第肆頁 真田昌幸………いくら「我が目」でも、鋭過ぎ

贔屓人物 肆
名前真田昌幸(さなだまさゆき)
生没年天文一六(1547)年〜慶長一六(1611)年六月四日
贔屓した作家新田次郎
登場作品『武田勝頼』
贔屓された面戦略眼・洞察力・判断力


概略 信濃の国人衆・真田幸隆の三男として天文一六(1547)年に生まれた。幼名は源五郎。天文二二(1553)年に武田信玄が村上義清の放逐に成功し、幸隆は旧領を回復。その年に源五郎は武田家への忠誠の証として信玄の元に人質として差し出された。

 通常、「人質」と云えば、弱小勢力が親分的存在に忠誠の保証的に差し出され、その身分の低さや、反抗時には真っ先に殺される立場の悪さから、極めて惨めな存在と思われがちだが、実態は千差万別である。
 確かに源五郎とて、「幸隆に反逆の意有り。」と見做されれば(たとえそれが真実でなくても)磔にされる可能性は充分にあった(何せ、「そうなるのが嫌なら裏切らない。」と云う保証が人質の役割である)。だが、裏切りが無ければ味方であるのも事実である。「人質」だからと云って何も常に猜疑の目で見られたり、白眼視されたりした訳ではないのである(いずれ、様々な立場の「人質」を検証した物を作りたいと思っている)。
 実際に源五郎が置かれた立場は信玄の小姓衆に近く、信玄からは可愛がられ、彼の元で政治や軍学を学び、やがて三男故に家督を継承する可能性が低かった源五郎は、信玄の母方・大井氏の支族である武藤家の養子となって、武藤喜兵衛と名乗った(信玄は身内や寵臣をよく血筋の絶えた豪族の名跡を継がせた)。

 初陣は永禄四(1561)年の第四回川中島の戦いとされ、足軽大将として従軍。騎馬一五騎、雑兵三〇人を従える程度だったが、信玄が没するまで北条、今川、徳川との各戦に転戦し、時に戦士として、時に軍議参加者として、時に軍使として八面六臂の活躍をし、この頃には同じ立場にあった曽根内匠と共に信玄から「我が目である。」とすら云われた。

 元亀四(1573)年四月、信玄が陣没すると引き続き勝頼に仕えた。
 翌年に父・幸隆が信玄の後を追う様に没し、真田家の家督は長兄・信綱が継いだ。だが、その翌年に信綱と次兄・昌輝が共に長篠の戦いで討ち死にしたため、喜兵衛は真田家の家督を継がざるを得なくなり、復姓して真田昌幸と名乗った。
 天正六(1578)年三月一三日に越後の上杉謙信が急死し、二人の養子景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏政弟)による家督争い(御館の乱)が勃発。勝頼は氏政の妹を継室に迎えていたが、景勝と結び、これにより北条との関係が瓦解すると昌幸は対北条戦の最前線であった東上野の沼田にて奮戦した。

 天正九(1581)年、それまで城らしい城を築かなかった甲斐にて新府城が築かれることとなり、昌幸は築城奉行を命じられた。だが、武田家は既に斜陽で、国人衆の離反が相次ぎ、翌天正一〇(1582)年二月には勝頼の義兄弟に当る穴山梅雪や木曽義昌までもが彼を見限って織田・徳川に通じてその先手となり、そこに北条までもが攻め寄せ、勝頼は完成間近の新府城に火を放って郡代の小山田信茂の元での抗戦を図った。
 その際に昌幸は勝頼と共に戦うことを願ったが、勝頼親族や甲斐衆は信濃衆である昌幸(というか他国衆)を信用せず、勝頼からは甲斐陥落の折に頼りたいので信州上田の領内を固めるよう命じられ、これが主従今生の別れとなり、皮肉にも真田家の命脈を救う事となった。

 結局勝頼は信茂にも裏切られ、三月一一日に勝頼・信勝父子は天目山に果て、甲斐源氏の名家・武田家は滅亡した。当然武田家旧領は織田・徳川・北条が奪い合う事となり、殊に織田信忠の側近を務めた川尻秀隆の武田家一族・武田家旧臣への残党狩りは苛烈を極めた。
 一方で徳川家康は武田家重臣に優れた人物が多かったことから旧臣達を厚遇して召し抱える路線だったので、昌幸を初めとする武田家旧臣はその後を如何に生き残るかに難渋した。
 加えて武田家滅亡から三ヶ月も経たない同年六月二日に本能寺の変が勃発し、織田信長が横死し、甲斐・信濃・上野を攻め続けていた織田家中も混乱した(川尻秀隆は殺され、滝川一益は清洲会議に間に合わず、織田家中での立場を著しく下落させた)。

 勝者である織田家が掛かる有様にあって、信濃の一国人衆に逆戻りした真田家は時に織田・徳川・北条・上杉の各氏に一時的な臣従をし、時に武力侵攻に徹底抗戦し、一族郎党生き残りの為にありとあらゆる手を打ち続けた。
 武田家滅亡直後は織田家に降伏して滝川一益の参加に組み入れられ、本能寺の変が起きると信濃は上杉・北条・徳川にとって格好の餌食と見做され、昌幸は上杉景勝に次男・信繁(幸村)を人質として差し出し、それを背景に徳川・北条とは干戈を交え、昌幸は家康に数少ない敗戦(第一次上田合戦)を味わわせた武将となった。

 やがて天下は豊臣秀吉によって統一され、秀吉は大名間の私闘を禁じ、真田家は信濃の小大名としての立場を得た。上杉家の人質だった信繁は秀吉の人質となり、かつて昌幸は人質の立場ながら信玄に可愛がられ、勝頼に頼られたように、信繁も秀吉から可愛がられ、後に秀頼にからも頼られた。

 勿論泰平の世が来たからと云って油断する昌幸ではなかった。徳川・上杉とは微妙なしこりが残っており、嫡男・信幸を家康重臣・本多忠勝の娘と娶せ、次男・信繁は秀吉重臣・大谷吉継の娘と娶せ、豊臣・徳川の双方と交流を持った。

 そして秀吉薨去後、関ヶ原の戦いが勃発した。慶長五(1600)年、家康は秀頼の名で、上洛命令に従わない上杉景勝討伐の兵を起こし、昌幸は信幸・信繁とともにこれに従軍した。
 その途次、打倒家康を目論む石田三成が毛利輝元を総大将、宇喜多秀家を副将に担いで打倒家康の兵を挙げ、それを下野小山で知った家康は従軍諸将にその事実を告げ、大坂で妻子を人質とされた諸将が軍を去り、家康と敵対することを咎めないとした(小山評定)。
 この軍議は黒田長政を通じて家康の調略を受けていた福島正則が三成を「君側の奸」として討つべく、「内府(家康)殿に合力する!」と叫んだのを皮切りに、諸将が次々とこれに同意した。だが、昌幸だけは違った。

 東西両軍の勝敗を見極め難しと見た昌幸は息子達と話し合い、信幸は家康に従わせ、自身は信繁と共に上田に退き、西軍方についた。つまり、東西どっちが勝っても真田家が生き残る様に取り計らったのであるが、逆を云えば、これはどちらが勝っても一族の誰かが落命・没落の危機を免れ得ないことも意味した。
ともあれ、福島達を先遣隊として西進させた家康は江戸城にて先遣隊が岐阜城を落とした報を聞くと自軍を二手に分け、自らは東海道を進み、三男・秀忠に三万八〇〇〇の大軍を率いさせ、中山道を進ませた。
 このとき、昌幸は信繁と共に上田城にて僅か二〇〇〇の兵で秀忠軍に抵抗し(第二次上田合戦)、結局、秀忠は上田城を落とせず、肝心の関ヶ原での決戦に遅参すると云う大失態を演じたのは有名で、昌幸は徳川軍を二度も破った名将としての足跡を残した。

 だが、主戦である関ヶ原の戦いはたった一日で西軍の大敗に終わり、東軍諸将は概して大幅な加増を受け(例外有り)、逆に西軍諸将は改易・大減封を食らった。そんな中、論功行賞を担う徳川家では真田家をどうするかで大いに頭を悩ました。
 普通に考えるなら味方した信幸を厚遇し、昌幸・信繁は切腹である。実際、一度はそういう沙汰が下ったし、真田家一同、それを覚悟の上で一族が敵味方に分かれたのである。だが、救えるものなら救いたいのが人情である。信幸は加増を辞退し、父と弟の命だけは助けて欲しいことを岳父・本多忠勝を通じて家康に申し入れた(ちなみに、信幸正室・小松姫は忠勝の娘だが、形の上では家康養女として信幸に嫁いでいる)。

 結局、真田家の通字である「幸」の字を捨て、名乗りを改めてまで徳川家への忠誠を誓った信之の助命嘆願は通り、家康は昌幸・信繁を改易として高野山への蟄居謹慎を命じ、信之に沼田一〇万石を与え、敵には罰を、功労者には賞を与える方針を堅持した上で、昌幸の命だけは助けた。

 かくして、高野山での蟄居生活に入った昌幸だったが、配流生活は老いた昌幸には厳しいもので、信之宛に援助を求めて送った書状は二〇通を超えた。幸い、罪人となっても書状のやり取り等の父子交流は幕府から咎められず、直に顔を合わさずとも信之との交流は続いた。
だが、援助を求めるとともに願い出た赦免は遂に通らず、慶長一六(1611)年六月四日、九度山にて寿命は尽きた。真田昌幸享年六五歳。


行き過ぎ優遇 かくして、最終的には大名としての家格を失い、罪人としての身分を赦免されることなく配流先で年老いて没した真田昌幸は、歴史的には敗者である。だが、彼を「無能」、「愚将」と呼ぶ者は皆無と云って良いだろう。
 何せ、父・幸隆の代には信濃の一国人衆に過ぎなかった真田家は、武田信玄や村上義清の一存でいつ滅ぼされてもおかしくなかった。
 幸隆が信玄に臣従したことで信玄健在時には一応の平安を得たが、信玄没後から武田家滅亡までの間、武田家を襲った苦難を顧みれば、国人衆は勿論、武田一族・重臣達といえどもただ生き残るだけでも困難を極めた。
 まして本能寺の変後、甲斐・信濃は徳川・北条・上杉が奪い合う好餌で、その渦中にあって昌幸がどれほど苦労したかは上述した分でも足りないぐらいである。正直、当時の真田家を見れば武力・知略・外交手腕、加えて時の運のすべてに恵まれていないと、一族滅亡は容易に起こり得ただろうし、滅亡を免れても徳川・上杉の旗本辺りで生き延びるか、浪人・帰農しててもおかしくなかっただろう。
大名として江戸時代まで真田家が存続出来たのは、昌幸を初めとする真田一族のほぼ全員が有能で、涙ぐましい努力を重ねて来たゆえである。

 勿論、史実において昌幸は若い頃から有能さを見せている。上述した様に、信玄から「我が目」とまで云われた。信玄の寵愛を考慮に入れたとしても、有能揃いの武田家でそこまで云われるのは尋常ではない。
 そして生涯を通じて負け戦が極めて少ない徳川家康に苦杯を舐めさせている。有名な話だが、大坂の陣において、九度山に蟄居していた信繁が大坂城に入城したとの報に接した際に家康は、一瞬、「倅(信繁)か?親父(昌幸)か?」と云って狼狽えたと云われている。周知の通り、昌幸はその三年前に没しており、既に故人だったにもかかわらず家康がかような程に狼狽えたのだから、それだけ恐れられた人物だったと云える。

 ここまでの文章を見て、「何処が優遇し過ぎだ?真田昌幸はそれだけ有能だったと云う事じゃないか!」と思われる閲覧者の方々もいらっしゃることだと思う。くどいが、薩摩守自身、昌幸は極めて有能な人物だったと認識してる。ただ、若き日に(今も若いが)、一冊の書籍と出会った際に、昌幸に対して、「何ぼ何でもおいしい所かっさらい過ぎだろう!?」と思わずにはいられなかった。その書籍とは、潮文庫の『武田勝頼』で、漫画を描いたのは故横山光輝だったが、原作は『武田信玄』の著者として有名な故新田次郎である。

 『武田勝頼』は信玄没直後に始まり、微妙な立場で武田家を継承した武田勝頼が天目山に落命し、武田が滅亡するまでが描かれている。酷な書き方になるが、亡国の君主となってしまった勝頼は幾度も誤った決断を下し、戦上手な猛将であるにもかかわらず、肝心の戦に敗れ、一族・縁戚・国人衆に背かれ続けた。
 だが、勝頼はワンマンでも、独裁者でもない。武田家では重要なことは会議で決め、一度決まったことには全員が従った。それゆえ勝頼の決断には常に賛成する者、反対する者がいて、多数決には誰も背けなかったのだが、その軍議にあって、昌幸は常に正しい意見を出し続けた。
 逆を云えば、昌幸が反対したことが通らず、ゴーサインが出たことは必ず失敗した。同時に昌幸が「信用出来ない。」とした者は必ず裏切った。

 例を挙げればキリがないから、一つだけ挙げると武田家斜陽の端緒となった長篠の戦いに前後して、昌幸の炯眼が繰り返された。織田の三段鉄砲のイメージが今尚強い長篠の戦いだが、そもそもは長篠城の奥平貞昌を攻める武田勢に、織田・徳川両軍が援軍として駆け付け、設楽原に死闘を展開した戦いで、駆け付けた織田・徳川連合軍は四万を超え、三〇〇〇丁の鉄砲を抜きにしても、二倍半の強勢を誇っていた。
 如何に日本一強いと云われる甲州勢でも警戒するし、援軍と戦わずに退却してもおかしくなかった。
しかも相手は三〇〇〇もの鉄砲隊を擁しており、時間の掛かる弾込めや梅雨時の使い勝手の悪さから然程重視されていなかったとはいえ、三〇〇〇と云う数は異様で、脅威だった。
 同時に信長も頭を悩ませていた。三〇〇〇の鉄砲、敵の二倍半の軍勢を擁するとはいえ、これを警戒した武田勢が野戦を避け、撤退すれば意味はない。まして長篠の戦いは旧暦の五月、つまり梅雨時である。当時の火縄銃は雨中では役に立たなかった。
 それゆえ、信長は何としても武田勢を野戦に引きずり出す為、ありとあらゆる手を打った。その一つに佐久間信盛を利用した謀略があった。

 信長は軍議に遅れて来た佐久間を悪し様に痛罵した。佐久間には三方ヶ原の戦いにおいて信長の命を受けて家康の元に援軍に駆け付けながら、殆ど戦わずして逃げ帰ったと云う「前科」があり、悪し様に怒鳴られるのも、それに佐久間が不服を抱くのも充分あり得る話だった。
 満座の中で痛罵された佐久間は、宥める羽柴秀吉に、「こうなったら腹を切るか、裏切るかだ!」とすら云い放った。そしてそれは間者を通じて武田陣に知らされた。
 直後、佐久間から内応したい、との申し入れがもたらされ、手土産として織田軍の布陣図まで送って来て、武田勢が突っ込めば頃合いを見て自分も信長に襲い掛かり、織田軍を壊滅させる、としていた。

 この密書が事実なら、渡りに船である。そう、事実なら。後世に在って歴史の結果を知る我々は佐久間の密書が謀略含みの嘘八百であることは周知だが、武田家中に在っては密書の真偽を巡って紛糾した。
 勿論謀略であれば敵の罠の中に誘き出されることになり、かといって信用しなかった場合、万一密書が事実であれば千載一遇の好機を逃すこととなる。結果、家中の多くが佐久間の密書を信じ、翌日に織田・徳川軍への突撃を敢行することとなった。
 こういう風に書けば閲覧者の方々には推測済みだと思うが、佐久間の内応を最後の最後まで疑ったのが昌幸だった。密書には布陣図と云う重要軍事機密まで記載され、そのことで家中の多くが密書を信じたが、昌幸は敵方の布陣が既に間者によって探索済みで、密書を信じる根拠になり得ないと主張したが、逆にこれを完全に虚偽と決め付ける根拠も無く、兄・信綱から根拠なしに大勢に逆らうものではないと諭され、それ以上直感頼りに異を唱えることも出来なかった。

 当然、内応は全くの虚偽だった。間の悪いことに武田軍突撃寸前に雨が止み、織田・徳川軍は鉄砲の威力を遺憾なく発揮した。佐久間の内応はいつまでたっても怒らず、最前線にいた馬場信春は佐久間が信用出来ないと勝頼の元に急報。信綱も使者を昌幸の元に送り、勝頼を守って撤退するよう伝え、自らは昌輝と共に戦場の露と消えた。

 同作における昌幸の炯眼はその後も発揮され続け、多くの者が昌幸を認めたが、皮肉なことに敵の方が昌幸を重視していた。
 設楽原での惨敗後、高坂弾正が武田軍再編の為、数々の進言をした。それまで兵士が討ち死にすれば自動的にその子が後を継いだが、弾正は血縁ではなく能力を重視した再編、佐久間の内応を信用しながら虚偽と分かると勝手に戦線離脱した穴山梅雪・武田信豊の切腹、有能ではあっても家中に人気のない跡部勝資・長坂釣閑斎を遠ざけて代わりに新進気鋭の真田昌幸・曽根内匠を側近として重用するよう述べた。

 結局この献策は通らず、昌幸昌幸の立場で比叡山延暦寺や長島を訪れて武田家の同盟勢力に協力し、同盟勢力が次々信長に滅ぼされた後は上杉景勝を頼るべし、とした。皮肉にも、勝頼と手を結んだ勢力で最後まで勝頼に味方し、その後の世も生き延びたのはこの景勝だけだった。
そして信長は昌幸が協力している以上、延暦寺も、長島も落とし難いと見て、彼が甲斐に帰るよう仕向けた。結局信長を散々てこずらせた長島一向一揆が壊滅したのは、昌幸が長島を離れた後だった。

 また、勝頼を裏切ることを決意した穴山梅雪は信長・家康への手土産に、武田家の財力を消耗させることを目論み、新府城の築城を進言し、築城責任者に昌幸を推した。昌幸が築城に尽力すれば他のことに昌幸が口出し出来ず、謀略が順調に進むと見ればである。

 例によって炯眼に優れる昌幸は築城に反対したが、結局軍議の結果に押された。梅雪の目論見通り、築城は武田家の財政を圧迫し、殊に材木調達を命じられた木曽義昌は悲鳴を上げた。
 米の取れない山がちな土地である木曽は御世辞にも裕福とは云えない地で、築城費用など百年かかっても作れないと見ていた。木曽家の家老・山村良利は武田家中に苦境を訴えたが、山村に対して昌幸は、「木曽殿がすべてを用立てる必要はない。もしそうなら築城奉行は木曽殿でなくてはならない。命令書を慌て者が見れば誤解するかも知れないが、木曽殿は木曽杉を伐採し、木曽と甲斐の境まで運搬して下されば良い。」と説明した。
 望外の恩情に山村は、「信玄公が昌幸殿を「我が目である。」と申されたのは誠であった。」と目頭を押さえた。昌幸、カッコ良過ぎるだろうが(笑)

 だが結局新府城は完成を待たずに織田・徳川軍が美濃・三河・駿河から攻め込み、「敵の手に渡るよりは…。」として焼かれた。この時には梅雪のみならず、義昌も勝頼を裏切っており、信長は武田家中に内応を促す密書を送った。
 御丁寧にも密書には信長の書状を真実であることを保証する梅雪の添え状まで添付されていた。勿論、昌幸の元にもこの密書は届いたが、昌幸はそのことをすぐに勝頼に報告した。たが梅雪の添え状が効果を発揮したようで、結局密書を勝頼の元に差し出したのは昌幸と小山田信茂だけで、最後にはその信茂も勝頼を裏切った(同作を読む限り、家臣の独断に押された感じで、信茂自身は裏切るのは本意ではなかったのだが)。

 結局、同作における真田昌幸は、その言すべてが正しく、その疑いすべてが的中し、率いられた者が失敗することなく、彼の進言に反したことすべては失敗に終わった。
 勿論、細かく見れば昌幸とてすべてに成功した訳では無い。進言が通らなかったこと自体、彼の人望と説得力にも限界があった。また上杉謙信没後、上杉家が真っ二つに分かれたとき、景勝に味方するよう説いたのは昌幸だったが、当初武田家では景虎に味方する方針だった。
 というのも、上杉景虎は北条氏政の実弟で、勝頼は継室に氏政の妹を迎えており、景虎が上杉家を相続すれば武田・北条・上杉の確固たる協力体制が整う筈だった。だが(経緯詳細は省くが)勝頼は昌幸の言に従って景勝に味方した。これによって景虎は敗死し、当然氏政は激怒し、以後武田と北条が和睦することはなかった(継室は最後の最後まで勝頼と運命を共にしたが)。
 つまり、昌幸の進言は北条との完全な手切れをもたらしたと云える。まあ、歴史に「if」は禁物だから、景虎に味方し続けたからと云って武田家滅亡が避けられたとは云い切れない(景勝はほぼ独力で景虎に勝利しており、そうなると勝頼は景勝と完全に敵対していた)。
 まあ、この一例だけを針小棒大に取り上げても詮方ない話である。いずれにせよ『武田勝頼』を初め、新田次郎の描く真田昌幸は、炯眼・能力・忠義のすべてが現実離れしていると云いたくなる程の完璧超人だったのは確かである。


優遇要因 真田昌幸が実際に極めて有能だったことを考慮に入れても、「優遇され過ぎだろ?」と云いたくなる要因は二つある、と薩摩守は見ている。
 一つは日本人特有の「判官贔屓」である。武田勝頼が昌幸の言をすべて容れて、逆に織田・徳川を滅ぼし、武田幕府が成立していたら、昌幸の名は徳川幕府でいうところの本多正信や、室町幕府で云うところの細川頼之辺りのイメージに留まっていたと思われる。
 これは、関ヶ原の戦いで西軍が勝利し、豊臣家の天下が続いた場合でも同様だっただろう。

 つまるところ、人格・能力共に優れ、有能さを発揮し続けたにもかかわらず、その言を容れられなかったことで仕えた主家、味方した勢力が次々に敗れ、最終的には流刑者として人生を終えた昌幸に対する同情は大きなものがあるだろう。
 歴史に限らず、有能者が必ずしも勝者になるとは限らない(極端に無能な者が勝者になることも無いだろうけれど)。戦乱の世を生き延びた者達の中には、自身は有能ならずとも仕えるべき主、手を結ぶべき仲間の選択が正しかったことで生き残れた者も多い。
 そして有能でありながら、天下を取れなかったり、不遇の内に生涯を終えたりした者に日本人は同情の目を向ける。特に本人に非や落ち度が無ければ尚更である。上述した『武田勝頼』を読んでいると、何度も「昌幸の云う通りにすれば良かったのに。」と思ってしまう。
 思うに、武田勝頼の人生を追っていて新田次郎氏は薩摩守以上にそんな想いを抱いたことだろう。

 もう一つの要因は講談人気だろう。
 現在ほど印刷技術が無くて出版物の流通量が少なく、映像の無かった時代、庶民程講釈師の語る講談に喝采を叫んだ。誤解を恐れず云えば、講談にてカッコよく講釈された武将達は、現代TVで子供達に喝采される仮面ライダーやウルトラマンに等しい存在だった事だろう(←些か誇張気味なのは認めます(苦笑))。
 そして講談を代表するヒーローの一人に真田幸村がいる。昨今では実名とされる「信繁」の名で語られることが多いが、恐らくは後々の世においても根強く「幸村」と呼ばれるだろう。それだけ講談で確立された人気は高い。そしてその「幸村」の父である昌幸はその恩恵に浴するところが決して小さくないだろう。

 講談で語られる幸村の活躍は、勿論大坂の陣がメインである。だが、活躍を盛り立てる要素として関ヶ原の戦いに敗れた後の流人生活も語られる。そしてその流人生活の前半並びに流刑を食らった敗戦を共にしていたのが昌幸である。小豪族生き残りの為とは云え、昌幸は織田・徳川・上杉・北条間を要領よく渡り歩き、それ故に「表裏比興の者」とさえ云われた。勿論それも有能なればこそだが、通常かかる謀略の差異の持ち主は、尊敬されることも多いが、それ以上に恐れ、疎んじられるケースが多い(そのことに対する自覚の強かった本多正信は息子・正純に決して大身を望まないよう遺言し、それを守らなかった正純は没落した)。
 それでも昌幸に悪いイメージが少ないのも、「幸村」と云う「ヒーローの父」という立場が大きく物を云ったと思われる次第である。


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令和七(2025)年五月四日 最終更新