第陸頁 島左近………甚だしい作者の贔屓

贔屓人物 陸
名前島左近清興(しまさこんきよおき)
生没年天文九(1540)年五月五日〜慶長五(1600)年九月一五日
贔屓した作家隆慶一郎
登場作品『影武者徳川家康』
贔屓された面人格・不死身振り・生存伝説


概略 一般に島左近の名で有名で、諱は清興(「勝猛(かつたけ)」とするものもあるが、清興が正しいとされている)。例によって本作では通りの良い「左近」で統一します。
 知名度の割には出自や、経歴に謎の多い人物で、対馬出身説、近江出身説がささやかれているが、大和出身説が有力で、筒井氏に仕えていたとされている。

 天文九(1540)年五月五日に生まれた左近は、天文一九(1550)年に僅か二歳で跡を継いだ順慶を盛り立てたとされ、松倉右近重信とともに「右近左近」と称されたと云われている。
 もっとも、順慶の家督継承時、左近は一一歳と云うことになり、この年齢で幼少の主君を支えたとは考え難く、筒井家に仕えていたことが確認出来る確実な記述は、『多聞院日記』におけるもので、天正一一(1583)年五月に伊賀で陣所が夜討ちされたのを迎撃し、負傷したとされている。

 天正一二(1584)年に順慶が死去する左近は筒井家を辞し、その後、蒲生氏郷に仕えたとも、豊臣秀長に仕えたとも云われているが、程なく、石田三成に仕えた。この時、三成は四万石の俸給を受けていた身だったが、左近を二万石で召し抱えたと云われている(三成が佐和山一九万石の身になってから仕えたとする説もある)。
 ともあれ、豊臣秀吉による天下統一に王手が掛かった小田原征伐に前後して、左近は三成の名代として常陸の佐竹義宜との交渉を担った。

 慶長五(1600)年、秀吉死後に関ヶ原の戦いが勃発すると、石田家の命運を賭けた一大決戦に、勿論左近も従軍した。
 徳川家康が美濃赤坂(現・岐阜県大垣市赤坂町字勝山)に到着したことで西軍が動揺する中、兵五〇〇を率いて宇喜多家重臣・明石全登と共に東軍の中村一栄・有馬豊氏両隊に戦いを挑み勝利し、西軍の士気を盛り上げた(杭瀬川の戦い)。
 そして九月一五日、決戦が行われた。西軍諸将の多くが家康に通じたり、日和見を決め込んだりする中、石田勢は宇喜多秀家隊・大谷吉継隊と共に積極的に奮戦した。
 石田隊が相対したのは黒田長政隊、田中吉政隊、加藤嘉明隊で、左近は最前線で夜叉の如く戦った。その凄まじさに田中隊は三〇〇米(メートル)も押しまくられ、黒田隊に従軍していた兵士達は江戸時代になっても島隊の暴れ振りが夢に出て来る程だったと云われている。
 そして正面から打ち掛かるのは得策ではないと見たものか、長政は菅正利に鉄砲隊を率いさせて横合いからの銃撃を命じ、この攻撃で左近は重傷を負った。これにて一旦前線から下がった左近だったが、正午過ぎに小早川秀秋の裏切りを契機として西軍が総崩れになると左近は再度出陣し、壮絶な討死を遂げた。島左近享年六一歳。


行き過ぎ優遇 かつて隆慶一郎と云う名の作家がいた。作家と云うよりは、脚本家であった期間の方が長く、作家として活躍したのは晩年の五年だけだった。だが、史料を徹底的に調べ上げた詳細な描写が秀逸で、殊に前田慶次を主人公とした『一夢庵風流記』は、原哲夫氏の手で『週刊少年ジャンプ』にて『花の慶次―雲の彼方に』として連載されたことで前田慶次と隆慶一郎は一躍有名人となった(まあ、当の隆はそれを見ることなく世を去っていたが………)。
 そしてその隆が凄まじく贔屓にしていた(としか思えない)のが島左近だった(逆に「恨みでもあるの?」と云いたくなるぐらい悪し様に書かれたのが徳川秀忠)。

 左近が最も活躍するのは、『影武者徳川家康』で、同作にて左近は腹心の忍び・甲斐の六郎に徳川家康を暗殺させて関ヶ原の戦いを西軍勝利に導かんとした。暗殺は首尾よく成功したのだが、家康の影武者・世良田次郎三郎元信が家康に勝るとも劣らない将才を発揮し、史実通り戦いは東軍の勝利に終わった。
 激戦の中、重傷を負いながらも生き延びた左近は、家康役を振られた次郎三郎が徳川家の天下が盤石化されると用済みとして消されるのを懸念して豊臣家を存続させようとしているのを察知し、次郎三郎と共に秀頼を守る為に秀忠との暗闘に身を投じた……………………というストーリーなのだが、同漫画はドラマ化され、『左近―SAKON』という派生漫画で左近は主役となり、『花の慶次―雲の彼方に』の後日譚となる『前田慶次 かぶき旅』にも登場し、関ヶ原で討ち死にせずに生きていたことにされた。

 これらの漫画を手掛けた原氏は『北斗の拳』の作画でも有名で、その描写力は『影武者徳川家康』『左近―SAKON』でも遺憾なく発揮され、その暴れ振りは凄まじすぎて、丸で漫画みたいだった(笑)。
 当然左近は、敵役やチョイ役が極端に醜い顔・変な顔に描かれる傾向の強い中、端正・偉丈夫に描かれた。

 まあ、隆慶一郎の作品を「所詮フィクション」として切り捨てるのは簡単だが、隆作品を抜きにしても、左近は尋常じゃない讃えられ方をしている。
 有名な話だが、「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」との評があり、これは『古今武家盛衰記』に謳われたものである。
 また上述した、石田三成から当時彼が得ていた禄高の半分を与えられたと云うのは『常山紀談』に書かれたもので、「君臣禄を分かつ」の逸話として有名である。同時に関ヶ原の戦いでの獅子奮迅振りを記したのも『常山紀談』である。

 勿論両書を鵜呑みにする訳じゃないし、その記述を信じ難い内容だからと云って、頭ごなしに否定するつもりもない。だが、有名な史料にあってすら、「ホントかよ……。」と云いたくなる描かれ方の多いのが島左近と云う人物である。


優遇要因 何故に島左近が、フィクションの中とはいえ、ここまで超人化され、戦死したのが生きていたことにされる程の描かれ方をされているのか?正直、分からない(苦笑)。
 大坂の陣で豊臣家に殉じた真田信繁(幸村)や後藤又兵衛等が判官贔屓で講談のヒーローになった様に、同じく豊臣家に殉じた石田三成が昨今見直されてきたことで、その名誉回復をさせるべく歴史の裏で活躍する役を左近に振られたと云見るべきだろうか?
 何せ、三成は斬首され、三成の父・正継、兄・正澄も佐和山で戦死した(子・重家は仏門に入ることで助命された)。となると、三成の遺志を継ぐ者がその後活躍するとなると「生き延びた重臣」ということになる。

 ただ、上述した様に、故隆慶一郎の小説を抜きにしても、左近はかなり称賛されている。
 左近を讃えた、「三成に過ぎたるものが………」の評と似たものに、「三成に過ぎたるものが二つあり 唐の兜に本多の平八(忠勝)」というものがあり、どっちが先に世に生まれたものか分からないが、先に出た方に対抗してもう片方が後から作られたと見るのは薩摩守だけではあるまい。
 また『常山紀談』における、東軍のトラウマになった程の左近の奮闘振りだが、戦が日常茶飯事だった当時、化け物並みに強くても一人の大将の奮闘がここまでトラウマをもたらすとは考え難い。勿論左近が呂布や項羽並みに強くて、参戦兵士達に恐怖を与えた可能性が無いではないが、それ程の戦闘能力の持ち主なら、その武勇が関ヶ原の戦い以前に名が通っていてもおかしくない。

 かなり無理矢理な考えになるが、徳川の世で、「徳川に刃向かった者が居る。」としたい者が、表立ってそう書けば罰せられかねないので、徳川のトラウマになる程の猛者がいたことにして、更にその者が生きていることにすることで徳川家に恐怖を残した………………………自分で書いておいてなんだが、やはり無理矢理だな(苦笑)。


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令和七(2025)年六月九日 最終更新