日本史『賢兄賢弟』

第壱頁 源義家und源義光…………供に有能故に枝分かれ?


名前源義家(みなもとのよしいえ)
生没年長暦三(1039)年〜嘉承元(1106)年七月四日
通称八幡太郎
源頼義
平直方の娘
一家での立場嫡男
主な役職正四位下、陸奥守、鎮守府将軍



名前源義光(みなもとのよしみつ)
生没年寛徳二(1045)年〜太治二(1127)年一〇月二〇日
通称新羅三郎
源頼義
平直方の娘
一家での立場三男
主な役職従五位下、刑部少輔


兄弟関係
血筋清和源氏
源頼義
兄弟関係同母兄弟
年齢差六歳違い



兄:義家
 源頼義の嫡男として長暦三(1039)年に生まれた。幼名は不動丸、または源太丸。七歳の春に、京都郊外の石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎(はちまんたろう)の通称と呼ばれた(生年には諸説あり)。

 父・頼義は、祖父・源頼信とともに平頼常の乱を戦わずして鎮めたことで武勇の誉れ高く、その父とともに前九年の役に従軍し、安倍氏と戦った。
 その最中、天喜五(1057)年には黄海の戦い(きのみのたたかい)で父とともに僅か七騎で敗走する程の大敗も経験したが、頼義は出羽国の俘囚(蝦夷と同じ北方異民族)・清原武則の応援を得て安倍貞任(あべのさだとう)を討ち、平定に成功した。

 延久二(1070)年、義家は下野守に就任。承保二(1075)年に父・頼義が没して家督を継承すると、謀反人や悪僧の追補、貴人護衛等の侍勤めを歴任した。

 そして永保三(1083)年に亡父と同じ陸奥守となり、清原氏の内紛に介入(後三年の役)。  清原清衡(藤原清衡)の要請に応じて清衡の異父弟・清原家衡を討ち、寛治元(1087)年にこれを平定した(有名な、雁の列が乱れるのを見て伏兵を察知したエピソードはこの戦によるもの)。
 しかし、義家の勢力拡大を警戒した朝廷からは私闘扱いとして恩賞は出ず、翌年寛治二(1088)年一月には陸奥守を罷免される始末だったが、義家は自腹で配下に恩賞を払い、却って武士達の尊敬を一身に集めた。まさに「禍転じて福と為す」であった。

 寛治五(1091)年六月、義家の郎党と、同母弟・源義綱(新羅三郎義光にとっては同母兄)の郎党が、所領を巡る争いを起こし、義家と義綱が兵を構える事件に発展した(合戦は辛うじて避けられた)。

 その後、白河法皇や平安貴族達の嫌がらせとも思える仕打ちが続いたが、義家の不満がいよいよ爆発せんと見た法皇は承徳二(1098)年四月に正四位下に昇進させた。そして、同年一〇月には武士として初めて院昇殿を許された(←当時の武士としてはこの上ない名誉)。

 だがその後の義家の人生は斜陽となった。
 次男・源義親が九州での惨暴を尽くして罪に問われ、四男・源義国は弟・義光と常陸で所領争いの合戦を勃発させた。その渦中である嘉承元(1106)年七月四日に源義家は六八歳で没した。


弟:義光
 長兄・義家誕生の六年後である寛徳二(1045)年、源頼義の三男に生まれた。兄同様、元服の地(近江国新羅明神(三井寺))に因んで、新羅三郎(しんらさぶろう)と称した(これは次兄・加茂二郎義綱も同様)。

 後三年の役に際して、兄・義家が東北の寒さと物資の欠如の為、清原家衡軍に苦戦しているとの知らせを受け、朝廷に対して東北への出陣を願い出た。
 しかし朝廷はこれを許さなかったため、寛治元(1087)年に左兵衛尉の官職を辞して陸奥に向かった。弟のこの行為に義家はいたく感激した。

 義家に合力した義光は金沢棚で武衡・家衡を倒して京に帰り、後、刑部丞に任ぜられ、常陸介、甲斐守を経て、刑部少輔、従五位上に至った。
 戦後、常陸国の有力豪族の常陸平氏(吉田一族)から妻を得て、その勢力を自らの勢力としていった。後に遅れて常陸に進出してきた甥の源義国と争って合戦に及び、義国と共に勅諫を蒙った。

 義家の没後に野心を起こし、源氏棟梁の座を狙い、末弟の快誉(かいよ)と共謀し、義家の後を継いで棟梁となっていた源義忠、同母兄・義綱を滅ぼす算段を練った。

 そして天仁二(1109)年、義光は配下に義忠を暗殺させた。その際に、事前に源義明(義綱の子)から盗んだ刀を殺害に用い、それを現場に残させた。
 義光の狙い通り、残された刀が源義明のものであったことから、義忠暗殺の嫌疑は義明とその父である義綱に向けられた。この陰謀により、義綱とその一族は、甲賀山(←義光の勢力圏である)で義忠の養子である源為義(←実父は義親)によって討たれた。

 直後、義光と快誉は義綱の郎党も殺害するのに成功したが、やがて事件の真相が、義光の陰謀であったことが発覚し、義光は常陸国に逃亡。源氏棟梁への道は閉ざされた。

 大治二(1127)年一〇月二〇日卒去。源新羅三郎義光享年八三歳。病を得ても念仏を怠らず大往生を遂げたと伝える。


兄弟の日々
 兄の源義家は祖父・頼信、父・頼義と受け継がれた「武家の棟梁」としてのカラーが色濃い武将である。その実績と名声は、玄孫・頼朝が石橋山の戦いに敗れて安房に逃れた際に、坂東武者を数多く頼朝の元に馳せ参じさせる程の影響力を持っていた。
 ちなみに頼信の兄・源頼光(兄弟の大伯父)、その父・源満仲(兄弟の曾祖父)辺りは謀略家としてのカラーが色濃い。
 拙サイト・戦国房を立ち上げて間もない頃、薩摩守は『認めたくない英雄達』源義家を取り上げた際に、「軍事は満点、育児は赤点」と評した。詳細は前述作を参照頂きたいが、義家はコテコテの軍人だった。

 一方、弟である源義光は弓馬に優れていた武士であったとともに、音楽に通じた風流人でもあった。豊原時元に笙(しょう:雅楽で使われる笛)の道を師事し、時元が世を去る際には秘曲と名器を義光に授けた程だった。
 本職である武道だが、弓馬の基礎である流鏑馬を得意としただけでなく、武器が無くても戦えるよう柔術にも優れていた。有名な大東流合気柔術の開祖となったと云われている。
 そんな武名もあって、義光が纏っていた名鎧・盾無(たてなし)が、末裔である武田家の家宝とされ、出陣の際には君臣一同、鎧に向かって「御旗盾無、御照覧あれ!」と合唱して必勝を誓うほどだった。


 異母兄弟が珍しくなかった当時、異母兄弟よりは同母兄弟の方の絆が強くなる傾向にあるのは想像に難くない。義家義光は同母兄弟だっただけではなく、性格的にも馬が合ったのだろう。二人の間には同腹の兄弟である義綱がいるが、その影はとても薄い。
 そんな兄弟の絆を最も反映したのが、後三年の役だった。

 後三年の役は、前九年の役で源頼義に協力した奥六郡の俘囚・清原武則の孫達が起こした内紛で、頼義とともに前九年の役を戦っていた義家がこれに介入した。
 緒戦では長兄・清原真衡に味方した義家の前に次弟・清衡、末弟・家衡はあっさ敗れて降伏し、義家もこれを容れて二人に奥六郡を分け与えた(その直前に真衡は急死していた)。だが、この分配を不服とした家衡は清衡の妻子を殺して反逆した。

 今度は清衡に味方して家衡と戦うことになった義家だったが、充分な用意をして清衡を襲撃した家衡軍は思いの外強く、義家・清衡は次戦に敗れ、陸奥の民達も純粋な俘囚である家衡を支持した(清衡は藤原経清の子で、母が清原氏に再嫁したので、厳密には清原氏の血を引いていない)。
 追い打ちを掛ける様に東北の厳寒が源氏方を襲い、義家は悪戦苦闘を余儀なくされた。

 この義家の苦戦を聞いて、在京の義光が立ち上がった。
 前述した様に、兄・義家に加勢する為に義光は朝廷に東北への出陣を願い出た。というのも、この時の義光は左兵衛尉の官位にあり、京都を守護する任務中だった。いわば公務の最中で、無断で任を離れることに問題があるのは今も昔も変わらない。
 これに対して、朝廷は許可を出さなかった。そもそも朝廷サイドでは義家が東北で勢力を拡大することを好ましく思っていなかった(後の平将門の乱という例を見れば、この懸念は満更誤りでもない)。出来れば、自分達が見下している武士と、同じく見下している俘囚が共倒れになって欲しいぐらいだっただろう。当然、義家を有利にするであろう義光の加勢など認めたくなかった。

 許可を得られなかった義光は左兵衛尉を辞し、無位無官となることで行動の自由を得て、義家を助けに陸奥に発った。現代に例えて云えば、警部を務める警察官や、事務次官を務める官僚が職を辞して家族のトラブルに駆け付けたのに等しい。
 勿論、この義光の決断に義家は感激し、「亡き父が生き返ってきたようだ!」といって喜びを露わにし、供に戦場に挑んだ。

 程なく、寛治元(1087)年一一月一四日、清原家衡は討たれ、後三年の役は終息。清原清衡は元の姓に復して藤原清衡と名乗って、奥州藤原氏の祖となった。そして案の定、源氏の勢力拡大を望まない朝廷は後三年の役を源氏と清原氏の私闘扱いにして(←あながち間違いでもない)恩賞はおろか、必要経費たる戦費さえ出さなかった。
 これには大いに苦しんだ義家だったが、それでも義家は自腹を割いて配下に報い、このことが後々東国にて源氏が地元の武士達から支持されることとなった。


 だが、武ではなく智を用いるだけに、謀略では貴族達の方が一枚も二枚も上手だった。
 朝廷は義家には恩賞を与えず、一方で義光には新たな官位を与えて官位の上では義家より上とした。
 兄弟仲を拗れさせようと云う謀略の一環で、実際に義家はすぐ下の弟である義綱とは仲が悪く、義家の郎党と義綱が所領争いを起こした際に、義家は郎党に味方した。
 それゆえ朝廷は義綱・義光を上手く抱きこまんとし、彼等が貴族や寺社ともめた際には概ね寛大な処置を取っていた。

 一方で、白河法皇は後三年の役から一〇年後の承徳二(1098)年一〇月に当時、武士として最大の名誉である院昇殿を認めて義家の心証を良くして、強訴に出る悪僧退治を命じたり、義家が可愛がっていた三男・義忠を河内守に任じたりする等して、源氏武者に対して飴と鞭を上手く操り続けた。

 厳しいことを書けば、法皇や貴族に謀略を許した義家には、「一族の結束」という意味において突け入る隙が有り過ぎた。その最たる欠点が「育児」にあった。特に次男・義親と四男・義国はかなりの乱暴者に育ち、義家のいうことも聞かなかった。
 康和三(1101)年七月に、対馬守として九州にあった義親の元に追討使が派遣された。というのも、義親が大宰府の命に従わず、人民殺害、公物椋奪を繰り返したからで、これは殺されても文句のいえない乱暴狼藉だった(←はっきりいって賊徒と化したとしか云えない)。
 この暴挙に義家は義親を召喚させんとしたが、義親は帰洛命令に従わず、義家没後も暴れ続けた。翌年一二月、朝廷は義親の隠岐流罪を決定したが、義親の乱暴は続いた。

 嘉承元(1106)年には義国が義光と所領争いを起こした。
 後からやってきた身でありながら、叔父の土地を狙ったのだから、非は義国にあり、義光もこれに応戦した。しかもこの時、義家は死の床にあり、父が大変な最中に父に尽くした弟の土地を狙って攻めたのだから、義国のたわけ振りは半端ではない
 同年六月一〇日、朝廷は義家に義国召喚を命じ、義光にも捕縛命令が出た。そんな混乱の中、七月四日に源義家は源氏家中の火種を残しまくったままその生涯を終えた。

 こうなるともう義光も兄の遺児達に遠慮しなかった。義家の家督は三男・義忠が継いだが、前述した様に腹心や、長男の義父を次兄・義綱や義忠の郎党として送り込み、謀略でもって両名を死に追いやった。これには末弟の快誉も秘かに協力していた。
 所領争いしていた義国も追い返し、一時は源氏棟梁の地位さえ狙ったが、最後には謀略がばれて京に居られなくなり、自らが勝ち取った常陸に逃れるように隠棲し、土着した彼の孫達から佐竹氏・甲斐武田氏が生まれた。

 また義光に敗れた義国も下野に土着し、叔父ともども朝廷の勘気を蒙りつつも、その息子達は新田氏・足利氏の祖となり、更に新田氏からは松平氏(徳川氏)が生まれた(新田源氏→松平氏の流れはかなり胡散臭いが…)。

 義家の次男・義親は乱暴狼藉者のまま平正盛(清盛の祖父)に討たれたが、その息子である為義が清和源氏嫡流継承に成功し、為義自身は保元の乱にて刑死したが、彼の血筋から鎌倉幕府将軍家が生まれた。

 生前は仲の良かった源義家源義光の兄弟だったが、義光義家の遺児達は彼等が討った清原氏に劣るとも勝らない(?)程兄弟仲が悪かったために、氏族内紛を繰り返し相争うと云う不幸な流れを辿り、後世の源氏嫡流も骨肉の争いを繰り返した。
 だが、悪化は義家の死後(火種自体は生前にあったが)で、二人の仲自体は最後まで悪くなかったのだろう、と薩摩守は見ている。そしてやはり二人の血筋は武勇に優れていたのだろう。後世・鎌倉将軍・室町将軍・佐竹・武田・新田・足利といった名家をこの兄弟の血筋が輩出しているのである。
 最も、その優秀さゆえに彼等が為した戦乱が万民を苦しめたことを想えば、返す返すも義家の息子達に対する教育の成って無さが残念でならない。


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令和三(2021)年六月二日 最終更新