日本史賢兄賢弟

第捌頁 島津義久und島津義弘…………椅角の構えで鹿児島を護れ


名前島津義久(しまづよしひさ)
生没年天文二(1533)年二月九日〜慶長一六(1611)年一月二一日
通称又三郎、三郎左衛門尉
島津貴久
雪窓夫人(入来院重聡女)
一家での立場嫡男・第一六代当主
主な役職従五位下、従四位下、修理大夫



名前島津義弘(しまづよしひろ)
生没年天文四(1535)年七月二三日〜元和五(1619)年七月二一日
通称又四郎
島津貴久
雪窓夫人(入来院重聡女)
一家での立場次男
主な役職兵庫頭、従五位下、侍従、従四位下、参議


血筋島津氏
島津貴久
兄弟関係同母兄弟
年齢差二歳違い



兄:義久
 天文二(1533)年二月九日、島津家第一五代当主・島津貴久を父に、貴久の継室・雪窓夫人(入来院重聡の娘)を母に、嫡男として薩摩・伊作城に生まれた。幼名・虎寿丸(とらじゅまる)。

 幼少の頃は大人しい性格だったが、祖父・島津忠良から期待されて育った。元服し、最初は祖父と同じ忠良を諱とし、島津又三郎忠良(しまづまたさぶろうただよし)と名乗った。
 後に室町幕府第一三代将軍・足利義輝からの「」の字を受け、義辰(よしたつ)、最後に義久と改名したが、ややこしいので例によって本頁では「義久」で通して表記します(苦笑)。

 天文二三(1554)年に一二歳で岩剣城攻めにて初陣を飾り、以後、国人衆との戦いに従事。
 弘治三(1557)年に蒲生氏を降伏させ、永禄九(1566)年に二四歳で父・貴久から家督を譲られ、島津家第一六代当主となった。
 永禄一二(1569)年に相良氏・菱刈氏を駆逐し、元亀元(1570)年に東郷氏・入来院氏を降伏させて薩摩統一を果たした。

 薩摩統一以前より薩摩・大隅・日向・肥後が接する要衝・真幸院を巡って日向の伊東義祐と対峙していたが、元亀三(1572)年五月、伊東勢三〇〇〇勢が侵攻して来ると飯野城にいた次弟・義弘に迎撃させた。
 この戦いで義弘は寡兵でありながら見事な勝利を収め(木崎原の戦い)、義久も同時並行で大隅を攻め、天正元(1573)年に禰寝氏を、翌天正二(1574)年に肝付氏・伊地知氏を帰順させて大隅統一も果たした。

 そして、天正四(1576)年には日向の高原城を攻略。伊東方の支城の城主達は次々と降伏し、国主・伊東義祐は豊後の大友宗麟を頼って亡命し、義久は薩摩・大隅・日向の三州統一を果たした。

 日向から伊東義祐を追ったことで大友氏と対立することになり、天正六(1578)年一〇月、大友宗麟が大軍を率いて日向に侵攻してきた。宗麟は務志賀(現:延岡市無鹿)から、田原紹忍・田北鎮周・佐伯宗天等に四万三〇〇〇を率いさせ、島津方では末弟・家久が高城に入城し、城兵三〇〇〇がこれに対抗し、一進一退の攻防が続いた。
 翌月、義久は二万余の軍勢を率いて佐渡原に出陣。大友軍に奇襲をかけ、高城川を挟んだ根城坂(大友軍の対岸)に駒を勧めた。
 宗麟不在で団結力を欠く大友勢の無秩序な攻めに対して義久は「釣り野伏せ」という伏兵を用いた戦法で大友勢を各個撃破して壊滅させた。島津勢の挙げた首級は田北鎮周・佐伯宗天・吉弘鎮信・斎藤鎮実・角隈石宗等の大将首を初め、二〇〇〇〜三〇〇〇に達したと云う(耳川の戦い)。

 天正八(1580)年(1580年)、織田信長が島津と大友の和睦仲介を申し出て来た(毛利氏攻撃に大友氏を参戦させるのが目的)。朝廷の近衛前久を介し、最終的に義久はこれを受諾。信長と組んで毛利攻めに参陣する計画もあったが、周知の通り二年後の本能寺の変で立ち消えとなった。

 その後も天正九(1581)年に肥後・球磨の相良氏を降伏させ、翌天正一〇(1582)年には大友氏が衰退に乗じて台頭して来た肥前の龍造寺隆信を迎え撃った。
 これは龍造寺の圧迫に耐えかねた有馬晴信が八代にいた義弘に援軍要請してきたことによるもので、島津勢は千々石城を落として三〇〇人を討ち、有馬晴信を完全服属せしめた。
 そして天正一二(1584)年、義久は家久を総大将として島原に派遣。家久は三〇〇〇を率いて島原湾を渡海して安徳城に入城。有馬勢と合わせて五〇〇〇余で、龍造寺勢二万五〇〇〇と対峙した。家久は湿地帯を利して、龍造寺隆信を討ち取って勝利(沖田畷の戦い)。義久はほどなく龍造寺氏をも屈服せしめた。

 更に肥後の隈部氏、筑前の秋月種実等が、次々と島津氏に服し、天正一三(1585)年には義弘が総大将として肥後の阿蘇惟光を下して肥後を完全平定(阿蘇合戦)。義弘には肥後守護代として同地の支配を命じた。だが、この大躍進が大友宗麟をして豊臣秀吉の介入を呼ばしめることとなった。

 同年、関白に就任していた秀吉から義久に関白の名でこれ以上九州での戦争をしないように、と命じた書状が届けいた(惣無事令)。
 かつてない大敵にどう対処するか家中にて大いに論議されたが、義久はこれを黙殺。筑前の攻略を命じ、天正一四(1586)年七月、義久は八代の本陣にて筑前攻めの指揮を取った。
 島津忠長・伊集院忠棟率いる二万余が筑後の筑紫広門を攻め、これを降させ、筑後の原田信種、星野鎮種、草野家清、肥前の龍造寺政家、豊後の城井友綱、長野惟冬等の大名・国人衆を参陣させた。

 かくして筑前・筑後を高橋紹運の岩屋城、立花宗茂の立花城、高橋統増の宝満山城が残るのみにまで追い詰めた。だが立花宗茂は頑強に抵抗。島津勢は多大な犠牲を出した。
 これを受けて義久は肥後から義弘に三万七〇〇の兵を、日向側家久に一万の兵を出させて豊後攻略を命じた。しかし、義弘は直入郡の諸城で足止めを喰らい、家久が鶴賀城を攻め、城主を討ち取るも抵抗は続いた。

 そして一二月になって、ついに大友勢に秀吉の援軍が加わった。
 仙石秀久を軍監として長宗我部元親・長宗我部信親・十河存保等六〇〇〇の先発隊が九州に上陸。家久が戸次川で対陣し、「釣り野伏せ戦法」でもって長宗我部信親・十河存保を討ってこれに大勝した(戸次川の戦い)。

 この後、家久は鶴賀城を落とし、鏡城、小岳城、府内城も陥落せしめ、宗麟の守る臼杵城を包囲した。だがこの大勝も圧倒的勢力の豊臣勢襲来を本格化させることになってしまった。
 天正一五(1587)年、豊臣秀長が毛利・小早川・宇喜多軍等の総勢一〇万を率いて豊前に着陣。日向方面か進軍して来た。続いて豊臣秀吉率いる一〇万も小倉に上陸。こちらは肥後経由で薩摩を目指して進軍して来た。
 これを受けて義弘・家久等は豊後を退き、大友勢も追撃に移り、豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後の諸大名・国人衆もその多くが豊臣方に寝返った。
 秀長軍は高城を囲み、高城川を隔てた根白坂に陣を構えて島津本軍に備えた。島津勢は義弘・家久等が二万を率いて根白坂に一斉に攻め寄せたが、大敗して本国に退いた(根白坂の戦い)。

 遂に豊臣軍は島津の本領に至り、出水城主・島津忠辰はさして抗戦せずに降伏。伊集院忠棟(秀吉との交渉に当たっていた)も自らの身柄を預けて秀長に降伏、家久も開城した。  義久本人も鹿児島に戻り、剃髪。名を龍伯と改めた後、伊集院忠棟とともに川内の泰平寺で秀吉と会見し、正式に降伏した。
 義久降伏後、尚も義弘・三弟・歳久・新納忠元・北郷時久等が抗戦を続けていたが、義久は彼等に降伏を命じた。

 秀吉は降伏した島津家に対して、義久に薩摩一国を安堵し、義弘に大隅一国を、久保(義弘の子で、妻は義久の三女・亀寿)に日向国諸縣郡を、伊集院忠棟には肝付(大隅の一郡)が与えられた。

 その後も反発を続ける島津家家臣が伊東祐兵や高橋元種の領土から立ち退かなかったり、歳久が秀吉を襲撃して処刑されたり、家久が謎の急死を遂げたり、と裏での悲劇もあったが、天正一六(1588)年、義弘が秀吉から羽柴の名字と豊臣の本姓が与えられ、天正一八(1590)年には義久にも羽柴の名字のみ与えられ、豊臣政権との折衝には義弘が主に当たることも決まり、ようやくにして南九州に平穏が訪れた。

 その後秀吉は朝鮮出兵を強行。文禄二(1593)年、朝鮮で島津久保が病死し、義久は亀寿を久保の弟・忠恒に再嫁させて後継者とした(この時代、及び島津の婚姻感覚って一体………)。

 文禄三(1534)年、石田三成が義弘の領地を検地したことで島津氏の石高は倍増したが、これを機に豊臣政権は義久よりも義弘を重んじる様になった。
 領地安堵の朱印状も義弘宛に出され、義久は事実上、当主の座を追われて大隅・富隈城に移ったが、家宝と領内での実権は保持し続けたため、義久義弘の「両殿体制」となった。

 慶長三(1598)年八月に秀吉が没し、帰国した島津家は朝鮮での泗川の戦い等での軍功が評価され、五万石の加増を受けたが、家中の抗争が絶えず、義弘の子・忠恒が伊集院忠棟を斬殺するという事件が起きた。
 義久は事件を自分の知らなかったこと、と三成に告げ、家臣達には忠棟の子・伊集院忠真と連絡を取らないという起請文を出させた(庄内の乱)。

 やがて時代は関ヶ原の戦いを迎え、島津家は京都にいた義弘が西軍に加担した。義弘は再三国元に援軍を要請したが、義久も忠恒も応じなかった。

 周知の通り、関ヶ原の戦いは西軍の大敗に終わり、義弘は有名な的中突破を敢行し、僅かな友と共に薩摩に帰国。義久は島津家の生き残りを賭けた戦後処理に追われた。
 義久は、「西軍荷担は義弘が行ったもので、自分はあずかり知らぬこと。」として、講和交渉を開始。家康に謝罪するため上洛しようとした忠恒を止めた。
 しかし忠恒は義久や家臣の反対を振り切って上洛した。止む無くこれを追認した義久は「病のために上洛できないず、代わりに忠恒が上洛する」との書状を送った。
 一方で領内では徳川軍の襲来に備えて武備を磨き、対外的には頭を下げつつも徹底抗戦を辞さない姿勢を示す硬軟両面姿勢と、薩摩と中央の距離に助けられ、結果的に島津家は改易を免れただけでなく、西軍参加大名の中で唯一本領安堵を勝ち取った。

 慶長七(1602)年、家宝を忠恒に譲り渡して正式に隠居したが、戦国のお約束で以後も幕府と書状をやりとりする等して死ぬまで家中に発言力を保持した。
 慶長九(1604)年、大隅・国分城に移り住んだが、その後娘・亀寿が家久(忠恒が改名)と不仲になったことから次第に家久との関係が悪化。娘夫婦に子が無かったことから外孫を後継者に据えようとしたりもした。また、義弘・家久父子が推進していた琉球出兵にも反対していて、慶長一五(1610)年頃には「龍伯様、惟新様(義弘)、中納言様(家久)」と云われた三殿体制も何かと不穏視されていた。

 慶長一六(1611)年一月二一日、国分城にて病死。島津義久享年七九歳。

 辞世の句:世の中の 米(よね)と水とを くみ尽くし つくしてのちは 天つ大空

 義久逝去に際し、肥後権之丞盛秀という者が殉死した。かつて盛秀は立入禁止だった義久の狩場で雉狩りを行っていて、義久が来たのを見て逃げ出した。逃走中、盛秀は自分の名を記した笠を現場に落としてしまい、本来なら足がついていたのだが、義久は笑って名前の部分を消して不問にしてくれたことがあった。盛秀はこの時の恩に殉じたものと思われる。


弟:義弘
 天文四(1535)年七月二三日、島津家第一五代当主・島津貴久を父に、継室・雪窓夫人(入来院重聡の娘)を母に、その次男として生まれた。初名は忠平(ただひら)、後に室町幕府一五代将軍・足利義昭から「」の字を賜って義珍(よしたか)、最後に義弘 (よしひろ)と改めた。

 天文二三(1554)年、二〇歳の時に父と共に大隅西部の岩剣城にて初陣を飾った。
 弘治三(1557)年(1557年)、大隅蒲生氏を攻め、身に五本の矢を受ける重傷を負いつつも初めて敵の首級を挙げた。
 永禄三(1560)年三月一九日、日向の伊東義祐の攻撃に苦戦する飫肥(おび)の島津忠親を救う名目で、忠親の養子となって飫肥城に入った。しかし永禄五(1562)年、薩摩本家が肝付氏に苦戦するに加勢する為の帰還中、飫肥城は陥落。養子縁組も白紙となった。

 伊東義祐に奪われた領地奪還の為に戦う北原氏に島津氏が合力した際、北原氏内部で離反者が相次いだため義弘が真幸院を任され、以降は飯野城を居城とした。
 永禄九(1566)年、義祐が飯野城攻略の為に三ツ山城を築き出したので兄・義久、弟・歳久と共にこの完成前に攻め落とした。しかし落とせず、逆に伊東と援軍の挟み撃ちに遭い、義弘は重傷を負って撤退に追い遣られた。

 同年、父・貴久の家督を義久が継ぎ、義弘はこれを補佐。元亀三(1572)年、木崎原の戦いでは伊東義祐勢三〇〇〇を一〇分の一の三〇〇で奇襲し、これを打ち破って島津氏の勢力拡大に貢献した。
 天正五(1577)年、伊東義祐を日向から追い、天正六(1578)年、耳川の戦いで豊後から遠征してきた大友氏を打ち破り、「日州一の槍突き」と謳われた柚木崎正家を討ち取りもした。
 天正九(1581)年。相良氏が島津家に帰順。これに代わって天正一三(1585)年に義弘は肥後国守護代として八代に入って阿蘇氏を攻め、これを降伏させた。
 その後も兄・義久に代わって島津軍の総大将として指揮を執ること多く、天正一四(1586)年には豊後に大友氏を攻めた。

 天正一五(1587)年、大友宗麟の援軍要請を受けて豊臣秀吉軍が九州征伐に乗り出すと、日向根白坂にてこれと戦い(根白坂の戦い)、義弘は自ら抜刀して敵軍に斬り込んで奮戦したが、圧倒的兵力差に抗し得ず敗退。
 五月八日に義久が降伏したが、義弘は尚も徹底抗戦を主張した。しかし二週間後の五月二二日、兄の懸命な説得に応じ、子の久保(ひさやす)を人質として差し出すことと降伏に同意し、秀吉からは大隅一国を与えられた。

 天正一六(1588)年、上洛して秀吉から羽柴の名字と豊臣の本姓が下賜された。兄の義久には遅れて羽柴の名字のみが下賜されたことから、この時から豊臣政権は義久よりも義弘を重視したと見られている。
 懐柔された訳でもないが、義弘はその後豊臣政権に対して協力的に振る舞い、天正二〇(1592)年の文禄の役、慶長二(1597)年の慶長の役のいずれにも参戦して朝鮮に渡海した。
 文禄の役では四番隊に所属して一万人を率い、国元の体制や梅北一揆によって軍役動員がはかどらず、和平交渉中の文禄二(1593)年九月、に嫡男・久保が病死する等の不運にも見舞われた。

 慶長の役では慶長二(1597)年七月、藤堂高虎らの水軍と連携して朝鮮水軍を挟み撃ちにし、敵将・元均を討ち取った(この時、名将・李舜臣は讒言を受けて降格中だった)。
 一連の戦いで義弘率いる島津勢は「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と呼ばれて朝鮮・明軍から恐れられていたとされている。
 やがて慶長三(1598)年八月一八日に秀吉が没したことで朝鮮からの撤退が決定。一一月に最後の大規模な海戦となった露梁海戦では明・朝鮮水軍の待ち伏せによって大きな被害を出して後退したが、そんななかでも明水軍の副将・搦q龍、朝鮮水軍の主将で散々日本軍を苦しめた李舜臣を戦死させた。これらの功績により、役後、島津家は五万石の加増を受けた。

 慶長四(1599)年、剃髪。祖父・日新斎忠良にあやかって惟新斎と号した。
 同年義弘の息子・忠恒が家老で、秀吉の寵愛が深かった伊集院忠棟を殺害した。ために忠棟の嫡男・伊集院忠真が反乱を起こした(庄内の乱)。
 乱に際して義弘は大坂に留まって親豊臣の立場に立ったため、一時は薩摩本国にて反秀吉的な兄・義久との仲も危ぶまれた。
 実際、義弘に本国の島津軍を動かす決定権がなく、関ヶ原の戦いでは義弘は幾度となく援軍を請うたが、義久も、義久の後を継いでいた息子の忠恒もこれに応じず、義弘は甥の豊久と共に東西両軍でも最も少ない一八〇〇の寡兵で天下分け目の戦いに挑むこととなった。

 だが、義弘は元々徳川家康とも仲が良く、家康が上杉景勝を討つために軍を起こした隙をついて石田三成達が挙兵せんとした際に、家康が押さえに残した鳥居元忠が籠る伏見城へ援軍として駆け付けたが、元忠はこれを信用せず、入城を拒否されたため、義弘は心ならずも西軍への参戦を決意した。

 そんな経緯もあって、また寡兵であったことから石田三成等西軍首脳からその存在を軽視された島津勢は積極的に戦う意思を薄くしていった。
 九月一五日、石田勢と宇喜多勢の間に陣を構えた義弘は督戦されても動かず、三成の家臣・八十島助左衛門が援軍要請した際に下馬しなかった無礼に豊久共々激怒して八十島を追い返した(その後、三成本人が謝罪し、督戦しても動かなかった)。

 一進一退の攻防が続いた戦いだったが、昼過ぎに小早川秀秋の寝返りによって、形勢は一気に決し、石田三成勢、小西行長勢が逃亡し、宇喜多秀家勢も総崩れとなり、大谷吉継は自害した。
 この時点で退路を遮断され島津勢は敵中に孤立。一時、義弘は切腹を考えたが、豊久の説得を受けて有名な敵中突破に掛った。
 東軍の背後にある伊勢街道を目指して、「先陣を豊久、右備を山田有栄、本陣を義弘」という陣立で、旗指物、合印などを捨てて決死の覚悟をもって突撃を開始した。

 島津隊はまず東軍の福島正則隊を突破。このとき正則は死兵と化した島津軍に無理な追撃を行わないよう家臣に命じた。その後、島津軍は家康の本陣に迫ったところで転進、伊勢街道をひたすら南下した。
 南下した島津勢に徳川方の井伊直政、本多忠勝、松平忠吉(家康四男)等が追撃。島津勢は「捨て奸(すてかまり)」と云われる、何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦法を用いた。
 この戦法でもって島津軍は井伊直政・松平忠吉を負傷せしめた(この時の銃創が元で直政は二年後に病死)。だが徳川勢の中でも猛将である井伊直政・本多平八郎忠勝の執拗に追撃を受けて、家老・長寿院盛淳、島津豊久等が文字通り義弘の身代わりとなって壮絶な討ち死にを遂げた。
 だがその甲斐あって、島津勢の猛攻の前に家康も追撃中止の命を出し、義弘自身はかろうじて敵中突破に成功し、大将首を渡さずに済んだが、島津勢は八〇数名にまで減っていた。

 その後義弘は摂津住吉に逃れていた妻を救出し、立花宗茂らと合流。海路から薩摩に逃れた。その一方で川上忠兄を家康の陣に、伊勢貞成を長束正家の陣に派遣し撤退の挨拶を行わせた。この退却戦は「島津の退き口」と呼ばれ全国に名を轟かせた。

 薩摩に戻った義弘は、薩摩領全土をあげて徳川の追討備えて国境を固めつつ、一方で謝罪の使者を送って家康との和平交渉にあたった。
 義弘は、自軍が重傷を負わせた井伊直政に仲介を依頼した。この依頼は一種の賭だったが、読みは当たって、頼られた直政は徳川・島津の講和に奔走。関ヶ原での島津勢の奮闘に感服した福島正則や近衛前久等も仲介に当たってくれた。

 九月三〇日の段階では、当主出頭要請を拒み、軍備を増強し続ける島津家の態度に怒った家康は九州諸大名に島津討伐軍を号令し、黒田、加藤、鍋島勢三万が討伐に向かったが、家康からの攻撃命令は出されなかった。
 これは関ヶ原に主力を送らなかった島津家には一万を越す兵力が健在であり、戦上手の義久義弘兄弟も健在だったことが大きかった。万一、長期戦や苦戦となると関ヶ原の戦い後の処置に不満を持つ外様大名が再び反旗を翻す恐れがあった。
 結局家康は態度を軟化させ、一一月一二に島津討伐軍に撤退を命令した。

 慶長七(1602)年、島津本領安堵が正式に決定。「義弘の行動は個人行動であり、当主の義久及び一族は承認していないから島津家そのものに処分はしない」、「わし(家康)と義久は仲がいいので義弘の咎めは無しとする」とした(←もしかしたら鳥居元忠の加勢に来てくれたのを邪険にしたことに対する後ろめたさが有ったかも知れない)。
 同時に忠恒への家督譲渡も無事承認された。

その後、大隅・加治木に隠居した島津義弘は若者達の教育に力を注ぎ、元和五(1619)年七月二一日死去。享年八五歳没。一三名の家臣が殉死した。

 辞世の句:天地(あめつち)の 開けぬ先の 我なれば 生くるにもなし 死するにもなし
 春秋の 花も紅葉も 留まらず 人も空しき 関路なりけり


兄弟の日々
 薩摩を拠点に九州に覇を唱えた島津家だが、第一六代当主・島津義久の代になってようやく薩摩の統一に至っている。初代・島津忠久が源頼朝から薩摩を拝領したことに強い誇りを持ち、一族の殆どが「忠」か「久」の字を持ち、一族内での養子縁組や遠縁間の婚姻も多く、戦国でも稀なほど結束の固い一族と云えた。

 一族間の結束に加えて、薩摩隼人達からなる国人衆を統べてきた経歴が生きたのか、島津家の面々は総じて武勇に優れ、人情に厚く、「島津に暗君無し」との言葉が生まれた程だった。

 義久義弘・歳久・家久の兄弟を対比してみてもよく分かる。
 長兄・義久は徳川家康に合戦での手柄話を請われた際に「弟達や家臣団を遣わせて合戦し、勝利をおさめたというだけであって、自分の働きなどひとつもない」と答えたが、それに対して家康は「自らが動かずして、勝つことこそ大将の鑑よ」と感心したと云われており、一説には「楠木正成に劣らない」と称していたとも云われている。

 次男の義弘義久以上に実戦の場にて総大将として振る舞うことが多かったこともあり、前述した様に全身に五本の矢を受けたり、「日州一の槍突き」と謳われた柚木崎正家を自らの手で討ち取ったりする程だった。
 加えて義弘は単純に戦闘に強いだけではなく、常日頃から家臣に子が生まれた際に父母共々館に招き入れて、その子を自身の膝に抱いて「子は宝なり」、「御主は父に似ているので、父に劣らない働きをするだろう」、「御主の父は運悪く手柄と云えるものはなかったが、御主は父に勝るように見えるから手柄を立てるのだぞ。」等と一人一人に声を掛けて励まし、厳寒の朝鮮半島でも家臣達と共に囲炉裏を囲み、自身の湯治場を家臣達にも使わせる、という面倒の良さだった。
 関ヶ原にて、参戦した兵数は少なくとも、その内の多くの将兵が義弘のために喜んで盾となったのも頷けると云うものである。

 三男の歳久は祖父・忠良から「始終の利害を察するの智計並びなく」という評価をされ、後の世にも薩摩にて「智将」と謳われ、長兄・義久をよく補佐し、次兄・義弘の様に戦場に大将として立つよりは参謀としての役割が多い一方で、戦慣れしていない家久の身をよくよく案じ、窮地を救いもした。
 秀吉が九州征伐に襲来した際は、秀吉を「農民から体一つで身を興したからには只者ではない」と評価して、四兄弟中ただ一人和平を唱えたが、通らなかった。しかしいざ戦となると家中が和睦に傾いた際に、「和睦には時勢があり、今、このまま降伏すべきではない。」と兄弟で唯一抗戦を主張した。既に義久義弘が秀吉に降伏した後にも秀吉の駕籠に矢を六本射かけさせた。
 当然の様に歳久は秀吉の不興を買い、病気を理由に朝鮮出兵に出陣しなかったこともあって義久義弘、家久に与えられた朱印状が、歳久だけには出されなかった。
 家臣からの信頼も厚く、家中内での酒宴の際に下戸の兄に代わって家臣の杯を受けるムードメーカーでもあったのだが、皮肉にもそれが仇となり、彼を慕う家臣達が中心となって起こした反豊臣政権の梅北一揆の責を負わされ、義久から自害を命じられることとなった。

 そして末弟の家久だが、祖父・島津忠良から「軍法戦術の妙を得たり」と評され、対豊臣戦線でも長宗我部勢を打ち破るのに貢献したが、一方で兄弟の中で最初に豊臣秀長に和を講じた。和睦直後に急死したため、何かと謎が多い様に語られるが四兄弟の結束に疑いの余地はなかった。
 四兄弟中、上三人は正室の子で、末弟の家久だけが側室の子でだった。
 それに劣等感を抱いた家久が鹿児島吉野で馬追にて当歳駒を一緒に見ていたとき、歳久が義久義弘に向かって「こうして様々な馬を見ておりますと、馬の毛色は大体が母馬に似ております、人間も同じでしょうね」と云ったことがあった。義久は歳久の云わんとすることを察し、「母に似ることもあるだろうが、一概にそうとも云い切れない。父馬に似る馬もあるし、人間も同じようなものとは云っても、人間は獣ではないのだから、心の徳というものがある。学問をして徳を磨けば、不肖の父母よりも勝れ、また徳を疎かにすれば、父母に劣る人間となるだろう」と云った。
 これに感銘を受けた家久は、昼夜学問と武芸にのみ心を砕き、文武に優れた将となった。

 この様な兄弟結束の強さは島津と敵対した大名達には厄介な存在だった。
 島津家を降伏せしめた後、秀吉及び豊臣政権は義久よりも義弘を優遇し、あたかも義弘が当主であるかのように接したが、これは義弘を優遇して、逆に兄の義久を冷遇する事で兄弟の対立を煽ろうとしたもと見られるが、四兄弟の結束は微塵も揺るがなかった。

 ここまで記せば島津義久島津義弘を初め、島津兄弟の賢兄賢弟振りは充分だろう。
 特に義久義弘の「両殿体制」は正に椅角の構えと云えた。

※椅角の構え……『三国志演義』で猛将・呂布(りょふ)の参謀・陳宮(ちんきゅう)が提案した作戦。鹿を捕える際に「椅(ひづめ)」と「角(つの)」を捕えて押さえ込むように、二つの勢力が離れた場所から連携を採って相手を翻弄する作戦。

 惜しむらくは義久最晩年に見られた若干の不仲と「長所は短所」と云えたことだろうか?
 武勇に優れ、結束が強過ぎたゆえに時に身内の為に犠牲になることを厭わず、源頼朝以来の出自を誇って秀吉を受け入れ切れなかった(臣従拒否の書状をわざわざ秀吉ではなく、細川幽斎宛てに送った)ことが少なからぬ犠牲を出した訳だが、情に厚い分、弟や甥を失った時の義久義弘の痛恨もまた極大だったことだろう。
 前頁の北条兄弟にも云えたことだが、返す返すも最後の最後に事を構えた相手が悪過ぎた。それを最も読み切っていた歳久が最も抵抗する羽目になったのも皮肉であった。


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令和三(2021)年六月二日 最終更新