日本史賢兄賢弟

第玖頁 豊臣秀吉und豊臣秀長…………賢弟の死に始まった斜陽


名前豊臣秀吉(とよとみひでよし)
生没年天文六(1537)年二月六日〜慶長三(1598)年八月一八日
通称サル、禿げ鼠、筑前守
木下弥右衛門
なか
一家での立場嫡男
主な役職内大臣、関白、太政大臣



名前豊臣秀長(とよとみひでなが)
生没年天文九(1540)年三月二日〜天正一九(1591)年一月二二日
通称小竹、小一郎、大和大納言
竹阿弥
なか
一家での立場次男
主な役職権大納言


兄弟関係
血筋木下氏→羽柴氏→豊臣氏
なか
兄弟関係異父兄弟
年齢差三歳違い



兄・秀吉
 超有名人物に付き、略歴は本当に「略」(笑)。よもやこの様なサイトを閲覧される方で、「豊臣秀吉?誰それ?」と仰る方なんていないと確信しますので………。


弟・秀長
 天文九(1540)年三月二日に尾張中村(現:愛知県名古屋市中村区)に竹阿弥を父に、なかを母に生まれた。幼名は小竹(こちく)。異父兄・藤吉郎(秀吉)は竹阿弥と折り合いが悪く、幼少時に家を飛び出していた。

 木下藤吉郎が斎藤龍興と戦う為に織田信長から美濃墨俣に築城を命じられた頃から兄を補佐するようになった。
 天正元(1573)年、秀吉が浅井攻めの功で長浜城主となると、小竹は城代を任されるようになった。この時期、兄・秀吉が丹羽長秀の「」と、柴田勝家の「」の字を頂戴して羽柴秀吉と改名すると、小竹もから、兄と丹羽長秀から一字ずつ貰って木下小一郎長秀と名乗った(←以前にも書いたが、「長秀」は誤植ではない)。

 秀吉が織田信長から中国毛利攻めの総司令官となると、長秀は山陰道及び但馬平定の指揮を委ねられることとなり、天正五(1577)年に秀吉に従って播磨、但馬に転戦し、竹田城を落とすと城代に任命された。
 天正六(1578)年、東播磨で秀吉に反旗を翻した三木城主・別所長治と戦い、黒井城攻めにも参戦。
 天正七(1579)年、丹生山を攻めて三木城への補給を断ち、続いて淡河城を攻めるも淡河定範の奇襲に遭って撤退した(三木城の補給路遮断には成功)。
 天正八(1580)年一月、別所一族が切腹して三木城が開城。秀吉は但馬出石城、有子山城を陥落させ、但馬を平定した。
 天正九(1581)年三月、羽柴軍は毛利方の吉川経家が籠る鳥取城を兵糧攻めにし、長秀も包囲に加わる一城の指揮を執り、同年一〇月に鳥取城も陥落させた。
 天正一〇(1582)年四月、備中高松城を水攻めし、長秀は鼓山付近に陣を張った。

 そして六月二日、羽柴陣にて明智光秀が毛利方にはなった間者が捕えられ、本能寺の変秀吉長秀の知るところとなった。驚いた秀吉だったが毛利方が変を知る前に高松城主・清水宗治の切腹を条件とした講和を成立させるや、中国大返しと云われる総退却に掛った。
 大急ぎで畿内に戻った羽柴軍は明智軍と山崎の戦いに挑み、長秀も黒田孝高と共に参戦して天王山の守備にあたった。

 光秀の首級を挙げて信長の仇を討って家中での発言力を高めた兄・秀吉は織田家筆頭家老の柴田勝家と対立。天正一一(1583)年、賤ヶ岳の戦いに参戦し、これに勝利すると長秀は美濃守に任官し、兄から播磨・但馬の二ヶ国を拝領して姫路城を居城にした。

 天正一二(1584)年、兄から羽柴姓を許され、羽柴小一郎秀長と名乗りを改めた(←ねっ、誤植じゃなかったでしょ)。
 同年、兄と徳川家康との間で小牧・長久手の戦いが起きると秀長は守山に進軍。家康と組んでいた織田信雄を監視した。
 この戦いは局地戦である長久手の戦いで、珍しく戦略を読まれた羽柴方が大敗したが、織田信雄と和睦することで家康が参戦理由を亡くし、政治的に勝利。この和睦に際して秀長秀吉の名代として直接交渉に赴いていた。
 また長久手にて家康に大敗したことで秀吉に激しく叱責された甥(姉の子)・羽柴秀次の為に秀長は後の紀伊・四国への遠征では共に従軍し、秀吉への信頼回復に尽力してあげた。

 天正一三(1585)年、紀州征伐では、秀次と共に副将を務め、紀州制圧後、紀伊・和泉の約六四万石の所領が与えられた。
 同年六月、四国攻めでは病中だった秀吉の代理・総大将として、一〇万を超える軍勢を率いた。激しく抗戦する長宗我部元親に苦戦したが、心配した秀吉から援軍申し出も断り、同年閏八月、長宗我部元親を降した。
 この功績で播磨、但馬、大和の合計一〇〇万石を与えられて郡山城に入った。同時に兄と共に豊臣の姓が朝廷から与えられ、豊臣秀長として従二位、大納言の官位も得た。この地位と領土にちなんで大和大納言と称された。

 天正一四(1586)年一〇月二六日、秀吉秀長の妹・朝日姫を継室に迎え、更には兄弟の実母・なかが人質として岡崎に送られたことを受けて、それまで上洛を拒み続けてきた徳川家康もついにこの日大坂に到着した。
 そのとき家康の宿所とされたのが秀長邸で、その晩、秀吉は家康を訪ねて翌日大坂城にて臣従の礼を取ることを求めた。

 同年、大友宗麟が島津氏の侵攻を受けて秀吉に救援を求めて上洛。このとき秀長は宗麟を親切にもてなし、有名な、

 「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候」

 の台詞を述べた。意味は、「内輪の事は千利休に、公の事は秀長に相談するとよい。」と云うことである。
 天正一五(1587)年、九州征伐に従軍し、日向方面の総大将として出陣。耳川の戦い根白坂の戦いを経て、最後には薩摩に撤退した島津家久(島津四兄弟末弟)が講和を求めて秀長を訪ねてきて、日向方面の進軍は終了した。

 天正一六(1588)年、紀伊雑賀にて材木管理代官・吉川平介が、秀長に命じられた材木購入の為の代金を着服する事件が起き、秀吉は吉川を処刑し、秀長自身も責任を問われ、秀吉は正月の挨拶を拒否する態度に出たが、翌天正一七(1589)年元旦、秀長は大坂城にて諸大名と共に、新年祝賀の太刀進上を行った。
 だが一年後の天正一八(1590)年一月頃から病が悪化、小田原征伐には参加出来なかった。

 同年七月、兄・秀吉は北条氏を降伏せしめ、遂に天下統一を達成した。だがそれから程ない天正一九(1591)年一月二二日、兄の天下統一をもって自らの役目を終えたかのように秀長は大和郡山城内で病死した。豊臣秀長享年五二歳。戒名は大光院殿前亜相春岳紹栄大居士秀長死後、兄・秀吉及び豊臣家は斜陽の一途を辿った。


兄弟の日々
 幼少の頃、実父・木下弥右衛門を失った藤吉郎は、母・なかが再婚した継父・竹阿弥と不仲だったと云われている。だが藤吉郎小竹の仲は良かったとされている。まあ竹阿弥と仲が悪かったとはいえ、元々秀吉は身内を大切にする人間で、なかに対してはマザコンと云える程だったので、それゆえ父は違えど、異父弟・小竹とも、異父妹・朝日とも仲が良かったのだろう。

 やがて織田信長に仕えた秀吉を、秀長は良く支えた。
 秀長は温厚、真面目、寛容であり、二昔前まで秀吉を主人公とした小説・漫画に秀長が全く登場しないことも珍しくなかった。つまりこれは秀長が決して兄を出し抜かず、兄の陰に徹し切ったことを意味している。

 とはいえ、秀長が兄に盲従した訳ではない。秀吉が身内を大切にする人間であったことに加え、内外の人間が認める実直さは出世するに従って傲慢・強権に陥りかけた兄の良きブレーキ役をも務め得たのであった(その辺りは拙作「偉大なるストッパー達」を参照されたし)。
 また、秀長の実直さは統治能力にも表れており、彼が領国として与えられた紀伊・大和・河内はいずれも寺社勢力の強さ故に難治で、単に知力や政治力が優れているだけでは治め難い土地だったが、秀長はこれを見事に治めた。
 寺社勢力と渡り合える人柄を保持していたからに他ならない。「秀長でないと治まらなかった。」とまでは云わないが、仮に秀吉が治めたのであれば、秀長よりは力に重きを置いた治め方をしただろう。

 勿論、完全無欠な人間など存在しない様に、秀吉秀長兄弟とて仲違いしたこともあった。
 秀吉は長浜城主就任時に母・なかを長浜城に招いたが、出世して尚、継父・竹阿弥に何かをした記録は見られない。竹阿弥の実の子である秀長としては複雑だっただろう。
 前述した様に、材木売買に絡んで秀長の配下が不正を働いた際に、秀吉は弟の監督不行き届きを責めたのは良いにしても、直後に年賀の挨拶を拒否する、という大人げないことをしている。
 また長久手の戦いで大敗して秀吉の不興を買った甥・秀次のために秀長が色々心を砕いたが、そこまで細心したのも、身内想いの兄弟にも想い入れに若干の相違が有ったことが窺える。後々の秀次の悲劇も、秀吉より先に秀長が世を去ったことと無関係ではあるまい。

 だが、結局はこれらを含む兄弟の相違は、好対照な性質として、互いの足りない所を補完し合う形で上手く機能した。
 派手好みで、パフォーマンスに優れ、見せる行動で人を引っ張った兄・秀吉。実直で、目立たずとも、要所要所を締める「縁の下の力持ち」に徹し切った弟・秀長。行動パターンが真逆だと、コンビネーションの良し悪しは両極端に陥り易いが、基本性格を同じゅうしていたことから豊臣兄弟の場合は「車の両輪」として活きた。

 ただ惜しむらくは「動」と「静」の組み合わせの、「静」の方が先に亡くなったため、「動」に歯止めが掛らなくなったということだった。
 そのため秀長が死去すると秀吉の、豊臣家の前途には暗雲が垂れ込み始め、秀長の死去から一ヶ月後には千利休が切腹、更に朝鮮出兵で諸大名を疲弊させ、秀頼誕生後に後継者に迎えていた秀次一族を虐殺する、など豊臣政権は秀長の死で秀吉により破壊されていく事になった。
 もし秀長が長命を保っていたならば家康に豊臣家を滅ぼされる事は無かったと云われる事が多いのも、「むべなるかな」であろう。


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令和三(2021)年六月二日 最終更新