第陸頁 霜月騒動……御家人VS御内人の醜悪闘争
事件番号 kamakura-0006 事件名 霜月騒動(弘安八(1285)年一一月一七日) 事件の概要 有力御家人筆頭安達一族に対する讒言による族滅事件 原告 安達泰盛 被告 平頼綱 関連人物 北条貞時 罪状 讒言による族滅討伐 後世への影響 御内人勢力の台頭 事件の内容 誠に醜い讒言合戦であった。
八代目執権・北条時宗存命時より執権外戚にして有力御家人であった安達泰盛と、北条得宗家直臣である御内人の筆頭にして内管領である平頼綱は静かな対立関係にあった。
そしてそれは弘安七(1284)年四月四日に両者を調停していた時宗が早世したことで、両者の対立は歯止めの効かないものとなった。
元寇の恩賞問題・国防問題で借金が嵩み、生活苦に苦しむ御家人の哀訴を受けた泰盛はその救済の為に徳政令の発令を決し、第九代執権・北条貞時(時宗嫡男・泰盛甥)の許可を得た。
だがそれを知った頼綱は憤慨した。
御内人は金融業者と密接な関係にあり(詳細後述)、徳政令の発令は身の破滅を意味し、何としてもこれを防がんとした頼綱は貞時に泰盛を讒言した。
曰く、徳政令が御内人の生活を苦しめ、幕政を滞らせる愚策であることを訴え、更には安達泰盛追討の命令を受ける為に、
「泰盛の子・宗景が源頼朝公の落胤であると称して源氏に改姓し、謀反を起こして将軍になろうとしている。その証拠に源氏将軍のみに伝えられる「髭切太刀」を持ち、三代将軍実朝公未亡人・八条禅尼も宗景を後押ししている。」
との讒言まで行った。
確かに泰盛は「髭切太刀」を京都の某霊社から探し出して法華堂の御逗子に納めていた。
件の太刀は霜月騒動で行方不明になったが、騒動の翌月、一二月五日に発見され、貞時によって赤字の錦袋(平家の傍流である北条氏は赤が一族を示す色になる)に包まれて再び法華堂に奉納された。
貞時から泰盛追討の命を受ける前にも頼綱は、嫡男・宗綱、次男・飯沼資宗とともに金の力で「泰盛謀反」の流言を行った。
当初は泰盛と頼綱の不仲を誰でも知っていたこともあって有力御家人達はすぐには靡かなかったが、現金ばら撒きや金融業者と結託した借金帳消しをたてに御家人達も味方につけていた。
大義名分と仲間を得た頼綱は弘安八(1285)年一一月四日と一四日に日光山別当源恵に依頼し、泰盛征伐の祈祷を行い、泰盛襲撃を敢行した。
覚山尼(泰盛妹にして養女・時宗未亡人・貞時母)を通して事の成り行きを知った泰盛は執権を味方につけ返す為に一一月一七日に松谷の別荘から、正午頃に小町大路と横大路の交差点付近にある塔ノ辻にある出仕用の屋形に出かけ、貞時の元に駆け付けんとした。
しかし頼綱は既に手を回していて泰盛は御内人の手勢に阻まれた。
御内人が北条家の事務員的な存在だったのに対し、(表向きは)出家・隠居の身とはいえ安達泰盛は父祖の代から源平合戦、承久の乱、宮騒動、宝治合戦を生き抜いてきた古武士で、圧倒的な不利な情勢下でも群がる敵を斬りまくり、乱闘による戦傷者は死者三〇名、負傷者一〇名に及んだ。
何とか貞時邸内に入り込んだ泰盛だったが、既に貞時は頼綱の手の者によって連れ出されており、更に頼綱は火を放ち、得宗御所は炎上し、将軍御所にも延焼。命運を悟った安達泰盛は自害して果てた。
午後四時頃に騒動の勝敗が決し、安達方では泰盛、嫡子・宗景、弟・長景以下一族の者五〇人がある者は自害し、またある者は討死にした。
頼綱は安達一族の徹底殲滅を命じ、泰盛派と見た各地の御家人にも追討の手を延ばした。
安達時景(泰盛弟)が飯山に逃亡したが殺害されたのを皮切りに、安達一族では五〇〇名余りが自害(長屋王の変並である)、御家人では安達氏の基盤である上野国・武蔵国で特に被害が多かった。
武蔵では武藤少卿左衛門が、遠江では安達宗顕(泰盛甥)が、常陸では安達重景(泰盛弟)が、信濃国では伴野彦二郎(泰盛姻族)が自害した。
九州では泰盛の次男・盛宗が少弐景泰と共に敗死した(岩門合戦)。
一族以外では泰盛派と見られて、小笠原氏、足利氏、伴野氏、伊東氏、少弐(武藤)氏、藤原氏、吉良満氏、大江氏、小早川氏、三科氏、天野氏、伊賀氏、二階堂氏、大井氏、綱島氏、池上氏、行方氏、南部氏、有坂氏、鎌田氏等、が命を落とし、同時に戦国の常で、この大量粛清にあっても佐々木氏、今川氏、千葉氏では一方が泰盛に味方し、一方が頼綱に味方して御家の生き残りを図った例も見られた。
命は落とさずとも泰盛の娘婿であった北条貞顕(金沢貞顕)は下総国に蟄居、宇都宮景綱、長井時秀、長井宗秀(泰盛親類にして評定衆)が失脚した。
霜月騒動が治まり、実権を握った平頼綱は泰盛の政策を全否定し、北条一族による支配に関しては得宗家を頂点とした体制は変わらなかったものの、大仏流(おさらぎりゅう。北条義時の弟にして初代連署北条時房の裔)、名越流がそれに続き、足利氏等の旧来の御家人の姿が消え、朝廷では泰盛と仲の良かった亀山院政が停止に追いやられた。
しかし絶頂に登り詰めた筈の平頼綱の栄耀栄華も長くは続かなかったのです(←『知ってるつもり』の関口宏氏っぽい口調で)。
事件の背景 事件の背景にあるのは、権力的対立であり、同時に経済的対立でもあった。
宝治合戦において対抗馬となる有力御家人勢力を屠り、二月騒動で一族内の抵抗勢力も駆逐した得宗家において、その内部で大権を持ち得たのが外戚と直臣で、霜月騒動とは外戚にして御家人の筆頭である安達泰盛と、直臣である御内人筆頭にして内管領である平頼綱の醜い争いだった。
泰盛は幕府創設以来の有力御家人安達氏の当主で、北条氏得宗家の外戚として執権北条時宗を支え、越訴頭人、御恩奉行などの重職を歴任した幕政の中心人物だった。
それに対して頼綱は執権・北条貞時の乳母の夫で北条氏得宗家の執事内管領で、得宗家が何かをする時にその先頭に立つ立場にあった。
幕府内部では外様御家人は泰盛を、得宗被官勢力は頼綱を支持し、その勢力は拮抗していた。
両者は立場の違いと見解の相違(恩賞問題や対将軍、対朝廷問題)から互いを邪魔者と見て、それでも八代執権・北条時宗存命中は争うことはなかった。
しかし弘安七(1284)年四月四日に時宗が死去して、一四歳の嫡男貞時が九代執権となると、蒙古襲来以来、内外に諸問題が噴出する中で幕政運営を巡って両者の対立は激化した。
その中で泰盛が主導した、「弘安徳政」と呼ばれた幕政改革は新たな法令を大量に発布し、将軍を戴く御家人制度の立て直しを図って御家人層を拡大し、将軍権威発揚によって得宗権力と御内人の幕政への介入を抑制するもので、得宗被官である頼綱等には到底受け入れられないものだった。
更に対立を乱闘に至らしめたのは借金問題だった。
二度の蒙古襲来並びに累代に渡る分割相続で経済的に困窮していた御家人達は後の時代に土倉となった借上等の高利貸しの「一所懸命」に守ってきた土地を担保に借金し、獲得地無き戦勝故に恩賞も貰えず、利息が利息を呼び、別の高利貸しから借金をし、首の回らなくなった者が続出した。
現在でさえ闇金融を取り締まる筈の出資法は甘く、闇金は暴力団の資金源にして多くの人々の命を奪う事態を生むこともあった。
まして鎌倉時代は法定金利、破産宣告、ブラックリストもなく、「金返せ!なかったら、土地出せ! 妻出せ! 子供出せ!」、「殺すぞ! 」が言葉通り実行されたのだから、性質の悪さは現代の比ではなかった。
ここで疑問に思うのは、商人がどうやって武器を持つ武士に対して強硬に出られるのか?ということである。
答えは裏に御内人がいたからである。
頼綱を筆頭とする御内人は借上・問丸に便宜を図っては賄賂を受け、時には取り立て屋まで務め、元寇の戦費調達の為に土地を担保に借りた金を返せない御家人の土地を奪ったり、妻子を人買いに売り飛ばしたりするのに協力したのだから開いた口が塞がらない。
ここまで来ると武士かやくざか分らんよ、ホント。否、一応は公職にあった訳だからやくざより性質が悪い。
実際奪った土地・妻子が売買された金は御内人に流れる訳だしな。
そんな窮地に陥った御家人達を救う為に泰盛が(一時しのぎとは云え)考案したのが徳政令であった。
徳政令とは、借金をチャラとし、担保とした土地は無条件で借り主に返さなくてはならない、という金融業者泣かせの政令で、勿論窮状に陥っていた御家人は大喜びし、土地を担保に金を貸していた金融業者は発狂せんばかりの怒りを覚えた。
現代の日本で徳政令が発令されたら大喜びする人はかなりの数に上ることだろうが、その後の経済混乱を考えれば発令されることなどあり得ないのは明白である(苦笑)。ま、国が八〇〇兆円以上も借金(平成二二(2010)年一月三日現在)しているでは話にならないが……。
この徳政令は、結局は霜月騒動、平禅門の乱を経た後に発令されたが、全くの一時しのぎで、経済は混乱し、後々御家人は借金することも出来なくなり、余計に困窮したのは周知の通りである。
ともあれ、御家人は一時的にでも助かったが、全く得るものなく一方的に損した金融業者にしてみればとんでもない悪法で、金融業者の上前をはねていた御内人にとっても、自らの飯の種は守らない訳にはいかず、頼綱は文字通り、殺してでも泰盛の経済政策を阻止せんと強引且つ乱暴な手段に出た訳である。
様々な要因から霜月騒動の背景となった両者の対立要因も見て来たが、多岐に渡ったので、チョット、下の表に簡単にまとめてみた。
両者の対立要因
要因 安達泰盛 平頼綱 北条貞時との関係 伯父(母(覚山尼)の兄)。形の上では覚山尼は泰盛の養女なので、泰盛は外祖父でもある。 乳父(乳母が頼綱の妻) 日蓮に対する処遇 覚山尼の懐妊に対して、僧を切るのは不吉、として処刑を阻止。 禅宗・念仏宗非難に対する怒りから斬ろうとしたが、阻まれたので佐渡に流す。 タイプ 体育会系・ブルーワーカー・肉食系 文化系・ホワイトワーカー・草食系 支持基盤 借金御家人 得宗被官・金融業者 立場 御家人 御内人 徳政令に対して 御家人の窮状を救うため止む無し。 破産する。冗談じゃない。 本姓(自称) 藤原氏 平氏 政敵に対して 陪臣め! 外様め!
仲良くしろという方が無理だな(苦笑)。
原告側人物
安達泰盛(あだちやすもり) 略歴 第参頁参照 被った被害 讒言によって発せられた命令による自身の殺害並びに一族郎党・自派勢力への執拗なまでの殺戮。 事件後 自身は命を落とし、安達一族も多くが運命を共にしたが、勝者となった筈の政敵・平頼綱も霜月騒動の七年後、平禅門の乱で北条貞時の命で滅ぼされた。
霜月騒動の失脚者達が復帰し始める中、泰盛の弟・顕盛(あきもり)の孫である安達時顕(ときあき)が家督を継承。
尚、霜月騒動から三二年の時を経た文保元(1317)年に時顕が、騒動で命を落とした父・宗顕(むねあき)の三三回忌供養を行った際の記録によると、その頃でもまだ泰盛の供養は堂々と行えるものではなかった。
讒言と金の力の前に一族と共に命を落とした安達泰盛だったが、人望は明らかに頼綱を凌いでいた(というか頼綱になさ過ぎるのだが……)。
元寇の功労者・竹崎季長は自らの訴えと苦労に真摯に対応してくれた泰盛の恩を忘れず、その供養も兼ねて『蒙古襲来絵詞』に恩人・泰盛と、弘安の役を共に戦い、岩門合戦で戦死した安達盛宗(泰盛次男)と少弐景資の姿を記している。
文化面では後嵯峨院から漢籍を下賜される親交があり、院の崩御の翌年である文永一〇(1273)年に高野山奥ノ院に後嵯峨院を追悼する石碑を建立している(うーん…この文章を書いた二日前に現地に行ってきたのだが、何も気付かんかった……)。
公家の評判も良く、書道・蹴鞠にも堪能で、仏教面での活躍も現在に残されており、吉田兼好は『徒然草』にて泰盛を馬の名人と語っている。
政争には敗れたが、人の歩む歴史としては決して頼綱如きにひけを取ってはいないことだろう。
被告側人物
平頼綱(たいらのよりつな) 略歴 第参頁参照 罪状 金融業者との結託によって御家人達の生活を困窮せしめながら、その救済に出た安達泰盛を利権の邪魔者と見て、讒言と賄賂を利用した中傷で謀殺し、一族も過剰なまでに殺戮。
事件後 実権を握った平頼綱は、安達泰盛の政策方針を完全に撤回。
しばらくは追加法を頻繁に出す等、手続きを重視した政治を行うも弘安一〇(1287)年に七代将軍源惟康を立親王して惟康親王として京都追放の準備が整うと恐怖政治を敷いた。
しかしながら本来、立場的には北条家の召使い的な立場に過ぎない御内人が権力を握って評定衆や引付衆の上で監察者然とした専制支配を行う姿は諸人の、何より最大庇護者である筈の執権・北条貞時の怒りを買い、やがて平禅門の乱という身の破滅を招いた。
関連人物
北条貞時(ほうじょうさだとき) 略歴 鎌倉幕府第九代執権。文永八(1271)年一二月一二日、第八代執権・北条時宗の嫡男として鎌倉に生まれた。幼名は幸寿丸。
母は安達泰盛の妹(にして養女)・覚山尼。乳母は平頼綱の妻だった。
建治三(1277)年に元服し貞時を名乗った。
弘安七(1284)年、父・時宗が病死し一四歳で第九代執権に就任。翌弘安八(1285)年一一月、頼綱の讒言を受け、泰盛討伐の命を下した(霜月騒動)。
これにより頼綱が実権を握り、正応二(1289)年に将軍惟康親王を退けて、久明親王を擁立した。
正応六(1293)年四月、恐怖政治で幕政を牛耳っていた頼綱とその一族を鎌倉大地震(永仁の大地震)の混乱に乗じて誅殺して実権を取り戻した(平禅門の乱)。
同年一一月、引付衆を廃止して訴訟制度改革を行い、得宗家による専制政治の強化に努めた。
永仁四(1296)年には異国船出没に備えて鎮西探題を新設置。西日本各国の守護を北条一族などで固めて、西国支配と国防の強化も行った。
永仁五(1297)年に永仁の徳政令を発布し、一時的に御家人を救うも、経済混乱と御家人の借金手段をなくし、結果としては逆効果となった(誰がやってもそうだけど)。
正安三(1301)年、彗星飛来を凶兆と捉えた貞時は出家。執権職を従兄弟の北条師時(ほうじょうもろとき)に譲るも、隠然たる政治力は保ち続けた。
応長元(1311)年一〇月二六日、死去。北条貞時享年四一歳。廟所は鎌倉市山ノ内の瑞鹿山円覚寺の塔頭仏日庵。
事件との関わり 事件当時一五歳の若年とはいえ、制度上は最高権力者で、「霜月騒動」という名前ではあるものの政治上では執権の命令による「謀反人・安達泰盛」に対する誅殺であった。
つまり本来は事件でさえなく、それでも「騒動」とされるのはこの霜月騒動が「粛清」や「政変」と呼ぶことさえ躊躇いを覚えるほど醜い争いであり、同時に執権の命で行われたものとしては余りにもお粗末と見られているからだろう。
一五歳(現代の見方では一四歳の中学校二年生)の政治力があると思えない若者が老獪な側近に言葉巧みに仕向けられて出した命令とはいえ、実の伯父一族を族滅することに躊躇いはなかったのだろうか?
まあ、薩摩守はこの人物を暗君と見ている訳ではないので、この時点での未熟さがどうにも歯痒い(というか、代々執権に短命が多過ぎて判断し辛くしている面がある)。
事件後 霜月騒動では平頼綱に云われるままに安達泰盛追討の命令を出したが、次第に政治力を見せるようになった。
少なくとも頼綱の得宗家の力を高める政策が、自分の為に行われているものではないことを察知する分別はあり、やがて平禅門の乱で反撃に出ることとなった。
判決 主文、被告・平頼綱の財産を没収し、原告への賠償・名誉回復、破産御家人への救済に充てる事を命ずる。
勿論、当判決は実際の事件より七〇〇年以上の後に云い渡している、物理的にも法的にも実効性を持たないものだが、薩摩守自身がこう云わなければ気が済まない(苦笑)。
世に讒言によって君命を悪用した誅殺は数多くあれど、原告が政治的にはともかく、身体的には全く被告に対して害意がなかったのをかかる非道の手段でもって一族や友好関係者まで害せしめた被告の確信犯としての悪劣さもまた当法廷における最大の非難に値するものなり。
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令和三(2021)年五月二一日 最終更新