第参頁 二月騒動……骨肉闘争、一応の決着

事件番号kamakura-0003
事件名二月騒動(文永九(1272)年二月一一日〜一五日)
事件の概要北条一族の内紛
原告名越時章・名越教時・北条時輔
被告北条時宗・北条政村
関連人物安達泰盛・平頼綱・日蓮
罪状政策方針統一の為の半ば冤罪による身内殺し
後世への影響骨肉闘争決着。安達泰盛と平頼綱の台頭が後の霜月騒動の遠因となる。
事件の内容 北条得宗家対北条支族の内紛。鎌倉幕府に対する謀反の容疑で、第八代執権・北条時宗の命により時宗の庶兄である北条時輔が誅殺され、支族である名越時章教時兄弟も討伐された。

 文永三(1266)年に、蒙古(後に国号を「元」と改称)より、通商希望とも、服属要求とも取れる国書が届いており、それに対する返書や、対異国警備を巡って幕府首脳部は紛糾していた。
 また朝廷でも議論は重ねられており、幕府では対蒙古外交の議論にかこつけて反鎌倉派の御家人と朝廷が連携して鎌倉に刃向うことが警戒され、時宗の庶兄で六波羅探題南方に赴任していた時輔がその急先鋒と見做された。
 六波羅探題北方が赴任者不在であることも懸念に拍車をかけ、幕府では文永八(1271)年に得宗家に好意的な北条長時(第六代執権でもあった)の子・義宗を北方に就け、南方への対抗馬とした。

 そして文永九(1272)年二月一一日、北条時宗は大蔵頼季(おおくらよりすえ)に命じて鎌倉にて名越時章教時兄弟を襲撃。兄弟は誅殺され、公家の中御門実隆等が処罰された。
 続いて同月一五日には義宗に対して北条時輔誅殺の幕命が下り、義宗の兵に襲撃された時輔は必死に奮戦したが、衆寡敵せず命を落とした。

 しかしすぐに教時はともかく、時章がこの事件に関しては無実で、名越家急襲における時章誅殺は誤殺であったことが判明し、大蔵頼季以下、五名の得宗被官追手が処刑され、教時追討に対する褒賞は一切なかった。
 また、時輔に関しては生存伝説がある。
 討手を命じられた義宗は、父・長時の死を得宗家による暗殺と疑っていたとの説があり、時輔は義宗によって見逃され、逐電後、吉野へ逃亡したという説を後世に残した。
 ちなみに北条時輔が拙作・『生存伝説―判官贔屓が生んだアナザー・ストーリー』で採り上げなかったのは、薩摩守の不勉強以外の何物でもない(苦笑)。


事件の背景 遠因は宮騒動にあった。
 早い話、宮騒動の原因となった北条得宗家と名越北条家の対立は終わってなかったということであった。
 同じ兄弟でも名越時章は穏健派で、評定衆の一人として得宗家と争う意思もなかったが、弟の名越教時は本気で得宗家に対する反逆と宮騒動への報復の念を燻らせていた。
 そしてその火種に、文永五(1268)年、高麗の潘阜からもたらされた蒙古帝国第五代皇帝フビライ・カーンの国書と高麗王の副書を持って来日したことが火を投じた。


 鎌倉幕府では長らく、第五代執権・北条時頼の嫡男である北条時宗が若年であることを理由に執権就任が見送られていたが、この蒙古からの国書送付を機に第七代執権・北条政村(北条義時五男)から執権職を譲られ、連署(執権補佐)から第八代執権に就任した(逆に政村が連署となった)。
 時宗はこの国書に対して黙殺を決め、朝廷でも後嵯峨上皇により返書しないことで意見は一致した。
 しかし翌文永六(1269)年に、蒙古が対馬を襲撃し、住民を拉致する、という暴挙に出た上で降伏を要求すると、動揺した朝廷では「返書ぐらいした方が…。」との意見が大勢を占めたが、時宗は意志を曲げなかった。
 そしてその意志は、蒙古より趙良弼(ちょうりょうひつ)が使節団を率いて来日しても変わらなかった。


 そんな中、朝廷に近い六波羅探題南方にいた庶兄・時輔が動揺治まらない朝廷を抱き込んだり、京都に追放された歴代将軍と仲のいい名越家が前の征夷大将軍・宗尊親王(むねたかしんのう・第六代将軍)を担ぎ出して得宗家に反逆したりすることや、対外政策に支障をきたすことが懸念された。

 実際に、名越教時は文永三(1266)年に宗尊親王が京都に強制送還(←毎度毎度よーやるわ)になった際に、数十騎を率いて時宗に対する示威行動に出ていた。
 また、庶兄・時輔は母親の身分が低かった故に嫡男になれなかったのは仕方ないにしても、元服の折に父・時頼から「」の字を与えられることで、暗に「弟を輔ける存在に過ぎない存在」と告げられるような冷遇に対する不満が鬱積していた、と見られていた。

 当人達の意志は当人達でないと分らないにしても、結果として彼等は抵抗勢力と見られ、この二月騒動によって反対勢力を一掃したと見た時宗政村は、これによって力を増した外戚・安達泰盛、御内人・平頼綱等とともに、文永四(1267)年に発布していた御家人所領の売買と質入を禁止する法令をもとに蒙古襲来に備えるのだった。


原告側人物
名越時章(なごえときあき)
略歴 建保三(1215)年北条氏一門である名越流北条氏の初代当主・北条朝時の次子に生まれた。
 本来なら兄・光時が二代目当主となる筈だったが、宮騒動で光時が失脚し、すぐ下の弟である時辛(ときゆき)は自害させられたため、第二代名越家当主となった。

 時章も一時は連座したが、穏健派だったこともあり、宝治元(1247)年に赦免されて評定衆となった。
 しかし自身は得宗家との協調を望むも、弟・教時をはじめ、名越家内の反得宗カラーは根強く、文永九(1272)年の二月騒動教時が謀反を起こしとことで、時章の元にも追討軍が迫り、殺害された。名越時章享年五八歳

 後に時章自身に叛意は無く、無実であったことが判明し、時章殺害の咎で五人が斬首され、時章の子・公時(きみとき)は評定衆に取り立てられ、その子孫は幕末も、幕府滅亡後も得宗家に尽くした。

被った被害 得宗家に対する叛意もないのに誤って殺された。のみならず、所領の肥後国と筑前守護の職を奪われた。

事件後 上記と重複するが、冤罪は晴れ、名誉は回復した。
 公時以後の待遇を見ても疑いは完全に晴れていたと見える。自らの死が冤罪によるものだったことが得宗家と名越家の確執を終わらせたのは何とも皮肉である。



名越教時(なごえのりとき)
略歴 嘉禎元(1235)年に北条朝時の四男に生まれた。
 宮騒動時は一〇歳で関わりはなかったと思われる。
 建長六(1254)年に二〇歳で従五位下・刑部少輔に叙されたのを皮切りに、康元元(1256)年に引付衆、文永二(1265)年に評定衆、文永七(1270)年には遠江守、と一族・支族らしい出世を重ねていった。
 だが、腹の内では北条得宗家への反抗心を抱き、第六代将軍・宗尊親王を抱き込まんとの意もあった。

 文永九(1272)年得宗転覆を企てて二月騒動を起こしたが、御内人・討伐軍に敗れて討ち取られた。名越教時享年三八歳。
 関係ないが、蹴鞠が上手かったそうである。

被った被害 戦死。しかし平静より得宗家に対する敵意が露骨だったので自業自得とも云える。

事件後 兄・時章の誅殺が冤罪によるものだったため、得宗家と名越家の対立が終息した中で、息子達の中には幕府滅亡まで得宗家と運命を共にした者もいる形跡があるが、詳細は薩摩守の不勉強で(苦笑)不明。



北条時輔(ほうじょうときすけ)
略歴 宝治二(1248)年五月二八日に北条時頼の庶長子として鎌倉に生まれた(幼名・宝寿丸)。
 三歳のときに時頼正室が正寿丸時宗)を産んだことにより、嫡男の立場を失い、時頼も正寿丸とその同母弟・福寿丸(宗政)の方をより可愛がった。

 建長八(1256)年に九歳で元服し、相模三郎時利と号する(長子なのに「三郎」と名付けられた所に注目)。
 正嘉元(1257)年に一〇歳で六代将軍宗尊親王の近習となり、正元二(1260)年正月に一三歳で時輔と改名し、正嫡である弟・時宗を「輔(たすけ)る」存在であることを押し付けられた。

 その後も様々な行事の場にて父・時頼から嫡男・時宗と庶長子・時輔との待遇の違いを事ある毎に思い知らされた。

 弘長三(1263)年一一月二二日に時頼が世を去り、翌文永元(1264)年八月に時宗が連署に就任すると時輔は六波羅探題南方に出向となった。
 無官のまま上洛した時輔だったが、翌文永二(1265)年四月に一八歳で従五位下式部丞に叙任され、官位そのものは一門の中でも悪くなかった。

 文永五(1268)年二月、蒙古の使者が脅迫まがいの国書を送ってくるに及んで幕府内では権力一元化が図られ、三月に一八歳の時宗が執権に就任。
 時輔のいた京では文永七(1270)年正月に六波羅探題北方の北条時茂が死去し、その後二年間後任が決まらなかったことで六波羅における時輔の権勢は増したが、当然のように鎌倉サイドからは危険視された。

 そして文永八(1271)年一二月、空席だった六波羅探題北方に北条義宗が就任すると二ヶ月後の翌文永九(1272)年二月一一日、鎌倉で名越時章教時兄弟が謀反の嫌疑で誅殺されとことで二月騒動となり、四日後の一五日には六波羅南方の時輔もまた謀反の嫌疑を受け、六波羅北方の義宗による襲撃を受け、誅殺された。北条時輔享年二五歳。

被った被害 冤罪で殺された可能性が高い。
 北条時輔に対する時頼の仕打ちを見れば、鎌倉を離れた京にて、幕府によって鎌倉を追われた将軍・宗尊親王と結託して時宗に反抗する動機は充分過ぎるほどに有ったが、様々な文献・ネット上の情報を見ても時輔の境遇に対する嘆きは見えても、父や弟に対する直接的な害意は見えない。
 また、仮に時輔が本当に時宗を初めとする一族に反感を抱いていたとしても、それは一族の自業自得である面が多分に強いと云わざるを得ない。

事件後 北条時輔には、襲撃を逃れて奈良吉野に逃亡した伝説がある。
 確実な史実として二人の子供が襲撃の場を逃れたが、名前も伝わっておらず事件後の詳細は全くの不明であり、僅かに次男と見られる人物が正応三(1290)年一一月に三浦頼盛と謀反を共謀したとして六波羅で捕えられ拷問・斬首された記録があるのみである。



被告側人物
北条時宗(ほうじょうときむね)
略歴 建長三(1251)年五月一五日に得宗家にして第五代執権である北条時頼の次子に生まれた。次子ではあったが正室の子に生まれたため異母兄を宝寿丸時輔)を差し置いて後継者に補された。

 康元二(1257)年、元服の折に第六代将軍・宗尊親王の偏諱を賜り、時宗を名乗った。
 弘長三(1263)年一一月二二日、時頼が世を去り、本来なら後を襲って執権となるところだったが、この時、時宗はまだ一三歳だったため、一族の北条長時、北条政村の執権を代行した。
 そして、文永元(1264)年八月に一四歳で連署(執権補佐)に就任した。

 執権政村や一族の重鎮・北条実時と協力して、文永三(1266)年に幕府転覆計画の咎有り、として宗尊親王を将軍位より退位させて京都に送還し、惟康親王を第七代将軍に迎えた。


 文永五(1268)年正月、高麗の使節が蒙古の国書を持って大宰府を来訪し、それが鎌倉に送られるに及んで三月には政村から執権職を譲られ、第八代執権となった。時に北条時宗一八歳。

 時宗政村、実時、安達泰盛平頼綱等の補佐を受け、蒙古の服属要求に対する対外政策を協議し、異国警固体制の強化を、少弐氏を始めとする西国御家人に命ずるも、国書に対しては黙殺を決め込んだ。
 一方でこれを機に反得宗家勢力が台頭することを懸念し、文永九(1272)年に二月騒動を起こし、鎌倉では名越一族を誅殺し、京都六波羅に対しては北方の北条義宗(第七代執権北条長時の子)に南方の庶兄・時輔を攻めさせ、これを死に追いやった。


 文永一一(1274)年、国号を「蒙古」から「元」に改めたモンゴル軍が日本に襲来すると集団戦法や新兵器などに苦戦するも、暴風雨の到来によるとも指揮官達の方針の分裂に助けられてこれを撃退することに成功した(文永の役)。

 翌建治(1275)元年、再度降伏勧告の為に使節・杜世忠(とせいちゅう)等が来日すると、鎌倉で引見し、彼等を龍ノ口で斬首し、文永の役での苦戦を参考に異国警固番役の新設・博多湾岸の石塁構築を命じ、一族を次々に九州各地の守護に任命した。

 弘安四(1281)年に再度元軍襲来したが、得宗被官が時宗の名で出された作戦を帯びて、戦場での指揮に当たり、元軍に石塁を登らせず、逆に元船に夜襲を敢行させたりもした。
 元軍も先発である東路軍に、後発の江南軍が加わり、長期戦になるかと睨まれたが、再度の暴風雨、船内で流行した疫病のために元軍は撤退した(弘安の役)。


 国難となった元寇をしのぐには成功したが、戦勝によって敵国の土地を得た訳でもなかったため、死闘を尽くした御家人に恩賞を施すことが出来ない状態で、三度目の元軍襲来に備えて改めて国防を強化せねばならない難題を抱える中、弘安七(1284)年四月四日に病のために出家し、同日病死した。北条時宗享年三四歳

罪状 冤罪による戦闘開始及び誅殺が挙げられる。
 二月騒動は執権・得宗家側の一方的な殺戮の色合いが強く、心情はともかく、実際に計画としての謀反があったかどうかにも疑問の余地があり、名越時章に至っては完全な濡れ衣であった。
 庶兄・時輔との確執についても、原因そのものは父・時頼の責任が大きいが、一方的に鎌倉から京に追いながら、遠隔地での独断専行を疑う矛盾振りには閉口せざるを得ない。

事件後 抵抗勢力としての時輔と名越兄弟を完全に抹殺し、権力盤石化の為の二月騒動は成功したと云えるが、この時出来た権力集中が、元寇回避の道を断ち、霜月騒動の遠因ともなった。



北条政村(ほうじょうまさむら)
略歴 元久二(1205)年六月二二日、第二代執権・北条義時の五男に生まれた。建保元(1213)年一二月に七歳で三代将軍源実朝の御所において元服し、四郎政村と号した。

 貞応三(1244)年に父・義時が急死し、母・伊賀の方が政村を執権にする陰謀を企てたという伊賀氏の変が起こり、伊賀の方は尼将軍北条政子の命によって伊豆国へ流罪となったが、政村は兄であり、第三代執権である泰時の計らいで累は及ばなかった。

 その後も北条一門として執権となった兄・泰時を支え、延応元(1239)年評定衆となり、翌年にはその筆頭となった。
 建長元(1249)年一二月に引付頭人、建長八(1256)年三月に兄・重時の出家、引退をうけて五二歳で連署となった。

 文永元(1264)年七月、幼年の得宗後継者北条時宗の中継ぎとして六代執権となっていた甥の北条長時が病のために執権の任に耐えられなくなって出家したので、その時点でまだ一四歳だった時宗に成り代わって六〇歳で第七代執権に就任した。
 時宗を連署として、北条実時、安達泰盛等を寄合衆とし、文永三(1266)年の宗尊親王の将軍更迭を主導した。


 文永五(1268)年一月に蒙古から国書が到来すると、国難を前に権力一元化を図る為、同年三月に執権職を一八歳の時宗に譲り、政村は再び連署として補佐、侍所別当も務めた(連署から執権になった例は多いが、執権から連署となったのは政村のみ)。
 文永九(1272)年の二月騒動でも時宗と共に戦中・戦後処理に当たったが、一族の宿老としての日々にも限界が訪れ、元寇を翌年に控えた文永一〇(1273)年五月に出家し、常盤院覚崇と号するも、同月逝去。北条政村享年六九歳。
 政村は和歌・典礼に精通した教養人であり、公家衆からも敬愛され、彼を温厚な人とする『大日本史』(水戸光圀編纂)によると、政村の訃報を受けた亀山天皇は弔慰の為の使者を下向させたという。

罪状 北条時宗とほぼ同罪。
 加えて、一族同士の内紛が絶えなかった北条家の中で、他家と争わなかった姿勢を長老として一族の中に浸透させられなかったものだろうか?

事件後 二月騒動の時点で、北条政村既に御年六八歳。元寇を初め、多事多難が控える中、逸早く逝去したことに一抹の無責任さを感じたくなるが、年齢ゆえに責めては酷か?



関連人物
安達泰盛(あだちやすもり)
略歴 寛喜三(1231)年に安達義景の三男として誕生。兄が二人いたが、安達氏嫡子の呼び名である「九郎」を名付けられたことから、安達家後継者として周囲に認知されていた。

 一七歳だった宝治元(1247)年に宝治合戦が勃発し、高野山より下山して鎌倉を訪れた祖父・景盛の叱咤を受け、泰盛は先鋒として戦った。
 結果、三浦氏滅亡により、執権北条氏の外戚として、時頼政権を支える安達氏の地位が確立しさせた。


 建長五(1253)年六月に父・義景が死去すると泰盛は二三歳で家督を継いで秋田城介(←征夷大将軍に次ぐ名誉的な地位らしい)に任ぜられた。
 家督とともに父の地位であった一番引付衆も引き継ぎ、康元元(1256)年には五番引付頭人兼評定衆となって執権・時頼を補佐した。
 時頼の嫡子・時宗が甘縄の安達邸で誕生した縁もあって、時宗元服の際には烏帽子を持参する役を務めた。

 異母妹を猶子として養育し、弘長元(1261)年に時宗の正室として嫁がせて北条得宗家との関係を強固なものとした(時宗没後、出家して「覚山尼」)。
 時頼が没すると、北条一族の信任を得て、泰盛北条政村や北条実時と共に時宗を支え、幕政を主導する中枢の一人となった。


 文永五(1268)年、蒙古よりの服属要求の使者が来るに及んで一八歳の時宗が執権となり、文永九(1272)年の二月騒動でも時宗政村を支えた。
 文永一〇(1273)年に北条家の宿老・政村死去により得宗家被官である御内人が台頭し出し、平頼綱、諏訪真性、三善泰有等との関係が後の「外戚VS御内人」に繋がった。

 文永一一(1274)年の文永の役で暴風雨により元軍が去った後に泰盛は御恩奉行となり、将軍・惟康親王の安堵の実務を代行し、得宗家とも、将軍宗尊親王、惟康親王とも密接な関係を持ち続けた。
 建治三(1277)年一二月、時宗の嫡子・貞時の元服に際し、またも泰盛は烏帽子を持参する役を務め、その後見となった。
 弘安四(1281)年の弘安の役が終わると、翌弘安五(1282)年に泰盛は五二歳で秋田城介の地位を嫡子・宗景に譲り、自身は陸奥守(←幕府初期の大江広元、足利義氏を除いて北条氏のみが独占してきた官位)に任じられ、北条一門と肩を並べるほどの勢力となっていた。


 元軍撃退の僅か三年後の弘安七(1284)年四月に、恩賞請求、訴訟の殺到、三度目の襲来警戒等で多事多難な折、時宗が三四歳の若さで死去。一四歳の貞時(←泰盛外孫である)が北条一門・平頼綱と連動して不穏な動きを見せる中、七月に九代執権に就任した。
 死の直前に出家した時宗に追随して一緒に出家していた泰盛だったが、弘安徳政と呼ばれる改革を行い、「新御式目」と呼ばれる新たな法令を矢継ぎ早に発布した。

 将軍、引付衆、得宗家、御内人、寺社仏閣、朝廷、経済政策の諸問題に泰盛は当たり続けたが、ほぼ同時期に朝廷でも亀山上皇が徳政を行ったこともあって、朝廷との癒着が囁かれ、御内人問題から平頼綱と対立し、泰盛は次第に政治的に孤立していった。

 そして翌弘安八(1285)年、頼綱泰盛の子・宗景が源姓を称したことをもって、「将軍になる野心あり」と執権・貞時に讒言し、泰盛討伐の命を得た。
 一一月一七日、貞時邸に出仕したところを待ち構えていた御内人等の襲撃を受けた安達泰盛は呆気なく殺害された。安達泰盛享年五五歳。
 殺戮は一族に及び、死者は三〇名、負傷者一〇名に達し、五〇〇名余りが自害した。
 頼綱の追撃は安達氏の基盤であった上野・武蔵を始め全国に波及して泰盛派の御家人の多くが殺害された(一一月に勃発したことから霜月騒動と呼ばれる)。


 安達氏が幕政に復帰し、泰盛の供養が認められるには、平頼綱の失脚を待たなければならなかった。

事件との関わり 二月騒動における泰盛の具体的な働きは見えないが、評定衆の一人として、父祖の代より得宗家と密接で、異母妹が時宗に嫁いで既に一〇年以上、宝治合戦で先鋒を務めていた泰盛が関わっていないとは見難い。
 事後処理に当たった(時章を誤殺した五人の被官を斬罪に処したのは泰盛らしい)ことと、鎌倉・京都で亡くなった御家人郎党の菩提を弔うために、施主となって一五八町石と一五九町石の供養塔を建立したことがはっきりしている。

事件後 事件の翌年、北条政村が死去し、北条実時も隠居していたため、評定衆の中では北条一族ではない唯一の存在として、元寇とその事後処理にも深くかかわることとなった。



平頼綱(たいらのよりつな)
略歴 平資盛を祖と称する血統には胡散臭いものがあるが、北条氏自体が平家の流れを汲むもので、伊豆国出身であったことからも古くからの北条家家臣の一族と見られていた。平盛時の子に生まれたが生年は不詳。

 平頼綱は代々北条氏嫡流の得宗家に仕える御内人として時宗に仕え、弘長元(1261)年頃に父から侍所所司を継承した。二月騒動を経て、御内人として磐石の地位を得た。


 日蓮の書状によると、頼綱は元々身分卑しく、得宗家の寵愛で幕政に参画し出した御内人勢力が、有力御家人にして得宗家外戚である安達泰盛等の勢力と拮抗していたことが示されている。
 蒙古襲来によって幕府の諸問題が噴出すると同時に、戦時体制に乗じて得宗権力が拡大していく中で、得宗権力を行使する頼綱を筆頭とする御内人の勢力は増し、泰盛との対立も深刻化した。

 弘安七(1284)年四月に両者の間にあって、両者を争わせなかった執権・時宗が死去し、一四歳の貞時が執権に就任すると頼綱は讒言でもって貞時から安達一族誅滅の内意を受け、泰盛を始め、安達一族と安達派の御家人を次々と襲撃・抹殺した(霜月騒動)。

 霜月騒動後、頼綱は、邪魔者がいなくなって箍が外れたような政治に走り、弘安一〇(1287)年に七代将軍・源惟康が立親王して惟康親王となってからは恐怖政治を敷くようになった。
 つまり、北条氏家人である御内人では就けない評定衆や引付衆となるのではなく、幕府の諸機構やそこに席をおく人々の上に監察者として臨み、専制支配を行ったのであった。

 勿論これは多くの人々の恨みを買い、調子に乗って自らの政治の根本である得宗家まで軽んじ出したことが仇になって、貞時にも愛想をつかされた.
 正応六(1293)年四月、鎌倉大地震の混乱に乗じて経師ヶ谷の自邸を貞時の軍勢に急襲され、頼綱は自害。次男飯沼助宗ら一族も滅ぼされた(平禅門の乱)。

事件との関わり 前半生に不明点の多い人物だが、上記にある様に、二月騒動のあった文永九(1272)年以前に得宗家の執事となっていた。
 事件の前年九月には蒙古襲来に備えて御家人達が鎮西(九州)への下向を命ぜられる中、『立正安国論』で内憂外患を予言し、他宗派を容赦なくこき下ろしていた日蓮を逮捕(得宗家は禅宗を信仰していた)し、佐渡へ流罪とした(実際には斬ろうとしたが、安達泰盛の制止もあって出来なかった)。

 二月騒動においても時宗の側にて内管領兼侍所所司として討手の指揮をしたが、討手が無実の時章を誤殺した。
 そのため、頼綱以下、討手一同は物笑いの種となり、事後事態収拾にあたった泰盛頼綱は恨むこととなった。
事件後 二月騒動に前後して騒動前に日蓮を逮捕して斬ろうとしたかと思いきや、騒動後の文永の役前には日蓮に意見を求めた。
 一方で、二月騒動で御内人としての立場を確立した頼綱だったが、後々の政策においても外戚としての立場を確立していた安達泰盛との対立を続け、最終的には共に滅びることとなった。



日蓮(にちれん)
略歴 貞応元(1222)年二月一六日、安房国長狭郡東条郷片海(現:千葉県鴨川市)の小湊で誕生。幼名は善日麿

 天福元(1233)年に清澄寺の道善に入門し、 暦仁元(1238)年に出家。仁治元(1240)年に比叡山へ遊学。
 高野山でも学び、建長五(1253)年に清澄寺に帰山。
 四月二八日朝、日の出に向かい、「南無妙法蓮華経」の題目を初めて一〇回唱え、日蓮宗を立教開宗した(同日正午に初説法)。

 翌建長六(1254)年に鎌倉に出て布教開始し、この頃日蓮と名乗った。
 文応元(1260)年七月一六日に『立正安国論』を著わし、北条時頼(このとき既に執権職を退いていたが、最高権力者だった)に送り、真言宗、禅宗、浄土宗の排除を勧めたため、他宗の僧数千人により松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされたが、自身は難を逃れた(呆れたことに明らかな放火・殺人未遂にも関わらず焼き討ちに参加した僧侶達は罰せられていない)。

 その後も他宗派に対する攻撃的な論調による布教を続けた結果、弘長元(1261)年、幕府によって伊豆国伊東に最初の流罪に処された。
 文永元(1264)年、故郷の母に会う為に帰郷した安房国小松原(現:千葉県鴨川市)で念仏信仰者の地頭・東条景信に襲われ、左腕と額を負傷、門下の工藤吉隆と鏡忍房日隆を失った。


 文永五(1268)年に『立正安国論』にて予言した外患が、蒙古からの服属要求の国書が幕府へ届くことで現実になると、日蓮北条時宗平頼綱、建長寺道隆、極楽寺良観等に書状を送って他宗派との公場対決を迫った。
 文永八(1271)年九月 良観・念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴えったのを受け、 平頼綱により幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、龍ノ口刑場にて処刑されかけるが、処刑を免れた。
 評定の結果、一〇月に二度目の流刑で佐渡へ流された。

 文永一一(1274)年)春に赦免後、評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれるが、「よも今年はすごし候はじ(意訳:(法華経が重んじられない)こんな世では今年は無事に過ぎ去らないだろう)」と答え、法華経を立てよ、と三度幕府に迫った。

 その後、身延地頭・波木井実長の領地に入山して身延山を寄進され身延山久遠寺を開山。
 予言五ヶ月後に蒙古襲来 (文永の役)、七年後の弘安四(1281)年にも再度襲来した(弘安の役)。
 日蓮は翌弘安五(1282)年九月八日、病で波木井の勧めを受けて波木井の領地である常陸での湯治を勧められて身延山を下り、一〇月八日に弟子六名を後継者(六老僧)とし、五日後の一〇月一三日、池上宗仲邸にて入滅した。日蓮享年六一歳。

事件との関わり 直接の関わりはないが、著書『立正安国論』にて法華経を信仰せず、他宗派を信仰し続けた場合の内憂外患を説き、後に内憂はこの二月騒動を指していたと見られている。
 しかしながら自身は前年に平頼綱に捕らえられ、龍ノ口にて斬られかけたが、時宗正室懐妊と時期が重なり、僧を斬るは不吉、とした安達泰盛によって死を一等減じられ、佐渡に流されていた。

事件後 『立正安国論』が正しかったと見られ、赦免後、自らを殺そうとした平頼綱に召喚され、外患に対する意見を求められたが、日蓮が訴えたのは、上記にある通り、早い話、「他宗派を排除し、法華経を信仰せんかい!」だった。



判決 主文、二月騒動最大の責任は北条時宗にあり。
 殊に無実の名越時章に対する誤殺は誠に不届き至極。
 また、異母兄北条時輔に対する誅殺は政治上の意見統一を図ることを目的とした身勝手なもので、情状酌量の余地なし。
 但し、名越教時の得宗家に対する害意は明白な点においてのみ情状を酌量するものなり。
 よって、被告北条時宗は故人故に執行は不可能だが、判決の上では無期懲役、同北条政村は連署としての監督不行き届きで懲役一〇年に処する者なり(←しかし政村は騒動の翌年に逝去するので意味がなかったりする(苦笑))。


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令和三(2021)年五月二一日 最終更新