結城秀康 (ゆうきひでやす 天正二(1574)年二月八日〜慶長一二(1607)年閏四月八日) |
容疑者 | 将軍家家中 |
得をした者 | 徳川秀忠 |
概要 「徳川家康の不遇の次男」……それが結城秀康である。
彼の母はお万の方といい、家康の正室・築山殿の侍女に家康の手がついて秀康が宿ったわけだが、嫉妬深い築山殿から守る為に半ば隠れる様にして生まれたために父との触れ合いが希薄だったのがすべての不幸の始まりであった。
小牧・長久手の戦いの後に和睦の証として人質同然に秀吉の養子となったが、実子に恵まれていなかった故に子煩悩男と化していた秀吉に思いの外可愛がられ(これは他の養子も同様)、長じて武勇を発揮し、二人の父から一文字づつ与えられて「羽柴秀康」として元服し、父に(立場上とはいえ)疎まれていた秀康も秀吉に懐いた。
結局は秀吉に実子が生まれるに及んで下野の名家・結城家に嗣子がないために二度目の養子として結城晴朝を養父と仰ぎ、皮肉にもこれをきっかけに家康とも依りを戻す事となった。
時代を経て、家康の力が台頭し、実の父からも将才を認められ、関ヶ原の戦いでは徳川勢を挟撃せんとする上杉景勝を食い止める大役を果たすと越前北ノ庄に六〇万石を拝領した。
家康の後継者とも目され、本多忠勝達の支持も得たが、二度の養子行きや、時代が創業より守勢を求めていると読んだ家康が、将器よりも律儀さが光る三男・秀忠を後継者とした。
しかしながら幼き日に等閑な扱いをした家康、兄を差し置いて将軍となった秀忠の親子が二人して秀康に何かと気を遣い、越前松平家(この時には秀康は姓を旧姓の「松平」に戻していた。但し、養父・晴朝の面倒は生涯見続けた)は御三家と同格かそれ以上の「制外の家」という別格待遇を受けた。
秀康参勤の折には秀忠は城外まで出迎え、城門をくぐる順序も兄弟で譲り合い、結局は二人同時に入城したり、自分の三女・勝姫を秀康の嫡男・忠直に娶わせて両家の結びつき強化に努めもした。
史実だけを見ると秀康存命中よりも死後の秀康遺族の動きの方が秀康の死に怪しげな影を見せている。
秀康は慶長一二(1607)年閏四月八日に享年三四歳で病死した。秀康の死に際して母・お万の方は家康の許可も得ずに剃髪した。
秀康の死の僅か二ヶ月前の慶長一二(1607)年三月五日には家康四男・松平忠吉が享年二七歳で夭折していたから、秀忠を挟んで彼にとって代わり得る二人の兄弟があいついで短期間に夭折した訳である。
この史実に対して作家の故隆慶一郎氏は露骨に秀忠による秀康暗殺を疑っている(忠吉は秀忠の同母弟のため、秀康よりは手に掛けられた可能性は低いと見ているが)。
その七年後に秀康の遺児・松平忠直は大坂冬の陣にて抜け駆けに等しい真田丸への突撃を行って家康を怒らせ、翌年の夏の陣でも家康に満座の中で「昼寝でもしてたのか?」と叱責された。と思いきや翌日には真田幸村を討ち取って勝利に貢献し、「流石はこの家康の孫じゃ。」と満座の中で褒められるという複雑な人生を送った。
しかし忠直は次第に幕命を軽んじ、最後には隠居・流罪となった。越前松平家そのものは改易こそ免れたが、「制外の家」としての家格を失い、綱吉の代には越後騒動を起こした。そしてそれらの幕府とのギスギスした関係にも秀康暗殺説の影を見る者は多い。
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死の影響 松平秀康の死によりその時点で存命していた家康の男児は秀忠(三男)・忠輝(六男)・義直(九男)・頼宣(一〇男)・頼房(一一男)で、後に改易された忠輝を別にすればほぼ後の将軍家と御三家のスタイルが整ったことになる。
年齢的にも秀忠は義直以下の弟達とは親子ほど年が離れ、名実ともに嫡男と言ってよかった。
その点から考えると秀康の死は彼を担いで秀忠政権に対抗せんとする者の野心の芽を摘み取った事になる。故人に対しては可哀想な物の見方だが、彼の死は世情の安定に貢献した面を持つ事になる。
一方で秀康の死に痛手を受けた者を考えると、豊臣秀頼が挙げられる。
幼少期に蔑ろにした実父・家康より、可愛がってくれた子煩悩な養父・秀吉を慕ったと見られる秀康は勢力の衰えた豊臣家にとって徳川との和平のための大切な艫綱だった。
秀忠の義姉が淀殿であったり、長女・千姫の嫁ぎ先が豊臣家である事も最終的には豊臣家滅亡を救い得なかったが、「制外の家」が間にあれば東西決裂がどう転んだかは激しく謎である。そして、このことが「秀康暗殺説」が囁かれる要因にもなっている。
最終的に、あからさまな因縁(例:方広寺鐘銘事件)を付けてまで開戦にこぎつけて豊臣家を滅ぼした家康・秀忠にとって、豊臣家と必要以上に親しい人間が一族の有力者にいたことはかなりの障害だったと推察される故に。
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薩摩守の見解 ズバリ、結城秀康は病死と見ています。
死の直前、彼は越前国外からの使者に会おうとしなかった(暗殺説支持派はこれも理由にしている)のですが、これは梅毒で鼻を失った異様な面相の為だったと考えられています。
また律義者・徳川秀忠が兄を暗殺したとは考えにくいと薩摩守は見ています。
勿論秀忠とて征夷大将軍として時には酷な処置も取っただろうが、改易した忠輝を殺さなかったこと、敵に回すと恐ろしい越前松平家への中途半端な措置、口では「何故秀頼に殉じなかった?!」と叱責しつつも再婚相手まで宛がった千姫への愛情を考えると律義者の彼が兄を手に掛けたとは考え難いのです。
家康死後に諸大名を容赦なく取り潰した徳川秀忠を「律儀者の仮面を被っていた冷酷者」との評も昨今見受けられますが、秀忠がそのような辣腕を振るい出したのは家康死後で、秀康逝去時にまだ二八歳の若造だった秀忠が(しかも同母弟を亡くした直後)そんな非情手段を打てたとは尚更考え難いと思います。
まして秀康・忠吉が相次いで世を去るまでもなく、その二年前に秀忠は征夷大将軍に就任し、後継者となる家光も生まれていたので、兄を殺してまで自らの地位を固める必要性は伺えません。
秀忠には律義者・恐妻家の反面、多くの大名を改易に追いやり、初陣で煮え湯を飲まされた真田昌幸の長男・信之とは生涯目を合わそうとしなかっ事などから陰湿さを見る人間もいますが、偉大な父・家康に比して「到底及ばない」と考えていた秀忠は色々な意味で二代目に徹し、守成に尽力した人間でした。その点からも幕府の屋台骨を揺るがせかねない兄殺しをするとは到底思えない訳です。
「藤原秀衡」の項でも触れましたが、暗殺とは、ターゲットに家族が残る場合、少しの疑惑を抱かせても遺族を団結させ、厄介な敵としてしまう危険性を伴います。それゆえに同様の理由で家康による秀康暗殺説にも薩摩守は否定的です。
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