第漆頁 前田慶次………人気漫画影響の恐ろしさ
贔屓人物 漆
名前 前田慶次郎利益(まえだけいじろうとします) 生没年 天文二(1533)年〜慶長一〇(1605)年一一月九日 贔屓した作家 隆慶一郎 登場作品 『一夢庵風流記』・『花の慶次』 贔屓された面 超人的身体能力
概略 最初にお断りしておきたいが、前田慶次利益に関する史料は決して多くない。「実在しなかった。」とは云わないが、その出自、諱、生没年に諸説あるが、それを検証するのは本作の目的的ではないので割愛し、薩摩守が調べた中で個人的に信憑性が高いと思われるものを優先して表記していることを白状しておきたい。同時に名作への敬意と通りの良さから本作では「慶次」に統一する。
慶次は尾張荒子前田家当主・前田利久を父に生まれた。だが、慶次の母は利久の前に滝川益氏(滝川一益の弟)に嫁いでいて、利久の元に来た時には益氏の既に腹の中に慶次を宿していた。
だが利久は慶次を我が子として受け入れ、家督を継がせるつもりでいたが、永禄一二(1569)年に織田信長の命で家督は利久の弟・利家が継承した(利久が病弱で廃されたとも、前田家の血統が重んじられるべきとされたとも云われている)。
家督継承者から外された慶次だったが、荒子城こそ出たものの、養父・利久と共に前田家には残り、利家が能登を領有すると利久に二〇〇〇石、慶次に五〇〇〇石が与えられた。
一方で本家である滝川家とも縁は保たれ、本能寺の変勃発時には伯父・一益、実父・益氏と共に北条攻めに従軍していた。そして信長死後に利家は羽柴秀吉に随身し、天正一二(1584)年に小牧・長久手の戦いが勃発すると秀吉に味方した前田家に対し、徳川家康(というか織田信雄)に味方した佐々成政が猛攻を仕掛け、慶次は盟友にして前田家家老である奥村永富の守る末森城に駆け付け、奮戦した。
だが、天正一五(1587)年八月一四日、養父・利久が没すると慶次は息子・正虎に後を継がせ、自身は天下統一後の天正一八(1590)年には前田家を出奔した。
その後、京都で浪人生活を送っていた慶次は慶長五(1600)年に関ヶ原の戦いが勃発するのに先んじて徳川家康からの追討を受けた会津上杉景勝の元に行き、浪人衆として参戦した。
周知の通り、家康にとっては景勝よりも石田三成を討ち、大坂の反徳川勢力を抑えることが重要で、掛かって来たのは主に最上義光、伊達政宗、結城秀康(家康次男)と云った奥羽の諸大名だった。特に関ヶ原にて西軍が大敗した後の撤退時には、最も困難とされる殿軍(しんがり)を見事に務め、逆に追撃してきた最上勢の心胆を寒からしめた(長谷堂城の戦い)。
戦後、家康により論功行賞にて、上杉家は改易を免れたものの、会津一二〇万石から米沢三〇万石への大減封を食らった。だが、上杉家は家臣に対するリストラを行わなかった。現代企業で例えれば、年商が四分の一にまで落ち込めば余程優れた経営者でない限りそれ相応の人員整理、早い話、人減らしは避けられない。それをしなかった景勝・直江兼続は立派ではあったが、同時にそれは上杉家中全員が大減俸を食らうことを意味した。
慶次はそんな上杉家に二〇〇〇石で正式に召し抱えられ、上杉家家臣として生涯を閉じた。薩摩守が最も信憑性が高いと見る説としては、慶長一〇(1605)年一一月九日に保養先の大和にて享年七三歳で没したとされているが、異説も多い。
行き過ぎ優遇 前田慶次の名を、『週刊少年ジャンプ』にて連載された『花の慶次 雲の彼方に』を読んで初めて知った人が大半ではないだろうか?(道場主もそうである)
上述した様に、慶次に関する一次史料は少ない。それは、誤解を恐れずに云えば、慶次が「前田家の歴史から消された男」だったからである(←やや誇張しています)。
『花の慶次 雲の彼方に』は、前頁の島左近を有名にした故隆慶一郎の書いた『一夢庵風流記』を原作とした漫画で、これらの作にて主役にして、超人的な快男児とされた慶次像を鵜呑みにする訳にはいかないし、慶次の家族が前田家に残ったことからも、慶次と前田利家を不仲だったと決めつけるには逡巡するものがあるのだが、慶次が(一時的とはいえ)利家にとって家督継承争いのライバルだったことや、出奔時に「茶席の前に湯(風呂)でもてなす。」と偽って、利家を真冬の水風呂に叩き込んでからかったのは史実である(水風呂のエピソードは、誇張されているとは云われているが)。
小説ほどでは無くても、利家が破天荒な慶次に苦虫を噛み潰したのも一度や二度のことではないだろう。
また、江戸時代に脱藩者が重罪とされたように、文武に優れた慶次が出奔すると云う事は前田家にとって外聞の悪い話で、上述の「消された」は些か過言にしても、「積極的に書き残したい人物で はない。」と云う事はあっただろう。
だが、「謎が多い人物」とは、作家にとって「自分の書きたい人物像に書ける」という余地を大きく残す人物でもある。フィクションに描かれた慶次は超人と云うより化け物に近かった。
「傾奇者」として如何なる権力・権威に対しても頭を下げることなく、異装・奇行を好み、気に入らない奴・邪魔なものは誰だろうとぶっ飛ばす!…………だが、そんな生き方はまず強くないと出来ない。作中とんでもない巨躯と、独自に編み出した槍術を駆使する慶次は訓練を積んだ訳でもないのにとんでもなく強く(慶次曰く、「虎が鍛錬なんかするかね?」とのこと)、どんな巨漢や武芸者が相手でも圧勝し、丸で恐怖心が無いかの様に何者も恐れず、戦場で巨槍を一閃すれば忽ち雑兵一〇人前後の首がすっ飛び、武器を用いずとも、ゲンコツ一発三好清海入道を昏倒させた……………。
もし、実際に慶次のような生き方を貫かんとすれば、同じ傾奇者との果し合いに果てるか、存在を危険視した権力者から刺客を放たれてその手に掛かる可能性が極めて高い。だが、慶次はそれ等の攻撃をものともせずに返り討ちにし(←それも、ほぼ危なげなく)、徳川家康・上杉景勝・豊臣秀吉と云った大権力者からは変に可愛がられ、その破天荒振りで直江兼続・伊達政宗・後藤又兵衛・真田幸村等と意気投合、物凄く本音で生きるから命を狙って来た筈の忍び(捨丸・骨)までが惚れ込んで仕え、行く先々で巡り合う女性に好かれ、夜這いしたら逆に喜ばれ…………………と、惰弱者で数々のスポーツ・武道でいくら訓練を積んでも上達せず、出世とも恋愛とも無縁な道場主には誠に羨ま…………ぐえええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ……………(←道場主のゴースト・キャンバスを食らっている)。
ゲホゲホ……まあ、とにかく、好きな様に生きて、痛い目に遭わない訳では無いが、個人として負けることなく、多くの人々に好かれ、と云う姿は天下取りの英雄とはまた異なったヒーロー像である。
ただ、当然ながら実像は、方向性はともかく、程度としてはここまで大袈裟ではないだろう。前田家出奔時、慶次は五七歳で、作中で直江兼続と知り合った直後(恐らく天正一五(1587)年、五四歳頃)、に上杉家の若侍一四人と果たし合いに臨み、若侍達から、「年なんだから無理すんな。」と云われていた(勿論、簡単に返り討ちにしたのだが)。
傾奇者は、聞こえは良いが現代で云えば不良に近く、五〇代のおっさんのやることではない。否、現代の世で五〇代にて傾奇者的な生き方をすれば、殆んどやくざ者である(暴力団員というよりは、本来の、「役立たず」、「定職に就かずふらふらしている者」の意味に近い)。
実際、前田家からの出奔が可能だったのも、家督を息子に譲っていたからで、五七歳と云えば、隠居には充分である。つまり、小説や漫画は還暦近くになってから好きな様に、破天荒に生きた男の生き様を描いた訳で、勿論慶次の容姿は老人に描かれていない。
作中にて「戦人(いくさびと)」とされた慶次を「実際は弱かった!」などとは云わない。五〇代でも、六〇代でも武の世界に生きる人間は古今東西に存在する。まして己の腕一本で生きるとなれば、一生武器を手に取り続ける必要はあっただろうし、腕に自信が無ければ前田家で隠居生活を送れば良かったのである。
まあ、でも漫画であることを差っ引ても、慶次は超人的に書かれ過ぎである。それ故に同作が面白いのは否めないんだがね(苦笑)。
優遇要因 既に故人となった隆慶一郎に聞くことは出来ないので、推測するしかないのだが、『花の慶次 雲の彼方に』に登場する前田慶次は、(誤解を恐れず例えれば)不良漫画に出て来るヤンキー主人公と云えよう。
そしてその根底にあるのは、「偉い奴は気に食わない。」という、古今東西に存在する反権力・反権威・反骨思想ではないだろうか。
実際、作中にて慶次にからかわれ、一泡吹かされるのは、家長としての権威を振りかざす前田利家や、天下人として自分以外のものを睥睨する豊臣秀吉で、最初に慶次に接した時の二人は非常に見苦しい、下卑た笑いや、嘲りに歪んだ表情をしている。
逆に慶次の器量を認め、一人の戦人と戦人として相対した途端に秀吉の表情は真剣な、良い顔となり、慶次も「狒々親父の顔が戦人の顔になりおった。」や「さすがは天下を取った男」として秀吉に対する態度や認識を改めた。
また利家を池で飼う鯉にすら懐かれない狭量な男として描きつつも、腹を割って本音で慶次と殴り合った後は、妻のお松曰く、「鯉にも分かる。」と云われる程良い表情となっていた(←慶次にボコボコに殴られた顔なのに、である)。
実際この展開はヤンキー漫画で、生徒に校則や内申書を振りかざして横暴に振舞う教師、不良の為すことをすぐ教師に告げ口するクソ真面目学級委員を叩きのめす不良学生主人公に近い。
同時に、慶次も不良学生主人公も、決して弱い者いじめをしない。逆らうのは横暴な権威・権力のみである。所謂、「校則的には逆らう不良だが、学友としては良い奴」なのである。まあ、道場主の実体験で語れば、「現実はそんなもんじゃないぜ………。」となるのだが(苦笑)。
勿論、フィクションに描かれた慶次像が「全くの出鱈目」と云う訳では無い。実際、御年六七歳で長谷堂城の戦いで見事な殿軍を務めたのは並の武芸者に出来ることではない。実際に慶次には、小説や漫画ほどではないにしても、破天荒な生き方を選べるだけの、最低限の膂力はあったのだろう。
戦国時代とは、群雄の活躍や、猛者の雄々しさを傍目に見ている分には面白いが、実際には絶対に生きたくない時代である。戦に次ぐ戦、陰謀や謀略が横行し、ある程度強くなければ忽ち命を落とすだろう。
また、どんなに能力に優れていてもいつ何時どんな不運で命を落とすか分からない…………否、いつ命を落としてもおかしくないからこそ、刹那的な快楽に身を委ねたり、「どうせ死ぬなら好きな様に生きる。」と考えたりするのも充分理解出来る。
だが、同時にそれは現代社会では貫き難い生き方で、容易に犯罪者になりかねない生き方で、平和な世に相応しくない生き方でもある。そんな現代だからこそ、時として我々は破天荒な生き方、邪魔する者をぶっ飛ばして生きたい様に生きる生き方、既存の権威や権力に逆らう生き方に憧れるときがある。
前田慶次は現代の我々に為し得ぬ生き方を、我々に代わってしてくれる憧れの存在故にその行動は常識破りに超人化されているのかも知れない。
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令和七(2025)年六月二二日 最終更新