第漆頁 平禅門の乱……因果は巡る

事件番号kamakura-0007
事件名平禅門の乱(正応六(1293)年四月二二日)
事件の概要地震に乗じた平頼綱一族の誅殺
原告平頼綱
被告北条貞時
関連人物平宗綱
罪状天災に乗じた卑怯な急襲
後世への影響御内人勢力の衰退と没落支族の復帰
事件の内容 霜月騒動で政敵を屠った平頼綱の誅殺事件である。
 弘安八(1285)年、有力御家人筆頭にして、執権・北条貞時の伯父にあたる安達泰盛一族を、貞時の密命を得て誅殺(霜月騒動)した御内人筆頭にして内管領の頼綱は、当初こそ泰盛路線を撤回しつつも、元寇以来の諸問題に対し、追加法を頻繁に出すなどして、手続きを重視した政治を行っていた。
 しかし、弘安一〇(1287)年一〇月四日に、七代将軍源惟康(これやす)が立親王して皇籍復帰して惟康親王となると、恐怖政治を振るい、最大の後援者である筈の貞時にも疎まれるようになった(惟康立親王もまた将軍追放の為の布石だった)。

 本来、内管領とは云っても北条得宗家の執事に過ぎない御内人である頼綱は身分の上ではどこまで行っても小物であった。
 それゆえに評定衆や引付衆と云った幕府の重臣達に対して、彼は「監視者」として臨み、専制支配を推し進めた。
 その専横は北条得宗家の権威を強化するものだったが、本来得宗家当主・貞時の権威を高める筈の強化策が、頼綱のためのものであったことは誰の目にも明らかで、次第に貞時は乳母の夫で、信用のおける御内人だった筈の頼綱に不満を抱くようになった。

 頼綱は主君や世の人々ばかりではなく、嫡男にも嫌われていた。
 頼綱の嫡男は平宗綱(たいらのむねつな)といい、侍所所司として将軍惟康親王に仕えていて、その惟康が京都に送還される際に、後ろ向きの粗末な張輿に乗せられ(流人に対する扱いである)、居所の御簾を土足の雑人が引き落とす有り様に憤慨していた。
 元々父・頼綱が嫡男である自分より弟の飯沼助宗(いいぬますけむね)を偏愛していたことを恨んでもいたので、執権である貞時に、「父は次男・助宗と共に専横を振るい、いずれは助宗を将軍に就けんと企んでいる。」と讒言していた程だった(←さすが讒言者の息子だ!)。


 そして正応六(1293)年四月一三日、鎌倉大地震が発生したことが契機となった。
 大地震は鎌倉の堂舎や人宅がことごとく倒壊せしめ、幾千人もの死者を出した。建長寺が倒壊炎上。由比ヶ浜の鳥居付近では、一四〇の死体が転がり、山崩れと家屋の倒壊で、関東全域では二万三〇三四人の死者を出し、大慈寺が倒壊した。
 地震は二一日まで、断続的な余震を伴い、人々の不安が高まり、寺社では愛染王護摩や大北斗法の読経などが行われた。

 そしてその混乱に乗ずるように、地震発生から一〇日目の四月二二日、北条貞時は武蔵七郎等に対して、謀反の咎で平頼綱、飯沼助宗親子を初めとする一族への襲撃を命じ、鎌倉・経師ヶ谷の頼綱邸が襲われ、頼綱は自害し、飯沼助宗も討たれ、炎の中で一族九三名が命を落とした。
 襲撃は不意打ちに始まった乱戦で、頼綱父子はロクな抵抗も出来ない混乱ぶりで、その乱戦の中では、貞時の娘二人も死亡する有様だった。
 それは霜月騒動の因果がそのまま帰って来たかのような、余りに呆気ない平頼綱の破滅で、乱は頼綱の別名にちなんで、「平禅門の乱」と呼ばれた。

 尚、頼綱の嫡男・平宗綱は襲撃前に出頭して、父の逆意に同意していないことを訴えたが、宇都宮景綱に預けられ、乱後に佐渡に流されたが、後に赦免されて内管領に復帰した。
 この平禅門の乱によって、御内人の勢力は一時後退して、貞時の専制政治が始まり、北条家の支族である金沢顕時や、霜月騒動で没落を余儀なくされた安達氏などの勢力も徐々に幕府中枢に復帰した。

 ちなみにこの大地震と、その夏の旱魃、前年の天変(「木星が軒轅女主星(けんえんじょしゅせい・獅子座のα星)を犯す」というもの)等を機に、正応の年号は八月に永仁に改められた。


事件の背景 簡単に云えば、霜月騒動後、程なく有頂天になった平頼綱が敵を作り過ぎたことと云える。

 そもそも霜月騒動にしたところで、金と讒言で安達泰盛謀反をでっち上げたもので、讒言で伯父である泰盛の追討を命じたことは、母と妻が安達氏の人間である北条貞時に取っても後味の悪いものだったろうし、泰盛襲撃に参加した御家人達にとっても後味のいいものではなく、騒動後は御家人よりも身分の低い御内人が幅を利かせたのだから面白い筈がなかった。

 更には得宗家の権威高揚(実際は自己の権威高揚)の為に、七代将軍・源惟康がいつまでも将軍位に在るのを良しとせず、まだ二四歳の―それでも政村、時宗、貞時の三執権に君臨した―惟康を上述したような極めて不遜な待遇で送還したのである。
 勿論、朝廷の覚え目出度かろう筈がない。京都では頼綱の専横は貴族から、

 「城入道(泰盛)誅せらるるののち、彼の仁(頼綱)一向に執政し、諸人、恐懼の外、他事なく候

 と詠われていた。

 しかもそんな渦中にあって頼綱の次男・飯沼助宗は検非違使に任ぜられ(←御内人としては極めて異例)、新将軍・久明親王(ひさあきしんのう)を迎える為の上洛時には、

 「流され人ののぼり給ひしあとをば通らじ(流罪として送還された前将軍惟康の通った跡は通れぬ、という意)」

 と、と詠い、わざわざ箱根を通らず足柄山を越えた、というふてぶてしさだった。
 平禅門の乱の前年である正応五(1292)年五月に再上洛した際は、検非違使として賀茂祭の行列に加わったが、その出で立ちは金銀で飾り立てたもので、見物した一貴族が「その美麗さは、およそ言語の及ぶところではない」と評する程、華美なものであった。

 そしてこの様な分を越えた振る舞いは、どこかで頼綱本人も不安の感じていたのかも知れなかった。頼綱はかつて霜月騒動直前に、泰盛調伏の祈祷を山門の護持僧に依頼したが、同じ僧に「世上怖畏」として自身の身の安全を祈らせていた。

 平禅門の乱……それは鏡に正反対に映った如く、と非常に酷似していると云える。



原告側人物
平頼綱(たいらのよりつな)
略歴 第参頁参照
被った被害 自身が自害に追い込まれ、次男・飯沼助宗を始め、一族九三名が誅殺された。
 それは幕府に対する謀反を企んだ咎によるものだが、正式な逮捕や裁きを経たものではなく、地震のどさくさ紛れに私刑に処されたに等しかった。

 だが、霜月騒動の因果もあってか、どさくさ紛れの不意討ちに等しい襲撃の果てに殺された死に様はあまり同情されていない。

事件後 自身と、自身が偏愛した飯沼助宗には所謂「事件後」は存在しない。
 平禅門の乱後は、頼綱と仲の悪かった嫡男・宗綱が命を永らえ、流罪を経て内管領に復するも、その後ははっきりせず、平家に限らず御内人の勢力は衰え、執権・北条貞時の専制が行われた。
 最終的に北条得宗家執事の座は頼綱の弟(または甥とも云われる)長崎光綱が就任し、幕末の長崎家の権勢の先駆けとなった。



被告側人物
北条貞時(ほうじょうさだとき)
略歴 第陸頁参照
罪状 はっきり云ってやり方が汚い。
 しかもどさくさ紛れの急襲の最中、彼の娘二人が巻き添えを食って命を落としているのである!
 薩摩守も人としての平頼綱を認めておらず、そんな頼綱が相手であることと、執権の立場から見た頼綱の専横を見れば、北条貞時頼綱に殺意を抱いたとしても無理はないし、霜月騒動が讒言と金権に塗れた安達泰盛私刑に等しい暴動であることを思えば、頼綱の讒言で大切な母方の身内にして、幕府功臣である泰盛の誅殺を命じたことを悔いた貞時頼綱に死をもたらしたことは決しておかしな話ではない、と見ている。

 それにしたところで、自力で自らが頼綱に利用されたことを自覚し、執権としての権威を取り戻す力のあった者が、地震のどさくさに襲撃する形でもなければ頼綱父子を誅殺出来なかったものだろうか?

 もし鎌倉大地震が起きなかったら、頼綱は天寿を全うしていたのだろうか?
 重ねて主張する。頼綱誅殺に非はないが、その手段は卑怯千万で、生じた犠牲は甚大な非難に値する。

事件後 平頼綱を誅殺したことで政権を掌握した北条貞時は事件の七ヶ月後となる永仁元(1293)年一一月、引付衆を廃止して訴訟制度改革を行い、得宗家専制政治強化に努めた。
 また、薩摩沖に異国船が出現した事件から三度目の元寇を懸念し、永仁四(1296)年、国防強化の名目で九州に鎮西探題を設置して西国守護を北条一族で固めた。

 翌、永仁五(1297)年、霜月騒動で頓挫していた徳政令を発布(永仁の徳政令)。四年後の正安三(1301)年、彗星飛来を見て、凶兆を感じた貞時は出家して、執権職を従兄弟の北条師時(ほうじょうもろとき)に譲ったが、出家した他の歴代執権同様、政治力は保持し続けた。

 応長元(1311)年一〇月二六日、死去。北条貞時享年四一歳。



関連人物
平宗綱(たいらむねつな)
略歴 生年未詳。通称・左衛門尉。北条得宗家御内人にして内管領でもあった平頼綱の嫡男に生まれた。役職は鎌倉幕府の侍所所司。
 
 役目柄、侍所所司として七代将軍・惟康親王に仕えた。

 正応五(1289)年九月、得宗家が惟康親王の長期将軍位在位を嫌って惟康将軍を都へ送還させた際に、宗綱は父・頼綱の命で将軍送還の指揮を執った。
 送還は、丸で流刑人に対する扱いで、後ろ向きの粗末な張輿に乗せ、居所の御簾を土足の雑人が引き落とすなどして、(渋々ではあったが)将軍権威の粉砕を担った。

 一方で、父・頼綱は次弟の飯沼助宗を偏愛したことから、宗綱とは不仲となり、宗綱は執権・北条貞時に「父は、次男の助宗と共に専権を振るい、いずれは助宗を将軍にしようと企んでいる」と讒言した。

 正応六(1293)年四月一三日に鎌倉大地震が起こると、そのどさくさに貞時の命を受けた討手が頼綱邸に差し向けられる前に、宗綱貞時の前に出頭し、父の叛意に同調していないことを主張したが、宇都宮景綱預かりとなり、平禅門の乱後に佐渡国へ流された。

 後に赦免されて得宗家に戻り、内管領となったが、後々の詳細は不明で、平宗綱の没年は不明である。

事件との関わり 襲撃前に出頭し、宇都宮景綱預かりとなっていたため、直接の関わりは無し。
 但し、その後佐渡に流刑になっていることと、出頭のタイミング並びに自身の助命を請うていることから、何かの事件に乗じて北条貞時が内管領家に害意を持っていたのをどこかで察していたかも知れない。

事件後 佐渡流刑を赦免されて鎌倉に戻った後、内管領となった以外の詳細は不明。没年もまた不明で、天寿を全うしたにしても内管領家は事実上滅亡したに等しい。



判決 主文、被告・北条貞時を公文書偽造に類する罪有りとして、懲役五年、執行猶予七年に処す。

 判決理由として、被告が執権の地位にありながら、家令とは云え、正式な行政処分を経ずに原告一族に対して行った殺戮行為は極めて不当な行為である。
 しかしながら被告が原告に騙される形で身内の殺戮に加担させられた恨み、執権職の権威を長年蔑ろにされた無念は情状酌量の余地ある故に主文通りの判決を下すものなり。



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令和三(2021)年五月二一日 最終更新