日本史賢兄賢弟

第弐頁 足利尊氏und足利直義…………乖離した両輪


名前足利尊氏(あしかがたかうじ)
生没年嘉元三(1305)年七月二七日〜正平一三・延文三(1358)年四月三〇日
通称特になし
足利貞氏
上杉清子
一家での立場次男(長兄早世により、実質嫡男)
主な役職征夷大将軍



名前足利直義(あしかがただよし)
生没年徳治元(1306)年〜正平元・文和元(1352)年二月二六日
通称三条殿、副将軍
足利貞氏
上杉清子
一家での立場三男
主な役職兵部少輔、左馬頭、相模守、左兵衛督


兄弟関係
血筋足利氏
足利貞氏
兄弟関係同母兄弟
年齢差一歳違い



兄:尊氏
 嘉元三(1305)年七月二七日、鎌倉幕府の有力御家人足利貞氏の次男として生まれた。母は貞氏側室の上杉清子(うえすぎきよこ)で、幼名は又太郎 (またたろう)。
 元応元(1319)年一〇月一〇日、一五歳で元服し、従五位下・治部大輔に任じられ、北条家得宗・北条高時の偏諱を賜って高氏(たかうじ)と名乗った。同時に北条氏一族の有力者であった赤橋流北条氏の赤橋守時(後に鎌倉幕府最後の執権)の妹・赤橋登子(あかはしとうし)を正室に迎えた。
 元徳三(1331)年九月五日、父・貞氏が逝去し、家督を継いだ(貞氏嫡男にして、長兄だった高義(たかよし)は既に早世)。

 同年、後醍醐天皇が倒幕を企図し、笠置で二度目の挙兵(元弘の乱)に及ぶと。高氏は幕府から命じられ、後醍醐天皇の拠る笠置と楠木正成の拠る下赤坂城の攻撃に従軍し、これを鎮圧。倒幕計画に関わった貴族・僧侶が多数逮捕、厳罰に処され、後醍醐天皇も退位させられ、元弘二(1332)年三月に隠岐島へ流された。

 だが、元弘(1333)三年、後醍醐天皇は隠岐を脱出して伯耆国船上山に籠城。幕府に命ぜられて再度上洛した高氏は、正室・登子・嫡男千寿王(せんじゅおう。後の義詮(よしあきら))を幕府の人質として鎌倉に残していたが、後醍醐天皇の誘いを受けて天皇方につくことを決意し、同年四月二九日、所領の丹波国篠村八幡宮(京都府亀岡市)で倒幕の兵を挙げた。
 高氏は、近辺の武士に檄に飛ばし、呼応した軍勢とともに五月七日に六波羅探題を陥落せしめた。同時に鎌倉では新田義貞が幕府を滅亡に追いやっていた(この時、高氏の嫡男・千寿王は鎌倉脱出に成功し、新田軍にも合流出来たが、庶長子・竹若丸は脱出に失敗して殺害された)。

 鎌倉幕府の滅亡後、高氏は勲功第一とされ、従四位下に叙し、鎮守府将軍・左兵衛督の位と三〇箇所の所領、そして後醍醐天皇天の諱・「尊治」から「」の字を与えられ、尊氏と改名した。
 武家から政権を取り戻した後醍醐天皇は親政を開始(建武の新政)。しかし翌、建武二(1335)年、信濃で旧鎌倉幕府の残党が北条時行(ほうじょうときつら。北条高時遺児)を擁立して鎌倉に攻め込んだ(中先代の乱)。
 時行の軍勢は一時鎌倉を占拠し、尊氏の弟・直義は鎌倉を脱出。その際に独断で護良親王(もりながしんのう。後醍醐天皇の皇子で、倒幕に功があったが、父に疎まれ、鎌倉に幽閉されていた)を殺害するという一大事が起きた。
 その影響もあってか、尊氏は乱鎮圧のために征夷大将軍の官職を望んだが、後醍醐天皇はこれを許されず、尊氏は八月二日、許可を得ないまま軍勢を率いて鎌倉に向かった。
 やむを得ず後醍醐は征東将軍の号を与え、尊氏直義と合流するや、相模川で時行軍を撃破し、八月一九日には鎌倉を奪還した。

 元々「眼中我意外に人なし」の傾向が強く、鎌倉幕府を恨んでいた後醍醐天皇は建武新政において武士を冷遇した。それを察知していた直義の勧めに応じて尊氏はそのまま鎌倉に本拠を置き、独自に恩賞を与え始め、京都からの上洛の命令も拒み、独自の武家政権創始の動きに走り出した。
 同年一一月、尊氏は新田義貞を「君側の奸である」として天皇にその討伐を要請したが、逆に天皇は義貞・尊良親王(たかながしんのう。後醍醐の皇子)・奥州の北畠顕家に尊氏討伐を命じた。
 これを受けて朝敵となることを恐れた尊氏は隠居を宣言し、断髪して赦免を請うた。
 だが、弟・直義や直臣の高師直等が各地で劣勢となると、尊氏は弟や配下を救う為に後醍醐に叛旗を翻すことを決意。「直義が死ねば自分が生きていても無益である。」と宣言。一二月に新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破り、京都へ進撃した。
 その一方で尊氏は持明院統の光厳上皇と連絡を取り、後々の大義名分とする工作を行った。そして建武三(1336)年一月、尊氏は入京を果たし、後醍醐天皇は比叡山へ逃れた。しかし同月三〇日には北畠顕家・楠木正成・新田義貞等に攻められて尊氏は敗れ、篠村八幡宮に撤退。二月一一日にも摂津豊島河原の戦いで新田軍に大敗を喫し、摂津兵庫から播磨室津、更には九州に下った。

 西下途上、地元豪族の支援を受けた尊氏は建武三(1336)年三月、多々良浜にて後醍醐天皇に味方する地元勢力を圧倒して、自らの勢力を立て直し、京へ向かった。その途上、備前鞆(とも)で光厳上皇の院宣を受けて大義名分を得ると、西国の武士を急速に傘下に集め、五月二五日の湊川の戦いで新田義貞・楠木正成を破り、六月には再度京を制圧した。

 尊氏は、比叡山に逃れていた後醍醐天皇に対して大幅な譲歩を交えた形での和議を申し入れた。これに応じた後醍醐天皇は一一月二日に光厳上皇の弟・光明天皇に三種の神器を譲った。直後の一一月七日、建武式目十七条を定めて新たな武家政権の成立を宣言した(この流れには直義の手回し働いているとされる)。
 尊氏は源頼朝と同じ権大納言に任じられたが、一二月に後醍醐天皇は京を脱出して吉野(現:奈良県吉野郡吉野町)へ逃れ、光明天皇に渡した神器は偽物で、本物を持つ自分が本物の天皇であると称し(←はっきり云って、やることがセコイ)、南北朝併存状態となった。

 延元三・暦応元(1338)年、足利尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、室町幕府が名実ともに成立。翌年、後醍醐天皇が吉野で崩御し、以後尊氏は南朝との戦いを優位に進め、この間、南朝方の北畠顕家、新田義貞、楠木正成一族等は次々に戦死・自害した。更には正平三年/貞和四(1348)年に高師直が吉野を陥落させた。

 軍事に勤しむ一方で、尊氏は政務を直義に任せ、兄弟は各々の役割をこなした。この両頭政治は上手く機能したが、皮肉なことにこれが徐々に幕府内部に派閥を作ってしまい、対立を呼び起こした。
 特に高師直と直義の対立は深刻化し、内部抗争に発展した(観応の擾乱)。
 当初、中立的立場を取っていた尊氏だったが、正平四/貞和五(1349)年師直の反撃を受けた直義尊氏の元に逃げ込み、師直の兵が尊氏邸を包囲して直義の引退を求める事件が発生。直義は出家し政務を退くこととなった。

 師直によって、直義が担当していた政務は尊氏嫡男の義詮(よしあきら)が鎌倉から呼び戻されて引き継ぎ、尊氏は代わりに次男・基氏(もとうじ)を鎌倉公方として向かわせ、鎌倉府を設置した。
 だが直義派と師直派の対立は根深く続き、直義の猶子・直冬(ただふゆ。尊氏の庶子)が九州で直義派として勢力を拡大していたため、正平五/観応元(1350)年、尊氏は直冬討伐の為に中国地方へ遠征した。
 するとその間隙を縫って直義は京都を脱出して南朝に降伏。尊氏の留守を預かっていた義詮は劣勢となって京を脱出し、帰洛中の尊氏も敗れた。

 劣勢に立った尊氏直義に折れ、高師直・師泰兄弟の出家・配流を条件として正平六/観応二(1351)年に直義との和睦が成立したが、配流途中に高兄弟が、彼等を恨んでいた上杉能憲に殺害されたから話はややこしい事となった。

 戦に勝ち、義詮の補佐という形で政務に復帰した直義だったが、戦闘的に敗れた筈の尊氏が、政治的に勝者の如く振る舞い、尊氏に恐れをなした諸将は尊氏派に転じ、直義派の武将が殺害・襲撃されるなど事件が洛中で続発すると直義は再度政務から身を退いた。
 尊氏・義詮は秘かに直義・直冬追討を企てて南朝方と和睦交渉を行った。
 この動きに危機を感じた直義は鎌倉へ逃亡。同年一〇月に南朝と和睦した尊氏直義を追って東海道を進み、駿河、相模等で連戦連勝を重ね、、直義を捕らえると鎌倉に幽閉した。
 正平七/観応三(1352)年二月二六日に足利直義は急死したが、これは毒殺であるとの意見が大勢を占めている。

 だが、この直義討伐で尊氏が京を空けている隙に南朝は和睦を反故にして、宗良親王・新田義興・義宗・北条時行等が襲撃して来た(←やっぱ、南朝方のやることはセコイ…)。尊氏は関東の南朝勢力を破るも、洛中では義詮が敗れ、北朝の天皇や上皇を拉致した。
 北朝の大義が失われかねない危機だったが、義詮がすぐに京を奪還。後光厳天皇擁立に成功し、北朝と足利政権の正統性が復活した。その後も南朝方や、直冬を奉じる旧直義派と戦い続け、京を奪われたり、奪い返したりする中、正平一三/延文三(1358)年四月三〇日、直冬戦で受けた矢傷による背中の腫れ物がもとで、義詮に後事を託して京都二条万里小路第(現:京都市下京区)にて逝去した。足利尊氏享年五四歳。


弟・直義
 徳治元(1306)年に足利貞氏を父に、上杉清子を母に次兄尊氏の同母弟として生まれた。
 兄同様、元服に際して得宗・北条高時と祖先にあたる源義国から偏諱を受け、高国(たかくに)と名乗った。
 鎌倉幕府に叛旗を翻して後は忠義(ただよし)、そして直義(ただよし)と改名した。

 元弘三(1333)年、後醍醐天皇の要請を受けた兄・高氏が天皇方について鎌倉幕府打倒を目指して挙兵すると、兄・高氏に従い、六波羅探題に攻め込んだ。

 建武の新政において直義は左馬頭に任じられ、鎌倉府将軍・成良親王(なりよししんのう)を奉じて鎌倉にて執権となった(これが後の室町幕府における鎌倉府の基礎となった)。
 建武二(1335)年、中先代の乱が起こり、信濃から進軍して来た北条時行軍を武蔵国町田村井出ノ沢(現:東京都町田市本町田)にて迎撃したが敗れた。
 北条軍が鎌倉へ迫ると、成良親王を京都に送り返し、幽閉されていた護良親王を混乱の中で殺害し、三河矢作(現:愛知県岡崎市)へと逃れた。

 だが程なく直義は後醍醐天皇の許可も得ずに援軍に駆け付けて来た兄・尊氏と合流。攻勢に転じて東海道を戻って八月一九日に鎌倉を奪還した。
 その後尊氏は鎌倉に留まって半ば独立政権に近い行動(独自の論功行賞、上洛拒否)を取ったが、これは直義の強い意向が働いたものだった。
 やがて後醍醐天皇が新田義貞等に尊氏追討を命ずると尊氏は断髪して、赦免を求めて隠棲した。
 尊氏を欠いた状態で駿河手越河原(現:静岡県静岡市駿河区)にて新田軍を迎え撃った直義は敗れた。
 弟の危機に尊氏も戦うことを決意して直義に加勢するや、箱根・竹ノ下の戦いで新田軍を破って入京に成功した。だが建武三(1336)年には北畠顕家・楠木正成・新田義貞等に敗れて京を追われ、九州へ走った。
 道中の備後鞆にて光厳上皇の院宣を得て、後醍醐天皇とは別ルートでの大義名分を得ると多々良浜の戦いで菊池武敏を破り、西国の武士の支持を集めて東上した(海路を尊氏が、陸路を直義が担当)。

 湊川の戦いで新田・楠木軍を破って再入京を果たすと、軍事を尊氏が、政治を直義が担当する両頭政治体制が確立し、尊氏が光明天皇から征夷大将軍に任じられて室町幕府が成立。この時、左兵衛督に任じられた直義建武式目を制定して幕府の法制を整備した。

 だが両頭体制の中で直義は正平三/貞和四(1348)年頃から高師直と対立するようになり、観応の擾乱に発展し、南朝が混乱に乗じることを許してしまったが事態を更に泥沼化させた。
 正平四/貞和五(1349)年に師直・師泰兄弟の襲撃を受け、敗れた直義尊氏邸に逃げ込んだが、高兄弟は尊氏邸を大軍で包囲し、高兄弟の求める直義罷免と出家・引退を受け入れる形で和睦が成立した。

 だがしこりは残りまくっており、正平五/観応元(1350)年、尊氏は自分の実子で、直義の養子になっていた足利直冬を討たんとして中国地方へ遠征すると、直義はその留守に乗じて京都を脱出した。
 直義は(高兄弟を討つ便宜上とはいえ)南朝に降り、正面切って尊氏と争うこととなった。北朝方は直義追討令を出したが、直義尊氏勢を、正平六/観応二(1351)年に播磨光明寺城や摂津国打出浜(現:兵庫県芦屋市)で破り、今度は高兄弟が引退する形で和睦が成立したが、高兄弟は二月二六日に配流の途上で、直義派の上杉能憲に殺害された。

 尊氏の嫡男・義詮の補佐という形で政務に復帰した直義だったが、今度は反乱討伐に出た筈の尊氏・義詮父子が南朝に降って、南朝から直義追討令が出された。
 直義は八月一日に京都を脱して北陸、信濃、鎌倉を転々として勢力糾合に務めるも、駿河、相模等で尊氏に連戦連敗し、正平七/文和元(1352)年一月五日、鎌倉にて武装解除に追いやられた。
 浄妙寺境内の延福寺に幽閉された直義は、二月二六日に急死した。これは高兄弟謀殺から丁度一年後に当たり、病死とは考え難く、『太平記』にあるように尊氏によって鴆毒(ちんどく)で毒殺されたとの見方が根強い。足利直義、享年四七歳。
 直義の死後、直義派の武士達は直冬を盟主として貞治三/正平一九(1364)年頃まで続いたが、直冬の最期は詳らかではない。


兄弟の日々
 足利尊氏足利直義の兄弟は同母兄弟の上、年も一つしか変わらなかったこともあってか、彼等自身の兄弟仲はすこぶる良好だった。そしてこの兄弟は良くも悪くも対照的な兄弟で、互いが互いの長所を信頼して任せ、相手の短所をカバーし合あうという理想的且つ絶妙なコンビネーションを何度も発揮した兄弟でもあった。

 まずは話を分かり易くする為に下記の比較表を御覧頂きたい。

尊氏直義の比較
比較項目兄・尊氏弟・直義
得意分野軍事政務
基本性格 情に厚く、それゆえに非情に徹しきれない。 冷静沈着。質素な倹約家
贈り物 気前良く部下に分け与えた そもそも贈り物を受け取ることを嫌った。
対朝廷 朝敵になることを恐れる。 独断で親王を殺害。但し、軍功を鼻に掛けて光厳上皇に狼藉を働いた将を、周囲の反対を押し切って処刑。
 正面切っての戦に強く、求心力の高さも大きな武器。 南朝の権威を持って尊氏を破った以外は概ね敗戦多し。
文才・学才 連歌・画才に長じていた 史書の誤りを指摘出来た。

 実に正反対な兄弟である。
 兄弟に限らず、正反対な特徴を持つ者同士は絶妙のコンビネーションを発揮するか、1+1が2にもならない劣悪コンビになるかの両極端になり易いが、尊氏直義は本来なら明らかに前者と云えるだろう。正に「車の両輪」である。

 経歴からも明らかなように、尊氏は典型的な「情に厚い武人」で、情け深さや気前の良さで人望があり、リーダーシップに優れ、戦場では危機的な時程笑顔を見せ、勇猛に部下を鼓舞した指揮官としての能力は直義だけでなく、鎌倉幕府も、後醍醐天皇も、関東武者も、西国武士も(味方につけられるときは)多いに頼りとした。一大将としての器量は源頼朝や徳川家康にも劣らないだろう。
 だが、「情に厚い」という人間は往々にして「非情に徹することが出来ない」人間でもある。尊氏も例外ではなく、最後には敵対した後醍醐天皇や直義に対しても敬意や愛情を失うことはなかったが、それゆえに高師直や佐々木道誉のようなバサラ大名の無礼な振る舞いを罰することも出来ず、有力守護大名に厚く報いても力を削ぐ事はしなかった。戦に敗れるのも「朝敵の汚名」や「肉親への情」に怯んだ時に限られた。
 非常に冷たい云い方をすれば、優し過ぎる男である尊氏の甘さが有力守護大名を突け上がらせ、室町時代に殆ど安定期が無かった遠因ともなっていた。

 それを能吏として背後で支え、欠点を補ったのが直義だったのは今更言及するまでもないだろう。直義が政務をしっかり押さえたからこそ尊氏は戦働きに専念出来、性格的に非情になれないゆえに政治的決断を苦手とした尊氏の政務代行を直義が務めた。

 丸で正反対に等しい両者が、高兄弟との対立までは上手く機能していたのも、兄弟仲の良さにあった訳だが、その根幹は兄・尊氏の性格にある、と薩摩守は見ている。
 何せ、尊氏は夢窓疎石(むそうそせき)をして「戦場では勇猛、敵方にも寛容さ、部下に気前の良い三つの徳があった」と云わしめた漢(おとこ)である。薩摩守が武士だったらこの様な将の下で戦いたい、と思わせるような人物であった。当然、同母弟・直義のことも深く愛し、深く信頼した。

 尊氏直義に政務を任せた姿勢は、敢えて悪い云い方をすれば、「丸投げ」である。だが、一見面倒臭がり屋が取る手段に見える「丸投げ」は有能な人間程完遂出来ない傾向にある(中国史でいえば蜀の諸葛亮孔明が好例であろう)。つまり本当の意味での「丸投げ」は、相手を完全に信頼していないと出来ないのである。
 実際、尊氏は石清水八幡宮に「今生の果報をば直義にたばせ給候て、直義安穏にまもらせ給候べく候」という願文を奉納する程、彼を愛し、信頼していた。

 またその性格ゆえに朝敵の汚名を恐れて剃髪したり、南朝に一時降伏したりしたこともあった尊氏だったが、本当に弟や息子や部下が危ないと思った時は朝命を無視してでも救援に駆け付けた男だった
 新田義貞の追討に対して、一度は朝敵の汚名を恐れて戦場に立たなかったが、直義が新田軍に苦戦する中、直義が死ねば自分が生きていても無益」とまでいって、後醍醐に背いて弟を助けることを選んだのだから。

 そんな兄に対して、直義も頼るべきは頼りながらも、尽くすべきは尽くした。それは観応の擾乱にて心ならずも兄と対立した後も消えることはなかった。
 直義は南朝に降る際に、南朝から「直義勝利の暁には幕府は北朝の解体と大政奉還をすべきである」要求されたが、直義「実際に天下の秩序を守っているのは幕府を筆頭とした武士であり、南朝こそ要求に従って無条件で京都に帰還すべきである。」と論じた程だった(←この辺り、正反対に見えてもやはり兄弟やね)。


 だが、「長所は短所」とはよく云ったもので、理想的だった筈の両頭体制が、皮肉にも理想的な兄弟関係を終わらせてしまった。
 尊氏直義を信頼していた故に、互いが互いの長所を担い合う両頭体制を敷いたが、大組織においての両頭体制は必ずしも歓迎されるものではなかった。組織に二人の頭がいることは、片方を深く尊敬する者に取って、もう片方の存在は極めて巨大な邪魔者となり得るのである。特に尊氏の直臣で野心家だった高師直の様な人物には面白くなかった。
 そこをいくと、尊氏は人望が有り過ぎ、直義は理屈人間過ぎた。

 直義は南朝に降る時すら理を貫く男だったが、理に叶い過ぎることは人心を遠ざけ易い。直義は幕府の正統性を守ろうとしたが為に、人望ある尊氏と同等であることが周囲から許されず、高師直・師泰兄弟を初め、諸国の武士や自らの側近からも離反される始末だった。
 結果、直義は高兄弟と深刻な対立状態に陥り、南朝方に突け込まれたこともあって、前述した様な兄弟相克が生まれてしまった。実に勿体ない話である

 足利尊氏は優し過ぎた。肉親は勿論、配下にも、敵にさえも。後醍醐天皇崩御の折には慰霊の為に天龍寺を造営し、直義が死んだ折には後光厳天皇に従二位追贈を願い出てもいた。
 だが、非情になるべき時に非情に徹しなかったゆえに、直義と高兄弟の対立を抑え切れず、抵抗勢力に然るべき止めを刺さなかったため、尊氏は朱子学名分論の影響を受けて南朝を正統とした水戸学では「逆賊」とされ、幕末には尊皇攘夷論者によって等持院の尊氏・義詮・義満三代の木像が梟首され、明治に入ると皇国史観の中で戦前の国定教科書に「天皇に弓を引いた逆臣」と書かれ、斎藤実内閣の商工大臣・中島久万吉(なかじまくまきち)が尊氏を礼賛した文章を書いたことで辞任に追いやられた程だった。
 ここまで極端に貶められたのも、尊氏が人として、「優しい人」・「良い人」であったゆえに、逆に後醍醐天皇がエゴイスト過ぎたゆえにここまでせざるを得なかったのだろう。

 尊氏がもう少し非情さを持てば兄弟相克はなかったかも知れない。否、幕府という大組織ではなく、中小企業の社長か、一軍の将辺りなら尊氏直義は終生良き車の両輪で在れたかも知れない。
 本当に惜しい賢兄賢弟だったと云えよう。せめて、命日の不自然ささえ無ければ尊氏直義を殺したとは考えたくないのだが………。


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令和三(2021)年六月二日 最終更新