日本史賢兄賢弟

第漆頁 北条氏政und北条氏規…………御家滅亡に隠れた兄弟協力


名前北条氏政(ほうじょううじまさ)
生没年天文七(1538)年〜天正一八(1590)年七月一一日
通称新九郎
北条氏康
瑞渓院(今川氏親女)
一家での立場次男・第四代当主
主な役職左京大夫、相模守



名前北条氏規(ほうじょううじのり)
生没年天文一四(1545)年〜慶長五(1600)年二月八日
通称助五郎
北条氏康
瑞渓院(今川氏親女)
一家での立場五男
主な役職従五位下、美濃守、左馬助


兄弟関係
血筋後北条氏(伊勢氏)
北条氏康
兄弟関係同母兄弟
年齢差七歳違い



兄・氏政
 天文七(1538)年、第三代当主・北条氏康の次男として誕生。幼名は松千代丸(まつちよまる)。嫡男だった兄・新九郎が夭折したために後継者ととなり、同時に「新九郎(しんくろう)」の名も襲名し、元服後に北条新九郎氏政(ほうじょうしんくろううじまさ)となった。

 天文二三(1554)年、父・氏康が武田信玄、今川義元と甲相駿三国同盟を成立させるに際して、信玄の娘・黄梅院を正室に迎えた。

 永禄二(1559)年、父が隠居して家督を譲られ、北条家第四代当主となった(例によって氏康の存命中は実権を握られ続けた)。
 永禄三(1560)年、三国同盟の一角である今川氏の当主・義元が桶狭間の戦いでまさかの戦死を遂げ、同盟崩壊の序曲となった。
 永禄四(1561)年には関東・南陸奥の諸大名と連合して攻めて来た上杉謙信を小田原城にて迎え撃った。
 戦上手の謙信相手に苦戦を強いられた氏政だったが、小田原城の堅牢さ、実父・氏康の主導、岳父・武田信玄の支援を受けてこれをしのいだ。
 同年、謙信が第四次川中島の戦いで信玄と激戦を繰り広げた間隙を縫って北関東方面に侵攻し、上杉方に奪われた領土・勢力を徐々に取り戻した。

 永禄七(1564)年、第二次国府台合戦では、里見義弘に勝利。この勝利で上総に勢力を拡大し、一時は上総も帰順させた。武蔵でも岩槻城主太田資正を追い、武蔵の大半を支配した。
 永禄九(1566)年、上野の由良成繁を上杉方から帰順させ、上野にも勢力を拡大。従兄弟で下総の古河公方足利義氏の重臣簗田晴助とも一時的に和したため、氏政は謙信と同盟していた常陸の佐竹義重との対立を深めた。
 永禄一〇(1567)年、里見義堯・義弘父子と上総・三船山に戦ったが敗退し、上総奪還はならなかった。

 永禄一一(1568)年一二月、甲斐の武田信玄が三国同盟を破棄して駿河今川家に侵攻。氏政は、同盟を重んじて実の従兄弟にして、義弟でもある今川氏真(氏政の妹早川殿が妻)を擁護する立場に立ったが、当の氏真は呆気なく敗退。氏政は薩埵峠に出陣して武田軍に対抗し、一時は信玄の勢力を追放して駿河の一部を勢力圏に収めた。

 氏政は三河の徳川家康と和議を結んで、掛川城に籠城していた氏真を救出・保護。次男・氏直を氏真の養子として今川の家督を継承し、駿河領有の正当化を図った。更に長年の宿敵であった上杉謙信に弟の三郎氏秀(後の上杉景虎)を謙信の養子(兼人質)として同盟し、信玄に対抗した。この時、五人の子を産んでくれていた愛妻・黄梅院と涙呑んで離縁した。

 永禄一二(1569)年九月、小田原城にて武田信玄と戦い、難攻不落の堅城を利して父と共にこれを撃退。甲斐へ引き上げる武田軍を追撃せんとして、弟の氏照・氏邦等と別々に進軍したが、これは上手く連携がいかず、殿軍の浅利信種や浦野重秀を討ち取りはしたものの、戦いそのものには敗れ、武田軍に甲斐へ帰国された。

 その後も信玄が伊豆・駿河方面に進出するとこれに対抗したが、戦上手の信玄相手では分が悪く、元亀元(1570)年には興国寺城及び駿東南部一帯を除き、駿河は実質武田領となってしまった。
 元亀二(1571)年一〇月に父・氏康が病没。氏政は氏康の遺言に従って一二月には信玄との同盟を復活させ、謙信との同盟を破棄した。

 その後、武田信玄とは良好な関係が続いたが、天正元(1573)年に信玄が陣没すると様相が変化した。
 天正二(1574)年、上杉謙信と上野・利根川で対陣。閏一一月に関宿城を、翌天正三(1575)年には下野祇園城を攻め落とし、更に下総に勢力を広げ、氏政は上杉派の勢力を関東からほぼ一掃するのに成功した。
 天正五(1577)年、初陣の嫡男・氏直を伴い、上総に侵攻。宿敵・里見義弘との和睦を実現した。

 天正六(1578)年、上杉謙信が後継者をはっきりさせないまま逝去。後継者の座を巡って実弟・上杉景虎(北条氏秀)と、謙信の甥・上杉景勝が争った(御館の乱)。
 氏政は下野において佐竹・宇都宮と対陣中で動けず、五月に弟の氏照、氏邦等を景虎救援に向かわせ、八月下旬には自身も上野の厩橋城まで出陣するが、すぐに小田原へ引き返した。
 一方で、氏政の妹を継室に迎えていた筈の義弟・武田勝頼が景勝に味方したため、翌天正七(1579)年、内紛は景勝方の勝利に終わり、景虎は自害。当然、氏政と勝頼の同盟は破綻した。

 武田と手切れになった氏政は三河の徳川家康と同盟を締結。徳川とともに駿河の武田領を挟撃することとなった。
 天正八(1580)年八月一九日、家督を氏直に譲って隠居(勿論実権放さず)。徳川との同盟に基づき、天正一〇(1582)年に織田信忠(信長嫡男)・滝川一益を軍監とした軍勢が甲州征伐に乗り出すとこれに協力。駿河の武田領に侵攻して武田軍の迎撃を防ぎ、それから程ない、三月一一日に勝頼は天目山の戦いで自害し、正室であった氏政の妹もこれに殉じ、武田氏は滅亡した。

 だがその直後、信長は滝川一益に上野西部と信濃の一部を与え、関東の統治を目論んだ。一応、家康との縁もあり、氏政は氏直に織田家からも姫を迎えて婚姻することを条件に、織田家縁者として関東一括統治を申し出、信長との友好に努め、一益の関東支配に協力しもした。
 だが信長は氏政に好意的ではなく、一益に関東領の拡大を進ませつつあったが、その矢先の同年六月二日、本能寺の変で信長は横死した。

 信長の死を知った氏政は初めこそ一益に友好的に振る舞ったが、内心は互いに既に不信感を抱いており、氏政は武蔵深谷(現・埼玉県深谷市)に軍勢を差し向け、一益もこれに呼応して軍勢を差し向けた為、合戦となった。
 氏政は氏直と弟・氏邦に上野奪取を命じ、五万六〇〇〇の兵力で滝川勢に大勝(神流川の戦い)。余勢をかって碓氷峠から信濃に進出し、真田昌幸・木曾義昌・諏訪頼忠といった旧武田勢力下の国人領主達をも(一時的だったが)支配下に収めた。
 旧武田領である甲斐・信濃を巡って家康との対峙が続いたが、やがて嫡男氏直と家康の次女・督姫(とくひめ)を娶せることで和睦が成立。領土は甲斐・信濃を徳川領、上野を北条領とすることで合意した。

 これにより、徳川との結びつきを強めた氏政の当面の敵は上杉景勝となった。景勝は柴田勝家に対抗する為もあって、羽柴秀吉と早くに同盟し、秀吉は景勝に対北条戦略の協力を約束した。
 実際、北条と上杉は謙信の代から同盟を結んでも有効に機能しなかったことが多く、景勝も関東管領を強く意識していたり、御館の乱氏政の実弟・北条氏秀(上杉景虎)を殺したりしたこともあり、氏政は景勝・秀吉・佐竹に対抗する為にも家康との結び付きはますます重要となっていった。

 天正一一(1583)年に古河公方足利義氏が死去すると、氏政の関東での強勢は確固たるものなり、天正一三(1585)年、佐竹義重・宇都宮国綱等を破って下野の南半分を支配し、常陸南部にも勢力を拡げた。かくして氏政は後北条氏四代目にして最大版図を築き上げた。北条の領土は相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野から常陸・下野・駿河の一部に及び、石高で二四〇万石に達した。
 時に北条氏政四八歳。

 だが、氏政が関東での覇を盤石化させていた頃、羽柴秀吉は明智光秀・柴田勝家・長宗我部元親・島津義久を破り、上杉・毛利・佐竹が臣従を誓い、織田信雄・徳川家康も和睦に応じていた。
 天正一六(1588)年(1588年)、既に関白兼太政大臣となっていた羽柴、改め豊臣秀吉から氏政・氏直親子に聚楽第行幸への列席が命ぜられた。
 氏政はこれを拒否し、臨戦体制に入った。

 婿である氏直の身を案じた家康は起請文をもって、氏政に対して秀吉に逆らわないことを説き、氏政は秀吉に備えつつも一先ずは八月に弟・氏規を名代として上洛させた。
 同時に氏政は実質的にも隠居をすることで、親徳川派の氏直を対外的にアピールし、一時は自身も上洛することを家臣・国人衆に通知し、一旦は平穏に済むかと思われた。

 しかし天正一七(1589)年二月の沼田領を巡る問題や氏政の上洛時期に対する問題から再び北条と豊臣の関係は悪化。秀吉は一〇月、北条と真田昌幸の名胡桃城争奪を巡る事件(名胡桃事件)が起き、秀吉は家康、景勝等を上洛させ、諸大名に北条討伐を宣言した。
 一方で秀吉は使者を派遣し、名胡桃事件の首謀者を処罰して即刻上洛するよう要求した。

 これに対して氏直は弁明に努めたが、秀吉は「上洛を引き延ばす云い訳」に憤慨し、氏政の上洛・出仕の拒否を関白及び朝廷への従属拒否と見做してであるとみなし、一二月二三日に諸大名へ正式に北条追討の陣触れを発した。

 そして天正一八(1590)年三月、各方面から侵攻してくる豊臣軍を迎え撃って氏政最後の戦いが始まった。
 緒戦こそは碓井峠で真田・依田軍を破る等して善戦したが、秀吉が沼津に着陣すると山中城が落城。四月から氏政は小田原城に籠城した。
 かつて上杉謙信・武田信玄という戦国屈指の名将の力を持ってしても落とせなかった小田原城は二二万の豊臣軍の包囲にも約三ヶ月に渡ってよく耐えたが、その間、下田、松井田、玉縄、岩槻、鉢形、八王子、津久井といった武蔵・相模の諸城が次々と落城。二二万を数える豊臣軍の前には衆寡敵せず、北条家中は降伏か抗戦かで大いにもめた。

 所謂、「小田原評定」だが、議論が一月以上の長きに渡った果てに結論が「降伏」で、御家の滅亡に繋がったために後世に悪評が残ったが、元は北条家中の定例会議がそう呼ばれていただけのものだった。
 だが当初は「和睦」の筈だったのが、秀吉は氏政に切腹、氏直に高野山への追放を命じた。七月五日、氏直が自分の命と引き換えに他一族・家中全員の助命を乞い、舅・家康も氏政・氏直父子の助命を乞うた。
 結局これに対して秀吉は討伐の責任者として一族・家中のタカ派と見做した氏政・氏照兄弟と宿老の松田憲秀・大道寺政繁に切腹、氏直を初めとする一族を高野山に追放する、と命じた。
 七月一一日、弟・重臣二名とともに北条氏政切腹。享年五三歳。

 辞世の句:「雨雲の おほえる月も 胸の霧も はらいにけりな 秋の夕風」
 「我身今 消ゆとやいかに おもふへき 空よりきたり 空に帰れば」。

 かくして関東に覇を唱えた戦国大名としての北条氏は滅亡し、豊臣秀吉の天下統一が達成された。


弟・氏規
 天文一四(1545)年、北条家第三代当主・北条氏康の五男として誕生。幼名は助五郎(すけごろう)。
 幼少時に、今川義元の人質として差し出され、駿河の駿府で過ごし、同様に人質となっていた松平竹千代(後の家康)と知遇を得た(住居が隣同士だったらしい)。
 義元には厚遇された様で、一時期は義元の養嗣子として義元の嫡男・氏真に次ぐ扱いであったとされる。

 永禄年間に小田原に戻ると、主に外交面で一族を支えた。
 次兄・氏政が当主を務める中、三兄・氏照や四兄・氏邦が武に務める中、幼少時の経験から交渉に長けていた氏規は越後の上杉謙信、甲斐の武田勝頼、織田信長没後の徳川家康、奥羽の伊達氏や関東の蘆名氏との外交・同盟において取次を務めた。
 特に徳川家康とは前述した様に、人質時代からの縁もあってか、北条氏規宛の書状が多数現存しており、後年、豊臣秀吉から北条氏に上洛を求められた際にも、家康は氏規を通じて北条氏に秀吉の意を伝えることが多かった。

 永禄一二(1569)年には伊豆韮山城にて武田信玄の軍勢を撃退。武将としても立派に活躍し、相模国三浦郡三崎宝蔵山に領地を与えられ、対三浦水軍の軍務を氏政から託されてもいた。

 豊臣秀吉が九州征伐を終え、北条家が残る最後の抵抗勢力と目されると、家中にて氏規はハト派として秀吉への臣従を提言。関東立国にこだわり、臣従を断固として拒否するタカ派の兄・氏政、甥にして当主・氏直に代わって北条家当主名代として上洛し、て秀吉と数度の交渉に当たった。
 だが、秀吉は北条家の完全な服従と降伏としての上洛を求めたため、氏規の働きも空しく、秀吉は天正一八(1590)年に小田原征伐の大号令を発令した。

 戦が始まると氏規は韮山城へ籠もった。本城・小田原程ではないにせよ韮山城もなかなかの堅城で、自身の指揮もあって氏規三〇〇余の寡兵で豊臣軍四万の攻撃に四ヶ月以上耐え抜いたが、最終的には旧友にして、当主・氏直の舅でもあった徳川家康の説得を容れて開城に応じた。
 そして最後の最後には、氏政・氏直父子に降伏を勧める役も担った。

 七月五日、小田原城は開城して北条家は降伏。次兄・氏政と三兄・氏照は切腹を命ぜられ、四兄・氏邦は前田利家の助命嘆願と剃髪・出家を条件に助命され、氏規自身は旧友・家康の尽力と、ハト派として秀吉に気に入られていたこともあって助命された。
 戦後、同様に家康の尽力で助命された当主・氏直に従って高野山に赴き、後に秀吉に許され、天正一九(1591)年に河内国丹南郡に二〇〇〇石が与えられた。

 しかし同年一一月に氏直が病死。北条家の生き残りとして家名存続を担うこととなった。
 文禄三(1594)年、河内郡六九八〇石を加増され、万石には及ばなかったが、一応は狭山城主としての立場を与えられた。
 関ヶ原の戦いへのきな臭さが漂い出した慶長五(1600)年二月八日、北条氏規逝去。享年五六歳。法名・一睡院殿勝譽宗円大居士。嫡男・北条氏盛が前当主・氏直の養子として家督と氏規の遺領を継承することが認められ、小大名ながらも狭山藩主として、明治維新まで御家は存続した。


兄弟の日々
 兄・北条氏政「菜根版名誉挽回してみませんか」で採り上げ、弟・北条氏規「偉大なるストッパー達」で採り上げたことがある。

 双方の過去作でも触れたが、「親兄弟すら油断がならない」と云われた戦国時代において、北条家には骨肉の争いが殆どなかったことを薩摩守は前々から称賛していた。鎌倉幕府執権の北条氏とはえらい違いだ(笑)。

 一般に北条早雲を「初代」とする後北条氏だが、早雲自身は生涯「伊勢新九郎」と名乗り続け、子の二代目・氏綱の代になって初めて北条姓を名乗り出した。そしてその弟・北条幻庵(ほうじょうげんあん)が、俗に云う五代一〇〇年の殆どすべてにおいて生きて嫡流を支えたこともあり、北条家は団結の強い一族だった(ついでを云えば、前述時に酷評した執権北条氏も、外部に対抗する際の一族団結は強かった)。
 それを可能にした要因として、合議制分業制が挙げられる。

 合議制とは所謂、「小田原評定」のことである。
 「いつまでたっても結論の出ないだらだらした体裁だけの会議」の例えとして悪名高い「小田原評定」が、本来は普通名詞に近い恒例行事の名前であったことは前述したが、月二回の定例で開かれたこの評定にて決まったことに対して北条家中は誰も逆らわず、一丸となって決定事項の実践に邁進していたのだった。それだけにこの評定の北条家中における存在意義は実に大きな物があったことを改めて見直したい。
 勿論、北条家とて人間の集まりで、御家滅亡時の評定に限らず、意見の相違で結論がすぐに出ないこともあっただろうけれど、この評定が有効に機能した好例として、北条氏康死後に改訂された北条家の外交方針があった。

 氏政が当主の座にありながらも、先代・氏康が存命し、国政に口出ししていた頃、北条家は武田信玄と対立し、上杉謙信と同盟していた。それ以前は北条・武田・今川の三国同盟が結ばれ、その証として氏政は信玄の長女を正室(黄梅院)に迎えていたが、信玄が駿河に侵攻したことで同盟は瓦解し、北条は今川に味方したため、武田とは袂を分かった。
 氏政としては複雑な物があったが、家中の方針には逆らわず、涙呑んで五人の子を産んでくれていた黄梅院を離縁し、弟・氏秀が謙信の養子(兼人質)に差し出された。
 だが、この同盟は氏康の死をきっかけに破棄された。
 その理由は、上杉が一度として北条の援軍要請に応じなかったためだった。謙信は氏秀に自らの初名である「景虎」の名を与えて可愛がった様だったが、「同盟に意義なし」とした氏康は死に臨んで氏政に上杉と縁を斬り、武田と結び直すことを遺言した。
 つまりはこの遺言に家中が従った訳だったが、実の所、氏政以外の弟達は上杉との手切れに反対だった(おそらくは氏秀=景虎の身を案じたと思われる)。氏政自身は離縁した亡き妻への想いを断ち難くしていたことから親武田への意向が強かったと思われるが、かと云って氏政が強権発動して弟達の反対を押し切ったとは考え難い。
 詳細な経緯は不明ながら、小田原評定はこの難題や意見分裂をも乗り切ったと云えよう。

 そしてこの評定がしっかり機能していたのも、分業制があったればこそであった。つまり、北条家が身内間で役割をはっきりさせていたことにあり、当主・氏政と、それを支えた氏規を含む弟達の各役割がこの賢兄賢弟を知る上での重要なファクターとなる。
 氏政の男兄弟は氏政自身を含めて八人で、嫡男新九郎は早世、次男氏政は家族思いで一族・家臣を有効に使うやり手で、三男・氏照は外交と軍事に優れ、四男・氏邦は各地を転戦した好戦的性格で、五男・氏規は人質経験と温厚な性格と冷静な情勢分析を活かした一族切っての外交官で、武勇も他者に劣っていなかった。六男・氏忠は下野の名家・佐野氏に養子入りして同家を乗っ取って佐竹氏の影響力を排除すると云う謀略をこなし、七男・氏秀(上杉景虎)は上杉との同盟の証に養子兼人質として同家に赴き、末弟の氏光は主に防衛戦を担った。
 この時代の常で兄弟の数が多いので役割がダブる所もあるが、軍事・外交・内政の基本路線で見た場合、当主氏政が内政をメインにトータル的に国政を担い、氏照・氏邦がメイン軍事・サブ外交を、氏規がメイン外交を、氏忠・氏秀(景虎)が同盟の手駒、氏忠が防衛を担当したと云えようか。

 最後に触れておきたいのが、御家滅亡時に見られた北条氏の身内想いな面である。  小田原城落城までの間に氏邦は鉢形城にて前田利家軍に降伏、氏規が韮山城にて旧友にして当主・氏直の舅でもあった徳川家康の説得に応じて開城した。
 そして氏規が秀吉の軍師・黒田官兵衛とともに兄・氏政と甥・氏直を説得し、天正一八(1590)年七月一日には和議に応じること(勿論実質は降伏)を決意し、同月五日、氏直は滝川雄利の陣所に赴いて、自らの切腹を条件に全将兵の助命を請うた。

 既に述べた様に、戦後処置として氏政、氏照、重臣・松田憲秀、大道寺政繁の四名がタカ派と見做されて切腹となり、他の一族は高野山への配流となった。
 命運を大きく分けたのは、戦前の主張と交流にあった。
 自身の切腹を条件に全員の助命を申し出た筈の当主・氏直は、豊臣秀吉から「殊勝な態度」とされたことと、家康の婿であったことが幸いし、助命された。
 勿論氏直と家康の嘆願は秀吉に少なからぬ影響を与えていたのだが、氏政・氏照は切腹を免れなかった。一方で氏規は今川家人質時代の家康との交流と、ハト派として戦前から秀吉と交渉を重ねて好印象を得ていたことが幸いした。
 少し変わっているのは、タカ派でありながら命を永らえた氏邦である。氏邦は「守りの戦では勝てない。」と考えて鉢形城に籠り、前田軍に降伏したのだが、その縁で利家が助命嘆願し、秀吉も前田家が出家した氏邦を預かる形で助命が許された(後年、氏邦は金沢で没した)。

 結局、氏邦一人を例外として、助命された北条一族は高野山に流され、氏直を初め多くの者が彼の地に没したが、氏規は後に小大名に復位し、厳密な意味での滅亡は免れた。
 だが、北条一族に戦国時代に稀な一族結束が無ければ、北条一族は鎌倉時代の執権北条一族の様に殲滅の憂き目(北条高時の子・時行は信濃に逃れたが)を見たであろうことは想像に難くない。
 元々、すべての戦国大名が天下統一を夢見ていた訳ではなく、北条氏の目的はあくまで関東立国にあり、それとて簡単な問題ではなかった(鎌倉公方や関東管領に対する反逆的要素も含まれたので)。だがその難題に北条氏は一族結集して挑み、見事に関東に覇を唱えた、と云うのが薩摩守の観点である。
 偏に、最後の最後に相対した相手が悪過ぎた、と云えよう。時の権力者・豊臣秀吉の前には、縁者・徳川家康や欧州の覇者・伊達政宗も徹底抗戦するまでには付き合ってくれなかったことも含めて。


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令和三(2021)年六月二日 最終更新