優遇され過ぎ?な人物
『三国志演義』という小説がある。正直、中国史に関する知識がこの小説から始まっている日本人が大半ではなかろうか?勿論、『三国志演義』は実在の歴史を基にした小説で、史実と異なる点は多い。そしてそれは日本史と日本の軍記物(時には正史にも)にも同じことが云えるのである。
ある程度『三国志演義』に馴染み、正史を初めとする数々の三国志関連本の読まれた方々の中には、主人公である劉備や、彼の立てた蜀が優遇され過ぎていることに反発を覚えた方も少なくないことだろう。同小説において劉備は完全な善玉として描かれ、彼と対立した曹操は悪玉として描かれたことから、ある程度の劉備贔屓、蜀贔屓は仕方ないにしても、史実に照らし合わせるとその度合いは多くの方に取っと酷く映るのではないだろうか?
華雄や文醜など、劉備の義弟・関羽が倒した猛将の中には、実際には関羽に討たれた者ではないものもいるし、劉備(や彼との同盟)を裏切った呂布・孟達・呂蒙はかなり悪し様に云われるのに対し、逆に主君を裏切った後に劉備についた魏延・陳登・張翼・王平・鞏志等は殆ど非難されない。
あまつさえ、最後には蜀の皇帝になった劉備は、最後まで漢朝の忠臣たらんとしていた風に描かれ、劉表没後の荊州を領有したこと、漢中王を宣したこと、蜀の皇帝に即位したことも、すべては劉備の本意ではなかったされた。
個人的にひどいと思ったのは、黄巾の乱後、地方の小役人になった劉備が、視察に来て賄賂をせびった督郵をぶん殴ったのが、『三国志演義』では張飛のやったことになっていたことである(苦笑)。
さすがにフィクションにして、善玉役を振った『三国志演義』と云えども、劉備が完全無欠な聖人君子と書き切るには無理があり、時には政敵を謀殺したり、捕らえた敵将を斬殺したりもするのだが、まず作中において非難されないし、非難されかねないことは「部下のやったこと。」にされたりしている。
幸いと云っては変だが、『三国志演義』は本宮ひろし氏の「天地を食らう」を初め、様々な漫画で描かれ、シミュレーションゲームになったことで関連本も多数出版され、演技と正史の差異も広く知れ渡り、逆に多くの人々が歴史の実態を直視することに貢献した。
同時に、薩摩守自身、『平家物語』、『信長公記』、『絵本太閤記』、『忠臣蔵』と云った名高い書物、史実と異なる、或いは史実にない内容をかなり鵜呑みにしていたことに気付かされた(苦笑)。
まあ、正史と云えども、否、正史だからこそ編者やそのパトロンである時の権力者への忖度から史実への歪曲、そこまでひどくなくても都合の悪い内容へのスルーは今後いくらでも判明するだろうし、判明せずとも疑念を疑われるケースは無限に出て来るだろう。薩摩守自身可能な限り追い続けたいが、限度があり、一生かかっても完成はしないだろう。
だが、そんな中ふと思ったのは、「作者の好き嫌いや、依怙贔屓が過ぎる」とピンポイントに思わされる人物についてである。勿論、正史ではない小説に対してはこれに抗議しても詮方ない話である。織田信長のことを好きな作家や漫画家が信長を主人公にした作品を作り、作中において信長の残虐行為に一切触れず、他の大名や武将の善行・功績をすべて信長のものにする内容にしたとしても、「これが真実の歴史です!」と云わない限り、歴史学としての非難は出来ないし、かかる作品を作る自由は尊重されなければならない。
ただ、そのことを承知の上で、「おいしい役独り占め」、「作中内で優遇され過ぎ」、「物凄い誇張……。」と云いたくなる作品及び、それ等の作品でそんな風に描かれた人物が散見される。本作ではそんな作品や作品で優遇され過ぎた人物が気になって個人的に検証した次第である。
当然薩摩守が目にした作品に限定されるし、薩摩守自身の好き嫌いで程度の軽重も変わろう。本来の歴史学的には正しくない姿勢かも知れないが、これも一つの史観と見て頂ければ幸いである。
第壱頁 聖徳太子………あり得ない超人化と非実在論
第弐頁 平重盛………罪はすべて親父に
第参頁 源義経………これぞ、THE・判官贔屓(工事中)
第肆頁 真田昌幸………いくら「我が目」でも、鋭過ぎ(工事中)
第伍頁 大谷吉継………悲劇が増長する依怙贔屓(工事中)
第陸頁 島左近………甚だしい作者の贔屓(工事中)
第漆頁 前田慶次………人気漫画影響の恐ろしさ(工事中)
第捌頁 あり得ない超人化は何故起きる?(工事中)
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令和七(2025)年四月三日 最終更新