第伍頁 大谷吉継………悲劇が増長する依怙贔屓

贔屓人物 伍
名前大谷吉継(おおたによしつぐ)
生没年永禄八(1565)年〜慶長五(1600)年九月一五日
贔屓した作家特定不可
登場作品多数
贔屓された面友情の厚さ


概略 永禄八(1565)年、近江にて六角氏旧臣の家に生まれた。幼名は紀之介
 天正元(1573)年、織田信長が近江の領主・浅井氏を滅ぼすとその旧領は浅井攻めに功の有った木下改め、羽柴秀吉に与えられた。
 今浜改め長浜城主となった秀吉は地元・尾張中村時代から付き従っていた実弟羽柴秀長、子飼いの加藤虎之介(清正)、福島市松(正則)、嫁(おね)の実家関係者に加えて浅井家旧臣、近江の地侍、その他秀吉の眼鏡に叶った人物が新規召し抱えとなり、その中に吉継もいた。

 最初は小姓として仕え始めた。この当時、戦国武将には(余り想像したくないが)両刀使いが多かったので、小姓には性の相手を務める美童が選ばれることも多かったが、秀吉は珍しく男色傾向が皆無だったので、単純に吉継は石田佐吉(三成)同様、気の利く小間使いとして取り立てられたのだろう。
 その後、中国攻めには馬廻衆の一人として仕え、信長死後、秀吉が躍進して柴田勝家と戦った賤ケ岳の戦いでは柴田勝豊(勝家甥)を調略させると云う大任を果たした。そして他の秀吉一門同様、秀吉が天下人の道を歩むのに従って活躍と出世を重ね、天正一四(1586)年七月一一日に秀吉が関白となると、吉継は従五位下・刑部少輔に叙任され、これにより彼は一般には「大谷刑部」と呼ばれるようになった(同様に親友・三成は治部少輔だったことで「石田治部」と呼ばれた)。
 そして天下統一を目前とした天正一七(1589)年には越前敦賀二万石を与えられ、遂に一国一城の主となった。

 秀吉の天下統一に前後して、吉継は戦働きも優れていたが、どちらかというと三成同様兵站を担ったり、軍目付に従事したりすることが多かった。小田原攻めでも、朝鮮出兵でも最前線に立つことはなかった。
 これには、時期は不明ながら彼がハンセン病を患ったことがあると見られる。吉継は秀吉が「百万の軍勢を指揮させてみたい。」と云われた男で、三〇万の軍勢を動員した小田原攻めが終わり、初の対外戦争・朝鮮出兵はその好機である筈だった。だが、文禄の役の途中、吉継が上杉家重臣・直江兼続に当てた書状は、既に目がかなり悪くなっていたために、花押ではなく、印判が押されたと云う。さすがに本邦初にして、大規模な対外戦争の総指揮を重病人に任せる訳にはいかなかっただろう。
 吉継の患った病がハンセン病なのか、他の病なのかは諸説あるが、確かなのは彼と彼の能力に対する周囲の信頼が些かも揺らながかったことである。

 慶長三(1598)年八月一八日、豊臣秀吉が薨去すると、その遺言で政務を任された徳川家康が権勢を拡大させ、それを懸案する反徳川氏勢力との間がきな臭くなった。当然反家康の急先鋒には三成がいた訳だが、当初吉継はどちらにも与せず、家康との仲も良好で、家康が襲撃されるとの噂が出た際は福島正則ととも警護に務めた。
 だが、慶長四(1599)年閏三月三日に前田利家が没すると家康を巡る対立に歯止めが掛からなくなり、慶長五(1600)年、再三の上洛命令に従わない上杉景勝を討伐する為に家康が兵を起こすと、景勝と共に家康を挟撃せんとして、三成が毛利輝元・宇喜多秀家等と共に家康討伐の兵を挙げた。

 つまりこれが関ヶ原の戦いに繋がった訳だが、勿論、家康追討の挙兵は直前まで伏せられていた。だが、根回しはかなり前から行われており、そもそも上杉討伐自体が策謀の一環だった。  当然家康はこれを読んでいたので、上杉領会津へはゆるゆると進軍した。一方で三成は自分と共に家康を討つ為に戦ってくれる同志を集めた。
吉継は当初家康の命令に従って上杉討伐軍に加わった。その途中、三成の居城・近江佐和山城に立ち寄った吉継はそこで三成から家康討伐計画を知らされたが、吉継は石高・政治力・人望・戦技量のいずれをとっても三成に勝目は無く、思い留まるよう説得した。

 だが、三成を翻意させるには至らず、説得が不可能と悟った吉継は三成の人望の無さをはっきり告げ、成功を帰するなら家康と同じ五大老である毛利輝元、宇喜多秀を総大将として担ぐことを勧めて佐和山城を後にした。
 だが、結局は引き返して三成と行動を共にし、関ヶ原では西南部の松尾山山麓に陣を構え、戦端が開かれると、西軍諸将の多くが日和見を決め込む中、主に藤堂高虎隊と激戦を展開。だが小早川秀秋による裏切りが起きると、一度はこれを押し戻すも、その後起きた裏切りの連鎖に抗し得ず、病で崩れた面相が晒首になることを避けるべく、自分の首を決して敵に渡さないことを湯浅五助に命じ、小早川秀秋への呪詛を残し、自害して果てた。大谷吉継享年三六歳。


行き過ぎ優遇 厳密には大谷吉継を極端に美化したり、優遇したりした作品や史書は見当たらない。逆の云い方をすると、吉継を悪く書いた書も見たことが無い。敢えて云うなら、石田三成との友情物語が出来過ぎているといったところだろうか?

 有名過ぎるので簡単に述べるが、茶会のエピソードはいの一番に挙げられるだろう。
 とある茶会で茶を回し飲みする際に、吉継の顔面から膿が茶碗内に滴り落ちてしまい、吉継を含む参加者一同が周章狼狽する中、三成は素早く茶碗を取ると一気に飲み干し、「余りに旨いので一気に飲んでしまいました。」と云ってのけ、吉継のみならず、吉継への対応に戸惑う参加者一同の面子も潰れることを防いだ。
 このエピソードは、三成とこれ程の友情を築いた吉継は勿論、三〇年程前の歴史ドラマや歴史漫画で「小生意気や豊臣秀吉の腰巾着」のイメージで描かれることの多かった石田三成の名誉も大きく回復させている。

 この様な「出来過ぎだ!」と云いたくなるエピソードは、昨今では実話かどうかが疑われることも珍しくないのだが、仮にこのエピソードがフィクションだったとしても、かかるエピソードが生まれる程の友情を吉継と三成が持っていればこそ、と云う事には余程のひねくれ者でない限り否定しないだろう。
 そしてかかる友情で結ばれた真友の言葉に三成も(受け入れるかどうかは別にしても)、決して臍を曲げることなく苦言にも耳を傾けた。上述した関ヶ原の戦い前の佐和山城での話し合いにおいても、吉継は三成の痛い所を突きまくり、三成もそれをしっかり聞いて参考とした。

 そして周知の様に、吉継は敗色濃厚を承知の上で三成に合力した。己の立身出世だけを考えるなら、吉継自身は決して家康との仲も悪くなく、そのまま東軍に身を置いて勝馬に乗ることは充分可能だった。だが、吉継は友情を取った。
 それ故、関ヶ原における吉継は、最後に敗れたとはいえ、非の打ち所の無い活躍を展開する。西軍は結束の無さから、開戦後も吉継、三成、宇喜多秀家以外は積極的に動かなかった。
 吉継・三成と共に東軍正面に布陣していたにもかかわらず小西行長も、島津義弘も消極的で、南宮山の味方は最前線にいた吉川広家が家康に通じていたため丸で動かず、松尾山の小早川秀秋が何をしたかは今更云うに及ばず、である。
 小早川の裏切りを端から用心していた吉継は三〇〇〇の兵ながら、逆落としに襲い掛かる小早川勢一万六〇〇〇を押し返す奮戦をしたが、共に小早川勢に備えていた赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治までもが裏切りに加担し、さしもの大谷勢も総崩れとなった。

 見事な采配と最期を遂げた吉継に関する「美談」はその後も続いた。
  吉継を介錯した湯浅五助はその首を某所に埋めたのだが、それを藤堂隊の藤堂高刑に見られてしまった。五助は高刑に自分の首をくれてやるから主君の首の在り処を漏らさないことを懇願し、高刑はこれに応じ、主君・高虎に問われても、徳川家康に問われても口を閉ざし、家康から大いに褒められた。
 吉継本人はもとより、吉継と良い形で関わった者すべてが美談をもたらされたと云えよう。

 加えて、関ヶ原の戦いの二年後、小早川秀秋が二一歳の若さで世を去り、小早川家が無嗣改易になった際、様々な秀秋の死因が人口に膾炙したが、その中には裏切られて無念の死を遂げた吉継に祟られた、とするものもあった。


優遇要因 まあ、大谷吉継に関しては特定の作品でめちゃくちゃ美化された訳では無く、「そもそも史実じゃないか。」と思われる方も少なくないと思う。ただ、吉継を主役に据えた訳でもない歴史漫画や歴史小説でも吉継はかなり注目され、知名度の低い者ならスルーされるような話も吉継に関しては残されている。それ故、吉継への史家や歴史作家達の贔屓は小さくないと見ている。

 何故か?

 やはりこれは日本人特有の「判官贔屓」が吉継にも響いていると薩摩守は考える。
 関ヶ原の戦いにおいて、大惨敗を喫した西軍の中にあって、多くの者はカッコ良くない。偏に日和見を決め込んだ者が多かった故だが、吉継と並んで名高いのは的中突破を為した島津義弘ぐらいだろう。
 勿論石田三成、宇喜多秀家も奮闘したのだが、戦場に散らなかったのが少し名を下げた。今でこそ最後の最後まで諦めなかったことが見直されつつある両名だが、戦場の露と消えた吉継に比べると同情度は低かった。
 まあ、吉継はそもそも自分の余命は幾ばくも無いのを先刻承知で、それ故に敗戦を覚悟の上で三成に殉じたので、「助からぬ命なら」と考えて自害を選んだ可能性は高い。ハンセン病で面相を損なっていなければ戦線離脱を図ったかもしれないが、これは云ってもキリがない。だが、死病を押しての従軍(←実際、吉継は馬にも乗れず、輿で参戦した)が同情されているのも大きいだろう。

 加えて、薩摩守は、彼が真田信繁(幸村)の舅だったことも大きいと見ている。
 信繁は古来、講談のヒーローで、徳川の天下に在ってすらピカ一の人気を誇って来た。関ヶ原の戦いに際して、真田家が一族の生き残りをかけて、敢えて兄弟で敵味方に分かれたのは有名だが、信繁が舅・吉継との縁で西軍についたのに対し、兄・信幸(信之)は舅・本多忠勝との縁で東軍についた。
 まあ、これは深読みかも知れない。大坂の陣には吉継の息子・吉治も参戦したのだが、その知名度は大したものではない。吉継を正しく評価するなら(←不当に評価されているとも思わないが)、吉治ももう少し注目しても良い気がする。

 待てよ………『切腹十選』『刎頸の友』『未発見の「遺体」は何処に?』で採り上げているから………あ、よく考えたら、贔屓しているのは俺だった(苦笑)


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令和七(2025)年六月四日 最終更新