日本史賢兄賢弟

第拾肆頁 川路聖謨und井上清直…………幕末混迷外交を支えた賢兄賢弟


名前川路聖謨(かわじとしあきら)
生没年享和元(1801)年四月二五日〜慶応四(1868)年三月一五日
内藤歳由
高橋誠種娘
一家での立場次男
主な役職外国奉行を初めとする各種奉行職



名前井上清直(いのうえきよなお)
生没年文化六(1809)年〜慶応三(1868)年一二月二五日
通称親右衛門
内藤歳由
高橋誠種娘
一家での立場三男
主な役職信濃守


兄弟関係
血筋内藤氏
内藤歳由
兄弟関係同母兄
年齢差八歳違い



兄:聖謨
 享和元(1801)年四月二五日、豊後日田(現:大分県日田市)に、日田代官所属吏・内藤歳由を父に、高橋誠種(日田代官所手付)の娘を母に、長男として生まれた。幼名は弥吉(やきち)。

 文化五(1808)年、父・歳由が江戸に出て御家人株を入手し、幕府徒歩組に編入された。それに伴って弥吉も江戸に出て、文化九(1812)年、小普請組の川路三佐衛門光房の養子となった。
 翌文化一〇(1813)年元服し、川路萬福(かわじかずとみ)と名乗って、養父と同じ小普請組に入った。

 文化一四(1817)年、筆算吟味(勘定奉行所の下級吏員)に及第。文政元(1818)年に勘定奉行所支配勘定出役に採用、支配勘定を経て御勘定に昇進、旗本となった。
 後、寺社奉行吟味物調役として寺社奉行所に出向。出向中に仙石騒動(江戸三大御家騒動の一つとされる但馬出石藩千石家の御家騒動)を裁断。この裁きで名を挙げた萬福は勘定吟味役に昇格した。

 その後、佐渡奉行、小普請奉行、普請奉行を歴任して水野忠邦の改革に参与し、その間にを萬福から聖謨(としあきら)に改めた。

 勘定吟味役就業時に、職務上、西洋諸国の動向に関心を持ち、当時の海外事情や西洋技術などにもある程度通じるようになり、その縁で江川英龍や渡辺崋山等と共に尚歯会(しょうしかい:蘭学を初めとする西洋学問を重んじた学者達のサロン)に参加した。
 だが、尚歯会は老中・水野忠邦には厚遇されたが、洋楽嫌いの鳥居耀蔵からは眼の仇にされ、天保一〇(1839)年の蛮社の獄にて解散に追い遣られ、聖謨もあやうく連座するところだった。

 水野忠邦が天保の改革の挫折で失脚するに伴って奈良奉行に左遷。その後、大坂東町奉行を経て、嘉永五(1852)年、公事方勘定奉行に就任した。
 翌嘉永六(1853)年、浦賀に黒船来航。時の老中・阿部正弘から海岸防禦御用掛に任じられ、開国を唱えた。
 同年、長崎にロシア使節プチャーチンが来航するとの交渉を大目付格槍奉行・筒井政憲、勘定吟味役・村垣範正、下田奉行・伊沢政義、儒者・古賀謹一郎と共に担当。安政元(1854)年、伊豆下田にて日露和親条約に調印した。

 安政五(1858)年、老中・堀田正睦に同行して日米修好通商条約の勅許を得る為に上洛。しかし強硬に攘夷を唱える孝明天皇の前に勅許は得られず、江戸へ戻った。
 その後、勅許が無いままに日米修好通商条約が弟・井上清直と目付・岩瀬忠震がタウンゼント・ハリスとの間で調印され、攘夷派の怨みを買うこととなった。

 井伊直弼が大老に就任すると聖謨は一橋派と目され、西丸留守居役に左遷。翌安政六(1859)年八月二七日には留守居役も罷免されて隠居差控を命じられた。

 文久三(1863)年、勘定奉行格外国奉行に復帰。だが名ばかりで御用聞きに等しい職務内容を不満としてか、僅か四ヶ月で病気理由にて辞職した。

 その後は、中風で半身不随となったり、弟・清直が死んだり、といった不幸が続き、大政奉還の翌年、朝廷軍が江戸城総攻撃に向かって来る最中の慶応四(1868)年三月一五日、勝海舟と西郷隆盛の会談で江戸城開城が決定したことを知らずして、割腹の上ピストルで喉を撃ち抜いて幕府の終焉に殉じた。川路聖謨享年六八歳。
 ピストルを用いたのは、半身不随のために刀では上手く死ねないと判断したからではないかと云われている。

 辞世:天津神に 背くもよかり 蕨つみ 飢えにし人の 昔思へは

 辞世の横には「徳川家譜代之陪臣頑民斎川路聖謨」と自書されていた。


弟:清直
 文化六(1809)年、豊後日田(現:大分県日田市)に、日田代官所属吏・内藤歳由を父に、高橋誠種(日田代官所手付)の娘を母に、三男として生まれた。幼名は松吉(まつきち)。通称は新右衛門(しんえもん)。

 天保一三(1842)年、寺社奉行吟味役、弘化四(1847)年に勘定組頭格となり、御家人から旗本へ昇格した。
 安政二(1855)年、老中・阿部正弘の信任を得て下田奉行に就任。翌安政三(1856)年にアメリカ総領事・ハリスが伊豆下田に来航すると応接を担当した。
 兄・聖謨同様、熱心な開国派で、ハリスの将軍・徳川家定への謁見や日米修好通商条約討議に奔走し、安政五(1858)年、目付の岩瀬忠震と共に、日本側全権として勅許を得ないままに日米修好通商条約に調印した。
 間もなく外国奉行を兼任。ロシア・フランス・イギリスとも同様の通商条約を締結した。
 安政六(1859)年、大老となった井伊直弼から一橋派と目され、一時小普請奉行に左遷された。だが間もなく軍艦奉行となり、海軍拡張に尽力した。

 文久二(1862)年、江戸南町奉行に就任。翌文久三(1863)年、水野忠徳と共に小笠原長行の率兵上京に従った咎で免職。
 元治元(1864)年、三度、外国奉行となり、更に勘定奉行公事方に転任した。
 慶応二(1866)年に関東郡代となり、同年江戸北町奉行に転任。混乱する江戸の収拾に努める中、大政奉還の翌々月となる慶応三(1867)年一二月二五日、現職のまま死去した。井上清直享年六〇歳。


兄弟の日々
 黒船来航に端を発する幕末・明治初期の日本には、時代の激動性ゆえに、身分にかかわらず様々な人物が歴史の表舞台に登場しては消えた。既存の価値観だけで世情が語れなくなったからこそだが、川路聖謨井上清直兄弟の場合はその一昔前の時代に、身分に頼らず、己の才覚一本で出世街道に乗り、幕末の動乱期に最も困難な外交を託されたのだから、特筆に値する兄弟である。

 最終的に兄・聖謨はロシア帝国との外交に、弟・清直はアメリカ合衆国との外交にその名を残したが、兄弟の才覚の源となったのは父・内藤吉兵衛歳由の教育にあった。
 内藤家は豊後日田の代官の身分で、時代的に下級武士として藩内でもうだつが上がらないまま生涯を終えるのが当たり前と云えた。だが歳由は「幕臣」というものに強い憧れがあった様で、自分の息子達には何としてもその地位に就かせんとして、厳格な教育を施した。

 歳由は息子達に厳しいだけではなく、自分にも厳しく、食事を切り詰め、酒も飲まずにすべての費用を息子達の勉学に回したと云う。残念ながらそれ以上の詳細は薩摩守には研究不足で判然としないのだが、厳しさの中にも愛情と機知に富み、自己犠牲をいとわないものではないかと薩摩守は推測している。
 その根拠は、歳由が聖謨を小普請組・川路三左衛門光房の元へ養子に出し、同様に清直を幕府御家人・井上新右衛門の元へ養子に出して、出世の糸口を与えていたところに見ている。歳由の子は三人で、長男の重吉は夭折していたから、歳由は内藤家の家名存続よりも、息子達の立身出世の方を優先すると云う当時の武士としては信じられない選択をしたのである!

 そんな歳由の薫陶が効いたか、兄弟は優れた才の持ち主に成長し、成人後、二人は貧困な中、厳格ながらも愛情に溢れた両親の教育と苦労に涙を流して感謝したと云われている。
 殊に兄・聖謨は幼少の折に患った疱瘡(天然痘)のため、決して頑健さに恵まれていた訳ではなかったが、それでも幕臣時代の聖謨は、
午前二時 起床。その後執筆、読書。
午前四〜六時 (夜が白んでくる頃)庭に出て、刀の素振りと槍のすごきを平均二〇〇〇回。
午前六〜九時 来客の相手。
午前一〇時 江戸城に出仕。
午後五時 退勤(通常は午後二時まで)。
午後六〜一〇時 帰宅。既に待ち構えている客と一緒に晩飯を食べながら話を聞く。
午後一〇〜午前〇時 執筆、読書。
午前〇時 就寝。
 という、睡眠僅か二時間の超人的スケジュールを過ごすも、周囲には「気が張っているから平気。」というナポレオンもびっくりのバイタリティーを発揮していた。
 更に、自分に厳しかった聖謨は人には優しかった。
 佐渡奉行時代には、金大工(金鉱夫)が従事していた悲惨な情況について記録し、五年間の奈良奉行時代には人々に呼び掛けて桜と楓の苗木数千本株を東大寺から興福寺を中心に植樹して貧民救済に尽力した。
 ちなみにさっきから兄・聖謨の事績にばかり触れているのは、弟・清直のそれに対する薩摩守の研究及び情報収集力の不足にあることを白状しておこう(苦笑)。

 ただ、歴史の素人で、幕末に関する知識は戦国のそれより大幅に少ない身ながらはっきり断言出来るのは、聖謨清直兄弟が、下級武士の出でありながら人格・実績・能力ともに頑迷者も少なくなかった幕閣に有無を云わさぬ程認められたからこそ、対蘭を除けば未知の領域とも云える西洋国家との交渉を任されたと云うことである。

 殊に外国奉行として、対露交渉におけるプチャーチンを初めとするロシア人達の印象もすこぶる良かった。日露和親条約の締結交渉において両国間で一番揉めたのは千島列島の帰属問題だったが、聖謨はロシア側に一歩も譲らない姿勢を崩さずに、それでも機智やユーモアを交えた柔軟交渉をこなし、蝦夷地・千島列島・樺太に住むアイヌ諸族の分布を正確に例示しつつ「千島列島における日露の境は択捉島と得撫島の間とする」・「樺太(サハリン)は今まで通り日露混在の地とする」ということをロシア側に承認させた(後に千島・樺太交換条約でこの領有定義は変更となったが)。

 そんな聖謨に対してプチャーチンは、帰国後に

 「日本の川路という官僚は、ヨーロッパでも珍しいほどのウィットと知性を備えた人物であった

 と書き残し、プチャーチンの秘書で、小説家でもあったイワン・ゴンチャロフは後に著書の中に聖謨に関して

 「私達は皆、川路を好いていた。意味は違うけれど筒井(政憲)老人以上に、でなくとも少なくとも同等に好いていた。彼は非常に賢明でもあった。……すべてのことは、彼の優秀な理知と聡明と鋭敏と経験とを現すものであった。
 理知というのはどこ(の国)でも同じである。民族・服装・言語・宗教・人生観は異なっても、賢明な人には共通の表象が有る。馬鹿の共通点が有ると同様である。


 「幕末外交は国際法の知らなさから諸外国のカモにされて不平等条約を押し付けられ、当時の幕府の外交は最低。」とのイメージはまだまだ強いが、そんな中、相手に好意と共にここまで感じせしめた川路聖謨の様な人物がいたことが、薩摩守は日本人としても嬉しいし、まだまだ異民族との相互理解が乏しかった時代に聖謨を例に「理知というのはどこ(の国)でも同じである。民族・服装・言語・宗教・人生観は異なっても、賢明な人には共通の表象が有る。」と云い切ったゴンチャロフの様なロシア人がいたこともまた薩摩守は人間として嬉しい。

 そしてゴンチャロフが記したように、同船していたロシア人誰もが聖謨を好き、彼等は聖謨の肖像画を書こうとしたり、写真を撮ろうとしたりした。もっとも、その申し出に対して聖謨は、「私のような醜男(←幼少の頃、疱瘡に罹っている)を日本人の顔の代表と思われては困る」と発言し、彼等を笑わせながら丁重に断ったらしい。
 そんな聖謨の好印象は条約締結から三〇年以上も経た明治二〇(1887)年にプチャーチンの孫娘のオルガ・プチャーチナ伯爵が聖謨所縁の地戸田村を訪ね、そこに100ルーブルの寄付をし、その後の日露・日ソ関係がどうあろうとも両家の交流は続き、平成二〇(2008)には日露修好一五〇年を祝いあった、と云うから驚嘆する他ない。

 一方、弟の井上清直だが、さすがに兄程には相手国側の強い印象が分権で残っている様子は見られない。
 しかし、外交の百戦錬磨で、気が短く、時には居丈高に出て来たハリス相手に、清直は感情に流されず、誠意をもって堂々と渡り合った(ちなみにアメリカでは日本を開国させたペリーよりも、通商条約を締結させたハリスの方が有名)。

 清直が締結した日米修好通商条約は領事裁判権(治外法権)や関税自主権の問題で、後に明治政府が条約改正で困窮を極めたこともあって、日本史上の評判は決して良くないが、細かく見ると、
  • 日本とヨーロッパの国の間に問題が生じたときは、米国大統領がこれを仲裁する(第二条第一項)
  • これら開港地に、米国人は居留を許され、土地を借り、建物・倉庫を購入・建築可能である。但し、要害となるような建築物は許されない。このため、新築・改装の際には日本の役人がこれを検分できる(第三条第二項)
  • 居留地の周囲に囲い等を作ることなく、出入りを自由とする(第三条第三項一部抜粋)
  • 軍需品は日本政府以外に売ってはならない(第三条第七項一部抜粋)
  • 阿片の輸入は禁止する。もし米国商船が三斤以上を持ってきた場合は、超過分は没収する(第四条第四項)
  • アメリカ人に対して犯罪を犯した日本人は、日本の法律によって裁かれる」(第六条第一項一部抜粋)
  • 判決に不満がある場合、米国領事館は日本人の上告を、日本の役所は米国人の上告を受け付ける(第六条第二項)
  • アメリカ人は日本の神社・仏閣等を毀損してはならない(第八条第二項)
  • 「宗教論争はおこなってはならない。」(第八条第三項)
  • 日本の獄舎に米国人を勾留した場合は、その費用は領事館が支払う(第九条第三項)
  • 日本政府は、軍艦、蒸気船、商船、捕鯨船、漁船、大砲、兵器の類を購入し、または作製を依頼するため、米国人を自由に雇用できる。学者、法律家、職人、船員の雇用も自由である(第一〇条第一項)
  • 条約内容は1872年7月4日に必要に応じて見なおす。その場合には1年前に通達を行う(第一三条)

 というように軍事・宗教・阿片の問題でしっかり日本と日本人に危険が及ばない様に配慮し、評判の悪い裁判問題でも「日本人に罪を為した米国人を米国が裁く代わりに、米国人に罪を為した日本人は日本が裁く」という公平さも持たせ、第一三条では改正の為の話し合いへの布石も打たれていた(だから岩倉具視が改正に失敗しても、井上馨、大隈重信、青木周蔵、陸奥宗光、小村寿太郎等が次々と改正するまで挑み続けることが出来た)。
 ついでをいうと関税自主権の問題にしても、「当時の幕府は限定的な開国が意志だったから、そこまで考える必要はなかった」、「当時概念のなかった関税の主導権をハリスに認める代わりに、最恵国待遇を片務的から双務的にチェンジさせた」、「関税自主権が無かったからこそ、安い外国製品とともに外国の技術も保守的な人々に邪魔されず国内に入ってきた」等の擁護論もある。

 勿論、これは日米修好通商条約締結をかなり好意的に捉えた見方で、後々この条約に多くの日本人が苦しんだのは事実だし、良い条約締結とは云えないが、最悪回避の努力は窺える。
 また、さすがにこれだけの交渉を清直の独力で為し得たとは考え難く、締結前年に夭折した阿部正弘や、共に全権を務めた岩瀬忠震やその他の人々の尽力もあったことだろう。
 ただ、それでも全くの未経験な交渉に、「勅許未得」というプレッシャーの中、国内法と国際法に差が有り過ぎた状況下(←後年、岩倉具視もこの問題で条約改正にあっさり失敗している)でここまで相手の譲歩を引き出した井上清直の尽力はもっと認められてもいい筈である。

 聖謨清直兄弟の惜しむべき点は、後任の大老・井伊直弼に一橋派と目され、冷遇されたことだろう。外交の功労者でありながら、左遷と復職を繰り返した兄弟はその有能さを認められながらも、それに相応しい待遇を得たとは云い難かった。
 また聖謨にしても完全無欠人間だった訳ではなく、生麦事件ではイギリスとの交渉に失敗している。

 最終的に一年違いで弟が先に、兄が後に江戸幕府の終焉とほぼ時を同じくして世を去った兄弟だったが、似た者兄弟ながら、清直は日本国の誇りを、聖謨は幕府への忠誠を重んじていたことが異なっていたと見られている。
 やはり強い想いなくして人間は超人的な力を発揮出来ないと云うことをこの兄弟の人生は示してくれている気がする。


余談
 この文章を綴ったのは平成二七(2015)年二月一六日のことだった。すこしずれているが、九日遡った二月七日は北方領土の日である。
 北方領土の日制定は昭和五六(1981)年だが、二月七日が選ばれたのは、この日が日露和親条約締結の日で、日露両国が領土問題に関して初めて正式な調印を交わした歴史的に大きな意義を持つ日だったからである。
 そして今年(平成二七(2015)年)の二月七日は、日露和親条約から一六〇年に当たる。

 何故こんなことに触れているかと云うと、幕末史に疎い薩摩守が本作の対象者に川路聖謨井上清直兄弟を含めたのは、道場主が日本外交史の中で日露交流を最も注目していたからである(その理由は書くと長くなるので後日に譲ります)。
 その中で、日露和親条約締結時における聖謨の活躍を知り、それまで名前しか知らなかった聖謨と、存在すら知らなかった清直に注目すればこそだった。

 北方領土問題は難しい問題で、平成二七(2015)年二月一六日現在、ウクライナ情勢問題もあって、足踏み状態が続いている。恐らく、草葉の陰でこの現状を川路聖謨公(←明治一七(1884)年になって明治新政府は従四位を追贈した)も嘆いていることだろう。
 せめて日露両国の民にもっと、川路聖謨とプチャーチン一行の互いに君命とプライドを掛けつつも、敬意と友好を重んじた交渉を知った上でこの問題を真剣に考えて欲しいものである。


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令和三(2021)年六月二日 最終更新