藤原秀衡 (ふじわらのひでひら。保安三(1122)年?〜文治三(1187)年一〇月二九日) |
容疑者 | 源氏家中 |
得をした者 | 源頼朝 |
概要 奥州藤原氏の全盛期を築いた三代目で、源平が争う渦中に遠く東北にあって黄金と特産品(馬・鷹・毛皮など)で一大勢力を保ち、朝廷からは鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)にも任じられていた。
若き日の源義経を保護し、晩年には兄に疎んじられて謀反人とされた際にもこれを匿い、頼朝も秀衡の死まで奥州には手を出さなかった(出せなかった、とも云える)。
中立の勢力を保ち、無傷の軍団を擁し、戦(戦術面)の天才・義経をも手駒としている秀衡に対して頼朝は後白河法皇の名で義経引き渡しの院宣を出させるのみだった。勿論秀衡はそんな脅しに屈することなく笑って黙殺した。
だが義経にとって不運、頼朝にとって幸運なことに、義経の奥州入りから数ヶ月を経ずして秀衡は逝去した。
秀衡は息子(泰衡・忠衡・国衡・高衡等)達に頼朝の脅しに屈せず、有事の際には義経を大将にたてて鎌倉と戦うことを遺言したが、嫡男・泰衡(やすひら)が遺言に従わず、義経も奥州藤原氏も頼朝の前に滅したのは周知の通りである。
|
死の影響 藤原秀衡は義経にとって父とも仰いだ人物で、頼朝にとっては目の上の瘤だった。
奥州藤原氏の初代清衡(きよひら)、二代目基衡(もとひら)の築いた地盤を引継ぎ、一大勢力を為した秀衡は一代の傑物で、秀衡・義経コンビと事を構えるのは、頼朝には避けたい所だった(平家を滅ぼしたばかりで、関東しか固めていない状態だったので)。
そんな秀衡に比べて、その息子達には父程の器量はなく、兄弟仲も良くなく、そこを頼朝に突け込まれた。
つまり鎌倉からの「院宣」の名を借りた脅しが寄せられ、これに泰衡が屈する形で奥州藤原氏は滅びの道を歩んだ。
秀衡と泰衡は明らかに役者が違い、泰衡は自らの手で頼りになる筈の義経を殺し、頼朝に約束を反故にされ、最後には家臣・河田次郎の裏切りに会って落命した。
ついでを言うと、泰衡の首を手土産に頼朝に投降した河田は「不忠者」として処刑された。ただでさえ約束を平気で反故にする頼朝にとって、「泰衡を裏切って味方した」という事実は嬉しくても、「泰衡を裏切った者」を配下に置きたくはなかったのである
勿論、秀衡亡き後の奥州を頼朝は完膚なきまでに叩き潰すつもりだったのだから、泰衡・河田次郎がその命を奪われるのは必然だった。
つまり秀衡&義経のコンビが成立しなくなった段階で、すべては頼朝の思惑通りの展開に向かったのであった。
上記より、藤原秀衡が頼朝にとって如何に邪魔で、且つ事を構えたくない相手であったかが御理解頂けたと思う。同時に秀衡の死が如何に頼朝にとって幸運であったかも。しかも秀衡の死は義経の奥州逃避から僅か数ヶ月後のことであった。
生意気と見ていた平上総介広常を、将棋のルール違反にキレた形を装わせた梶原景時に暗殺させたような頼朝が奥州に暗殺者を放っていても全くおかしくはない。
実際に頼朝は叔父の行家、義経に刺客を放っている。暗殺を卑怯と考えるような男ではないのだ。
結論として藤原秀衡が源頼朝にとって余りにも邪魔で、余りにもタイミング良く死んだという、動機と流れが頼朝をして「藤原秀衡を暗殺しかねない…。」との疑念を生じさせるであろう事は想像に難くない。
実際、腕利きの暗殺者が「秀衡を暗殺しましょう。」と言ったら頼朝は喜んで依頼しただろう。否、実際そういう事実があったとしても全くおかしくない。
もっとも、薩摩守が仮にこの時代の腕利きの暗殺者だったとしても頼朝相手にそんな商売はしないだろう。
事後に猜疑心の塊男に口を封じられる可能性は極めて高いだろうから。
|
薩摩守の見解 薩摩守は藤原秀衡の死を病死と見ています。
秀衡の享年は推定六六歳ですが、中尊寺金色堂に残されたミイラを調査した所、七〇歳前後の年齢と推定されており、当時の寿命としては全く不自然ではありません。
また彼の死後、頼朝は秀衡の息子達の仲の悪さに突け込む形で謀略を練り、秀衡も自らの死後にその点を懸念して遺言していることを考えれば、頼朝が秀衡暗殺を謀ったとすると、マイナス面の大きさが浮上します。
つまり余程証拠を残さないことに優れた暗殺者に託さない限り、「暗殺」と疑われただけで奥州藤原氏は「先代の仇」とばかりに義経と強く団結して頑強に抵抗することが考えられ、秀衡以上の手強い抵抗勢力を生みかねない、ということです。
また鎌倉幕府の公式記録書とも言える『吾妻鏡』に北条政子が奇妙な夢を見ては矛盾ある見解を述べています。
頼朝没後のある年ある月の三日(←この曖昧さからして信憑性が薄い)に、政子の夢に現れた甲冑姿の亡霊は平泉の荒廃に対する恨み言を述べ、政子は「三日は命日だから秀衡の亡霊では?」と述懐しているが、秀衡の没年月日は文治三(1187)年一〇月二九日で、「三日」とは異っています。
そして、秀衡ではなく、源氏との戦いの中で落命した息子の泰衡こそ、文治五(1189)年九月三日に没しています。つまり、政子の言い間違えか、著者の書き間違えである可能性が濃厚と見えます。
日本古来の怨霊信仰ゆえか、頼朝は「本来殺す必要はなかった。」と述懐して鎌倉に永福寺(ようふくじ)を建てて義経と泰衡の供養に努めました。
ここから『吾妻鏡』の「秀衡の亡霊」との記述は泰衡と間違えたとしか思えません(百歩譲って秀衡が暗殺されていたとしても、助命の約束を反故にされた泰衡の方がより大きな怨霊化する資質を有する)。
もし何らかの形で頼朝サイドが秀衡殺害に絡んでいれば秀衡供養の為に何かした筈です。故に事前の戦略からも事後の供養活動からも秀衡が暗殺されたとは考え難い。
とかく源頼朝とは悪運の強い男である。池之禅尼の助命(平治の乱)、千葉常胤による隠匿(石橋山敗走時)、強敵の往生・自滅(平清盛・源義仲)…そしてそれに加えてタイミング良過ぎる秀衡の死。加えて頼朝の性格が天寿を全うした筈の秀衡を「殺された」事にしてしまう土壌を産んだと言えるでしょう。
まあ、そこまでで運を使い果たして、不可解な早死にを遂げたとも見れますし……。
|