日本史賢兄賢弟

第拾伍頁 秋山好古und秋山真之…………謂わずと知れた対露兄弟


名前秋山好古(あきやまよしふる)
生没年安政六(1859)年一月七日〜昭和五(1930)年一一月四日
通称日本騎兵の父
秋山久敬
一家での立場三男
主な役職大日本帝国陸軍大将



名前秋山真之(あきやまさねゆき)
生没年慶応四(1868)年三月二〇日〜大正七(1918)年二月四日
通称
秋山久敬
一家での立場五男
主な役職大日本帝国海軍中将


兄弟関係
血筋秋山氏
秋山久敬
兄弟関係同母兄弟
年齢差九歳違い



兄・好古
 安政六(1859)年一月七日、伊予松山城下(現・愛媛県松山市歩行町)に松山藩下級藩士・秋山久敬を父に、貞を母に三男として生まれた。幼名は信三郎(しんざぶろう)。名前の由来は論語の一節、「信而好古」より。
 父に身分から、秋山家は裕福とは云い難く、好古は藩校・明教館へ入学後、家事全般を管理して家計を支えながら学んだ。

 明治八(1875)年、(金の掛らない)大阪師範学校合格。明治九(1876)年七月に同校を卒業後、大阪、名古屋の名門小学校で教職に従事した。
 しかし一年も経たない明治一〇(1877)年五月に(やはり金の掛らない)陸軍士官学校入学したことで軍人としてのキャリアがスタートした。

 明治一二(1879)年一二月、陸軍士官学校を卒業し、陸軍騎兵少尉として東京鎮台に配属されたのを皮切りに、異動・昇進を重ね、明治一六(1883)年四月九日、再度学ぶ側に回って、陸軍大学校に一期生として入学した。
 同大学校を卒業後、参謀本部勤務→東京鎮台参謀→陸軍騎兵大尉と経歴を重ねた。

 明治二〇(1887)年七月二五日:サン・シール陸軍士官学校に留学した久松定謨の補導役としてフランスへ渡り、騎兵戦術の習得に努め、後に「日本騎兵の父」と呼ばれる様になった人生の第一歩を踏み出した。

 好古は生まれつき色白、大きな目で特徴的な鼻を持ち、長身だったことも手伝って(←陸軍大学校時代に教官メッケルからヨーロッパ人と間違えられたがある)、留学中は「鼻信」とあだ名された。
 その容姿ゆえ、故郷の松山でも、留学先のフランスでも女性にかなり人気があったという。だが好古自身は「男子に美醜は無用」としてそれを鼻にかけることはなかったという。もっとも、色事にはストイックでも、酒には全然ストイックじゃなかったが(笑)

 明治二三(1890)年一二月一九日、父・久敬が松山で死去し、ほぼ一年後の明治二四(1891)年一二月一三日、日本に帰国。直後に、同月二六日に騎兵第一大隊中隊長に異動となって、騎兵軍人・軍人教育者としての道に更に特化した人生を歩んだ。
 明治二五(1892)年四月二七日、陸軍士官学校馬術教官に異動。その後は陸軍騎兵少佐→従六位昇叙→騎兵第一大隊長→任陸軍騎兵中佐→正六位昇叙→陸軍乗馬学校長→陸軍騎兵大佐→従五位昇叙→陸軍騎兵実施学校長→陸軍獣医学校長兼務→第五師団兵站監→清国駐屯軍参謀長→清国駐屯軍守備司令官→陸軍少将→正五位昇叙→騎兵第一旅団に、と教職混じりの異動・昇進を重ねた。

 この間、日清戦争にも従軍したが、明治三七(1904)年、ついに騎兵第一旅団長として日露戦争に出征することとなった。
 戦地では第二軍所属の下、沙河会戦黒溝台会戦、そして「最大の陸戦」と謳われた奉天会戦(←実に日本軍七万、ロシア軍九万が戦死した大激戦だった)にも騎兵戦術を駆使して、当時世界最強と云われたロシア陸軍コサック騎兵と戦った。
 この奉天会戦日本海海戦の勝利が大日本帝国の戦果的優位を決定づけたのは周知の通りである。

 戦争の最中である明治三八(1905)年六月一九日、母・貞が逝去。ポーツマス条約締結により、日露戦争が終わったのはその三ヶ月後のことだった。
 後に陸軍騎兵学校に参観に来たフランス軍人に「秋山好古の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽きている」と賞されたと云うから、教育も、現場での奮闘も、騎兵へのこだわりは相当なものだったのだろう。
 戦後、更に陸軍内での昇進を重ね、騎兵監→→陸軍中将→第一三師団長→近衛師団長→朝鮮駐剳軍司令官を歴任し、大正五(1916)年一一月一六日にはついに陸軍大将となった。
 その後も昇進を重ね、軍事参議官→正三位昇叙→馬政委員会委員長→教育総監を歴任し、「陸軍三長官」の一人となった(同時に軍事参事官も兼任)。

 大正一二(1923)年 三月一七日をもって予備役に編入して、軍人としての現役を引退。元帥位叙任の話もあったが好古自身が固辞したと云われている。同年四月三〇日には特旨をもって従二位に叙位された。
 大正一三(1924)年四月、故郷松山にて私立北予中学校(現:愛媛県立松山北高校)の校長に就任。好古の経歴からすれば信じられない程の降格に等しい人事だったが、好古本人が強く希望したと云われ、校長就任中、好古は一日も休まず、一分の遅刻もなかった。そしてこれが好古最後の職務となった。
 また、この頃には自らの功績を努めて隠していたと云われており、揮毫を頼まれた(←書にも長けていた)際には快く応じるも、生徒や親から「日露戦争の事を話して欲しい」、「陸軍大将の軍服を見せて欲しい」と頼まれても一切断っていたと云う(だが現在、同校の校長室には、書と騎馬像が飾られている。)。

 六年後の昭和五(1930)年 四月九日、校長を辞任。
 同年一一月四日、糖尿病による心筋梗塞のためにより東京陸軍軍医学校にて逝去。秋山好古享年七一歳。遺骨は東京港区の青山霊園と、松山市の鷺谷墓地に分骨された。


弟・真之
 慶応四(1868)年三月二〇日、伊予松山城下(現・愛媛県松山市歩行町)に松山藩下級藩士・秋山久敬を父に、貞を母に五男に生まれた。幼名は淳五郎(じゅんごろう)。名前の実際の表記は「眞之」だが、本頁では「真之」で通す。名前の由来は後漢の文人・張衡の『思玄賦』の一節「何道真之淳粋兮」に基づく。

 幼少の頃は相当な腕白で、多くの子供を引き連れて戦争ごっこをしたり、本を参考に花火を作って打ち上げたりし、喧嘩が絶えず、親友の正岡子規からは「喧嘩屋」と呼ばれ、母の貞は「お前も殺して私も死ぬ」と云いながら涙を流す程だった。何せ、成人後にも武官として駐在したアメリカからの帰国中、自分にイカサマ賭博を働いた男達のリーダー部屋に連れ込み、刃物を抜いて返金させた程である。
 地元の漢学塾に学び、和歌なども習った。学費に苦労した兄・好古の援助もあって、真之は同じ苦労をせず、幼き頃からの親友で後に俳人となった正岡子規とともに学ぶ日々だった。

 上京した正岡に刺激され、愛媛県第一中学(現:松山東高校)を五年にて中退し、明治一六 (1883)年)年に共立学校(現:開成高校)にて受験英語を学び、大学予備門(現:東京大学教養学部)に入学した。

 東京帝国大学進学を目指し、正岡と共に文学の道を志していた真之だったが、兄・好古に学費を頼っていたこともあって、卒業後は正岡(帝国大学文学部に進んだ)と道を異にし、明治一九(1886)年、海軍兵学校に一七期生として進学。陸軍畑を進んだ兄に対して、海軍畑の道を歩むこととなった。

 明治二三(1890)年、海軍兵学校を首席で卒業。少尉候補生として海防艦・比叡に乗艦して実地演習を重ね、エルトゥールル号遭難事件(トルコが親日国になることを決定づけたとも云われるオスマン・トルコ帝国軍艦の遭難事故)の生存者送還にも従事した。だがこの任務のため、同年一二月一九日に父・久敬が逝去した際、真之は死に目に会うことが出来なかった。

 明治二五(1892)年、海軍少尉にして二年後の日清戦争に従軍。戦では通報艦・筑紫に乗艦し、偵察等の後援活動に従事した。
 戦後、日清戦争での水雷の活躍に注目して設置された海軍水雷術練習所(海軍水雷学校)の学生になって水雷術を学んだ。
 卒業後、横須賀水雷団第二水雷隊付になり、海軍大尉となった後、軍令部諜報課員として中国東北部で赴任し、活躍した。

 明治三一(1898)年、海軍にて留学生派遣が再開されると真之は派遣留学生に選ばれたが、公費留学枠には入れなかった。
 私費にてアメリカへ留学した真之は、ワシントンにて海軍大学校校長のアルフレッド・セイヤー・マハンに師事し、主に兵術の理論研究に務めた。
 留学中、米西戦争を観戦武官として視察。報告書「サンチャゴ・デ・クーバの役」(極秘諜報第百十八号とも)を提出。
 サンチャゴ・デ・キューバ海戦の一環としてアメリカ海軍が実施したキューバのサンチャゴ港閉塞作戦を見学したことが、後に日露戦争において旅順港閉塞作戦のヒントになったと云われている。

 翌明治三二(1899)年一月、イギリス駐在となり視察を行い八月に帰国。明治三四(1901)年、海軍少佐に昇進した。
 日英同盟が締結された明治三五(1902)年、海軍大学校教官に就任。翌明治三六(1903)年結婚。対露開戦論者として湖月会のメンバーとなって日露開戦を積極的に訴えた。

 翌明治三七(1904)年二月六日、第一艦隊旗艦・三笠に乗艦すると、四日後の二月一〇日、対露宣戦布告が為されて日露戦争が勃発。真之は海軍中佐・第一艦隊参謀として連合艦隊司令長官東郷平八郎の下で作戦担当参謀となり、参戦した。
 真之は東郷からは「智謀如湧」(ちぼうわくがごとし)としてその作戦立案能力を評価され、従軍中の九月一日:海軍中佐に昇進した。

 ロシア海軍旅順艦隊(太平洋艦隊)撃滅と封鎖の為、旅順口攻撃と旅順港閉塞作戦においては先任参謀を務め、機雷敷設を行った。
 明治三八(1905)年五月二七日、日本海対馬沖にて帝国海軍は海戦における最も重要な大戦−日本海海戦に臨んだ。
 この戦いは周知の通り、バルチック艦隊の航路を読んだ帝国海軍が、東郷ターン(T字戦法とも)と呼ばれる迎撃作戦でもってバルチック艦隊を壊滅に追いやり、大日本帝国の戦果的優位を決定づけた訳だが、同時に真之が大本営に打電した、

 「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直チニ出動、之ヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ。」

 の電文もまた有名である(特にラストの部分)。
 また日本海海戦の戦功により、三日後の五月三〇日に、真之は勲四等瑞宝章に叙勲されたが、翌月の六月一九日に母・貞が兄・好古の役宅で逝去した際に、またも親の死に目に会えないと云う不幸も味わった。

 やがて日露戦争が日本の勝利に終わると、同年一二月に連合艦隊は解散。その解散式において東郷が行った訓示の草稿は真之が起草したもので、この文章に感動した時の米大統領セオドア・ルーズベルトは、全文英訳させて、米国海軍に頒布したと云われる程、真之は名文家・文章家としても知られる様になった。
 真之は巡洋艦の艦長を歴任し、第一艦隊参謀長→軍令部第一班長→海軍大佐、と昇進を重ね、大正二(1913)年に海軍少将となった。

 大正三(1914)年、シーメンス事件(軍艦建造を巡る疑獄事件)が起こった。事件は政府批判、治罪法問題(秘密裁判主義に基づいているとして改正が検討されていた)の再燃、軍法会議の公開要求に発展し、調査委員会が設置されると、真之は委員の一人に指名された。
 事件を受けて三月に第一次山本権兵衛内閣が退陣し、第二次大隈重信内閣が発足すると、真之は海軍大臣に任命された八代六郎を軍務局長として補佐した。

 軍務局長時代には、上海へも寄港する巡洋艦・音羽に乗艦して中国を実地見聞し、留学生の受け入れなどを提言。孫文とも交流を持ち、非公式に革命運動を援助。
 明治四四(1911)年、辛亥革命で清が滅亡し、中華民国が成立。清を滅ぼした袁世凱が皇帝になろうとすると日本政府など諸外国も抗議する中、真之は川島浪速ら大陸浪人と田中義一(当時参謀本部次長)等が主導した第二次満蒙独立運動に加わった。

 後に軍令部転出となったため、対中政策から離れた真之は大正五(1916)年三月に、ヨーロッパに渡って第一次世界大戦を視察。朝鮮半島からシベリア鉄道でロシア、フィンランドなど東欧などを視察し、五月にはイギリスに渡った。
 イギリスでは日本海海戦を観戦した英国海軍ペケナム中将、艦隊司令長官のジェリコ提督等に歓迎された。その後フランス、イタリアに、翌年九月にはアメリカへ渡り、一〇月に帰国した。
 帰国後、第二艦隊水雷司令官になるが、病によりすぐに辞職。同年七月には海軍将官会議議員になって海軍中将に昇進。これが最後の昇進となった。

 大正六(1917)年五月に虫垂炎を煩って箱根にて療養に努めたが、翌大正七(1918)年に再発。悪化して腹膜炎を併発したことで二月四日、小田原にて逝去した。秋山真之享年四九歳。晩年は霊研究や宗教研究に走り、軍人に信者の多かった日蓮宗を信仰していた。


兄弟の日々
 秋山好古秋山真之の兄弟は、似ているところと似ていない所がえらく極端な兄弟だった。

 表にすると、
ポイント兄・好古弟・真之
似ていた所天才肌な才能(基本、何をやらせても人より優れていた) 第二回万国平和会議に参加した際に、各国委員会による演説中に鼾をかいて居眠り。同僚に注意された際に「演説の要領は分かりましたよ」と応えたという。 候補生時代、後輩から「猛勉強している訳ではないのに何故いつも成績がトップなのか?」と聞かれた。対する真之の答えは「過去の試験問題を参考にすることと、教官のクセを見抜くことだ。また必要な部分は何回も説明することから試験問題を推測できる!」だった。
身嗜みに対する無頓着さ 極度の風呂嫌いで、日露戦争中の入浴はたったの二回。軍服も全く洗濯せず、虱が湧き、周囲に悪臭を発散していた。
 入浴・洗濯を勧められても、「軍人たるもの戦場においてはいつ何時でも敵に対処出来る様にしなければならない(入浴している間に異変があった時、対処出来ない)」、「風呂に入るためにこれ程遠い戦場まで来たのではない。」と云う始末。
 軍服の袖で鼻水を拭き、人前で平気で放屁・放尿した。
 作戦を練り始めると入浴せずに数日過ごすことも度々だった。
文への優秀さ 書に優れ、晩年は良く揮毫を頼まれた。 上述した様に、日本海海戦での電文や連合艦隊解散会での草稿文が有名。正岡子規と竹馬の友であった育ちも影響している。
肝の太さ 戦場でも酒を手放さず、劣勢時には部下の酒を執ってラッパ飲みする度胸を見せて舞台を鼓舞した。 日本海海戦にて立案した東郷ターンは自艦隊の横っ腹を敵に曝すという大胆な作戦でもあった。
似てなかった所教育を受ける立場と心構え 貧苦から苦労して学んだため、弟や教え子の教育にも熱心で真之への学費援助を惜しまなかった。
 また、教え子達に騎兵の特徴として、「高い攻撃力と皆無に等しい防御力」を説明する際、素手で窓ガラスを粉砕して、血塗れの拳を見せ、「騎兵とはこれだ」と示し、校長時代は、「学生は兵士ではない」として、学校での軍事教練を極力減らし、見聞を広めるために修学旅行先に朝鮮(当時日本領)を選ぶなど、こだわりも極めて強かった。
 また福澤諭吉を尊敬していたことから、自分や親類の子供達を出来るだけ慶應義塾で学ばせようとした。
 早くから兄の援助を受け、学ぶのに苦労をしなかったためか、結構好き勝手。但し、最後には兄の顔を立てて、親友(正岡子規)と進む道を異にした。
食に対して 非常に質素で贅沢を嫌った。食事のおかずは沢庵漬のみ。真之が居候をしたときも食器は一つで使いまわした。 少尉候補生時代、食事中にパンくずでビスマルクやナポレオン、豊臣秀吉などの頭像を作って遊び(←食い物を大切にしていたと思えない)、好物の煎り豆をポケットに忍ばせてよく食べていた。
教え子・部下に対して 欲の無い人物として知られ、凱旋した際も、給料や品の多くは部下に与えていた。 兄同様教職に就いた時期もあるが、特筆すべき事象はない。
幼少時の環境と性格 父、病弱な長兄の苦労を偲び、苦労を厭わなかった。郷里の人々から「徳が有る」と云われていた。 兄程苦労しなかったこともあって、才気煥発・自由闊達。郷里の人々から「険しい」と云われていた。

 となる。

 単純に片付けるなら、幼少時に苦労したか否かが細かいところでの相違を産んだと云える。だがそれでも軍人としての道を自らのこだわりを持って邁進したことが兄弟を一流の人物に成長させ、日露戦争という大舞台がそれを露わにしたと云える。その証拠、と云っては過言だが、日露戦争後の兄弟の事績はあまり目立たない。

 勿論、これは戦後、兄弟が無能になったり、失脚したりしたからではない。好古真之も軍人として順調な昇進を重ねた。戦後の兄弟が目立たないのは、好古が自らの戦果を固辞することを良しとせず、真之が宗教・霊研究に没頭して夭折したことで、兄弟が表舞台に立たなくなったからに過ぎない。
 日露戦争後、騎兵が戦場で活躍しなくなる時代を迎えたこともあって、丸で大日本帝国に日露戦争での勝利をもたらす為に生まれて来た様な兄弟の人生だが、好古は実際にそう見ていた感が有る。
 好古には「男は生涯において、一事を成せばよい。」という信念の持ち主で、その「一事」が日露戦争での勝利で、その為の手段が騎兵隊だったのだろう。
 また、口には出さずとも真之にも同じ想いがあって、全身全霊で日露戦争に参戦していたのかもしれない。というのも、戦後の真之は戦中における極度の緊張と疲労から抜け殻の様になり、「秋山真之は発狂した。」との風説が流れた程だった。
 もっとも、そこまで一事に対するこだわりを持って当たった兄弟がいたからこそ、大日本帝国は当時陸軍最強と云われ、何倍もの国土を持つロシア帝国相手に勝利を収められたのかもしれない。勿論、この兄弟だけが優れていた訳ではないし、戦争を礼賛したい訳ではないのだが。

 最後に、この兄弟の人格形成を考察したいのだが、やはり兄・好古の影響が極めて大きいと思う(弟の影響が大きいこと自体、余りないと思うが)。
 何度か触れた様に、好古の幼少時、秋山家は家禄の低さから裕福とは云えず、次男・正牟を岡家へ、四男・道一を西原家へ里子に出しており、五男・真之も生まれた際に生活苦から寺へ出そうかと話が出た。
 しかしこの時、好古は「将来あし(自分)が豆腐(の塊)ほど厚い金を稼ぐからに、弟を寺へやらないでくれぞなもし」と両親へ懇願した。好古は、長兄・則久が病弱だったことから二二歳の時に秋山家の家督を譲られて相続している。則久の病弱は生まれ付きで、好古には早くから家督を継ぐ自覚があったであろうことは想像に難くない。
 そんな好古は、親友正岡と共に学びたがる真之を東京に呼び寄せて学ばせ、それに感じ入っていたからこそ、真之は文学の道を諦めて海軍軍人の道を歩んだ。

 似ている所と、似ていない所が極端な兄弟ではあったが、互いを思いやり、こだわりの強い所が共通し、その信念を持って全力で国に尽くしたことは大日本帝国にとって僥倖と云えたのではなかろうか。


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令和三八(2021)年六月二日 最終更新