日本史『賢兄賢弟』

日本史『賢兄賢弟』

 「兄弟」とは呼んで字の如く、「」である。時代によっては母親を異にすることもあるが、多くの場合、父親が同一人物となる。
 現代日本では、多くの場合は、同じ両親から生まれ、同じ家で育ち、余程特殊な背景でもない限り、はそれなりにを可愛がり、はそれなりにを立てる。勿論、「うちの場合はそうじゃないぞ。」と主張される方も少なくないだろうけれど。
 兄弟といえども一人の人間と人間、一人の男と男、となった場合、その仲は千差万別である。ましてこれが近代以前となるとケースも立場も更に多様化する。

 殊に歴史に名を残すような家柄の場合、兄弟でも「主と従」であったり、「敵同士」であったり、「父と子」に等しい仲であったりするし、年齢差が大きかったり、幼児の死亡率が高かったりした時代には兄弟でも一度も顔を合わせないケースも珍しくなかった。
 とかく、現代の常識が通用しないケースも珍しくない。家督や官位を巡った兄弟相克の史例に眉を顰めた事のある方も多いだろう。
 付け加えれば、当人同士は仲が良くても、特殊な立場や、片方が極端に無能であるが故に足を引っ張り合ったケースも多々ある。同じ親から生まれても片方が有能で片方が無能である「賢」や「愚」もよくある話である。

 ここで本題となるのだが、兄弟に生まれながら諸要因により、兄弟愛を築けなかったり、兄弟共同での成功を収められなかったりした例や、時には兄弟で殺し合った例も多いからこそ、逆に兄弟愛や兄弟協力で成功を収めた例は、薩摩守に取って心惹かれるものがある。
 『歴史』というものを見ると後の時代から背景・結果を知った上で見ることが出来るばかりに稀代の英雄でさえ欠点をあげつらっての批判が容易で、べた褒め出来る人間など皆無に等しい。また個人の有能性が高ければ高い程、周囲の人間が色褪せる。
 腹の立つことや思い通りにならないことが多過ぎる世の中だから、今回は「賢兄賢弟」という視点で注目して、歴史の波に翻弄されながらも愛を重ねた兄弟達を見ていきたい。



第壱頁 源義家und源義光…………供に有能故に枝分かれ?
第弐頁 足利尊氏und足利直義…………乖離した両輪
第参頁 武田信玄und武田信繁…………周囲をはばからぬ慟哭
第肆頁 尼子政久und尼子国久…………受け継がれなかった連携
第伍頁 毛利隆元und吉川元春und小早川隆景…………逸話以上の兄弟連携
第陸頁 足利義輝und足利義昭…………失われた権威復興への尽力
第漆頁 北条氏政und北条氏規…………御家滅亡に隠れた兄弟協力
第捌頁 島津義久und島津義弘…………椅角の構えで鹿児島を護れ
第玖頁 豊臣秀吉und豊臣秀長…………賢弟の死に始まった斜陽
第拾頁 真田信之und真田幸村…………驚異的長寿と驚異的奮闘
第拾壱頁 結城秀康und徳川秀忠…………供に立てあった異母兄弟
第拾弐頁 松平頼重und徳川光圀…………複雑家督と子息交換
第拾参頁 徳川光貞und松平頼純…………征夷大将軍輩出を狙って
第拾肆頁 川路聖謨und井上清直…………幕末混迷外交を支えた賢兄賢弟
第拾伍頁 秋山好古und秋山真之…………謂わずと知れた対露兄弟
最終頁 理想の兄弟とは?


※歴史上、どんな兄弟を「賢兄賢弟」としたかは完全に薩摩守の独断と偏見です。異論があって当然ですが、どうか御了承下さい。
※基本、人を認める視点で制作していますので、中には最終的に袂を分かった兄弟も選んでいます。
※有能者同士の兄弟でも、薩摩守が兄弟愛の観点から認めたくない!と思えば敢えて無視しています(例:「徳川家光と保科正之」を取り上げようかとも思いましたが、家光の、同母弟・徳川忠長に対する仕打ちが気に喰わないので採り上げませんでした(苦笑))。
※兄弟の名前の間が「and」でも、「&」でもなく「und」なのは、英語ばかりが使われることに飽きた道場主が、ウケを狙ってドイツ語にしたためです(笑)。


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平成二九(2017)年一一月一三日 最終更新