日本史賢兄賢弟

第肆頁 尼子政久und尼子国久…………受け継がれなかった連携


名前尼子政久(あまごまさひさ)
生没年長享二(1488)年〜永正一五(1518)年九月六日
通称又四郎
尼子経久
吉川経基娘
一家での立場嫡男
主な役職民部少輔



名前尼子国久(あまごくにひさ)
生没年明応元(1492)年〜天文二三(1554)年一一月一日
通称孫四郎
尼子経久
不詳
一家での立場次男
主な役職刑部少輔、紀伊守


兄弟関係
血筋宇多源氏→佐々木氏→京極氏→尼子氏
尼子経久
兄弟関係異母兄弟
年齢差四歳違い



兄:政久  恐らく、本作の様に兄弟を題材にした作品でも無ければメインで取り上げられることが無かったと思われる人物の一人である尼子政久は出雲守護代・尼子経久の嫡男として長享二(1488)年、出雲に生まれた。

 余り取り上げたことのない氏族なので、尼子氏について簡単に触れると、尼子氏は上記の系図にある様に、宇多源氏の末裔で、佐々木氏を名乗った頃には源頼朝の挙兵にも協力した。
 佐々木氏の中から、京極姓を名乗る者が現れ、系図の中にいる京極高氏は、婆娑羅大名として有名な佐々木道誉(ささきどうよ)のことで、その孫、佐々木高久が近江国甲良荘尼子郷(現:滋賀県甲良町)に住んだことで「尼子」を名乗ったのが始まりである。

 やがて、尼子高久は出雲に下った。京極氏が出雲守護だったのを、三男として庶流となった高久が守護代として土着したのであった。以来、尼子氏は月山富田城を居城として国人領主達を手懐けたり、滅ぼしたりしながら勢力を広げ、経久の代に至って、本家である京極家から守護代の地位を剥奪されながら、力で奪い返すまでになった。

 そんな経久が出雲の国人・三沢氏を降した年に、正室である母(吉川経基の娘)の子=嫡男として政久は生まれた。幼名は又四郎(またしろう)で、これは尼子家代々嫡男に付けられた幼名であった(徳川家にとっての「竹千代」の様なものですな)。
 父・経久は文武両道に優れ、芸に優れ(自画像を残している)、中国地方にあって毛利元就・宇喜多直家とともに三大謀将の一人とされる程の謀略家でありながら家臣に非常に気を使う優しい人物でもあった。
 だが、そんな経久の手腕を持ってしても、国人衆統括は難事で(←毛利元就も、大内義興もこれには手を焼いていた)、尼子氏の直接配下と云うには非常に不安定な存在だった。
 その為、経久は対外遠征を繰り返して「一一ヶ国の太守」と形容される程の覇を唱えたが、実質上支配下に置けた勢力は出雲・隠岐・伯耆の山陰に限られた(他地域は流動的で、向背定かならず、だった)。そして、実際に経久の死後、この結束の脆さから内紛が絶えず、そこを毛利一族に突け入られることとなった。


 そんな家中にあって、年代は不明だが、又四郎は元服に際して、本家である京極氏当主・京極政経から「政」の字の偏諱を受けて、尼子政久となった。余談だが、父・経久も京極政経の偏諱を受けていた(「経」の字を貰って「経久」となったのである)。
 成人した政久は、経久同様、文武両道に優れ、笛の名手として(分野は違うが)芸事にも優れ、父をよく補佐した。
 明応九(1500)年、近江国で主筋である京極政経が政争に敗れて出雲に下向して来たことで経久と和解し、経久は名実ともに出雲守護代に返り咲いた。その政経も永正五(1508)年に世を去り、経久は完全な出雲の主となった。

 永正八(1511)年、経久は周防の大内義興とともに上洛。政久もこれに従い、京では後土御門上皇にも謁見した。。翌永正九(1512)年に次弟・尼子国久が管領・細川高国の偏諱を受け、末弟で塩冶家に養子に入っていた塩冶興久(えんやおきひさ)が大内義興の偏諱を受ける等、尼子氏は室町幕府の有力者や、自家と対抗し得る大内家との親密さを増すよう努めていたが、これは上辺だけだった。

 永正一四(1517)年、大内義興が石見守護に就任。これに納得出来なかった経久は前の石見守護だった山名氏と結んで石見国内で大内氏と干戈を交えた。
 だがその翌、永正一五(1518)年、尼子氏の勢力拡大を恐れた桜井宗的が磨石城にて反旗を翻し、政久は経久より桜井討伐軍の総大将に任じられた。
 だが磨石城は堅城で、政久率いる七〇〇〇の軍勢をもってしても容易には落ちず、長期戦の様相を呈した。それがために厭戦気分が流れ始めた軍中を鼓舞せんと、政久は得意の笛を駆使したが、これが命取りとなった。一一月一日、城兵が笛の音が聞こえる方に向かって矢を放ったところ、その内の一本が政久の喉に当たり、政久は即死した。尼子政久享年三一歳。

 政久は尼子家の家督を継ぐ前に父に先立ったこととなり、経久は将来を期待していた政久の死を悲しむと同時に激しく怒り、次男・国久に報復を命じ、磨石城を激しく攻めさせた。程なく磨石城は陥落したが、城兵は降伏を許されず、桜井宗的は自害し、城兵全員が虐殺されたと云う………。

 政久の死から一九年経過した天文六(1537)年、経久は政久の嫡男・晴久に家督を譲った。武運に見放されて父に先立ち、父の名声に隠れた子となった尼子政久だったが、笛を取っては後土御門天皇からもその才を高く評価されて「花実相応の大将」とも賞された大将だった。



弟・国久
 コロンブスがアメリカ大陸を発見した明応元(1492)年………って、関係無いか…………尼子経久の次男に生まれた。母は不詳。幼名は孫四郎(まごしろう)。

 永正九(1512)年、元服に際して室町幕府管領・細川高国の偏諱を受け、尼子国久と名乗った。一説には尼子氏と同じく宇多源氏佐々木家の傍流である吉田氏に養子入りしていたとも云われている(末弟の興久は同様に塩冶家の養子となっていた)が、月山富田城の東北にある新宮谷に居住する戦闘集団・新宮党の頭領として、尼子家中でも重きを為す立場にあった。

 永正一五(1518)年、兄・政久が戦死し、兄に替わって父・経久を支え出し、大永元(1521)年より、石見に安芸に転戦し出し、大永四(1524)年、経久が軍勢を率いて西伯耆に南条宗勝を破り、山名澄之を敗走させ(大永の五月崩れ)ると国久は伯耆にある尾高城・不動ヶ城・羽衣石城などの諸城を次々に攻略した。

 大永五(1525)年、安芸の毛利元就が尼子との連携を解消して、大内氏と結ぶようになった。この毛利の寝返りで大永六(1526)年山名氏とも敵対し、尼子は敵勢力に包囲される形となり、翌大永七(1527)年には、経久が備後で陶興房(すえおきふさ。有名な陶晴賢の父)に敗れたことで備後国人の多くが大内に走った。

 享禄三(1530)年、末弟・塩冶興久が実家・尼子家に反旗を翻し、出雲大社・鰐淵寺・三沢氏・多賀氏・備後山内氏等の諸勢力を味方に付けて大規模な反乱を起こした。
 興久は何度となく経久軍を撃退し、善戦したが、出雲最後の砦・佐陀城が陥落。妻の実家である山内氏を頼って備後国へと逃れた。
 この間、大内氏は経久・興久の双方から援助を求められており、両者の共倒れを望んでいたが、天文二(1533)年、最終的に経久側に味方し、尼子と大内の和睦が成立。
 天文三(1534)年、同年八月一〇日、興久は備後甲立城にて詮久(あきひさ。政久の忘れ形見・晴久の初名)の攻撃を受けて自害に追い込まれ、尼子氏の内紛は終結。国久は興久の遺領の一部を継いだ。


 天文六(1537)年、経久が隠居し、甥・詮久が尼子家当主となった。国久は経久から詮久の後見を命ぜられ、これに前後して国久の娘が詮久の継室となった。また同年、尼子氏は大内氏から石見銀山を奪取するのに成功した(やはり大内氏とは表面上の和睦でしかなかったのがここからも窺える)。
 だが、天文八(1539)年、大内氏包囲網に協力していた九州の大友氏が大内氏と和解し、尼子サイドから離反。これにより石見銀山を奪い返され、安芸で味方してくれていた安芸武田氏も国を追われる有り様だった。

 天文九(1540)年には大内とは完全対立状態に陥り、詮久は周辺国人衆を率いて三万騎で吉田郡山城を補遺したが、大内家の重臣・陶隆房(後の陶晴賢)の援軍に敗れ、安芸での基盤を奪われた。追い打ちを掛ける様に翌天文一〇(1541)年一一月一三日に父・経久が世を去った(享年八二歳)。
 この間国久は大内氏への牽制役を担い、毛利偵察を兼ねて三〇〇〇を率いて備後へ遠征しており、宍戸氏の反撃に遭っていたが、晴久(天文一〇年に詮久から将軍・足利義晴の偏諱を受けて改名)の敗戦直後、国久新宮党は大内家の当主・大内義隆の出雲侵攻を迎撃し、奮戦によりこれを撃破した。

 その後も国久は備後・伯耆などの諸国へ遠征し、尼子氏の先頭に立って戦った。
 これらの戦歴を通じ、国久新宮党は多大な武功を挙げて尼子氏の勢力拡大に貢献し、吉田氏・塩冶氏の領地を直轄し、出雲において晴久をも凌ぐ影響力を持ったが、甥にして娘婿でもある晴久とは方針を巡って対立する事がしばしばあった。
 また、新宮党の面々には武功を鼻に掛けた横柄な振舞が目立ち、他の尼子譜代の家臣達との仲は決して良くはなかった。そのため国久と晴久との関係は次第に悪化していった。

 晴久の正室であった国久の娘が存命中はまだ持ったが、天文二三(1554)年、その晴久正室が死去すると両者の対立は歯止めが掛らなくなり、一一月一日、登城の途中を晴久の手の者に襲撃され、誅殺された。尼子国久享年六三歳。これには毛利元就の謀略が囁かれており、実際、この後尼子家は大きく衰退し、晴久の子・義久の代に滅亡に追いやられた。

 国久嫡男の誠久(さねひさ)も誅殺され、国久次男の豊久は既に戦死していた。三男の敬久(たかひさ)は父と兄が死し、新宮党が壊滅した翌日、自害して果てた。
 国久の血統は僧籍に入っていて難を逃れた勝久(嫡男誠久の五男)が尼子家再興の為に山中鹿助と供に戦ったが、この勝久が上月城で破滅を迎えると供に国久直流の血統は途絶えた。


兄弟の日々
 兄・尼子政久と弟・尼子国久の父・尼子経久が長命で、長年に渡って戦と策謀を重ねたこともあって、若くして(家督を継ぐ前に)戦死した政久の影は極端に薄い。だが総じて尼子一族は有能者が多く、一族が結束した際の戦闘力・統治力は大内・毛利のそれに劣るものではなかった。

 前述した様に、中国地方は国人領主個々の独立心が旺盛で、守護代である尼子氏は当初は「余所者」でしかなかったため、名実ともに完全に出雲が尼子氏の統治下に置かれたのは経久の代だった。
 その経久にしたところで対外戦争を上手く繰り返して国人勢力を団結させ、身内を国人達と養子縁組する等、相当苦慮していた。当然、これを支えた政久国久の尽力も相当な物が有った。

 殊に政久の才は前述通りで、血筋的にも、能力的にも経久の跡を継ぐものとして申し分なく、経久の出雲統一が経久の能力に寄る物であったのに疑いの余地はないが、政久の才能によるところも大きかったこともまた疑いの余地はなかろう。
 そして、主筋の京極家からも可愛がられ、土御門上皇から花も実もあると称された人格が難治な国人衆懐柔に貢献したことも想像に難くないだろう。

 それに比して、弟の国久は戦に強くて、確かにその面では父と家に大きく貢献したが、率いる新宮党共々性格に難があった。経久は国久を「文に疎く政道に誤りがあるかも知れぬが、軍務にかけては鬼神の如き」と評していて、その軍事力があったればこそ、末弟・塩冶興久反逆後の杵築大社を含む遺領を従わしむる事が出来た。だが、国久新宮党はそれを鼻に掛けた。それが尼子氏の衰退を招いたのも前述通り。

 ただ、塩冶興久の様な例外が有れど、基本、尼子一族も身内の結束を重んじる一族だったのだろう。政久戦死時、その死を経久も国久も激しく悲しみ、怒りまくった。
 国久は磨石城を苛烈に攻め立て、城兵は降伏を許されず、桜井宗的は燃え盛る火中に自ら身を投じるまでに追い遣られた。
 この虐殺を認める気はないが、経久と国久政久に対する想いは理解出来る。

 そして、政久が戦死した時点で、政久の嫡男(厳密には次男だが)・三郎四郎(後の晴久)は僅か五歳であったことも後々に影響した。政久を惜しむ経久は、本来政久が継ぐ筈だった家督を三郎四郎に継がせることを決めたものの、さすがに五歳児を当主とする訳にはいかず、その後一九年に渡って当主の座に有り続け、国久に三郎四郎の後見を命じた。更に三郎四郎は後に国久の娘を娶ることとなった。
 いきおい、国久は経久に次ぐ発言権を持つこととなり、新宮党の武功もあり、これでは思い上がるなという方が難しかったかも知れない。

 経久自身には先見の明もあったのだろう。
 尼子氏と国人衆の結束は決して固くなく、大内氏や毛利氏や赤松氏を見渡しても皆、同様の苦労をしていた。晴久と国久の仲は徐々に険悪化しつつも、晴久正室(国久の娘)が存命中は持っていたのだから晴久と国久娘を娶せた経久の考えも正しかった。

 尼子一族の結束が崩れた要因は色々あるが、最終的に決め手となったのは、晴久が「宗家の権限強化」に走ったことにある、と薩摩守は見ている。
 幼くして父・政久を亡くし、成人するまで祖父・経久、叔父にして舅の国久に糸引かれ、独立心から向背定かならぬ国人や周辺国に苦慮した晴久が成長するに連れて独立心を募らせた気持ちも分からないではない。
 抑圧から独立心を旺盛にした甥と、武功と血縁からいつしか「自分こそが一族を束ねている」と思い込んだ叔父の決裂は時間の問題だったかも知れないが、それでも政久や、国久の娘が存命なら避けられた悲劇であることや、同じ問題を抱えながらも一族結束に尽力した毛利家が最終的に中国地方の覇者となった実例を考えると、最後の最後まで毛利氏にしぶとく抵抗した尼子家に勿体ないものを感じるのは薩摩守だけではあるまい。


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平成二八(2016)年二月一一日 最終更新