第壱頁 聖徳太子………あり得ない超人化と非実在論

贔屓人物 壱
名前聖徳太子(しょうとくたいし)
生没年敏達天皇三(574)年三月一日〜推古天皇三〇(622)年二月二二日(『日本書紀』では推古天皇二九(621)年二月五日没)
贔屓した作家太安万侶・舎人親王
登場作品『日本書紀』・『古事記』
贔屓された面能力・功績


概略 敏達天皇三(574)年三月一日に橘豊日皇子(後の用明天皇)と穴穂部間人皇女との間に現在の奈良県明日香村に生まれた。生前の名前には諸説あるが、本作では追号であるのを承知の上で通りの良さから「聖徳太子」で通します。
 聖徳太子の両親は共に欽明天皇を父とする異母兄妹で、両者の母は共に蘇我稲目の娘だったので、聖徳太子はかなり血の濃い、且つ蘇我氏とは切っても切れない強い血縁関係にあった。
 用明天皇元(585)年に父・橘豊日皇子が即位(用明天皇)したのを契機に崇仏派である蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立す。聖徳太子は幼少の頃からの縁や、彼自身崇仏的な人物だったことからも蘇我氏に味方した。

 用明天皇二(587)年に用明天皇が崩御すると皇位を巡る蘇我氏と物部氏の戦となり、聖徳太子も馬子について戦い、苦戦の末、守屋と彼の推す穴穂部皇子を討ち、馬子の推す泊瀬部皇子が即した(崇峻天皇)。
 しかし崇峻天皇は政治の実権を馬子に握られていることに不満を抱き、馬子への害意が漏れたことで崇峻天皇五(592)年に暗殺され、翌年に馬子の姪で、聖徳太子の叔母である豊御食炊屋姫擁立された。
 史上初の女帝即位に豊御食炊屋姫は躊躇いを見せたが、聖徳太子を皇太子兼摂政とすることで即位を承諾した(推古天皇)。

 摂政に就任した聖徳太子は同年、仏教保護・大国隋を初め朝鮮半島の国々に習う政治を展開し、冠位十二階の制十七条憲法を制定して、氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の中央集権を強める制作を展開したが、蘇我氏の勢力は削げなかった。

 推古天皇三〇(622)年(622年)、斑鳩宮で倒れ、看病していた妃・膳大郎女が二月二一日に死去し、その後を追うようにして翌二二日、逝去。享年四九歳。
 尚、「聖徳太子」の名が書面に出て来るのは、逝去から一二九年を経た天平勝宝三(751)年に編纂された『懐風藻』が初出と云われる。そして、平安時代以降の史書にはいずれも「聖徳太子」と記載され、遅くともこの時期には「聖徳太子」の名が一般的な名称となっていたことがうかがえる。


行き過ぎ優遇 何といっても、聖徳太子はあり得ない程の超人として史書に記されている。
聖徳太子に関しては過去作「実在するの?しないの?」でも採り上げてるが、知能・身体能力ともに人間離れし、中には超能力を発揮したとするものすらあり、現代のフィクション漫画に登場する聖徳太子にまで目を広げると、飛翔伝説や瞬間移動伝説までてくる始末である。

 同時に、相当な人格者としても描かれている。勿論、薩摩守は聖徳太子を「実は残忍な人物だった!」などと云うつもりはない。が、蘇我氏との結び付きが強い段階で、武力衝突を含む政争と無縁ではいられなかった。
 用明天皇崩御後、崇仏・廃物を巡って蘇我馬子と物部守屋が武力衝突した際には、聖徳太子も先頭に立って戦ったのは有名である。この一シーンをもって、彼を好戦的な人物と云うつもりはないが、後には百済との同盟を重んじて新羅遠征軍を派遣しようとしたこともあった(将軍を務めた弟の急死で中止となった)ことから、必要とあらば武を用いることを躊躇う人物でもなかった。
 かつて見た学習漫画では、物部氏との戦の折、物部氏側の兵卒が「厩戸皇子に矢は射れない……。」と云って弓を捨て、聖徳太子が「降参する者は殺すな!」と叫びつつ馬を走らせるシーンが描かれていたが、後々の書籍で同様のシーンは見られず、今では聖徳太子の聖人振りを強調した、「如何にも」なシーンと見ている。

 元々崇仏派であった聖徳太子が、同じ崇仏派にして、大伯父でもある蘇我馬子と共に物部守屋と戦ったことを薩摩守は非難しない。黙って守屋の言動を見逃していれば、聖徳太子自身、馬子と共に滅ぼされることだって考えられた。
 ただ、その後の聖徳太子と馬子との在り様を見ていると、彼のそれなりに俗物で、決して超人ではなかったことが伺える。
 まず、聖徳太子は豪族の力を押さえ、天皇を中心とした中央集権を目指したされ、それはその通りだったと思われるが、その多くは成功していない。偏に蘇我氏の力が兄弟過ぎたのだろう。

 周知の通り、馬子は崇峻天皇暗殺と云う大逆までしでかしているが、全く罰せられていない(表向きは実行犯にすべての罪を擦り付けて処刑して終わらせている)。神武天皇から今上天皇に続く一二六人の天皇の中で臣下に弑逆されたのは崇峻天皇唯一人で、本来なら蘇我馬子はとんでもない大逆の人物として印象付けられていて然るべきである。正直、皇族であれ、豪族であれ、蘇我氏を倒して政権の座から引きずり下ろしたい者にとって、これ程格好の弾劾材料はない。同時に、聖徳太子が真に天皇中心の中央集権を目指すなら、天皇以上の権勢を誇る馬子を排除するのにこれほどの材料はなかった。
 だが、聖徳太子は馬子と争っていない。「大伯父だから、討つに忍びなかった。」という見方もあるかも知れないが、この時代の皇族はほぼほぼ全員が身内である(笑)。「氏より育ち」、「家柄より才能」を重んじた冠位十二階の制も馬子達蘇我氏は例外とされたのだから、歴史漫画などでは馬子が涙ぐむほどにその力を封じた様に描かれる聖徳太子だが、実態はそこまで強い立場には立ててなかったのだろう。

 そして、聖徳太子本人の話ではないが、聖徳太子を聖人化せんとして生まれたとしか思えない、個人的に信じ難いエピソードがある。それは聖徳太子の子・山背大兄王の最期である。
 聖徳太子の死から四年後に馬子も没し、朝廷は馬子の子・蝦夷と、孫・入鹿が専横を極めたが、入鹿は山背大兄王を邪魔者として攻め滅ぼした。その際に、山背大兄王は「戦えば自分が勝つが、多くの者を巻き込むのは忍びない。」として一族共々首を吊ったとされている。

 正直、薩摩守はこれを聖徳太子への行き過ぎた聖人化が生んだ虚構と見ている。

 「多くの者を巻き込むのは忍びない。」として自らの死を選んだと聞けば、如何にも「人格者・聖徳太子の子」っぽく聞こえるが、自分自身だけならいざ知らず、妻子・一族郎党が共に命を落とす羽目に陥ったのである。そしてその後(結果的に僅かな期間だったが)蘇我氏の専横に多くの人々が苦しんだのである。普通、充分な勝算があるのなら戦う筈である。

 能力もそうだが、人格的にもここまで聖人化されるのは幾らなんでもおかしく、それ故に聖徳太子の非実在説を唱える声は古くからあった。ただ、過去作でもかなりの憤りを込めて触れたが、昨今多いのは、「いなかった!」を見出しで強調し、いざ内容を読むと、「死後に、所謂、「聖徳太子」の名を贈られた厩戸皇子は実在したが、史書に書かれた程の聖人・偉人ではなかった。」と締め括るものばかりで、それをあたかも新発見の様にアピールする書が多いのには今も呆れている。

 では、何故に厩戸皇子は、こんな超人・聖徳太子として、小説どころではない、官製の史書において超人化・聖人化と云う過優遇が為されたのだろうか?


優遇要因 まず、聖徳太子の事跡に触れた最も古い正史である、『日本書紀』『古事記』を考察する必要がある。
 身も蓋も無い云い方だが、余程公平公正な観点に立って書かれたものではない限り、史書はプロパガンダ書と見るべきである。まあ、そこまで云っては少し古代の人々が可哀想だ。本来史書は我が王朝の正統性を訴えるのが主目的だから、どんなに公平公正な人物が書いても、その人物が置かれた立場から生まれる依怙贔屓と完全に無縁ではいられない。だからと云って、編纂者や作者を嘘つき呼ばわりしても話は始まらない。大切なのはその立場を理解した上で、生まれ得る贔屓や偏見を可能な限り排除した物の見方をすることである。

 それ故にまず、何故に『日本書紀』『古事記』が生まれたかを振り返る必要がある。
 まず前者・『日本書紀』だが、それ自体には成立に関する記述がないのだが、『続日本紀』において舎人親王が編者とされている。結局正確なところは分からないのだが、前後の状況から、一般的に舎人親王の父・天武天皇が編纂を命じたとされている。
 天武天皇が史書の編纂を命じたとなると、いの一番に考えられるのは、天智系からの皇位簒奪の隠蔽・正当化と考えるのが自然である。実際、天武天皇は壬申の乱で弘文天皇(大友皇子。兄・天智天皇の子)を弑逆している。主殺しは天下の大罪で、これを正当化するには相当の大義名分が必要である。
 とはいえ、兄・天智天皇は蘇我氏に奪われかけた皇室の権威・実権を取り戻した皇国史上における大英雄でもあり、その歴史的功績は否定出来ない。「それが聖徳太子とどう絡むのだ?」と云われると弱いのだが(苦笑)、この史観に立てば皇室を滅ぼしかねなかった蘇我氏もまた大逆賊で、その力を押さえた聖徳太子は重要且つ微妙な存在だった事だろう。
 ただ、山背大兄王を攻め滅ぼし、大逆賊として始末された蘇我入鹿が悪役として目立ってしまうが、入鹿の曽祖父・稲目、祖父・馬子、父・蝦夷が大和朝廷に為した政治的・文化的功績は決して小さくない。それどころか飛鳥時代は政争の連続で、皇族間で醜い争いを繰り広げまくっている。
 故にその混乱期に朝廷と豪族の橋渡しを務めた人物に、後の世に繋がる手本としての聖人・超人の役が降られたと見るのは穿ったものの見方だろうか?

 そして、注意しなくてはならないのは後者である『古事記』の存在である。こちらは天智天皇より歴史の暗記を命じられた稗田阿礼(ひえだのあれい)の暗唱する歴史上の出来事を、元明天皇が太安万侶に筆記して残すよう命じたのが始まりである。
 既に天武天皇が史書の編纂を命じていたのに、何故に元明天皇は別途に史書の編纂を命じたのか?

 まず元明天皇だが、彼女の父は天智天皇である。そして亡き夫は草壁の皇子だった。草壁皇子は実母・鵜野讃良(うののさらら。後の持統天皇)が天武天皇の寵愛を得ていたことからそのごり押しを受けて、多くの異母兄弟を押しのけて皇太子となったが、即位前に急死してしまった。
 そして軽皇子(草壁と元明の子。後の文武天皇)が即位するまでの中継ぎとして、姉にして姑である持統天皇が即位した訳だが、後に皇位を継いだ文武天皇も早世したため、文武の子・首皇子(おびとのおうじ。後の聖武天皇)が即位するまでの中継ぎとして元明天皇が即位した。
 その元明天皇が太安万侶と稗田阿礼に編纂を命じた訳だが、正直、その背景は恥ずかしながら全く詳らかではない。安万侶も「『古事記』の編者」という以外には、生年も、人格も、一族も分からないことだらけで、稗田阿礼に至っては、女性説、集団名説、非実在説すらある。
 そんな分からないことだらけの『古事記』に対して、薩摩守が注目しているのは、同書の記述が神話の時代に始まり、推古天皇期で終わっていることである。
 云う迄もないが、推古天皇期は聖徳太子が(実態はどうあれ)最も活躍した時代である。それ故には話のフィナーレを飾る意味でも、推古天皇を支えた聖徳太子がスーパーマン役を振られたと思えなくもない。
 何故に推古天皇期で終わったのかは謎だが、恐らく元明天皇に命じられたことから、その父であり、叔父である天智・天武天皇時代には触れられなかったのではあるまいか?そもそも天智系と天武系の争いがどうあれ、当時の皇族には天智天皇・天武天皇双方の血を受け継ぐ者も多く、元を辿ればほぼ全員が第二九代欽明天皇の子孫である。
 それを思えば、天智系であれ、天武系であれ、まずは皇室が天孫降臨以来如何に貴く、それを連綿と途絶えることなく受け継いで来た一族であるかを訴える必要性が有ったのだろう。となると、乙巳の変(大化の改新)以前の歴史は遠慮なく讃えることが出来ただろう。同時にそれを脅かす者は大悪で、それを守ろうとした者は大善である。

 同時に、乙巳の変では、蘇我蝦夷が自害する際に屋敷に火を放ったことで、馬子と聖徳太子が編纂した『天皇記』を初めとする重要な古書・史書が数多く消失している。当時の皇室には失われた書を取り戻したいとの想いもあったのではなかっただろうか?
 また、前述した様に、『古事記』は稗田阿礼が記憶していることを思い出させ、それを記述したものである。どれだけ阿礼の記憶力が優れていても、誤った記憶があってもおかしくないし、確認のしようがない(端から忘れないように書き止めようと云う発想は無かったのだろうか?)。つまりは史書という物が制作動機と編者の立場や王朝正統性からプロパガンダ的にならざるを得ない要素に加えて、「稗田阿礼個人の思い込み」も加味しなくてはならない。

 平成・令和の世に書かれる史書でさえ、保守論客が書いた物は戦時中の大日本帝国軍が為した悪事は大幅に軽減されたり、「でっち上げ」とされたりする一方で、日本が外国から受けた被害は呆れるほど悪し様に罵られる。かように現代でさえ、筆者の立場や、筆者が頼りとした知識源で美化・醜化はかなりひどくなる。ましてや古代の話である。「稗田阿礼が厩戸皇子の大ファン過ぎて、超人・聖徳太子が生まれる素地を作った!」としても完全否定は出来ない気がする。
 現代の視点では、「一度に一〇人の話を聞いて、すべてを理解して的確に答えたなんてあり得るものか!どうせ、一〇人が一斉に「おはようございます!」って云っただけだろう?」と捉える話でも、迷信深かった当時、舎人親王太安万侶が真に受けてもおかしい話ではなかったことだろう。


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令和七(2025)年四月三日 最終更新