最終頁 四幹部を統括する悪魔元帥の責任

カラーの異なる人材とそれを率いる者 戦国の世を忍従し、最後に天下を取った徳川家康が当初本拠としていた三河岡崎には三人の奉行がいた。本多作左衛門重次、高力与左衛門清長、天三郎兵衛康景の三名である。
 世の人々はこの三奉行を、「鬼の作左、仏高力、どちへんなしの天野三兵」と評した。言葉の上っ面だけを見れば作左が嫌われ、高力が慕われ、天野はどっちつかずだったように思いそうだが、「鬼」の如く厳格だが公平公正だった本多作左、「仏」の如く寛大だった高力、「鬼」にも「仏」にもならず万事に慎重だった天野は各々の長所を活かした奉行振りを尊敬されていた。
 つまり、「鬼」であれ、「仏」であれ、「どちらでもない者」であれ、伸ばすべき長所・個性を活かし、短所(となる面)を抑えれば人心掌握は可能だということである。勿論口で云うほど簡単ではないが、この三河三奉行の例を見ると、ジンドグマや、デルザー軍団クライシス帝国などは実に勿体ないものを感じる時がある。

 組織というものは、人員の多い組織であればあるほど様々な人材が集い、様々なタイプの幹部を必要とする。単一タイプの幹部で済む組織があるとすればそれは独裁者に率いられた集団に只自我も意志も無く盲目的忠義を尽くす者達だけで構成されたものしかない。
 だが、組織のトップも人間である以上幹部の登用から好き嫌いを完全に排除するのは困難である。勿論優れたトップは極力好き嫌いの度合いを減じ、様々な人材を登用し、個々の持つ能力・人格を活かすのである。

 それを考えると、シリーズにおいて初めて麾下に4人の毛色の異なる幹部を登用し、組織を編成することに成功している悪魔元帥はかなり優れた事前準備を整えていることになる。
 同時に個性的な4人の幹部に率いられたジンドグマは、ドグマ王国以上に興味深く、多様性の有る、魅力的な組織として『仮面ライダースーパー1』という作品を歴代屈指の作品に成長させていた可能性も高かったと云える。
 ま、結果論だけで酷な事を云えば、せっかくの陣容と背景を活かし切れなかった訳だが、前例が無いだけに無理なかった気もするし、前例が無かったからこそ上手くいけばその功績は比類なきものになっていたであろうことが惜しまれる。

トップと現場 上記のことを検証すると、御世辞にも一枚岩とは云い難かった4幹部の結束を放置していた悪魔元帥の、首領としての責任は小さくない。
 悪魔元帥は作戦立案にしても、遂行にしても、組織内の対人関係にしてもさほど口を挟むことは無く、「動いた」と云えば、四幹部がジンドグマ超A級怪人として自ら出陣し出す際になってからだった。

 妖怪王女サタンドールとしてジュニアライダー隊に潜り込み、鬼火司令が秘蔵っ子である夜光虫を率いてオニビビンバとして出陣せんとしていた頃、悪魔元帥はアジト内で談笑する鬼火司令幽霊博士魔女参謀達を叱責した。
 仮面ライダースーパー1の妨害を受け、数々の作戦失敗を重ねていたにも関わらず全然反省も緊張感も無い様に見えたのだろう。それ自体は悪魔元帥の誤解だったのだが、作戦失敗回数からすればもっと前々から叱責や訓戒が飛んでいても不思議ではなかったが、悪魔元帥は幹部達に口を出すでもなく(←褒めることの方が多かった)、アジト内から出ることもなかった。
 彼が自ら行動を起こし、アジトを飛び出したのは、鬼火司令妖怪王女幽霊博士戦死後で、まさに最後の最後になっての出陣だった(それ以前にジンドグマへの出資者を歓待する仮装パーティーに出席する為にアジトを出たことがあったが、これは厳密には作戦上の行動ではなかった)。

 もっとも、積極的に動かなかったことだけを指して悪魔元帥を首領失格とするのは早計である。小規模な組織や、余りにまとまりに欠ける組織においては首領が独裁で構成員達に有無を云わせず服従させて組織を牽引する必要のあるケースもあるが、ある程度大きな組織において何でもかんでもトップが仕切らないといけない体制は全くもって好ましくない(史実の例を挙げると、秦の始皇帝や蜀漢の諸葛孔明がある)。
 本来組織のトップは、普段は口を出さず、睨みはしっかり利かせて幹部達を積極的に動かせしめ、どうしてもまとまらない時に最終決定権を発動して組織をまとめるのが理想的である。
 悪魔元帥がそのタイプのトップだというのであれば、彼が終盤までほとんど動かなかったのも分からない話ではない。ドグマ帝王テラーマクロがそうであったように。3、4週間に1度ぐらいの割合で幹部達を恐れさせるほどの威厳を見せつつ、簡単なヒントを口にするという動きをしていれば、悪魔元帥は理想的な首領になり得たかもしれない(組織としての目標が達せられなかったとしても)。

 まあ、首領自らが如何なる頻度と度合いで現場に介入するかという匙加減は、現実の組織においても極めて難しい問題であるのだが。ここに優れた悪魔元帥が描かれていれば、ジンドグマ四幹部の映り方もかなり変わったものになったのではあるまいか?勿論良い意味で。



「数を活かす」という命題 過去作『戦闘員VOW』でも触れたことがあるが、「数の力」というものが現実とフィクション(特に特撮)の世界では逆転する傾向にある。
 数が多ければ多い程、限られた放映時間において決着をつける為には大量に、呆気なく殺られるものが続出し、そこに個々の強弱は関係ない。だがこれは戦闘における話だ。

 大幹部達は出番も長く、回数も多いゆえに毛色の異なる幹部達の活躍を充分に見せた上で最期を遂げさせることが出来る。
 実際、『仮面ライダー』では死神博士地獄大使がダブって出ることでその相違を見せたことがあり、『仮面ライダーV3』でもたった2週とはいえ5大幹部(ドクトルG ゾル大佐死神博士地獄大使ブラック将軍)が各々誇り故に一枚岩になり得ないところをデストロン首領の命で無理矢理結束しようとして点が興味深かった。
 何より『仮面ライダーストロンガー』では中盤にて一つ目タイタンジェネラル・シャドゥが、終盤ではデルザー軍団内の暗闘が、幹部が複数存在することの意義・脅威を見せていた。
ジンドグマとはそれを初登場時から時間を掛けて出来るだけの設定を持っていたのに、そうはならなかったことが惜しまれる。


 ま、ならなかったことを自らの空想や夢想の中でならす、或いはどうすればなったかを描くことも特撮番組を見たり、考察したりする楽しみの一つではあるのだが(笑)。


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新