第玖頁 文保の和談 ……史上最も尾を引いた兄弟喧嘩

事件番号kamakura-0009
事件名文保の和談(文保元(1317)年)
事件の概要皇位継承問題
原告後深草院を初めとする大覚寺統皇族
被告後嵯峨上皇
関連人物亀山上皇を初めとする持明院統皇族 歴代執権
罪状職権濫用
後世への影響一見解決見えた両統迭立の事実上の泥沼化。後世の南北朝対立
事件の内容 一応、形の上では事件ではなく、皇位継承問題の解決だが、実際には泥沼化を決定付けたのは前後を見ても周知の通り。
 はっきり云って、本作で一番時間が長く、ややこしく、責任者・関係者が特定し難く、勝者にも敗者にも、しこりの大きい出来事であった。

 文保の和談(ぶんぽうのわだん)とは、文保元(1317)年に、第八八代天皇・後嵯峨天皇の皇子である第八九代天皇・後深草天皇の子孫(持明院統)と、同じく彼の皇子である第九〇代天皇・亀山天皇の子孫(大覚寺統)の血統が交互に皇位に即位する、所謂両統迭立を定めたとされる合意のことである。

 本来、日本における最も偉大な地位にあるのは天皇で、征夷大将軍はその部下に過ぎない。
 ましてや陪臣たる執権如きはとても天皇と対等になれる地位ではなかった。
 しかしながらいつの時代でも力が物を云い、承久の乱以後、皇位継承に関しては鎌倉幕府=執権の承認が必要な慣例となっていて、仁治三(1242)年の四条天皇崩御に際して、後嵯峨天皇が即位したのにも、鎌倉幕府の力が大きく物を云っていた。
 このため後嵯峨天皇は以後の皇位継承に際しても幕府の内諾を得てから決定した。

 それから時を経ること七五年、皇位継承は両統だけではなく、各々の兄弟間でも複雑さを呈しつつあった。


 徳治三(1308)年、第九四代天皇・後二条天皇(大覚寺統)は在位七年で崩御し、第九五代天皇・花園天皇(持明院統)が即位し、父である伏見上皇(第九二代天皇)の院政が復活した。
 そして慣例では後二条天皇の皇子・邦良親王が立太子される筈が、後二条天皇の弟・尊治親王(後醍醐天皇)が皇太子となった。これは邦良親王が当時幼い上に病弱であったためとも云われているが、邦良親王の成長とともに皇統の再分裂を危惧した後宇多上皇は、邦良親王尊治親王の次の皇太子とする意思を明確にした。

 しかしながら慣例に従うなら、後醍醐天皇の次の皇位は持明院統のもので、文保元(1317)年伏見上皇が崩御すると次の皇太子を巡り両統の争いが激しくなり、仲裁を期待された幕府は、以後の皇位継承に一定の基準を定めることを目的に、下記の三ヶ条をもって両統の和解を成立させた。

 その条件とは、
 ・花園天皇が皇太子尊治親王に譲位すること。
 ・今後、在位年数を一〇年として両統交替で即位すること。
 ・尊治親王の次の皇太子は邦良親王とし、その次を後伏見天皇量仁親王光厳天皇)とすること。
 だった。

 つまりはそれまでも後深草院亀山上皇の対立以来幕府が両統の要請を受けて行っていた譲位に関する圧力を明確化し、その都度両統が争うことなくした訳である。

 しかしながら、即位する側にしてみれば、好意的に見れば「確実に帝位に就ける」こととなるが、悪意的に見れば「帝位は決して長続きせず、相手方に譲っている間にどんな手を打たれるか分らない」というものがあった。
 土地や食料に関する争いでさえ「仲良く半分こ」では通らないのに、ましてやこれが帝位では、素人目にも完全解決に程遠い、問題の先送りであることは明白で、近年の研究によると、文保の和談の実態は合意に達しない単なる話し合いの場であったとする見解が有力となっている。



事件の背景 まずは様々な天皇・皇太子の名前が出てきて混乱しかねないので、下記の家系図を参照にしながら、皇室内の対人関係を見て頂きたい。

 事は第八八代天皇・後嵯峨天皇に始まる。
 仁治三(1242)年即位した後嵯峨天皇は、寛元四(1246)年にまだ四歳だった第二皇子にして皇太子・久仁親王後深草天皇に譲位して院政を開始した。
 その一二年後である正嘉二(1258)年、後嵯峨上皇後深草天皇に対して、彼とは同母である一〇歳の弟にして第七皇子である恒仁親王亀山天皇を皇太子とさせ、翌正元元(1259)年に譲位を強要した。
 その時点で後深草天皇は弱冠一七歳で、子供もおらず、譲位を拒否せんとしたが、後嵯峨上皇はこれを許さず譲位させ、九年後の文永五(1268)年には後深草院の嫡男煕仁親王(当時四歳)を差し置いて、亀山天皇の嫡男・世仁親王(当時二歳)を皇太子とした。

 丸で崇徳天皇に対する鳥羽法皇の嫌がらせを彷彿とさせる譲位強要後深草院が堪忍出来る筈もなかった。
 後嵯峨上皇自身はその後の皇位に関する意思を明確にしないまま文永九(1272)年に五三歳で(無責任)に崩じたが、その際、遺言状でも財産の分与を定めるのみで、皇位後継者たる「治天の君」に関する指名は鎌倉幕府の意向に従うように、と残していた。
 当然、後深草院亀山天皇の中は治天を巡って険悪となり、鎌倉幕府が仲裁することっとなった。
 幕府は、後嵯峨上皇の正室で、後深草院亀山天皇兄弟の生母でもある大宮院に故人の真意を照会し、大宮院は亀山天皇の名を挙げた。
 幕府の権力を後ろ盾にした亀山天皇はしばらく在位した後、文永の役が勃発した文永一一(1274)年に第二皇子で皇太子である世仁親王(当時八歳)=後宇多天皇に譲位した。

 腹の虫の治まらない後深草院は、後宇多天皇即位に抗議する為、太上天皇(上皇)の位を辞退して出家しようとした(この経緯があって退位後も「後深草院」と記しています)。
 後嵯峨上皇は、皇位の代わりに全国一〇〇ヶ所以上の荘園から構成される大荘園群長講堂領を後深草院に相続できるよう取り計らっていたが、後深草院の不満は収まらず、亀山上皇もこれに対抗して二〇〇ヶ所に及ぶ大荘園群八条院領を手に入れ、両者は、両統はこの荘園群を財政基盤として対立した。


 後深草院の不満を受けた幕府は、建治元(1275)年、当時一一歳の煕仁親王(後の伏見天皇)を皇太子に指名し、将来、後深草院が治天の君となれることを保証した。
 この介入は、北条得宗家と関東申次・西園寺実兼が亀山上皇父子よりも後深草院父子と親しかったため、後深草院にとって有利な解決を図った、とされている。

 一方の亀山上皇は、意欲的に政務に取り組みつつ、幕政で重きを為していた安達泰盛との文化交流を利して泰盛との結びつきを強め、自らの勢力拡大を画策していたが、北条時宗病死直後の弘安八(1285)年に起きた霜月騒動で泰盛とその郎党が平頼綱により殺害・追放されたことで亀山院政も陰りが見え出した。

 後深草院亀山上皇の兄弟が暗闘を繰り広げる中、弘安一〇(1287)年に幕府は治天・天皇の交替を要求し、煕仁親王(当時二三歳)が即位して伏見天皇となると、後深草院による院政が開始された。
 そして正応二(1289)年、これまた幕府の指名で伏見天皇の第一皇子・胤仁親王(当時二歳)が皇太子に立てられ、後深草院の第六皇子・久明親王は第八代征夷大将軍として鎌倉に迎えられた。
 これに安心した後深草院は正応三(1290)年に出家して、実権も伏見天皇に譲って隠居した。
 一方の亀山上皇は失意の内に前年である正応二(1289)年に出家していたが、正応三(1291)年には霜月騒動で所領を失った武士・浅原為頼等が内裏に乱入し伏見天皇を殺害しようとする事件が起きると関与を疑われ、起請文を幕府に提出して身の潔白を主張しなければならない有様だった。

 治天となった伏見天皇は政治に、人材登用に尽力したが、それは関東申次・西園寺実兼との対立を生み、幕府の警戒を呼ぶこととなった。
 伏見天皇は永仁六(1298)は第一皇子である皇太子・胤仁親王(当時一〇歳)=後伏見天皇に譲位したが、その次の皇太子擁立を目指して大覚寺統が巻き返しを図り、西園寺もこれに加担した。
 そして後伏見天皇の皇太子には後宇多上皇の第一皇子・邦治親王(当時一四歳)が指名され、院政を執っていた伏見上皇は正安三(1301)年に幕府の圧力を受け、邦治親王(当時一七歳)が後二条天皇として即位し、後宇多上皇が院政の実権を握った。

 これら一連の流れから、この交替をもって、鎌倉幕府第九代執権・北条貞時両統迭立を公式な方針として表明。鎌倉幕府は滅亡の時までこの方針を堅持した。
 両統迭立の方針に基づいて、次の後二条天皇の皇太子は持明院統から出すこととされ、この時点で一三歳だった後伏見上皇にまだ皇子がなかったことから、弟であり、伏見上皇の第四皇子・富仁親王(当時五歳)が立太子され(後に花園天皇となる)、この時点でも両統間での皇位の行き来はややこしかったが、両統とも更に内部で兄弟間の皇位継承まで注目され、更なる皇統分裂の種が蒔かれようとしていた。


 嘉元二(1304)年、後深草院が六二歳で崩御し、ついで翌嘉元三(1305)年には亀山上皇が崩御すると、皇位を巡る諍いは次段階に推移した。
 後宇多上皇が真言密教に傾倒して、徳治二(1307)年に出家。徳治三(1308)年に後二条天皇が急死し、皇太子富仁親王が一二歳で即位した(花園天皇)。
 伏見上皇が院政を再開し、取り決めによって大覚寺統から皇太子が選ばれることになったが、後宇多上皇は、皇太子として嫡孫邦良親王(当時九歳・後二条天皇皇子)ではなく、自らの第二皇子・尊治親王(当時二一歳)を選んだ。これが後の後醍醐天皇である。
 一方で伏見上皇も正和二(1313)年に出家し、治天の政務を後伏見上皇に譲っていた。

 両統迭立の定着により、両統とも時期を待てばいずれ政務を執ることが出来る様になると、必然、帝位・政権を待つ身は先達者に対して、帝位・政権の移譲をせっつくようになった。
 具体的には鎌倉幕府へ特使を派遣して、幕府からの圧力を強めた。特に大覚寺統からの圧力は増大した。
 結局、対応に苦しんだ幕府が文保元(1317)年に次回の皇位継承については両統の協議により決定し、特使の派遣は止めるように指示し、協議の場で後宇多上皇花園天皇が皇太子尊治親王に譲位すること、更に次の皇太子には邦良親王を立てることを求めた。
 伏見上皇花園天皇の譲位は受け入れたが、立太子に関しては後伏見上皇の第一皇子・量仁親王(当時五歳)を立てることを求めて譲らなかった。

 協議は決裂したが、同年伏見上皇が崩じると、後宇多上皇は再び花園天皇の譲位を要求し、後伏見上皇もこれを拒めず、翌文保二(1318)年には尊治親王後醍醐天皇として即位し、邦良親王が立太子された。
 交換条件として、後宇多上皇邦良親王の次の皇太子には量仁親王を立てることを後伏見上皇にあっさり約束したように、両統迭立は、当然のこととして定着し、後宇多院政が再開されたが、後宇多上皇は密教への傾倒と年齢による体調悪化から政務に倦み、元亨元(1321)年に治天の政務を後醍醐天皇に譲り、三年後に崩御した。
 そして、ようやくにして名実ともに治天の君となった後醍醐天皇だが、彼は天皇が政務を執れない院政にも、自らの即位を中継ぎ的な物としかしない両統迭立にも納得しない男で、これが一つの時代を終わりに向かわせたのは周知の事実である(本来、後醍醐天皇の次の次の皇太子は彼の甥で、彼の子は皇統から外されていることが文書にも明記されていた)。
 もっとも、その強い意志は極めて利己主義的な彼の性格によるものだったのだが。



原告側人物
持明院統皇族
略歴
後深草天皇…第八九代天皇。寛元元(1243)年六月一〇日に後嵯峨天皇の第四皇子に生まれた。
 父の院政のために、寛元四(1246)年一月二九日に四歳で即位。正元元(1259)年に病を患ったこともあって、弱冠一七歳で父・後嵯峨上皇から譲位を強要され、弟・亀山天皇に皇位を譲らされた。
 それでも亀山天皇の皇太子には我が子がなると思っていたが、後嵯峨上皇の横槍により、文永五(1268)年、亀山天皇の皇子(後の後宇多天皇)が立太子され、兄弟の対立は決定的な物となった。

 文永九(1272)年に後嵯峨法皇が崩御すると、母の遺言と幕府の干渉仲介で亀山親政が正統とされたが、その後の皇位には触れられていなかったので、後深草院は幕府の抱き込みを図った。
 文永一一(1274)年正月、亀山天皇後宇多天皇に譲位して院政を開始すると、後深草院は、翌建治元(1275)年に太上天皇の尊号辞退と出家の意思を表明。
 関東申次・西園寺実兼を派して執権・北条時宗と折衝し、自らの皇子を後宇多天皇の後継者として立太子させることに成功した(後に伏見天皇となる)。

 弘安一〇(1280)年に一〇月に、伏見天皇が即位すると院政を開始。
 正応二(1289)年一〇月に第六皇子・久明親王を鎌倉将軍として下向させ、持明院統に有利な体勢作りに努めた。

 正応三(1290)年二月、出家し、公式には院政を停止したが、政治への関与は続け、持明院統の繁栄に努め、嘉元二(1304)年七月一六日崩御、享年六二歳。


伏見天皇…第九二代天皇。文永二(1265)年四月二三日、後深草院の第二皇子に生まれた。生まれたとき、既に父は退位させられた身で、皇位継承候補から外されていたが、父の尽力で建治元(1275)年に二歳年下の従弟である後宇多天皇の皇太子として立太子された。

 弘安一〇(1287)年一〇月二一日に後宇多天皇から譲位されて即位。
 最初の二年は院政を行った父・後深草院が実権を握ったが、その後は自らの親政となった。
 正応二(1289)年に我が子を皇太子としたため、大覚寺統の反発を招き、翌正応三(1290)年に起きた浅原為頼一族による天皇暗殺未遂事件が勃発し、幕府の干渉もあって永仁六(1298)年七月二二日に実子・後伏見天皇に譲位して院政を開始した。

 正安三(1301)年には大覚寺統の巻き返しを受け、皇位は後伏見天皇から大覚寺統後二条天皇に譲ることとなったが、徳治三(1308)年には幕府への工作が成功し、第四皇子を後二条天皇の皇太子とすることに成功した(後に即位して花園天皇となった)。

 文保の和談の年である文保元(1317)年九月三日崩御。享年五三歳。大覚寺統と露骨に争った伏見天皇だったが、政策は政敵の亀山上皇を踏襲するもので、和歌・書道に優れた文化的な天皇だった。


後伏見天皇…第九三代天皇。弘安一一(1288)年三月三日、伏見天皇の第一皇子に生まれた。
 永仁六(1298)年七月二二日に父からの譲位を受け、一一歳で即位。勿論伏見上皇が院政を取り仕切った。
 三年後の正安三(1301)年一月二一日に若干一四歳で大覚寺統の巻き返しで退位を余儀なくされたが、延慶元 (1308)年に弟・花園天皇が即位すると院政を開始した。

 文保元(1317)年の文保の和談両統迭立が本格化したが、翌年後醍醐天皇が即位し、その親政は幕末まで続くも途中で、後醍醐天皇は討幕の企てを幕府に察知され、流罪になり、後伏見上皇の皇子(光厳天皇)が即位し、院政を執った。
 しかし後醍醐天皇は復位して倒幕に成功。光厳天皇は廃され、後伏見上皇も出家し、建武三(1336)年四月六日崩御。享年四九歳。


花園天皇…第九五代天皇。永仁五(1297)年七月二五日に伏見天皇の第四皇子に生まれた。
 延慶元(1308)年一一月一六日に後二条天皇の崩御を受けて、一二歳で即位したが、文保の和談に基づき、在位一〇年で文保二(1318)年二月二六日に後醍醐天皇に譲位した。

 在位期間の間、前半は父・伏見上皇が、後半は兄・後伏見上皇が院政を行い、実権は無かった。
 退位後は甥の光厳天皇の養育を行った。
 禅宗の信仰に傾倒し、幕府滅亡後の建武二(1335)年に円観について出家。宗峰妙超、関山慧玄を師とし、暦応五(1342)年一月、仁和寺花園御所を寺に改めて妙心寺を開基した。
 鎌倉幕府滅亡一五年後の正平三(1348)年一一月一一日、崩御。享年五二歳。

 歌道に優れ、京極派の重要なメンバーであり、読経・念仏を欠かさない、文人肌で信仰心に篤い人物だった。

被った被害 歴史の結果だけを見れば、最終的に皇位はこの系統に帰したが、後世の国学者や保守的な人々は南朝の祖となった大覚寺統に好意的なため、冷ややかな視線に曝されることもあり、北朝時代に皇位についた光厳天皇以下五代の天皇が正式な天皇と見られていない。

事件後 後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼしたことにより、皇位から外れたが、その血統が後醍醐天皇と対立した足利氏に利用された(御蔭で皇位に復した訳だが)。



被告側人物
後嵯峨天皇(ごさがてんのう)
略歴 承久二(1220)年二月二六日に土御門天皇の第二皇子に生まれた。幼名那仁親王
 承久三(1221)年に承久の乱で祖父・後鳥羽上皇が隠岐に、父・土御門上皇は佐渡に流され、鎌倉幕府が後鳥羽上皇の子孫を皇位から外し、後鳥羽上皇の甥にあたる後堀河天皇を立てた為、二〇歳になっても元服が行われないと云う青年期を送った。

 しかし仁治(1242)三年に後堀河天皇の息子で、その後を継いでいた四条天皇が若くして事故死し、後継が絶えたために、那仁親王に皇位継承のチャンスが巡って来た。

 当初は従兄弟の忠成君(第八五代仲恭天皇の弟)が優勢だったが、第三代執権北条泰時は忠成君の父・順徳上皇が承久の変でも強硬派と見ていたので忠成君は幕府の覚えが目出度くなかった。
 逆に、同じく流刑を受けた身ながら土御門上皇が穏健派と見られていたために那仁親王が一一日間の天皇空位期間を経て即位したが、この展開は当時の貴族間でも評判が悪かった。

 後嵯峨天皇は在位四年で皇子に皇位を譲位して院政を開始した。
 即位した後深草天皇は四歳で勿論実権はなく、しかも僅か一三年後の正元元(1259)年にまだ一七歳の後深草天皇に退位を強要し、弟に譲位させた(亀山天皇)。

 政治的には幕府の干渉を思い切り許すこととなったが、国政面で見れば、幕府が民衆に対して混乱の少ない政治を展開させるのに成功していた(将軍位が摂関家ではなく、親王が立てられるようになったのもこの時期)。

 文永五年(1268)年に出家して法皇となり、文永九年(1272)年に崩御。享年五三歳。

罪状 はっきり云って、こいつが後深草天皇の家系(大覚寺統)と亀山天皇の家系の対立の種を撒き、多くの政治家、貴族、皇族、野心家を政争に駆り立てた。
 歴史に禁物の「if」を語るなら、後嵯峨上皇後深草天皇の面子をちゃんと立てていれば、公武の蜜月が続き、南北朝、室町、戦国時代への変遷の中で流された血も軽減されたのでは、と思われてならない。

事件後 後深草院亀山天皇に財産的な遺言は残したが、肝心の皇位に関する事柄は「幕府の意に沿え。」と残したのみ。
 無責任な奴である。




関連人物
大覚寺統皇族
略歴
亀山天皇…第九〇代天皇。第肆頁参照。

後宇多天皇…第九一代天皇。文永四(1267)年一二月一日に亀山天皇の第二皇子に生まれた。
 祖父・後嵯峨上皇の意志により生後八ヶ月で立太子され、文永の役の直前である文永一一(1274)年一月二六日に即位。

 元寇が終わり、外患的な平穏が得られると自らの血統を皇位継承候補から外された後深草院が幕府を抱き込んだことでその干渉を受け、弘安一〇(1287)年一〇月二一日に退位。
 伏見天皇に皇位を譲るも、その次の皇位は後二条天皇に巡り、その在位中は院政を行った。

 徳治二(1307)年、妃の死を受けて仁和寺で出家し、大覚寺を御所として門跡となった(それゆえにこの家系は「大覚寺統」となる)。
 翌徳治三(1308)年、皇子である後二条天皇が崩御し、後伏見天皇が即位すると実権を失い、後醍醐天皇即位までの間、政務から離れ、真言密教に傾倒するようになった。
 正和二(1313)年、高野山参詣を行い、途中の悪天候・疲労もものともせず、参詣を達成。以後も真言密教に関する書(『弘法大師伝』『御手印遺告』(ごていんゆいごう)等」を著した。

 持明院統花園天皇を挟んで、もう一人の皇子の尊治親王後醍醐天皇)が文保二(1318)年に即位すると再び院政を開始。
 元亨元(1321)年に院政を停止し隠居(以後、後醍醐天皇は生涯親政に固執した)。
 正中元(1324)年六月二五日、大覚寺御所にて崩御。享年五八歳。

後二条天皇…第九四代天皇。弘安八(1285)年二月二日、後宇多天皇の第一皇子に生まれた。
 弘安九(1286)年一〇月二五日に親王宣下を受けた。諱は邦治(くにはる) 。
 この翌年には皇位は持明院統に移ったが、大覚寺統持明院統の皇位独占は亀山天皇の遺志に背く、と幕府に訴えて働き掛け、永仁六(1298)年八月一〇日に邦治親王後伏見天皇の皇太子とすることに成功した。

 正安三(1301)年一月二一日、後伏見天皇の譲位を受け、同年三月二四日に即位。しかしながら徳治三(1308)年八月に発病し、同年同月二五日に享年二四歳で崩御。
 皮肉にも若死にしたことでこの時代には珍しく在位のまま生涯を終えたことになった。
 この後、皇位は持明院統花園天皇が就き、その次は弟の後醍醐天皇に巡り、後二条天皇の皇子がその皇太子となったが、夭折したため、後二条天皇の血統は途絶えた。

後醍醐天皇…第九六代天皇。第拾頁参照。

事件との関わり 上記参照。

事件後 文保の和談の翌年に即位した後醍醐天皇両統迭立を不服とし(←和睦したのにいきなりかい!?)、更には天皇親政の邪魔者をすべて敵と見たため、時代は鎌倉、南北朝、室町、と推移した。
 後には持明院統にして、北朝天皇である後小松天皇の時代に足利義満によって、血統的には皇位を奪われたが、動乱期の皇統は大覚寺統が正統とされたのはせめてもの幸せであっただろうか?



歴代執権
略歴
北条長時…第六代執権。寛喜二(1230)年二月二七日、極楽寺流である北条重時の子に生まれ、父の死後、評定衆に就任した。
 建長八(1256)年に第五代北条時頼の死を受け、時頼嫡男・時宗が幼少のため、中継ぎとして第六代執権に就任。
 文永元年(1264)七月、病のために出家して執権を退任。同年八月二一日に享年三五歳で逝去。

北条政村…第七代執権。第参頁参照。

北条時宗…第八代執権。第参頁参照。

北条貞時…第九代執権。第陸頁参照。

北条師時…第一〇代執権。第捌頁参照。

北条(大仏)宗宣…第一一代執権。第捌頁参照。

北条煕時…第一二代執権。弘安二(1279)年生まれ。第七代執権北条政村の曾孫。
 母親が第九代執権北条貞時の娘なので、貞時に可愛がられて育ち、引付衆、長門探題を歴任後、嘉元3(1305)年に嘉元の乱で襲撃に巻き込まれそうになったが脱出に成功した。
 応長(1311)元年連署に就任、正和元(1312)年に第一一代執権北条宗宣が出家すると第一二代執権に就任(立場としては得宗家の北条高時が幼少ゆえの中継ぎ)。
 しかしながら実権は内管領の長崎高綱が握り続けたまま、正和四(1315)年七月一八日逝去。享年三七歳。

北条基時…第一三代執権。弘安九(1286)年生まれ。北条重時の家系である普恩寺流の北条時兼が父親。
 家系により六波羅探題北方を務めていたが、正和四(1315)年に第一二代執権北条煕時の引退を受けて第一三代執権に就任。
 勿論完全な中継ぎで、翌年には得宗家の北条高時に執権位を譲って引退。
 引退翌年に出家し、後には鎌倉幕府滅亡と運命を共にした。享年四八歳。

北条高時…第一四代執権。第拾壱頁参照。

事件との関わり 殆どの執権はこれと云ったことをしていない。
 第六代執権北条長時は父・後嵯峨上皇に疎んじられた後深草院の依頼を受けて仲介を行うもこれと云った事績は無し。
 文永九(1272)年の後嵯峨上皇の崩御に関連して、後深草院亀山天皇兄弟の母の証言で、亀山天皇の正統性が重んじられつつも、同時に皇位継承の後援が幕府に委ねられていることも発覚した。
 それゆえ、第八代執権北条時宗後深草院の依頼を受け、後深草院の皇子を後宇多天皇の皇太子とした。

 第九代執権北条貞時両統迭立を公式の決まりである、と公表し、第一〇代から第一三代までの歴代執権は貞時嫡男・高時が成長するまでの中継ぎだったこともあり、大きな政策転換はなく、対朝廷政策にも大きな動きはなかった。

 第一四代北条高時就任中の文保元(1317)年に文保の和談は成立した(くどいが、成立しておらず、ただ話し合いがあっただけ、とする異論もある)。

事件後 強いて挙げれば両統迭立を納得しない、政権が現役天皇の掌中にないことに納得しない後醍醐天皇の恨みをかき立て、倒幕によって滅亡に追い遣られた。



判決 すべての元凶である被告・後嵯峨上皇は第一〇〇代後小松天皇に至るまでのすべて皇族、皇位継承の諍いに巻き込まれた人々、学ぶのに余計な労力を強いられた歴史学者と受験生(笑)に謝罪せよ。

 正直、古今東西、帝位、王位、高位高官を巡った骨肉の争い、醜い争いは枚挙に暇がない。
 ただそれでもこの持明院統大覚寺統との皇位継承争いは文保の和談に見られるように、武を捨てた(云い換えれば幕府に託した)朝廷だからこそ、血で血を洗う戦いになることはなかった。
 それゆえ、被害面から見れば後嵯峨上皇を始め、歴代天皇・上皇を責める気にはならないが、それでも両統がある故に、権力を欲する者達が時に大覚寺統に媚び、時に持明院統を担ぎ上げた結果、後世多くの血を流した遠因となったことを鑑みれば、責任は問えずとも、その影響は軽視出来ない、と薩摩守は考える。




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令和三(2021)年五月二一日 最終更新