第伍頁 元寇・弘安の役……対侵略迎撃戦争、その結末は?

事件番号kamakura-0005
事件名弘安の役(弘安四(1281)年)
事件の概要元帝国、二度目の襲来
原告杜世忠
被告北条時宗
関連人物フビライ・ハーン、竹崎季長・安達泰盛
罪状使者斬首・事後報告怠慢
後世への影響鎌倉幕府弱体化・神風迷信の誕生
事件の内容 弘安二(1279)年に南宋を滅ぼし、中国を掌中に収めた元のフビライ・ハーンは日本侵略の為、弘安四(1281)年に元・高麗軍を主力とした東路軍四万と、旧南宋軍を主力とした江南軍一〇万の計一四万の大軍でもって進軍を開始した。いわゆる弘安の役である。
 文永の役が哨戒戦や示威行動に過ぎない、という見方がある一方で、この弘安の役では日本征服後のことを計画して穀物の種や農具・家畜も兵船に積み込まれていたと云われている。

 第一陣として文永の役とほぼ同数の兵力である東路軍が押し寄せ、再度対馬・壱岐が蹂躙されたが、今回は文永の役と勝手が違った。
 七年前の文永の役で異国との戦いがどういうものかを学んだ日本側では敵兵を上陸させないことを第一として、博多沿岸に約二〇kmに及ぶ有名な石塁を築いて待ち構えていた。

 この石塁は有効に機能した。
 石塁は最も頑強な部分では高さ三メートル、幅二メートル以上あり、海からやってくる元軍は宛ら、堀を越えて石垣を登らんとする攻城兵に等しく、四万の東路軍では沿岸守備兵四万に対して明らかに数が少な過ぎた。
 勿論、石垣のない部分での上陸も試みられたが、石塁のない志賀島に上陸した元軍は奇襲を受け、元軍を海上に撤退させた。
 そして兵船に引き揚げた元軍には、夜間に小舟による斬り込み襲撃を受け、少なからぬ被害を元軍に与えた(いい意味でも、悪い意味でも奇襲・夜襲に日本軍は優れている、と薩摩守は考える)。

 上陸できないまま、船上での苦戦を強いられる東路軍に追い打ちをかけるように疫病(天然痘ではないだろう。天然痘なら日本軍にも死者が出る筈)が襲い掛かり、約三〇〇〇余りの兵士が命を落とした。

 予定より一ヶ月遅れてようやく江南軍が博多湾に到着し、東路軍と平戸鷹島付近にて合流し、一〇万もの援軍を得て、元軍は再度襲撃を再開した。
 しかしここで暴風雨が襲来し、元軍兵船は甚大な被害をこうむり、水没を免れた船もただ浮いているだけの状態となった。
 勿論日本軍がこれを好機と見ない筈がなく、御家人達は元軍を追撃し、これを殲滅。鷹島等の島陸地にいて暴風雨を逃れた元軍兵士も、七月七日に竹崎季長等による鷹島奇襲などでほぼ壊滅した。
 東路・江南両軍合わせた元軍で不帰還兵は一〇万に及び、後に解放された捕虜を含めて祖国に帰還出来たのは三万数千だと云われる。
 その捕虜だが、日本軍は高麗人とモンゴル人、及び漢人は殺害したが、博多の唐人町は南宋人の街だったこともあり、博多商人の願いもあって、南宋人だけは捕虜として命を助け、大切に庇護したと云う(民族による捕虜待遇の相違には、東路軍が文永の役で日本人の深い恨みを買っていたことも関係していた)。

 役後、フビライ・ハーンは三度目の襲撃も画策したが、元寇のみならずカンボジアやベトナムでも侵略に失敗(←密林の国に対しては、島国・日本同様に騎馬軍団の本領が発揮出来なかった様だ)し、その財政難の為に日本遠征を諦めたが、それを知る由もない日本では沿岸警備の続行が命じられ、鎌倉幕府も西国武士の財政に窮した。
 そして民間では、対馬、壱岐、北九州住民の間では元軍・高麗軍への恐怖が喧伝され、夜間に愚図って寝ない子供に対して「むくりこくり、鬼が来る」といって躾ける習慣が残った。丸で『三国志』における「遼来々」だな(笑)。


事件の背景 文永の役の前、フビライ・ハーンが高麗国王側近・潘阜(はんふ)に命じて大宰府に送らせた日本に通交を求めた国書の内容は、歴代中国王朝が夷狄と見做した周辺国家に送った国書としては穏やかな内容だったと云われている。
 まあ、文章の最後に「武力を用いるのは望む所ではない。」等の意を持つ文を記してあったから、穏やかと云っても比較の上のことだが……。

 続いて申思佺(しんしせん)、陳子厚(ちんしこう)、黒的(こくてき)、殷弘(いんこう)、趙良弼(ちょうりょうひつ)と云った元の使いが大宰府を訪れたが、経緯は違えどすべて無視され、武力侵攻が決定され、文永の役となった。
 その文永の役が終わった翌建治元(1275)年、フビライ文永の役で見せた武威をたてとした服属要求(←モンゴル帝国以来の元の常套手段)の為、杜世忠(とせいちゅう)を正使とする五人の使者を送った。

 四月一五日に長門国宝津(現:山口県下関市)に上陸した杜世忠は、僅か半年前の襲来に怨嗟の視線を向ける博多住民の間を縫って大宰府に向かったが、大宰府の兵に捕らえられ、八月になって鎌倉に護送された。
 そして鎌倉幕府第八代執権・北条時宗会いもせずに杜世忠等の処刑を決定した
 一応、「杜世忠等をスパイと見た説」、「文永の役や、高飛車な服属要求に断固とした決意・戦陣の威を見せた説」と云う時宗擁護論も有るには有る。しかしながらそれならそれで元に知らしめなかった理由が不明だし、国交がなかったにしても使者を斬るのは当時でも充分国際法違反だった(まあ、国際法があった訳ではないが、いつの世にも交流の不文律はあるものである)。

 結局、元使一行は九月七日に鎌倉龍ノ口にて斬首された。
 正使・杜世忠(蒙古人)は享年三四歳、副使・何文著(漢人)は享年三八歳、計議官・撤都魯丁(ウイグル人)は享年三二歳、書状官・果(ウイグル人)は享年三二歳、通訳・徐賛(高麗人)は享年三二歳だった。

 長く杜世忠一行の処刑を知らなかった元では、弘安二(1279)年に南宋を滅ぼし、東アジアに憂いの無くなったフビライは江南軍司令官である南宋の旧臣・范文虎(はんぶんこ)の進言により、周福(しゅうふく)を使者に送ったが、今度は大宰府にて全員斬首された。
 はっきり云って交渉も何もあったものではなかった

 周福出発の二ヶ月後に杜世忠を乗せて日本に向かった使船の水夫が日本から逃げ戻ったことから、杜世忠一行の斬首を知ったフビライは激怒し、日本への再度の侵攻を計画し、弘安三(1280)年には征東行省を設置した。

 こうして弘安の役勃発が決定的になった訳だが、杜世忠・周福等の使者を問答無用で処刑したことでフビライに再度の襲来を決定させたのは否めない。
 元使殺害については後世にも賛否両論あり、自身も同じ龍ノ口で斬られかけたことのあった日蓮は文を極めて非難したが、武家の観点が色濃い『大日本史』や頼山陽は好意的に見た。
 勿論、文永の役という前例があり、また、フビライにとって、弘安の役は滅ぼしたばかりの旧南宋勢力(勿論忠誠心はかなり薄い)を消耗させ、職にあぶれた兵士を暴走させない働き場として考えてもいた(被征服地の兵を持って新征服目標地に当たらせるのもモンゴル帝国以来の元の常套手段)ことから、弘安の役は起こるべくして起きたと云えなくもないが、それならそれで杜世忠処刑に意味は見出せない。

 従って、この頁では既に前頁で侵略について叩いたフビライ・ハーンの在り様よりも、弘安の役を決定付けた北条時宗の在り様こそ厳しく断罪したい。


原告側人物
杜世忠(とせいちゅう)
略歴 1241年生まれ。元朝の官僚であること以外の詳細は薩摩守の研究不足で殆ど不明。

 人種としては蒙古人で、官位は礼部侍郎。フビライ・ハーンより正使に任命され、降伏勧告の書状を届けに、文永の役の翌年、建治元(1275)年に長門国室津(現:山口県下関市)に上陸し、大宰府に向かうも捕えられて大宰府へ送らる。
 同年八月に太宰府より鎌倉へ護送され、目通りもないまま九月七日に執権・北条時宗の命により、一行共々、を龍ノ口にて斬首された。享年三四歳。
 尚、この杜世忠一行の処刑には禅宗を信仰する時宗が尊敬していた南宋の禅僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)から、「宋が蒙古を軽く見てだらだら交渉している間に侵略されてしまった。」と聞いていてことが影響している、と云われている。

 杜世忠辞世:「出門妻子贈寒衣 問我西行幾日帰 来時儻佩黄金印 莫見蘇秦不下機」
 大意:「出立の日に妻子が防寒着を私に送って、いつ帰ってくるのかと尋ねた。この国に来たとき私は金印を帯びた刀を佩いていた。機会を見て蘇秦(中国・戦国時代の戦略家)にならい和平を整えずに帰ることはできない」
被った被害 死刑に処された。しかも責任者との面会もなく、「斬れ!」の一言で殺された訳で、大宰府行きそのものが死への一直線だった。
 勿論、洋問わず、戦史上、使者に立っただけで命を奪われた物の例は枚挙に暇がない。しかしながら、礼を失した訳でもなく、何の落ち度もなく、ただ外交方針の犠牲になった杜世忠一行に対する哀悼の意を禁じえない。
事件後 処刑後、杜世忠一行五人は首を晒された後に常立寺に葬られた。
 常立寺は当時の処刑場だった龍ノ口で処刑された罪人の菩提を弔う為の真言宗の寺で、一行もその例に従って、葬られ、五基の五輪塔が建てられた。

 杜世忠達の死は元側には伝えられず、その後再度の施設として送られた周福は博多で斬られ、僅か二ヶ月後に杜世忠の刑死が伝えられた。
 つまり周福達は二ヶ月の時間の為に問答無用で命を落とし、元側では「日本討つべし!」の声が高まった。

 一方、杜世忠達の眠る常立寺は享禄五(1532)年に日蓮宗へと改宗した。そして大正一五(1925)年に一行の命日である九月七日に、時の住職・磯野本精によって元使塚が建てられた。

 平成一七(2005)年四月七日、朝青龍関・白鵬関といったモンゴル出身の幕内・十両力士等が元使塚を参拝し、モンゴルで英雄を意味する色である青の布を五輪塔に巻き、元使を弔った。
 その後も毎年、神奈川県藤沢市にある同寺では、巡業の際にモンゴル出身力士による元使塚参拝が行われるようになり、五輪塔には常に青い布が巻かれるようになった。
 更には平成一九(2007)年三月一日にはモンゴル国大統領、ナンバリーン・エンフバヤル夫妻が元使塚を参拝した。

 落ち度なく、死を強要された人々への哀惜の念は古今東西共通の様である。


被告側人物
北条時宗(ほうじょうときむね)
略歴 第参頁参照
罪状 ここまでの文章を見て頂ければ明らかと思うが、内実が恫喝とはいえ、一応は国書を持って交渉に来た使者を北条時宗は引見もせずに殺した。
 ただでさえ国と国が争っても使者は使者として冷静に話し合うのは古来より良識が通用する限り不文律的に洋を問わず守られてきた(徹底抗戦の意を表すだけなら棒刑や耳削ぎ・鼻削ぎに留めるように、命を奪わずとも可能)。

 勿論、「戦争に礼儀などあるものか!」とばかりに使者を斬った例は古今東西多数存在する。むしろ使者を斬った例は日本より中国の方が多いだろう。
 だが、薩摩守が時宗に対して杜世忠一行斬殺を許し難いと考えるのには二つの理由がある。

 一つは時宗が宗教関係者に助言を求めていることである。
 禅宗への信心が深い時宗らしい判断で、本来ならこの考え自体に非は無い。
 だが、求めた相手と求めた内容が納得出来ない。

 時宗が助言を求めた相手は父・時頼との交友のあった、南宋から来日した蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)、兀庵普寧(ごつあんふねい)、大休正念(だいきゅうしょうねん)等だった。
 彼等宋人は、故国を侵略し、後に滅ぼした元に恨みを持つ理由こそあれど、恨みを持たない理由はない者達だった。
 それでも彼等の助言が仏教の観点によるものなら、理不尽な使者斬首にも、「心の内では御仏の許しを請うていた。」と好意的に見られなくもない。
 しかし時宗が求めた助言は「事の是非」ではなく、「海外情勢」に関してであった。
 祖国を元に蹂躙された宋の禅僧達から得た助言は、南宋の弱腰を嘆く物で、「強硬姿勢」を即、「斬首」と解した時宗の短絡さに酌量すべき情状は見られない。


 そして二つ目だが、強硬姿勢を示す為の杜世忠一行斬首なら、下っ端の一人ぐらいを生かして、徹底抗戦の意を元に伝えるのが筋だが、時宗杜世忠達の首を斬るだけ斬って、その事実について何一つ相手方に知らせなかったのである

 更には杜世忠一行の刑死を知らないままに来日した周福の首も刎ねたのである。一体何がしたいのやら北条時宗は元人を皆殺しにするつもりだったのだろうか?

 政権の責任者として、外交に対する自らの判断を伝えもないのであれば、「強硬」も「弱腰」も姿勢に意味が無い。
 (可能性として極めて低いとは思うが)単に気に入らない相手を殺すだけ殺して報復襲来を恐れて黙っていたのだとしたら北条時宗という男、日本史上、稀に見る臆病者且つ狡猾者と見る他はない。
 平成一三(2001)年のNHK大河ドラマ・『北条時宗』では狂言師・和泉元彌氏演じる北条時宗杜世忠一行に死罪を命じる際に、相手の云い分、面子、国家間の礼儀、その他すべてを理解した上で如何にも「止むを得ない」かのような云い様で「しかしながら使者一行は全員死んで貰う。」と云ったわざとらしさも、丸ですべてを理解したかのように唯一言知っていた日本語で「かたじけない」と云って逍遥と死を受け入れた杜世忠あり得なさも、気に入らなかった。

 時宗を主役=善玉としたドラマであることは百も承知だから、作品としては欠片も貶す気はないが、リアリティにこだわるなら、時宗には侵略後の降服勧告に憤然とてブチ切れた斬罪命令を、杜世忠には使者を斬る時宗の暴挙に対して口を極めて罵る怒りを演じて欲しかったものである。

事件後 元軍を撃退し、国難を回避した北条時宗は報復と領土獲得を兼ねた高麗出兵を考えるも企画倒れとなり、領土を得られなかったが為の恩賞問題と三度目の襲来に備えた国防強化に頭を悩ませた。

 そして元寇の諸問題が片付かぬまま三年後の弘安七(1284)年四月四日、病床にあった時宗は出家し、同日病死した。北条時宗享年三四歳。自らが開いた鎌倉山ノ内の瑞鹿山円覚寺に葬られた。
 道場主が学生時代に読んだ新聞記事に対する記憶に間違いがなければ、時宗は尿が悪臭を放つ病だったとのことで、腎臓を病んでいたと思われる。

 丸で元寇に立ち向かう為だけの生涯であったかのような早世も相まって、時宗は後世において「国難に立ち向かった名君」として肯定的に評価された。
 モンゴルの国書に侵略的意図があったとする前提で、南北朝時代には北畠親房が『神皇正統記』において、江戸時代には『大日本史』を編纂した水戸家や、本居宣長ら国学者・頼山陽等が評価し、日露戦争の最中である明治三七(1904)年五二七日に元寇受難者への追贈で時宗にも従一位が追贈されたが、今日では国書無視や元使斬首等の強硬措置が戦争回避への怠りとも見られている。

 少なくとも、薩摩守はこの人物の人間性は認めていない。



関連人物
フビライ・ハーン
略歴 第肆頁参照
事件との関わり 弘安の役を、文永の役に続いて懲りずに侵略を再開した、当時の日本人にとって許すまじき敵国皇帝であった。
 文永の役が侵略そのものだったのか、降服を促す為の示威行動だったのか、小手調べの前哨戦だったのかは想像の域を出ないが、フビライ・ハーンの侵略意欲に疑いの余地はない。杜世忠一行や周福にしたところで北条時宗の矜持とフビライ・ハーンのエゴの犠牲になった、と云っても全くの過言ではない。

 勿論、杜世忠達の死はフビライの望んだことではないので、ここでは被告とはしないが、皇帝としての責任、日本以外にも南宋、三別抄、ベトナム、カンボジアへの侵略と元朝内の内紛に多くの命がとばっちり的に失われたことは座して黙する訳にはいかない。

事件後 性懲りもなく三度目の日本遠征を画策したが、対日戦争以外にも外征と国内の権力闘争に追われ、財政がそれに追いつかない為にこれを断念した。
 特に高祖チンギス・ハーンの弟達の末裔家との争いが後を絶たず、1293年総司令官バヤンを召還し、孫テムル(次男チンキムの三男。チンキムはこの時既に早世)に皇太子の印璽を授けて元軍の総司令官として送り出して間もない翌1294年2月18日に大都宮城の紫檀殿で崩御した。
 同年6月3日に、聖梵_功文武皇帝の諡と、廟号を世祖、モンゴル語の尊号をセチェン・ハーン(薛禪皇帝)と追贈された。



竹崎季長(たけざきすえなが)
略歴 第肆頁参照
事件との関わり 文永の役での経験を活かして安達盛宗(泰盛の子)の指揮下において従軍。
 『蒙古襲来絵詞』には同郷である肥後の菊池武房や、伊予の河野通有(こうのみちあり)と戦陣を共にし、志賀島や壱岐の海戦で敵の軍船に斬り込む等の活躍をして軍功を挙げた竹崎季長の姿が描かれている。

 文永の役同様、戦場への一番乗りを心掛けていた。特に一番乗りが認められた記述は見られないものの、味方の船が遅れたために、他家の船に乗り込んでも元の兵船に乗り込むほどだった。

事件後 恩賞奉行安達泰盛の子・盛宗にその場で戦功が伝えられたのが効を奏したのか、文永の役時と異なり、弘安の役後は問題なく多大な恩賞を与えられた(恩賞の詳細は不明です…スンマセン)。
 後に元寇における自らの武功や鎌倉へ赴く事情などを中心に『蒙古襲来絵詞』を描かせ、甲佐大明神へ奉納。
 この奉納時には、恩賞奉行として竹崎季長の直訴に応じ、便宜を計った安達泰盛や、指揮下に着いた少弐景資等が弘安八(1285)年の霜月騒動で滅びており、恩義のある彼等への鎮魂も兼ねていると云われている。

 正応六(1293)年に菩提寺を建立して出家し、正和三(1314)年死去。竹崎季長享年六九歳。熊本県宇城市の塔福寺に葬られた。



安達泰盛(あだちやすもり)
略歴 第参頁参照
事件との関わり 文永の役に続き、恩賞奉行を務めた。

 文永の役後に幕府では、再度の襲来に備える為に西国を北条家や、北条家の息のかかった御家人を守護とした中、安達泰盛は肥後国の守護も兼任したが、役中、本人は鎌倉に在って、現地へは次男の盛宗を守護代として派遣した。
 また文永の役中から、弘安の役後にかけて、報復、示威恫喝、領土獲得のいずれを目的としたものかははっきりとしないが、北条時宗と泰盛は「異国征伐」も論じていた(役後の時宗の早逝により頓挫)。

事件後 弘安の役の翌年である弘安五(1282)年に秋田城介の官職を嫡子・宗景に譲り、自らは陸奥守(幕府初期の大江広元、足利義氏を除いて北条氏のみが独占してきた重要官職)に任じられ、権力が増す一方で責任も増し、元寇に対する御家人達の恩賞を巡る訴えに忙殺された。

 弘安七(1284)年四月四日に執権・北条時宗が死去すると時宗の嫡子・貞時(この時一四歳)を七月に第九代執権に就任させた。そして時宗の今際に追随して出家した安達泰盛法名覚真と称した。

 出家したとはいえ、得宗家との結び付きから得た権勢は相変わらずで、執権の叔父(形式上は外祖父)として幕政を主導し続け、徳政令にも参画。
 「新御式目」等の新法令発布、将軍権威の発揚、引付衆・得宗にも清廉と倫理を求め、御内人(得宗家直臣)に対しては幕政介入抑制を図った。

 一方で朝廷・有力寺社等の伝統的秩序の回復による社会不安の沈静化に務め、幕府の基盤の拡大と安定を図ったことが御内人・御家人達の恨みを買い、御内人代表である内管領平頼綱と対立し、次第に政治的に孤立した。

 そして翌年、弘安八(1285)年、頼綱に讒言され、執権・貞時は泰盛討伐の命を下したため、一一月一七日、出仕したところを待ち構えていた御内人らの襲撃を受けて殺害された。安達泰盛享年五五歳。一族郎党ことごとく殺害され、一族五〇〇名余りが自害した。
 頼綱方の追撃を受け、基盤であった上野・武蔵の他、騒動は全国に波及して泰盛派の御家人の多くが殺害された(霜月騒動)。

 ちなみに讒言の主である頼綱も七年後に平禅門の乱で貞時によって滅ぼされ、安達一族は泰盛の弟・顕盛の孫である安達時顕が家督を継承した。



判決 主文、被告・北条時宗の従一位追贈を当法廷内においては、有名無実のものとして非難し、杜世忠一行、周福一行の例に謝罪することを命ずる。

 一国の使者たる杜世忠一行を、何の落ち度もないのに敵国の使者と云うだけの理由で処刑し、フビライ・ハーンの再侵略に口実を与えただけでも理不尽なる上に、処刑の事実を相手方に伝えず、来日すれば死刑になることを知る術もなく周福一行を死に追いやった対応は怠慢かつ非道千万!

 僅かに、元々が持ち掛けられた侵略戦争に端を発していることと、かつてない国難に政治経験の少ない若年で立ち向かわざるを得なかった情状のみを考慮するなり。



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令和三(2021)年五月二一日 最終更新