第捌頁 嘉元の乱……得宗家 対 御内人 対 庶流家最後の骨肉闘争

事件番号kamakura-0008
事件名嘉元の乱(嘉元三(1305)年四月二二日〜七月二二日)
事件の概要連署北条時村謀反疑惑に絡む北条家内乱
原告北条貞時・北条時村
被告北条宗方(ほうじょうむなかた)
関連人物北条師時(ほじょうもろとき)・大仏宗宣(おさらぎむねのぶ)
罪状殺人・放火に派生する権力闘争
後世への影響得宗家、権威確立なるも諸支族との融和に苦慮
事件の内容 この事件は実にややこしい。
 事件に関わったほぼ全員が北条一族で、誰が悪いのか?本当に悪いのか?もはっきりしないまま殺された者もいて、視点を変えれば原告と被告が容易に入れ替わる。
 しかも始末に悪いことに、この事件について触れている『保暦間記』(ほうりゃくかんき。この嘉元の乱に関しては北条宗方に野心あり、としている)が信憑性の高くない史料とされている。
 それゆえにまずこの事件の内容については、動かし難い史実のみを列記する。


 嘉元三(1305)年四月二二日、前執権北条貞時邸で火災が発生。
 貞時は四年前に出家して執権職を辞し、従弟である北条師時(時宗の弟である宗政の子)が執権となっていたが、実権はしっかりと握っていた(←歴史のお約束である)。
 幸い、貞時は難を逃れ、師時の屋敷に移った。

 翌、四月二三日の夕方、「得宗(貞時)の命令」と称して、得宗被官・北条宗方(時宗の弟である宗頼の子)が連署・北条時村(第七代執権北条政村の子)の屋敷を襲撃した。
 襲撃は深夜に及び、時村以下郎党五〇名を殺害。葛西ヶ谷の時村邸一帯は炎上・焼失した。
 しかしながら時村の亡き嫡男・為時の子にして、孫の煕時(母は貞時の娘。後に第一二代執権となった)も難を逃れた。

 それから九日が経過した五月二日、時村襲撃を誤りとして、襲撃に参加後に有力御家人預かりとなっていた討手一二名が、逐電した和田七郎茂明を除いて全員斬首となった(奇妙なことに斬首される程の重罪人である茂明を追跡した記録はない)。
 二日後の五月四日、引付衆一番頭人・大仏宗宣(おさらぎむねのぶ。初代連署北条時房の曾孫)等が二階堂大路薬師堂谷口に屋敷を構えていた宗方を追討。
 宗方は佐々木時清と相討ちとなって落命。宗方郎党の多くも宗方並びに炎上する屋敷と運命を共にした。


 前述した様に、北条一族内の暗闘とも云えるこの嘉元の乱には謎が多く、事態が収集したのは、殺された北条時村の後任として大仏宗宣が連署に就任した七月二二日とされている。
 約三ヶ月の間に何があったのだろうか?



事件の背景 推理小説の定石に「一番得をした者を疑え。」というものがある。
 この嘉元の乱で得をした者は何者だろうか?

 北条一族の中でも有力勢力が滅ぼされたことを考えれば、政敵がなくなったと云う意味で見れば、宗家の者達である得宗・北条貞時、執権・北条師時、そして連署に就任した大仏宗宣が「得をした者」として挙げられる。

 しかしながら、出家・引退の身でありながらしっかり実権を有していた貞時が家を焼いてまで北条時村追討命令を北条宗方に出したり、その追討を偽令として腹心・北条宗方を失ったりして得た物は大きな物だっただろうか?
 実際、嘉元の乱後の貞時は政治への関心を失い、酒に明け暮れていたとされていて、具体的な政治活動が史実に見られず、六年後に四一歳でこの世を去っている。

 そして執権師時はこの事件において極端に影が薄い。
 政治上、卑しくも執権に次ぐ地位である連署にあった時村を追討する命令が出来るのは執権・師時だけで、事件に関する朝廷への報告も師時からの「関東御教書」にて為された。
 最終的には師時の名で、「北条宗方の陰謀であった。」と締め括られた。
 だが、この師時にしても事件でこれと云った得はしていない。そもそも、師時の第一〇代執権就任は、第八代執権である北条時宗の嫡孫である北条高時(第一四代執権)が執権になるまでの繋ぎ役として、時宗の弟である宗政の嫡男の師時が就任したもので、実権は無く、師時自身もこれと云った政治的な動きを見せず、貞時が世を去る一ヶ月前に三七歳の若さで急死した。
 その次の執権は連署・大仏宗宣改め北条宗宣が第一一代目に就任し、師時子孫の動向は詳らかでない。

 となると最も得をしたのは嘉元の乱後に時村の後任として連署に、師時死後には第一一代執権となった大仏宗宣ということになる。
 しかしながら執権位は本来得宗家のもので、大仏家の執権位は、宗宣一代限りで、宗宣も死の一ヶ月前に貞時の孫にして政村流北条家の北条煕時に執権位を譲り、執権の地位は二代後に嫡流・北条高時に帰した。
 その高時も二四歳で引退し、後の執権位は得宗家のものであることを建前としつつも北条支族の間をたらい回しにされ続け、最終的には第一三代から第一六代までの四人が鎌倉幕府の滅亡時に運命を共にした。
 実際、宗宣子弟は幕府要職を占めはしたが、飛び抜けていい想いをしたとは云い難い。


 一応、様々な学説、様々な立場での史料を統合すると以下の様な推測になる、と薩摩守は見ている(以下、薩摩守の仮説)。

 先の執権にして得宗北条貞時は、得宗家に次ぐ有力支族である政村流北条家の当主にして、連署でもある北条時村を疎ましく思っていた。
 時村に濡れ衣を被せんとして自らの屋敷に放火させ(←う〜ん…既に無理がある……)、火災避難に託けて北条師時屋敷に移り、父・時宗の二月騒動に習って師時と結託した時村誅殺を翌日敢行し、これに成功した。

 しかしながらさしたる証拠も明示されず(第一時村に動機がない)、即決過ぎる時村誅殺に対して北条庶流の一族達は強く反発した。
 困惑した貞時は、これまた二月騒動同様、時村誅殺実行部隊を「此事僻事(虚偽)なり」と処刑して事を収めようとした(ひどいなすり付けである)。
 実際、二月騒動でも名越時章誅殺は「誤殺だった」として、時宗は襲撃者五名を斬首してその罪をなすりつけていて、この嘉元の乱でも一一名が殺された。

 だがそれでも北条庶流の反発は収まらず、貞時師時は「時村殺害は宗方の命令である」という噂で対処せんとした。
 上記とは異なるが、『実躬卿記』(さねみきょうき。同時代の公卿・正親町三条実躬の日記)の五月八日に関する記述によると、五月四日に、貞時師時が評定を行っていたが、師時邸に宗方がやって来たため、貞時は佐々木時清を遣わして「暫く来ないでくれ。」 と伝えさせようとしたのが、両者の斬り合いになり、共々命を落とした、となっている。

 また『鎌倉年代記裏書』では、時村同様に北条庶流の当主を務めていた大仏宗宣時村襲撃疑惑に関して詰問の為に手勢を率いて師時邸にいた貞時に詰め寄らんとしたところ、その騒ぎを察知した宗方も手勢を率いて駆けつけようとして、宗宣、宇都宮守貞、佐々木時清等と宗方の戦闘になった、としている。

 となると、時村誅殺に対する北条庶流の反発は半端じゃないものがあり、貞時師時の従兄弟にあたる宗方を人身御供にするだけでは済まされなかったので、宗方宗宣を相争わせ、自分達はそれを調停し、勝者に地位(連署位)を与えることと、得宗家当主が幼少の折には各庶流家当主を尊重することを約束することで、収束を図ったと考えられる。
 結果、大仏流(北条時房が祖)、名越流(北条朝時が祖)、極楽寺流(北条重時が祖。更に赤橋流・普恩寺流に分派)、金沢流(北条義時の子・実泰が祖)もこの処置にようやくを納得し、事態は貞時邸放火から丁度三ヶ月で終息した。
 ちなみに事件の始まりである貞時邸放火の四月二二日が、貞時によって平頼綱が誅殺された平禅門の乱と同日であるのは単なる偶然であろうか?

 …………とまあ、あくまで薩摩守の推測ですが、史実はどうでしょう?




原告側人物
北条貞時(ほうじょうさだとき)
略歴 第陸頁参照。
被った被害 自宅を焼かれた。また翌日の時村邸襲撃で外孫(熙時)の命も危険に曝された。
 また、結果だけを見るなら、従弟にして父の猶子=義弟でもあり、得宗家執事である北条宗方を失い、謀反人とすることとなった。

事件後 特筆すべき事情なし。嘉元の乱後は政治への意欲を失い、執権北条師時急死の一ヵ月後に後を追うように四一歳で死去。



北条時村(ほうじょうときむら)
略歴 鎌倉幕府連署。第七代執権を務めた北条政村の嫡男として仁治三(1242)年に生まれた。
 父が北条家の長老として、連署、執権、連署と歴任していたこともあって、時村も引付衆、六波羅探題北方、陸奥守等の要職を歴任した。

 弘安七(1286)年、六波羅探題北方を務めていた際に第八代執権北条時宗逝去の報を受け、鎌倉へ向かおうとしたが、三河国矢作で得宗家御内人に戒められて、鎌倉に入れず帰京。
 正安三(1301)年に執権が第九代貞時から第一〇代師時に譲られるに伴って連署となって師時を補佐した。

 嘉元三(1305)年四月二三日、前日の北条貞時邸放火の犯人並びに謀反人として得宗被官・北条宗方が主導する御家人達の襲撃を受け、葛西ヶ谷の自邸にて殺害され、一族郎党五〇名も同様に殺害された。北条時村享年六四歳。
被った被害 冤罪により偽命令で殺害された。
事件後 子に北条為時がいて、嘉元の乱の一九年前に二二歳で早世していたが、その息子である熙時が難を逃れて、北条貞時の保護を受け、北条宗方を討った。七年後に執権となった。



被告側人物
北条宗方(ほうじょうむねかた)
略歴 第八代執権・北条時宗の同母弟・北条宗頼の次男として弘安元(1278)年に生まれた。誕生の翌年、父・宗頼が長門探題在任中に早世したため、伯父・時宗の猶子となった。

 その縁もあって、二〇歳で六波羅探題北方、二三歳でり評定衆、二四歳で引付頭人から越訴頭人就任と順調に出世した。

 兄・兼時や他の北条支族当主よりも早い出世は得宗家の一員並みで、嘉元二(1304)年一二月、平禅門の乱以降一二年間空位だった得宗家執事といえる内管領に、北条一門として初めて就任し、幕府侍所所司も兼任したのが二七歳の若さだった。


 そして嘉元三(1305)年四月二三日、執権位を狙った挙兵か、前執権・貞時の密命か、前日の貞時邸放火の犯人を討ち取る名目で連署・北条時村を殺害。
 しかしながら自らが指揮した襲撃部隊一一名が誤殺の罪で五月二日に斬首され、自身も貞時と執権・北条師時の殺害も目論んだとして、二日後の五月四日に貞時の命を受けた大仏宗宣率いる追討軍によって佐々木時清と相討ちになる形で討たれ、燃える屋敷の中、一族郎党の多くも討死にした。北条宗方享年二八歳。

 但し、南北朝時代に成立し、北条宗方を悪玉とする『保略間記』の記述は、霜月騒動平禅門の乱の原因と並んでこの嘉元の乱についてもあまり信憑性の高い記述はしていない、とされている(京の公家の日記等と照合しても不自然さが目立つ)。

罪状 史書の上では自らの野望の為に連署を殺害し、更には前執権・現執権の殺害も目論んでいたとされる。
 それが事実なら北条貞時邸の放火も北条宗方の手の者による可能性が濃厚となるが、それにしては北条時村襲撃時に五〇名も討ち取りながら時村の孫・熙時を打ち損じていることが解せない。
 もっとも、これに関しては熙時が貞時にとっての外孫であることを慮ったと見れなくもないが。

事件後 その後の宗頼流北条家の者の名は史書には見当たらない。




関連人物
北条師時(ほうじょうもろとき)
略歴 鎌倉幕府第一〇代執権。第八代執権北条時宗の同母弟・北条宗政の子として建治元(1275)年に生まれた。尚、母親は第七代執権北条政村の娘。
 弘安の役の勝利直後、父・宗政が若死にし、同母弟の死を深く悲しんだ伯父・時宗によって猶子とされた(この辺りの境遇は従弟の北条宗方と酷似している)。

 得宗家との距離の近さもあってか、永仁(1293)元年、一九歳の若さで五月三〇日に(引付衆を経ずして)評定衆、六月五日に三番引付頭人、一〇月二〇日に執奏、一二月二〇日に従五位上と脅威の出世を重ねた。
 更に同年、従兄にして義兄である第九代執権北条貞時が、平禅門の乱で平頼綱を誅殺して実権を取り戻し、得宗家の一員の立場にあって、貞時との仲も極めて良好だっだ。


 正安三(1304)年八月二二日、貞時の出家に伴って、まだ幼少の高時(貞時三男)が成長するまでの中継ぎ役として第一〇代執権に就任した。
 実権は貞時が掌握し続けたが、特別これに不平を示した形跡はない。嘉元の乱でも直接の動きは見えないが、乱後に大仏宗宣を連署に任じ、京の朝廷への報告を行った。

 応長元(1311)年九月二一日、出家して執権の地位を大仏宗宣改め北条宗宣に譲り、道覚と号したが、その翌日九月二二日に死去。北条師時享年三七歳。
 急死したとされており、前執権貞時の死はその一ヶ月後であった。

事件との関わり 前述した様に直接の関わりはなし。しかしながら北条時村襲撃部隊に対する処罰や、北条宗方に対する誅殺命令は、事実上の命令者は北条貞時でも、政治的には執権・北条師時の命令無しには有り得ない、と公卿達の間では見られていた。
 また、宗方が主張していたように、時村襲撃が幕命なら、連署に対する誅殺命令を出すことが出来たのは執権だけである。

 いずれにせよ、朝廷に対する事件内容と収拾の報告は師時が行い、大仏宗宣に対する連署就任命令をもって嘉元の乱の収束とされた。

事件後 乱の六年後に出家・急死するまでこれといった政治上の動き無し。



大仏宗宣(おさらぎむねぶ)
略歴 北条氏の一門・大仏宣時の子として正元元(1259)年に生まれた。
 大仏家は第二代執権北条義時の弟にして、初代六波羅探題にして、初代連署として第三代執権北条泰時を補佐した北条時房が始祖で、時房の四男・朝直(ともなお)が大仏流を称し、朝直の子・宣時が二代目で、宣時の子である宗宣は大仏家三代目となる。

 弘安九(1286)年に二八歳で引付衆、永仁五(1297)年に三八歳で六波羅探題南方に就任。

 嘉元三(1305)年の嘉元の乱で、乱鎮圧の功績か、それとも北条庶流の北条時村殺害に対する動揺を鎮める為か、いずれにせよ七月二二日に宗宣は連署に就任した。
 応長元(1311)一〇月三日、前月に急死した北条師時の後を受けて第一一執権となり、以後は北条宗宣としての存在の方が主流となった。

 執権に就任しはしたが、例によって執権就任は得宗家当主・北条高時が成長するまでの中継ぎで、政治の実権は得宗家執事である内管領・長崎高綱に握られたままだった。
 翌年、正和(1312)年五月二九日に、嘉元の乱で殺された北条時村の嫡孫にして前々執権貞時の外孫でもある北条煕時に執権職を譲って出家。翌々月七月一六日に死去した。北条宗宣享年五四歳。

事件との関わり 事件に関する行動を記述するなら、北条宗方の一族郎党を討ち取ったことがいの一番に上げられる。
 ただ、この嘉元の乱において大仏宗宣が手勢を率いて執権・北条師時邸を訪れたのは、北条時村殺害に対する詰問と抗議の為、と見る説があり、五月四日の宗方誅殺から七月二二日までの宗宣連署就任までの約八〇日間の鎌倉に対する疑問は膨らむばかりである。

事件後 何度も記述した様に、大仏宗宣の連署就任をもって嘉元の乱は終わり、宗宣は後には執権にも就任し、その子弟は鎌倉幕府の要職を占めたが、得宗家や他家を凌ぐ程の大勢力には至らず。



判決 主文、被告・北条宗方北条時村殺害は事実なるも、それが被告の独断で行われたとする罪状並びに得宗家に対する叛意は証拠不充分により無罪とする。

 尚、被告・北条宗方側より、前執権命令による時村殺害を独断と讒訴され、その命を奪われたことに対する殺人と名誉毀損に対する逆告訴があり、原告側に対する訴えは誠に重大ながらこれも証拠不充分により、最終結果として、原告・被告双方に血族としての和睦と、乱に巻き込まれた御家人の生命・財産への損害賠償を命ずるものなり。



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令和三(2021)年五月二一日 最終更新