日本史賢兄賢弟

第参頁 武田信玄und武田信繁…………周囲をはばからぬ慟哭


名前武田信玄(たけだしんげん)
生没年大永元(1521)年一一月三日〜元亀四(1573)年四月一二日
通称晴信、入道、甲斐の虎
武田信虎
大井夫人
一家での立場嫡男
主な役職甲斐国守護、従四位下・大膳大夫



名前武田信繁(たけだのぶしげ)
生没年大永五(1525)年〜永禄四(1561)年九月一〇日
通称典厩殿、古典厩
武田信虎
大井夫人
一家での立場次男
主な役職左馬助


兄弟関係
血筋甲斐源氏・武田氏
武田信虎
兄弟関係同母兄弟
年齢差四歳違い



兄:信玄
 大永元(1521)年一一月三日に甲斐国守護にして、甲斐源氏の名家である武田家当主・武田信虎(たけだのぶとら)と正室・大井夫人(おおいふじん)の第二子として誕生(長兄は既に夭折)。幼名・勝千代(かつちよ)。
 武田家は甲斐源氏の名家ではあったが、甲斐一国を完全に統一したのは父・信虎の代になってのことで、そんな戦と謀略に明け暮れた父から、一般に勝千代は愛されなかったとされている。

 天文五(1536)年、時の将軍・足利義晴の偏諱・「」を受け、武田家当主に継承される「」の字と合わせて、武田晴信(たけだはるのぶ)として元服。時に晴信一六歳。同時に朝廷より従四位下・大膳大夫の官職を賜り、京都の左大臣・三条公頼(さんじょうきんより)の娘を正室(厳密には継室)に迎え、武田家次期当主としての地位は固まりつつあるように見えたが、父・信虎は弟・信繁の方を偏愛しており、廃嫡の危機は消えなかった。

 天文一〇(1541)年六月、信虎が駿河の今川義元に嫁いだ娘に会いに国許を離れた隙に、板垣信方・甘利虎泰・飯富虎昌(おぶとらまさ)等重臣達と図って、国境を閉鎖して父を追放し、甲斐国主となった。
 国主となると駿河の今川・相模の北条とは和し、信濃の諏訪・高遠や、上野の上杉に矛先を向け、徐々に信濃に勢力範囲を広げ、一方で内政にも手腕を発揮した。
 天文一六(1547)年には戦国時代の分国法の代表とも云える『甲州法度次第』を制定し、多くの戦国大名がこれに習ったのは有名である。

 天文一七(1548)年二月に、対村上義清戦にて南信濃制圧中の残虐行為(詳細は、拙作『戦国ジェノサイドと因果応報』参照)が裏目に出たり、思いの外村上勢が屈強だったりしたこともあり、板垣・甘利を失い、自らも負傷すると云う生涯でも例の無い惨敗を二度に渡って、喫した(上田原の戦い砥石崩れ)が、海野(真田)氏を懐柔し、北信豪族の内紛を上手く煽り、天文二二(1553)年四月には村上義清も越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って逃れ、北信の一部を除いて信濃を制圧した。

 その年から永禄七(1564)年にかけての一七年間、上杉謙信とは五度に渡って川中島の戦いを繰り広げた。その多くは睨み合い・対峙に終始したが、四度目となる永禄四(1561)年の戦いは最大にして唯一の激戦となり(一般に「川中島の戦い」といえば、この四度目を指す程である)、信濃の支配権を守り通したことで「武田軍の大勝利!」と喧伝したが、愛弟・武田信繁、参謀・山本官助晴幸、宿将・諸角豊後守虎定といった大切な人材を数多く失うと云う痛手も蒙った(上杉側でも、この大将首を持って「上杉軍の大勝利!」と喧伝した)。

 この間、天文二三(1554)年に今川義元・北条氏康とは善徳寺の会盟を通じて、甲相駿三国同盟を結んでいたが、永禄三(1560)年に今川義元が桶狭間の戦いでまさかの戦死を遂げた辺りから綻び出した。
 折しも、甲州内の金山は枯渇しかけており、駿河の安倍川金山と海産資源は信玄(永禄二(1559)年に出家)にとって垂涎の的だった。
 そして川中島の戦いが終わった三年後の永禄一〇(1567)年、遂に信玄は駿河侵攻を決意。嫡男・義信(正室が今川義元の娘)の大反対に遭ったが、これを同年一〇月に幽閉して押し切り(義信事件)、永禄一一(1568)年一二月、三河の徳川家康と謀って駿河に攻め入った。

 同盟破約により、北条氏康とも対立状態となった。信玄は小田原城を攻めたが、さすがに堅城は落ちなかった。だが、北条方も新たな同盟相手である上杉との連携がちぐはぐで、信玄が痛手を被ることは無かった(氏康死後、北条は再び武田と結んでいる)。
 そして元亀三(1572)年一〇月三日、将軍・足利義昭が形成した反信長包囲網に加わっていた信玄は義昭の要請に応じて上洛の途に就き、駿河、遠江・三河の三路から徳川領に侵攻した。
 徳川方の諸城を陥落させ、同年一二月二二日には三方ヶ原の戦いで徳川・織田連合軍を大いに打ち破り、翌元亀四(1573)年二月一〇日には要衝・野田城を落とした。
 家康の命運をあわやという所まで追い込んだが、労咳(肺結核)が悪化し、四月初旬、重臣達は信玄に「進軍中」と偽って、甲斐に向けて引き返したが、四月一二日、信玄は自分の死を三年の間秘めることと、孫である信勝が武田家当主になるのは一〇年後として、その間四郎勝頼に後見させることを遺言して息を引き取った。武田信玄享年五三歳。


弟:信繁
 大永五(1525)年に甲斐国守護にして、甲斐源氏の名家である武田家当主・武田信虎と正室・大井夫人の第三子として誕生。幼名・次郎
 文武に優れ、父・信虎に愛され、信虎は嫡男・晴信を廃嫡して信繁を跡取りにせんと画策していたとも云われるが、信繁自身は兄・晴信を深く敬愛し、弟としての分を守り、信虎追放後も兄に尽くした。

 その活躍は信濃侵攻補佐と、外交と、一門衆の束ねが主で、武田家中においても、甲斐国においても、一族内においても「副将」に相応しい指揮を発揮した。殊に兄・信玄は諏訪頼重の助命を反故にした(詳細は拙作『切腹十選』参照)ことや志賀城攻めでの残虐行為が祟って、佐久衆を初めとする南信濃の国人達がなかなか服従しなかった。時間と苦労を重ねた懐柔策が奏功したのは信繁の人望によるところが大きかった。
 一方で、同母弟・信廉(のぶかど)が信玄の影武者が務まる程、容貌や声が信玄に酷似していたため、逆に信繁が総大将を務めるように見せて、実は信玄が指揮をして敵の虚を突いたこともあった。

 また甲斐を追放されて駿河に居候していた父・信虎と連絡を取り、父が秘かに信玄上洛に向けて布石を打った(詳細は拙作『没落者達の流浪』参照………って、こればっかやな(苦笑))ことへのパイプ役を務めたのは、信虎に可愛がられていた信繁の役目だった。

 かように八面六臂の活躍を続け、武田家中に無くてはならない存在だった信繁だったが、永禄四(1561)年九月一〇日、第四回川中島の戦いにおいて、武田軍のキツツキ戦法を見破って、逆に八幡原に強襲を掛けた上杉軍の怒涛の猛攻撃の正面に立ち、兄・信玄を守るために獅子奮迅の戦働きの果てに壮絶な討ち死にを遂げた。武田信繁享年三七歳。

 信繁の跡は次男の信豊(のぶとよ)が継いだ。信豊も父と同じく左馬助=典厩の通称を持っていたので、混同を避ける為、後に信繁は「古典厩」と呼ばれることもあった。


兄弟の日々
 何と云っても、弟・武田信繁が父・武田信虎の寵愛に溺れず、兄・信玄を敬愛し、副将に徹したことは武田家に取っても、甲斐一国に取っても大いなる僥倖だった。
 簡単に見えてこれはなかなか出来ることではない。歴史上、父に寵愛された弟が兄を出し抜こうとして(或いはその気が無くても周囲に担がれて)家中が分裂し、外敵の侵略を招いて滅亡した例は枚挙に暇が無い。実際、武田家自体、末期には一族分裂したことが武田崩れに繋がったと云っても過言ではない。

 ともあれ、武田信玄を「名将」、武田信繁を「賢弟」と呼ぶことに異を唱える人は殆ど見られない(というか、個人的に見たこと無い)。前述した様に信玄の信虎追放から第四回川中島の戦いまで信繁は見事に信玄を補佐した訳だが、これ程有能で、知名度も充分有りながらその割に彼の事績が余り知られていないのは、信繁が「副将」に徹したからと云えよう。
 だが、皮肉にもそのことが彼の討ち死にを招いた。

 最高にして、最大の『賢兄賢弟』を語る為にも、有名過ぎることを承知の上で少し第四回川中島の戦いについて触れたい。



 永禄四(1561)年九月二〇日深夜、妻女山(さいじょざん)に籠る一万三〇〇〇の上杉政虎(当時)軍に対し、武田軍はキツツキ戦法を敢行した。
 それは濃霧を利用して妻女山の背後に回った飯富虎昌・馬場信春・真田幸隆・高坂弾正隊一万二〇〇〇が夜襲を掛け、驚いて下山する上杉軍を信玄本隊八〇〇〇が八幡原にて迎撃し、奇襲部隊とともに挟撃せんとの作戦だった。

 だが武田方の動きを察知した政虎は、逆に濃霧を利用して秘かに八幡原に出て信玄本隊を強襲した。相手の裏をかいて数に勝る信玄本隊の虚を突くことに成功した上杉軍だったが、時間が経てば妻女山に回った別働隊が駆け付ければ挟撃されるのは明らかで、時間に追われる上杉勢は『車懸かり』で攻め寄せた(軍隊を敵陣に円を描く様に進め、常に新手が武田軍を襲う様に攻める戦法)。
 浮足立つ武田本軍だったが、武田信繁、原虎胤(はらとらたね)、飯富昌景(おぶまさかげ)、原昌胤(はらまさたね)、武田信廉、武田義信、諸角虎定等が必死に奮戦し、妻女山から別働隊が挟撃に出るまで信玄を守り切った。

 この時、武田軍の正面で次々と押し寄せる上杉勢を迎え撃ち、必死に戦ったのが信繁だった。新田次郎原作の『武田信玄』では、

 「信繁も 退けば 生きる道はあった だが 兄を尊敬する信繁は退かなかった 退けば本陣へ敵がなだれ込む それよりも別働隊が到着するまでいかに刻を稼ぐかが自分の役割と考えた しかし それにも限りがあった 信繁の体を無数の槍がつらぬいた」

 と記し、妻女山から別働隊が到着した銃声を聞いた直後に武田軍勝利を確信して信繁は息絶えた。

 同作を原作としていた昭和六三(1988)年の大河ドラマ『武田信玄』では、若松武氏演じる武田信繁が、劣勢に陥る味方を叱咤し、後僅かで妻女山から別働隊が駆け付けることを大音声で告げたが、その隙を突くように繰り出された槍を腹部に貫かれた。
 最後の力で相手の槍を断ち切り、自分を刺した相手に斬り付けた信繁はそのまま戦場に倒れ伏した。信玄に次ぐ大将首である信繁の首を取らんとして上杉勢が群がったが、周囲の武田勢は必死に防戦して首級が敵の手に渡るのを防ぎ切った。
 同ドラマでは宍戸錠氏演じる原虎胤が上杉勢を蹴散らした後に信繁の命が失われたことを知った直後に憤怒の形相で上杉勢を斬りまくっていたが、その形相は本当に怖く、ドラマ放映の二一年後、薩摩守は宍戸氏に、「あの時の宍戸さんは、演技と分かっていても本当に怖かったですよ。」と告げずにいられなかった(実話)。



 華々しくも、哀しい武田信繁の討ち死に武田家中一同が深く悲しんだのは勿論のこと、敵であった上杉政虎もその死を惜しみ、眼前に運ばれて来た信繁の遺体に会した信玄は衆目もはばからず遺体を抱いて慟哭した
 第四回川中島の戦いは、武田軍は信繁以外にも山本官助・諸角虎定といった名立たる将を亡くし、北信濃領有を守った意味では「勝った」と云える戦いだったが、人材的喪失という意味では「大敗だった」と薩摩守は見ている。
 そんな中、冷たいことを云えば、卑しくも一軍の将たる者、親兄弟を失った将兵の手前、勝利を宣言するパフォーマンス的な意味合いからも、公然と肉親の死を嘆くのは禁物ともいえる行為だった。だが、それを無視するかの様に普段冷徹・冷厳な信玄がその禁忌を破って慟哭したことから、信繁という愛弟が如何に掛け替えのない存在だったが窺える。

 武田信繁の死は、一族結束の斜陽でもあった。六年後には義信事件信玄の嫡男・義信が廃嫡され、後に切腹(病死説もある)。兄弟順から云って四郎勝頼が継いで当然だったのだが、武田家と諏訪家の暗い因縁や、勝頼が本来なら諏訪家を継ぐ人間であったことから勝頼は正式には武田家の家督を継げなかった。勝頼の子・信勝が成人後に次ぐ事となり、勝頼は「その後見人」という複雑な立場に立たされた。
 このちぐはぐさは信玄死後に顕著化し、穴山梅雪を初めとする一門は勝頼に服さず、長篠の戦いでは梅雪と信繁の子・信豊までもが勝手に戦線離脱(←はっきり云って切腹物の軍令違反)、信玄の影武者を務めた信廉も、さすがに信玄ほどの影響力までは及ぼせず、櫛の歯現象の果てに天正一〇(1582)年三月一〇日に武田家は滅び、それに前後して信玄信繁の子・弟・甥・親類もロクな死に方をしなかった。
 歴史の「if」を云い出せばキリが無いが、川中島に武田信繁が討ち死にしていなければ、武田一族の結束はこうも脆く崩壊していなかったではなかろうか?と考える人は薩摩守だけではあるまい。


余談
 川中島に散った武田信繁を惜しむ者は多かった。武田信玄の小姓を務め、信玄から「我が目である。」と云われるまで認められ、可愛がられた真田昌幸(さなだまさゆき)は信玄に願い出て、自分の次男に「信繁」と名乗らせた。この次男は一般には「真田幸村」の名で有名だが、後年彼がどれほどの活躍をしたかは有名過ぎるのでここでは触れない。

 平成一〇(1998)年三月、長野県長野市にて道場主は典厩寺を訪れた。
 名前から一目瞭然と思うが、武田典厩信繁の菩提を弔った寺で、本尊は「日本最大」と呼ばれる大きさを誇る閻魔大王像である。
 案内して下さった住職様は信繁公の我が身の犠牲を顧みない奮闘が無ければ信玄公の命も危なかったであろう、と信繁公への想いを漂わせながら語っていらっしゃった。


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令和三(2021)年六月二日 最終更新