第肆頁 元寇・文永の役……本当に避けられない戦いだったのか?

事件番号kamakura-0004
事件名文永の役(文永(1274)年)
事件の概要元帝国による最初の襲来
原告北条時宗・平景隆
被告フビライ=ハーン・金方慶
関連人物亀山上皇・竹崎季長・日蓮
罪状侵略行為、対馬・壱岐・北九州住民の殺戮・拉致
後世への影響得宗家による西国独裁体制の強化・弘安の役
事件の内容 文永一一(1274)年一〇月征東都元帥・忻都(きんと)、高麗の将軍にして都督使に命じられた・金方慶(きんほうけい)等に率いられたモンゴル人、漢人、女真人、高麗人で構成された約四万名(水夫等の非戦闘員を含む)を乗せた兵船が朝鮮の月浦を出発した。

 元軍は一〇月五日に対馬、一〇月一四日に壱岐を襲撃し、一〇〇騎レベルの両島の防衛軍は奮戦むなしく蹴散らされ、佐志房(さしふさし)率いる平戸鷹島の松浦党は全滅、壱岐守護代の平景隆は自害に追い込まれた。
 防衛軍が全滅した両島の島民は殺戮されたり、捕虜にされたりした。捕虜の中には手の平に穴を開け、そこに革紐を通して船壁に吊るして見せしめにされた者もいれば、金方慶によって高麗王と王妃に献上された二〇〇名の子供達の様な者もいた(前者は日蓮の、後者は高麗の記録による)。

 対馬・壱岐の敗報を受け、大宰府責任者・少弐(しょうに)氏、大友氏をはじめとする九州、西日本各地の御家人が大宰府に集結した。
 元軍は壱岐を落とした五日後の一〇月一九日に博多湾に現れ、湾西端の今津に停泊し一部兵力を上陸させた。
 一〇月二〇日、船団は東に進み百道浜、地行浜、長浜、那ノ津、須崎浜(博多)、東浜、箱崎浜に上陸、開戦となった。
 元軍を迎撃した日本側では、開戦の定法に則り、音の出る鏑矢(かぶらや)を放ったが、鏑矢が何を意味するか分らず、妙な音だけ立てて海面に没した矢を見て、元軍は嘲笑し、日本兵は激昂した。

 更に定法に則り、日本武士は、一騎打ちを挑まんとして名乗りを挙げようとしたが、日本風の戦定法は元軍にとって、不可解且つ付き合う義理のあるものではなかった。
 一騎で突出した御家人目掛けて、毒矢・てつはうが放たれ、一騎相手に大勢で襲い掛かり、多くの御家人が訳の分からないまま、定法を知らぬ異国兵に対して「卑怯者!」との恨みを抱きながら討ち取られた。

 しかしながら日本軍もやられっ放しではなく、すぐに自分達の定法が相手には通じないことを悟り、不慣れな集団戦法に対しても昼頃には対応するようになった。
 皮肉にも、政権の中枢にある鎌倉幕府にしてから梶原一族誅殺比企能員の乱将軍頼家暗殺和田合戦将軍実朝暗殺承久の乱宮騒動宝治合戦二月騒動と丸で安定しない有様故に御家人達は戦い慣れていたことがこの時ばかりは有効に転じた。

 増援の到着により反撃に転じた日本軍は赤坂(現:福岡市中央区)にて肥後の菊池武房等率いる二三〇騎が元軍の歩兵二〇〇〇を撃破した(この戦闘で菊池は敵の首級を二つ挙げた)。
 更に菊池氏の支族で『蒙古襲来絵詞』で有名な肥後の竹崎季長が元軍を鳥飼潟から祖原へ追撃し、上陸地点より五〇〇メートル付近まで押し返し、先駆けを敢行。窮地に陥り手傷を負うも、肥前の白石通泰等が救援に駆けつけ矢戦となった。


 博多では海岸付近で激しい矢戦となり、日本軍は博多を占拠され、敗走せざるを得なかった。
 しかし、殿軍の少弐景資(しょうにかげすけ:大宰府長官・少弐資能三男)が追撃してきた元軍の左副元帥・劉復亨(りゅうふくきょう)を射倒し(劉は負傷で済んだ)、博多から更に内陸への侵入されるのを阻止した。

 やがて夜が更けると元軍は激戦で矢が尽き、軍の編成が崩れたため、大宰府攻略を諦め、占拠した博多の市街に火をかけて焼き払い(「敵国降伏」が祈願された筥崎八幡宮も被災した)、船内に撤退し、日本軍も水城(みずき:大宰府手前の防衛を担う砦)に撤退した。


 高麗の記録によると金方慶は更なる進撃を主張したが、総司令官の忽敦(そうとん)は疲弊した兵士を率いて増援が進められている敵軍に向かうのは得策でないとして船内に撤退した、となっている。
 しかし、元々文永の役は遠く離れた(しかも海を隔てた)異国を征服するのに四万に満たない兵力は不足で、たった一日で矢が尽きたことから、示威行為や偵察であったとの説が根強く、高麗の記録であることを考慮すれば、金方慶の主張は少々信憑性が薄い。

 両軍が戦闘を停止したその夜中、季節外れの暴風雨が吹き荒び、翌日、日本軍の兵士が博多湾を偵察したところ、元の船団は姿を消しており、文永の役は終結した(偵察船の為、矢を射ち尽くして引き揚げ途上で嵐に遭った説もある)。

 暴風雨で数々の艦船が失った元軍が一一月二七日に合浦に帰還した際には、遠征軍の不還者は一万三五〇〇余人に達し、通常軍隊が兵員の半数を失えば組織的抵抗が不可能となり「全滅」とされることを鑑みれば、約三割四分の兵が生きて還れなかった文永の役=日本遠征はかなりの惨敗・大失敗で、元軍は以後五年間、対南宋戦争に集中し、再度の日本遠征が敢行されたのは南宋滅亡から更に二年後だった。

 一方の日本側では「二度と元軍を上陸させないこと」を第一として、博多湾に石塁を築いて防衛強化に努める中、文永の役に参戦した御家人達への恩賞に与えられない(完全な防衛戦で敵地を寸土も奪っていないので与えようがなかった)ことに執権・北条時宗並びに幕閣は頭を痛めていた。


事件の背景 日本の文応(1260)元年にモンゴル帝国の第五代皇帝=大ハーンに即位したフビライ・ハーン(「フビライ」は「クビライ」とも発音され、「ハーン」は「カン」とも「カァン」とも「カーン」とも発音される。ま、外国語を完全日本語の五十音で表記すること自体無理があるのだが)は、文永五(1268)年に南宋攻略を開始する一方、既に服属していた高麗を通じて、文永三(1266)年に日本に対して通交を求める使者を送ろうとしていたが、これは高麗人官吏・趙彝(ちょうへい)の進言だった。
 しかし高麗の使節は巨済島(現:済州島)まで来たところで、航海の困難を理由に引き返し、フビライに対して日本通使不要を説いた。
 しかしフビライは国書の手交を厳命していたこともあって、使者が渡海もせず引き返してきたことに憤慨して、再び高麗に命令し、使節として高麗国王元宗の側近だった潘阜(はんふ)が派遣され、文永五(1268)年正月に大宰府へと到着した。

 大宰府少弐・少弐資能(本姓は「武藤」だが、代々大宰府少弐の地位にあったため、資能の代から「少弐」を姓の代わりにし出した)は蒙古国書と高麗王書状を受け取り、鎌倉幕府へ送達した(潘阜は太宰府来着から七ヶ月後に高麗へ帰還し、同年一〇月に遣使が不首尾に終わった旨を元朝宮廷側に報告している)。

 当時鎌倉幕府では年端のいかぬ北条時宗に代わって一族の宿老・北条政村が第七代執権となっていたが、開府以来初の国難を直前に同年三月に政村から時宗に執権の地位が譲られ、時宗は第八代執権に就任していた(政村は連署となった)。
 蒙古国書に対して黙殺を決定した時宗は関東申次の西園寺実氏(さいおんじさねうじ)に蒙古国書を朝廷へ回送させ、黙殺決定を伝えさせた。
 四年後、後嵯峨上皇が崩御した直後の二月騒動時宗の庶兄北条時輔等を粛清して統制を強化、更に西国御家人への異国警護を命じ、寺社仏閣は神仏に異国降伏を祈祷し、亀山上皇「敵国降伏」の扁額を作成し、日蓮『立正安国論』を幕府に献上し、法華経を信仰せずば内憂外患が起こることを予言した。

 同年、元側では再度、知門下省事・申思佺(しんしせん)、侍郎・陳子厚(ちんしこう)、潘阜等高麗使臣が正使・黒的(こくてき)、副使・殷弘(いんこう)をともなって派遣され、二回目の使節が日本へ上陸したが、時宗は再度これを黙殺した。
 しかしながら、今度の使節は対馬に着いたのみで太宰府へは至らず、同島で住民らと諍いを起こし対馬島人の塔二郎と弥二郎という二名を捕らえて、拉致して帰還する、という暴挙に出た。
 これを知った高麗人で元への服属を良しとせずに江華島で元に抵抗していた三別抄(さんべつしょう)から、元に対する共闘と軍事的援助を求める使者が来訪したが、時宗はこれも黙殺した。

 文永八(1271)年九月、元使・趙良弼(ちょうりょうひつ)等が元への服属を命じる国書を携えて来ると、幕府はこれを朝廷に進上し、朝廷では伊勢に勅使を派遣し、神々に異国降伏を祈った。
 朝廷内部では返事を出すか出さないかで二派に別れかけたが、幕府の反対と「要求に屈するべきではない」という強硬論が強かった事から、朝廷・幕府ともに国書を黙殺する事になった。
 結局フビライの送った使者はすべて黙殺され、フビライは武力侵攻を決定した。


 元内では海に囲まれた日本が、騎馬民族である蒙古人が得意とする騎馬戦に持ち込むために大量の騎馬を送ることが困難で、得意の戦法が取れないことから以下の三策が考察された。

 〇高麗に兵を置き、国書により―つまり脅迫で―属国にする(上手くいけば損害もでず、高麗統治強化及び南宋と日本の分断が可能となる)。
 〇南宋を攻略し、服属せしめた漢人を使って日本を攻略する(多数の兵力を準備出来た上で日本を攻められる)。
 〇高麗軍を使って東路より日本を攻略する(兵力不足が懸念された)。

 結果としてフビライは高麗に命じて日本へ侵攻する艦船を作らせ、食糧などを供給した。
 建造費は高麗が負担させられた上に、大小九〇〇艘と云われる船を僅か半年で完成させるという突貫工事だった。
 そしてこの動向を察知した鎌倉幕府は、文永九(1272)年の二月騒動後に異国警護番役を設置し、鎮西奉行であった少弐氏・大友氏に指揮を命じた。

 結局、元の日本侵攻が正式に決定したのは、文永一〇(1273)年二月に南宋の襄陽を落とし、三別抄を平定出来たからであった。
 云い換えれば、元にとって、東亜はまだまだ安定には程遠く、日本には、元、南宋、三別抄との関係を上手く利すれば文永の役は、引いては元寇は、避け得る可能性があったと云える。



原告側人物
北条時宗(ほうじょうときむね)
略歴 第参頁参照
被った被害 直接的被害はないが、幕府の事実上の代表として、統治下にある国土(対馬・壱岐・博多)の被害はそのまま統治者に対する政治的・経済的被害であり、責任問題でもあった。
 謂わば、原告は日本被害の代弁者で、且つ、個人としても役後の恩賞問題・防衛問題に悩まされるという精神的被害を被った。

事件後 文永の役で元軍を退却せしめたとはいえ、当然鎌倉幕府は寸土も新領地を得ていない。当時の恩賞は領土と任官が常識で、時宗は無い袖を振り、再度の襲来に備え、防衛のために西国に北条一門を配置する責務とそれに反発する西国御家人との板挟みとなった。
 あくまで結果論だが、それが為に寿命を縮めた可能性は看過出来ない。



平景隆(たいらのかげたか)
略歴 生年不詳 。壱岐国の守護代で通称は内佐衛門平経高平景高とも云われている。

 壱岐守護は大宰府少弐でもある少弐(武藤)氏で、景隆はその家人であり、その関係から守護代の任にあったと思われる。
 文永一一(1274)年一〇月一四日、壱岐島西岸に元軍四〇〇騎が上陸すると、景隆は一〇〇余騎の武士を率いて迎撃に出た。

 戦は景隆が放った一射を契機に矢の撃ち合いとなったが、射程距離・軍勢の数共に元軍の方が上で(しかも敵の矢は毒付き!)、奮戦むなしく景隆率いる壱岐軍は守護所の詰城・樋詰城に追い込まれた。
 日没後、元軍は船団に引き揚げたが、翌日樋詰城を再度攻撃。圧倒的な不利な情勢の中で部下を叱咤して奮闘した景隆だったが、衆寡敵せず、終には景隆一同は城中で自害した。文永一一(1274)年一〇月一五日、平内左衛門景隆没。享年不明。

 景隆自害伍後、下人の伴宗三郎が景隆の娘を伴って博多へ渡って報告(その途中で娘は毒矢に苦しみ自害)。景隆自害に前後して壱岐軍全滅(文字通り)し、多数の島民が拉致・殺害された。

被った被害 自害に追い込まれた。更には保護義務のある島民を数多く拉致・殺害され、娘も死に追いやられた無念は察するに余りある。

事件後 平景隆死後の景隆遺族の動向は薩摩守の不勉強にして不明だが、明治維新後に対外戦争に奮戦した英雄・忠臣の顕彰運動が高まり、平景隆刀伊の入寇文永の役弘安の役の戦死者とともに新城神社(現:長崎県壱岐市勝本町)に祀られ、明治一九(1886)年一一月二日、正四位を追贈された。



被告側人物
フビライ=ハーン
略歴 1215年にチンギス・ハーンの四男トルイの次男として生まれた。

 1251年に兄・モンケが皇帝(ハーン)に即位すると、ゴビ砂漠以南の南モンゴル高原・華北における諸軍の指揮権を与えられ、中国征服を任じられた。
 1252年に陝西を出発して雲南遠征に出発し、南宋領を避けてチベット東部を迂回する難行軍の末に翌1253年に雲南を支配する大理国を降伏させた。

 帰還後は金国の旧都・中都(現:北京)の北、南モンゴル中部のドロン・ノールに幕営を移し、そこから南宋・高麗征服の総指揮を取った。
 フビライ自身はドロン・ノールを動かず、遊牧宮廷の補給基地となる開平府(後の上都)を築き、姚枢(ようすう)等の漢人を登用して中国統治を画策した。

 1256年、南宋の併合することを望むモンケ・ハーンは、フビライの慎重策への不満から南宋戦線の指揮権をフビライより剥奪した。
 しかし1258年、陝西に入って親征を開始したモンケは対南宋攻略中の翌1259年に軍中で流行した疫病に罹って病死した。
 ハーンにして兄であるモンケ・ハーンの急死を受け、モンケ息子達が若かったこともあって、フビライ達三人の弟が後継者争いをすることとなった。
 モンケの三弟のフレグは遠隔地・イランにて西アジアの征服事業を進めていたため、皇帝継承争いはフビライと末弟・アリクブケの間で繰り広げられた。

 フビライは前線の中国に駐留する諸軍団やモンゴル高原東部のモンゴル貴族、王族を味方につけ、1260年にドロン・ノールでフビライ支持派によるクリルタイ(会議)が開かれ、ハーン即位を宣言。アリクブケもこれに対抗して即位宣言したため、モンゴル帝国は南北に分裂しかけた。
 四年間の抗争の末、首都カラコルムを取られつつも、中国を抑え、経済封鎖によって自給出来ないカラコルムを危機に陥れたフビライは、1264年にアリクブケは降伏を受けて勝利した。

 名実ともにハーンとなったフビライは中国風の元号を立て、行政府も中書省を新設(漢人が多かった)。六部・枢密院・御史台等も設置し、中国式の政府機関を次々と整えた。
 アリクブケとの内紛中に、漢人軍閥の反乱に悩まされていたフビライは華北各地の在地軍閥を解体させた。中国統治に力を入れつつ、その機構・伝統の吸収にも努めていたのだった。
 そして首都をカラコルムから大都(現:北京)に遷し、1271年12月18日に国号を「大元」とした。

 中国式の政策を進める一方で、フビライはチベット仏教(ラマ教)の高僧を国師として仏教を管理させ、モンゴル語の表記する文字としてチベット文字・パスパ文字を制定させ、独自文化政策を進めた。一方で儒教は重視されず、科挙も復しなかった。

 対外的には1273年に三別抄(江華島に籠って抵抗した高麗残存勢力)を滅ぼして高麗を完全に属国化、1274年と1281年の二回に渡って日本を襲撃(文永の役弘安の役)、1276年には将軍バヤン率いる大軍が南宋の都杭州を占領、南宋を実質上滅亡させその領土の大半を征服した(南宋の完全滅亡は1279年)。
 1289年にはビルマのパガン王朝を滅亡させて傀儡政権を樹立した。だが、日本を初め、それ以外にもチャンパ王国(陳朝ベトナム)、カンボジア、マジャパヒト王国(ジャワ島)遠征は失敗に終わった。
 更に外征以外にも先代ハーンであるモンケの息子や、蒙古帝国の長い歴史の中、広大になり過ぎた領土の各地で領主達が独立を画策したり、謀反を試みたりしたため、その鎮圧にもフビライは頭を悩ませ続けた。

 他方で、イスラム教徒の財務官僚を登用し、専売や商業税を充実させ、運河を整備して、中国南部や貿易からもたらされる富が大都に集積されるシステムを作り上げ、モンゴル帝国の経済的な発展をもたらした。
 これにより東西交通が盛んになり、フビライ統治下の中国にはヴェネツィア出身の商人マルコ・ポーロら多くの西方の人々(色目人)が訪れた。

 外征と国内の権力闘争に追われ、財政がそれに追いつかない為に日本への三度目の遠征を断念したフビライは1293年総司令官バヤンを召還し、孫テムルに皇太子の印璽を授けて元軍の総司令官として送り出した。
 だが、それから間もない翌1294年2月18日に大都宮城の紫檀殿で崩御した。フビライ・ハーン享年八〇歳。
 同年5月10日、テムルが即位し、6月3日には、聖梵_功文武皇帝の諡と、廟号を世祖、モンゴル語の尊号をセチェン・ハーン薛禪皇帝)と追贈された。

罪状 はっきり云って侵略者以外の何者でもない。
 勿論時代的な状況や、モンゴル帝国・元朝の歴史からハーンとして戦いとは無縁ではいられなかったのは充分理解出来るし、元寇をもってフビライ・ハーンを悪人とは見ないし、蒙古族の英雄であることも理解出来る。
 しかしながら日本の立場から見れば、ある日いきなり服属を要求する書面を送り、実際に攻めて来たのだから、相当歴史を細かく見られる後世の人でもなければフビライの日本侵攻を是と見る人は勿論、「致し方ない」と見られる人物も皆無に近いだろう。

事件後 文永の役は一日で矢を射ち尽くしたことから昨今では偵察の為の戦いとの見方が強い。役後、フビライ・ハーンは対南宋戦を重視し、南宋滅亡後、再度の襲来の為、東路軍(高麗兵主体)と江南軍(漢人兵主体)を編成し、弘安の役を起こすこととなる。



金方慶(きんほうけい)
略歴 高麗王朝の将軍。1212年に生まれで字は本然
 幼年より学問に志し、読書に熱中、年少にして科挙に及第、一六歳で教員となった(科挙及第の困難さを考慮すれば、若くして恐るべき才である)。
 以後、知御史台事、上将軍、西北面兵馬使、刑部尚書などの要職を歴任した。

 但し、当時の高麗は既にモンゴルに降伏した後で、彼の活躍は同胞である三別抄を相手としたものになり、三別抄討伐で軍功を挙げたことにより侍中となった。

 1274年に六二歳でフビライ・ハーンの命で文永の役に都督使として従軍。
 高麗軍の司令官を務めたが、右副元帥を務める高麗人の洪茶丘(こうちゃきゅう)とは仲が悪く、作戦を巡っていつも対立し、この対立が文永の役を失敗させたとの見方もある。

 帰還後、捕虜として対馬・壱岐で拉致してきた少年少女二〇〇人を、高麗国王・忠烈王と王妃クトゥルクケルミシュ(フビライの娘)に献上した。

 1277年、洪茶丘の讒言により、謀反の嫌疑でフビライに捕らわれたが、忠烈王が懸命に金方慶の無罪を主張したため、赦免された。
 四年後、既に六九歳となっていた身で1281年の弘安の役にも同役で従軍。
 弘安の役から引き揚げた後、退官を願い出たに忠烈王は推忠靖乱定遠功臣の号を与え、三重大匡僉議中賛判典理司事として退官を許し、僉議令を加え上洛君開国公に封じた。

 1300年、金方慶死去。享年は八八歳で、自らを優遇してくれた国王と同じ「忠烈」を諡号として送られ、壁上三韓三重大匡を追贈、神道碑を建立されている。

 金方慶が、元朝支配下の高麗人民を極力戦争に巻き込まれない様に尽力し、を必死に助けようとした忠臣・愛国者として、今でも韓国では高く評価されているのに対し、同じ高麗人でも元軍に降伏した後に高麗攻略の手先となって出世し、金方慶を讒言し、日本襲撃の為に酷使される高麗人の指揮を積極的に務めた洪茶丘は極めて評判が悪い(フビライからの信頼は厚かったが)。

罪状 所謂敵将であり、立場的にも捕らえられれば首を打たれ、晒される立場にある。
 また国王への献上の為に少年少女二〇〇名を拉致したのは立派な戦争犯罪である。
 情状酌量の余地があるとすれば、祖国高麗に対する元朝よりの苛斂誅求を避ける為に、日本に対して過剰ともいえる攻撃を加えてでもフビライ・ハーンに媚を売る必要があったことぐらいだろうか?
 勿論日本側にはそんなことお構いなしに金方慶を非難する権利を有するが。
 戦後、日本側では捕虜とした敵兵の中でも、江南軍捕虜は助命されたが、東路軍捕虜は全員斬首されたのも金方慶の行為と無関係ではない。
事件後 殆ど上記と被るが、帰国後、戦中から仲の悪かった洪茶丘の讒言で一時フビライに捕らえられた。しかし媚元派としか思えない忠烈王の必死の助命嘆願で釈放され、弘安の役にも従軍することとなった。
 投獄された時点で六五歳だったことを考えれば讒言されたことも、その後の展開もかなり稀有なことではなかろうか?




関連人物
亀山上皇(かめやまじょうこう)
略歴 第九〇代天皇。建長元(1249)年五月二七日に後嵯峨天皇の第七皇子として生まれた。諱は恒仁(つねひと)。

 正嘉二(1258)年八月に一〇歳で立太子。翌正元(1259)元年一一月二六日に兄である後深草天皇から皇位を譲られて即位。
 弘長三(1263)年に第六代将軍・宗尊親王が鎌倉を追放されて京都に送り返されると、代わって惟康親王の下向を要請。
 文永二(1265)年に、元のフビライ・ハーンからの国書が鎌倉幕府から回送されてくると国書に対しては黙殺を決定し、幕府と共に元に備えることとし、全国の神社に敵国降伏の祈願を命じた。

 文永四(1267)年、皇子・世仁親王(後宇多天皇)が生まれると、翌文永五(1277)年後嵯峨院の意向を受けて立太子した。
 文永九(1272)年二月に後嵯峨法皇が崩御し、法皇の遺勅を受けた幕府を味方につけて「治天の君」として亀山天皇親政を固めた。
 しかし二月騒動の前月、文永の役を九ヶ月後に控えた文永一一(1274)年一月二六日、皇太子・世仁に譲位して院政を開始(←何の為の継承問題だったのやら)。元寇の際には伊勢神宮に敵国降伏を祈願する勅使を送らせるなど積極的な活動を行った。

 亀山天皇は兄である後深草天皇の血統=持明院統(じみょういんとう)に対して、自らの血統=大覚寺統(だいがくじとう)による皇位継承に力を入れ、皇統が分裂して交互に皇位継承を行う両統迭立の端緒となった(詳細は第玖頁参照)。

 そもそもの原因は父・後嵯峨上皇にあった。
 亀山天皇の兄・後深草院は病気の為とは云え、一七歳で譲位させられただけでも不服だったのに、自分の皇子ではなく、亀山天皇の皇子が立太子された。
 その皇子が後宇多天皇として即することで亀山上皇が院政を開始すると、太上天皇の尊号辞退と出家の意向を示した(そのため、本作でも「後深草院」と記し、「後深草上皇」とは記していない)。
 幕府は後深草院の冷遇を危惧し、北条時宗と関東申次・西園寺実兼(さいおんじかねさね)が妥協案として後深草院の皇子・熙仁親王の立太子を推進し、文永の役の翌年、建治元(1275)元年に熙仁親王は亀山上皇の猶子となり立太子された。
 亀山上皇の血統=大覚寺統から立太子されるのは弘安の役も終わった弘安九(1286)年のことで、嫡孫にあたる邦治王が親王宣下された(後の後二条天皇で、後二条の弟が有名な後醍醐天皇)。

 しかしながら両統迭立の複雑さは半端じゃなく、亀山上皇は西園寺実兼との不和で、親しくしていた安達泰盛も霜月騒動で破滅していたこともあって幕府と険悪になった。
 邦治王親王宣下の翌弘安一〇(1287)年一〇月、約束通りに後宇多天皇の次を伏見天皇が即位すると、院政権は亀山上皇の兄にして、伏見天皇の父である後深草院に移った。
 鎌倉でも征夷大将軍・惟康親王(宗尊親王嫡男)が退位させられて久明親王(後深草院皇子・伏見天皇弟)が将軍となり、持明院統の勢力が増すこととなった。

 亀山上皇は正応二(1289)年九月に南禅寺で出家して、亀山法皇となった。禅宗修業と子作りに精を出す日々を送り、元寇後に立太子させた嫡孫・後二条天皇の代である嘉元三(1305)年九月一五日に亀山殿で崩御、亀山上皇享年五七歳。
 鎌倉幕府滅亡はそれから二八年後のことだった。

事件との関わり 上記にある通り、全国各地の寺社仏閣に敵国降伏の祈祷を行わせ、伊勢神宮に派遣した勅使に持たせた宸筆の願文には身命にかえて国難撃攘を祈願する文言が書かれてあったと云われており、石清水八幡宮にも行幸し、西大寺長老・叡尊(えいぞん)をして真読の大般若経を供養し、敵国降伏を祈願した。
 一方で、蒙古襲来が囁かれる世情の中で譲位し、文永の役の翌年に政敵である持明院統から後宇多天皇の後継者を迎えるなど、内憂外患を抱えていた。

事件後 文永の役の際、博多の筥崎八幡宮が兵火にかかったが、再建の際に亀山上皇『敵国降伏』の宸筆の扁額を寄進している。
 また日露戦争開戦の年である明治三七(1904)年、筥崎八幡宮がある福岡市東区に亀山上皇の銅像が建立され、台座にはやはり『敵国降伏』の四文字が意匠された。



竹崎季長(たけざきすえなが)
略歴 寛元四(1246)年肥後国竹崎郷(現:熊本県宇城市松橋町)に菊池氏の支族である竹崎家に生まれた。通称は五郎

 季長が生まれたときの竹崎家は同族内の所領争いに敗れて没落し、所領は相当少なかった。
 文永一一(1274)年、文永の役では、博多・箱崎の少弐景資の軍に参陣し、息浜に陣を張った。
 元軍が上陸すると景資の許可得て郎党五名を連れて赤坂へ迎撃に出た。
 少弐景資の指揮下では季長は戦傷を負いつつも先駆けの武功を立てた(戦闘そのものでは菊池武房が既に蒙古兵を討ち取っていた)。

 翌朝、元の兵船が暴風雨とともに博多湾から撤退したことで文永の役は終結したが、季長は手傷を負ったことを認められながら「先駆けの功」は認められず、恩賞も出なかった(注:この時代、戦で「手傷を負う」ということは文字通り「名誉の負傷」で、恩賞対象にもなった)。
 恩賞が出なかったのは他の御家人も同じだった(何せ敵地を寸土も得ていない)が、「先駆けの功」にこの上ない誇りを持っていた季長は大いに不服で、建治元(1275)年六月、武士にとって欠かすことの出来ない戦友にして武器であり、体でもある筈の軍馬を売って旅費を調達し、一族の反対を押し切って鎌倉へ向かい、幕府に直訴した。
 直訴は成功で、同年八月に季長の烏帽子親・三井季成(みいすえなり)の伝手で恩賞奉行だった安達泰盛との面会することが出来、恩賞地として肥後国海東郷の地頭に任じられた。


 弘安四(1281)年の弘安の役では、安達盛宗(泰盛次男)の指揮下において、石塁に防がれて上陸できない博多湾上の敵船に小船で斬り込み、大いに活躍した(主な働き場所は志賀島や壱岐)。

 戦後恩賞も無事授けられ、正応六(1293)年菩提寺を建立して出家した季長は、同年二月九日に有名な『蒙古襲来絵詞』を完成させた。
 『蒙古襲来絵詞』元寇における自らの武功や鎌倉へ赴く事情などを中心に描かせたもので、甲佐大明神へ奉納した。
 『蒙古襲来絵詞』には自らの動きに併せて、それに関連した安達泰盛・少弐景資等が描かれている。これには季長が恩義を感じていた彼等が弘安八(1285)年の霜月騒動で滅びていたことに対する鎮魂の意があると云われている。

 正和三(1314)年竹崎季長死去、享年六九歳。宇城・塔福寺に葬られた。

事件との関わり 上記と被るが、少弐景資の指揮下で、郎党五名(姉婿・三井資長、旗指し持役・三井某、三郎資安、郎従・藤源太資光他)を率い、元軍の放つ未知の武器の前に三名の郎党を失い、自らも負傷するも、「先駆けの功」を為し、敵兵を五〇〇メートル押し返す程の奮戦をした。

事件後 これも上記と被るが、乗馬を処分して鎌倉への旅費を捻出する程の苦労の果てに恩賞として海東郷に地頭職を得(ついでに安達泰盛から馬も贈られた)、弘安の役にも従軍した。



日蓮(にちれん)
略歴 第参頁参照
事件との関わり 直接的な関わりは無し。『立正安国論』に記した内憂外患が正しかったとして、役の直前にかつて日蓮を斬ろうとした平頼綱に召されて鎌倉に出頭したが、云ったことは「法華経を信仰せい!」だけ。

事件後 『立正安国論』にて予言した内憂(二月騒動)と外患(文永の役弘安の役)を見届けたかのように弘安の役の翌年、弘安五(1282)年一〇月一三日に入滅。
 禅宗信者が多い鎌倉幕府関係者からは怪僧と見られたが、延文三(1358)年(足利尊氏死去の年)に北朝の後光厳天皇からは「日蓮大菩薩」、大正一一(1922)年に大正天皇から「立正大師」の諡号を追贈された。



判決 主文は後回しにして判決理由を述べます。
 被告フビライ・ハーンの日本侵略に一片の正当性なく、一島を大群で蹂躙される過程で戦死した平景隆の無念は察して余りあるものあり。
 また戦闘外における対馬・壱岐住民に対する略奪、虐待、虐殺、拉致は戦争犯罪として許し難く、未来ある少年少女二〇〇名を自国王への献上とする人権蹂躙を犯した金方慶の大罪は誠に許し難し。
 しかしながら敵国住民への人権配慮が欠如していた時代背景と、原告北条時宗に何の意志も示さない事が戦闘以外の意思疎通手段を無くした落ち度も認めるものなり。
 主文、フビライ・ハーン金方慶の両名に対し、「あんたらの国から見た蒙恬(もうてん)と豊臣秀吉」の蔑称を与えるものなり。

 後、余談だけど、亀山上皇日蓮上人、祈ってばかりいないでもう少し建設的なことも云ってね



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令和三(2021)年五月二一日 最終更新