、俊基は倒幕の功労者として評価されるようになった。
 明治二〇(1887)年、日野俊基を主祭神とする葛原岡神社が神奈川県鎌倉市梶原に創建され、俊基には従三位が追贈された。



被告側人物
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)
略歴 正応元(1288)年一一月二日後宇多天皇の第二皇子として誕生。諱は尊治(たかはる)で、乾元元(1302)年に親王宣下。

 徳治三(1308)年に花園天皇(持明院統)の即位に伴ってその皇太子となり、文保元(1317)年の文保の和談に基づいて文保二(1318)年二月二六日に花園天皇より譲位され、同年三月二九日に第九六代天皇に即位。時に三一歳。
 当初は父・後宇多法皇が院政を行い、父の遺言で亡兄・後二条天皇の遺児・邦良親王が成人するまでの中継ぎであることを宣言され、後醍醐天皇の子孫が皇位を襲うことは否定された。
 勿論後醍醐天皇は院政も、両統迭立も、自らの子孫に皇位継承権が否定されていることも、何より陪臣に過ぎない鎌倉幕府執権が皇位継承問題に口出しすることも大いに不満だった。

 元亨元(1321)年、後宇多法皇が院政を停止したので後醍醐天皇は念願の親政を執ることとなった。
 ようやく政権を掌中にした後醍醐天皇は側近達(主なメンバーは近衛経忠、万里小路宣房、北畠親房、吉田定房、日野資朝日野俊基、千種忠顕、坊門清忠、四条隆資、洞院実世)と倒幕を企画した。
 しかし正中元(1324)年、無礼講を装った倒幕密議は土岐頼員が妻に漏らし、妻からその父である六波羅の奉行・斎藤利行に、そして六波羅探題北方・北条範貞へ密告されて呆気なく発覚し、九月一九日に日野資朝日野俊基等が捕らえられた。
 倒幕に協力を約束していた美濃・三河の御家人達も多くが討ち死にした(正中の変)。

 資朝が一人で罪を被って佐渡に流刑となったため、幕府による処罰を逃れた後醍醐天皇だったが、懲りるどころか幕府が天皇を力で抑える現況に対する怒りを益々募らせた。
 醍醐寺の文観、法勝寺の円観、興福寺、延暦寺といった高僧・寺社勢力と結び付き、関東調伏の祈祷を行うも、元々後醍醐天皇が邦良親王の中継ぎと見られていたこともあり、貴族に支持者は少なかった。
 加えて、天上天下唯我独尊的な性格は政敵・持明院統と和する筈もなく、邦良親王が夭折した後は持明院統の量仁親王が幕府の指名で皇太子に立てられ、退位の危機さえ迫って来た。


 事の善悪や性格や思想はともかく、武力的にも謀略的にも無謀な倒幕に固執する後醍醐天皇を見かねた側近・吉田定房は、元弘元(1331)年、後醍醐天皇を暴走させない為に敢えて倒幕計画を鎌倉幕府に密告し、後醍醐天皇は京都を脱出して笠置山に籠城するも、幕府軍によって落城し、自身も捕らえられた(元弘の変)。

 幕府は京都を脱出した後醍醐天皇を廃位し、皇太子の量仁親王(光厳天皇)を即位させた。
 捕えられた後醍醐天皇は翌元弘二(1332)年に承久の乱に敗れた後鳥羽上皇と同じ隠岐に流罪とされた。
 しかし後醍醐天皇の辞書に「懲りる」という字は無く、皇子・護良親王(もりよししんのう)に畿内の悪党を味方につけさせ、自身も元弘三(1333)年に名和長年(なわながとし)の手引きで隠岐島を脱出して伯耆国船上山(現:鳥取県東伯郡琴浦町内)で挙兵。追討の為に幕命でやってきた足利高氏は逆に後醍醐天皇に味方して六波羅探題を落とした。
 関東では新田義貞が鎌倉を陥落させ、北条高時を初めとした歴代執権・得宗家の主要人物は幕府と運命を共にし、鎌倉幕府は滅亡した。


 京都に返り咲いた後醍醐天皇は、自身の退位と光厳天皇の即位・在位を否定した。
 光厳天皇の元に行われた人事はすべて無効である、と宣言し、幕府・摂関も廃した(所謂、建武の新政建武の中興とも云う)。
 過去に政敵と見做した相手への後醍醐天皇の権力奪取は執拗を極め、持明院統も、大覚寺統の嫡流も皇位継承から外し、本来傍流であった筈の自分の血統を嫡流とし、我が子・恒良親王を立太子し、父・後宇多法皇の遺言を反故にした(←お前、本当に朱子学徒か?)。

 しかしながら、建武の新政はワンマン政権を目指す後醍醐天皇の天皇専制が性急な改革、恩賞の不公平、法令・政策の朝令暮改繰り返しにより倒幕に協力した貴族、寺社、武士の手柄を軽んじるものだった。
 そればかりか、彼等の既得権を侵害し、そのために頻発した訴訟へろくに対応出来ていない状態で大内裏建設・紙幣発行計画が経済の混乱を招き、挙句には征夷大将軍の地位を望んだ護良親王と対立し、足利尊氏(高氏が後醍醐天皇の御名・尊治から一字を賜って改名)の讒言を真に受けて親王を鎌倉に追放する始末だった。

 当然こんな失政に対して離反する者が相次ぎ、建武二(1335)年、信濃に落ち延びていた北条高時の遺児・北条時行が挙兵し、中先代の乱を起こすと、勅許も得ずに東国に出向いた足利尊氏(尊氏が征夷大将軍にを求めたので、後醍醐天皇はそれにこだわる内は出兵を許さないとしていた)が乱の鎮圧に付き従った将士に鎌倉で独自に恩賞を与えるなどの独断専行に走り、新政から離反するした。

 後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じ、義貞は敗れたが、楠木正成・北畠顕家等の助力を得て足利軍を破った。
 九州へ落ちた尊氏は翌年体制を立て直し、退位させられていた光厳上皇の院宣を得て、再び京都へ迫った。
 楠木正成の提言した尊氏との和睦を後醍醐天皇は退け、義貞と正成に尊氏追討を命じたが、新田・楠木軍は湊川の戦いで敗れ、正成は討死。義貞も都へ逃れた。


 足利軍が入京すると後醍醐天皇は比叡山に逃れた。
 足利方の和睦要請に応じて三種の神器を足利方へ渡し、尊氏は光厳上皇の院政を後ろ盾に持明院統の光明天皇を新皇に擁立し、征夷大将軍に任ぜられて室町幕府を開府した。
 しかし後醍醐天皇も強かで、幽閉されていた花山院を脱出し、吉野(現:奈良県吉野郡吉野町)にて「尊氏の手元にある神器は贋物である」と公表して、自らが「今尚唯一の今上帝である」と宣言した。
 ここに南北朝時代が始まり、後醍醐天皇は、皇子である尊良親王、恒良親王を新田義貞に奉じさせて北陸へ、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を陸奥国へと、各地に皇子を送って北朝方に対抗させようとした。
 しかし、北朝を倒して京都へ還都する悲願は叶わないまま吉野にて病に倒れた後醍醐天皇は、延元四(1339)年八月一五日、義良親王に譲位(後村上天皇)。翌日、吉野金輪王寺で朝敵討滅・京都奪回を遺言して崩御。後醍醐天皇享年五二歳。


 後村上天皇は、荘厳浄土寺において後醍醐天皇の大法要を行い、足利尊氏もまた立場や主義主張から戦わざるを得なかったものの敬意を持っていた後醍醐天皇への弔いの為、京都に天竜寺を造営した。
 そして後醍醐天皇への諡号は、生前からの本人の希望により、天皇親政の理想とした延喜の治と称され醍醐天皇の治世にあやかり、「後醍醐」の号が諡された。

事件との関わり 父親の遺言に背いて皇位に執着したのはまだ許せるとしても、そのために自らの罪を被って刑に服した日野資朝日野俊基等に対する謝意が微塵もなく、都合のいい時だけ朱子学を持ち出し、自らの野望に殉じた人々への罪悪感を丸で持たない姿勢は帝王といえども眉を顰めざるを得ない。

事件後 上記参照。少なくとも、何度も論述したように正中の変に全く懲りてはいなかった。




関連人物
大仏維貞(おさらぎこれさだ)
略歴 弘安八(1285)年、後に第一一代執権となった大仏宗宣の子に生まれた(生年には異説あり)。
 大仏流北条氏は代々六波羅探題南方を担当しており、大仏維貞も嘉元二(1304)年に就任した引付衆を経て、正和四(1315)年に六波羅探題南方に就任した。

 六波羅探題では当時勃興し始めていた悪党の取り締まりに尽力していたが、元亨四(1324)年に幕命で探題職辞任・鎌倉への帰還を命じられ、九月に鎌倉に向かった。
 だが、後醍醐天皇一派は維貞が京都を離れた隙に六波羅探題を落とすことを画策しており、正中の変が勃発した…否、発覚した。

 変は六波羅探題北方の北条範貞が鎮圧し、維貞は翌月、評定衆に就任した。
 二年後の正中三(1326)年、嘉暦の騒動から内管領・長崎高資等による融和策の一環として、四月二四日に維貞は連署に就任し、第一六代執権・北条守時を補佐した。
 しかしながら間もなく維貞は病に伏して出家。嘉暦二(1327)年九月七日に逝去。大仏維貞享年四三歳。

事件との関わり 実のところ、直接は関わっていないし、変に際して大仏維貞の活躍もなければ、賞罰もない。
 しかし、倒幕の第一歩として六波羅探題制圧は大仏維貞が京にいない間隙をつくことが主眼とされたことから、後醍醐天皇方から一目置かれていたのは間違いない。

事件後 上記の様に、評定衆・連署に就任したが、これと云った事績は無し。



北条範貞(ほうじょうのりさだ)
略歴 生年不詳。代々六波羅探題北方を務めた常盤流北城氏にて、北条時範の子に生まれた。
 祖父・時茂、父・時範も六波羅探題北方を担当。二人とも在任中に過労死していた。北条範貞は正和四(1305)年の引付衆就任から評定衆を経て、正中の変の三年前の元亨元(1321)年に祖父・父と同じく六波羅探題北方に就任した。

 正中の変では同じ六波羅探題でも南方の担当で、後醍醐天皇一派から難敵と見られていた大仏維貞に代わって配下の御家人を指揮して天皇方に就いた御家人を討ち果たし、日野資朝日野俊基を捕え、元徳二(1330)年に鎌倉に帰還した。

 翌元弘元(1331)年の元弘の変でも事件調査に加わり、鎌倉幕府滅亡時には幕府並びに歴代執権達を初めとする北条一族と運命を共にした。
 天慶二(1333)年五月二二日鎌倉東勝寺にて自決。

事件との関わり 事実上の総指揮官であった。
 後醍醐天皇方では六波羅探題でも南方の大仏維貞を難敵と見て、維貞が鎌倉に向かって京を留守にしたのを「隙あり」として、六波羅襲撃を図るも、謀議参加者の土岐頼員が妻に、妻がその父である六波羅奉行人・斉藤利行に、利行が上司である北条範貞に伝えたために、謀議は六波羅探題=範貞の知るところとなった。

 尚、日野資朝に倒幕への誘いを請われた土岐頼兼・多治見国長も範貞の配下で、両名を奇襲する為に、兵の召集を気取られない様に範貞は苦慮した。

事件後 上記と被るが、変後、越後守、正五位下、駿河守、と出世を重ね、鎌倉へ帰還後には三番引付頭人に就任し、元弘の変の調査にも活躍した。
 だが、最期は鎌倉幕府滅亡と運命を共にした。



判決 被告、後醍醐天皇の職権を濫用した和談反故と、変を画策しつつ発覚後に一切の責任を日野資朝になすりつけた態度は誠に不届き至極で、隠岐への流罪を申し渡……まぁ、後にそうなるからいいか………。

 いずれにしても律令制度に立脚し、天皇親政を重んじるなら後醍醐天皇が倒幕に執念を燃やした気持ちは理解出来るし、スケープゴートにされた資朝が罪を一身に背負った姿にも忠義の美学が見て取れるが、甥の邦良親王が幼かった為に皇位が自分に回って来た途端に朱子学を声高に叫び、自らの血統による皇位世襲に執着し、院政、両統迭立、幕府、陪臣を憎み続け、すべてに悪びれない姿には、朱子学を都合よく利用した自己中ぶりがちらついて離れない。

 両統迭立がまとまらない中、政争に振り回された貴族・武士は多数いたが、直接的犠牲者を出すに至った後醍醐天皇が、どうにも薩摩守は人間的に好きになれないものである。




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令和三(2021)年五月二一日 最終更新