第拾頁 田沼意次……「賄賂政治の代名詞」か?「重商主義の改革者」か?

名前田沼意次(たぬまおきつぐ)
生没年享保四(1719)年七月二七日〜天明八(1788)年六月二四日
寵愛してくれた主君徳川家重・徳川家治
寵愛された能力当時蔑視されていた商業に注目した経済センス
嫌った者達松平定信他多数
略歴 享保四(1719)年七月二七日、旗本・田沼意行の長男として江戸の本郷弓町の屋敷で生まれた。幼名は龍助
 父・意行は紀州藩の足軽だったが、部屋住み時代の徳川吉宗の側近に登用され、吉宗が第八代将軍となると幕臣となるとともに小身旗本となった、と云う典型的な「主君の出世に伴って出世した男」だった。
 その意行の子に生まれた意次は第九代将軍となる徳川家重の西丸小姓として抜擢され、享保二〇(1735)年に一七歳で家督と六〇〇石を継いだ。

 宝暦一一(1760)年、病に伏した家重は将軍職を嫡男・家治に譲って隠居。その際に家重家治意次を重用する旨を助言(と云うかほとんど遺言)した(家重は翌宝暦一二(1761)年逝去)。
 家重に続いて一〇代将軍となった徳川家治意次に対する信任も厚く、破竹の勢いで昇進し、二万石の相良城主となった。最終的には安永元(1772)年、五万七〇〇〇石の相良藩主兼老中となった。

 権力の座に就いた意次は老中首座である松平武元等とともに悪化する幕府の財政赤字を食い止めるべく、重商主義政策を採った。
 内容は株仲間の結成、銅座などの専売制の実施、鉱山の開発、蝦夷地の開発計画、俵物などの専売による外国との貿易の拡大、下総印旛沼の干拓に着手する等の政策を実施した。
 その結果、幕府の財政は改善に向かい、景気も良くなった。しかし、社会の初期資本主義化によって、町人・役人の生活が金銭中心のものとなり、そのために贈収賄が横行した。
 また、都市部で町人の文化が発展する一方、益の薄い農業で困窮した農民が田畑を放棄し、都市部へ流れ込んだために農村の荒廃が生じた。
 印旛沼運河工事の失敗や明和の大火浅間山の大噴火などの災害の勃発、疲弊した農村部に天明の大飢饉と呼ばれる食糧難や疫病が生じた。
 意次は対策を打ち出すが、失敗して逆に事態は悪化。その中にあって財政難に陥っていた諸藩は米価の値上がりを借金返済の機会とし、検地により年貢の取立てを厳しくしていった。
 このような世相の中、都市部の治安の悪化、一揆・打ちこわしの激化、江戸商人への権益を図り過ぎたことを理由に贈収賄疑惑を流されたことにより、次第に田沼政治への批判が集まっていった。

 外国との貿易を黒字化させて国内の金保有量を高め、さらには北方においてロシア帝国との貿易も行おうとしていたほか、平賀源内などと親交を持ち、蘭学を手厚く保護し、士農工商の別にとらわれない実力主義に基づく人材登用も試みたが、これらの急激な改革が身分制度や朱子学を重視する保守的な幕府閣僚の反発を買った。

 斬新な政策を次々と打ち出す一方で、抵抗勢力の反発、天災といった生涯の中で成功と失敗を繰り返す中、意次の石高と地位は上がり続け、それに対する妬みも手伝って、反対派の反発は益々高まったのだった。



主君の寵愛 とにかく尋常じゃない出世振りである。
 田沼意次の出世を簡単に見る為にまずは下記の表を参照頂きたい。
田沼意次の出世
年齢出世内容
享保一九(1734)年一六歳徳川家重の小姓となる。
元文二(1737)年一九歳従五位下主殿頭に叙任。
延享四(1747)年二九歳小姓組番頭格。
寛延元(1748)年三〇歳小姓組番頭、奥勤兼務に異動。一四〇〇石加増(知行二〇〇〇石)。
宝暦元(1751)年三三歳御側御用取次側衆に異動。
宝暦五(1755)年三七歳石高三〇〇〇石加増(知行五〇〇〇石)。
宝暦八(1758)年四〇歳評定所への出席を命じられ、美濃郡上一揆の審理に当たる。遠江相良に領地を与えられる。石高五〇〇〇石加増(知行一万石で大名に)。
宝暦一二(1762)年四四歳石高五〇〇〇石加増(知行一万五〇〇〇石)。
明和四(1767)年四九歳側用人に異動。従四位下に昇叙。石高五〇〇〇石加増(知行二万石)。
明和六(1769)年八月一八日五一歳老中格に異動し、側用人と侍従を兼任。石高五〇〇〇石加増(知行二万五〇〇〇石)。
明和九(1772)年五四歳老中に異動。石高五〇〇〇石加増(知行三万石)。
安永六(1777)年五九歳石高七〇〇〇石加増(知行三万七〇〇〇石)。
天明元(1781)年六三歳石高一万石加増(知行四万七〇〇〇石)。嫡男・意知、奏者番になる。
天明五(1785)年六七歳石高一万石加増(知行五万七〇〇〇石)。

 この出世振りは石高で見ると一〇回の加増で六〇〇石の旗本から五万七〇〇〇石の大名に昇進するという九五倍増(大名に例えるなら最低ランクの一万石から加賀前田家一〇〇万石に次ぐこくだかにしゅっせしたことになる)で、幕府内の地位で見ても側用人から老中になったのは初めてのことだった(柳沢吉保は大老格になっているが、始まりが上州館林藩士としてそれなりの地位にあった)人物となった。
 多少のばらつきはあるが、ほぼ三〜四年ごとに出世するのが失脚直前まで続いているから尋常ではない。
 また意次の加増は順次加増のため、遠州相良の地その都度都合のいい土地が空いていた訳ではなかったので、分散知行で、その領国は遠江、駿河、下総、相模、三河、和泉、河内の七ヶ国一四郡に渡った。

 何故にここまでの出世が出来たのだろうか?
 無論、これには徳川家重徳川家治の二代による寵愛が有った。昨今見直されつつあるが、家重家治親子は決して馬鹿ではない。むしろ聡明であった(能や将棋と云った趣味の世界ではかなりの才を発揮している)。惜しむらくは両名が政治に対して余り積極的ではなかったことだが、そのことは直には関係なのでこの辺で止め置く。
 とにかく、言語不明瞭で、政治に関心を見せなかった家重だが、「人に任せて余計な口を挟まない。」と云う体制が功を奏したものか、彼の治世は大過なく時が流れた。そしてそんな体制を基本としていたためか、「人を見る目」はあった様で、彼の選人眼に適ったのが、田沼意次であり、大岡忠光であった。

 大岡忠光は言語不明瞭な家重の言をただ一人理解すると云う「特殊能力」を持っていて家重に信頼され、過去評判の悪かった側用人になった為、意次と並んで腰巾着のイメージが強いが、その能力は本物で、海外での評価も高かった(決して驕りたかぶらず、人に寛大で、四年しか藩主を務めなかった岩崎藩主としての評判も良かった)。
 また家重から意次を重用するよう云われた家治も、政治的には然したる高名を聞かないが、才能的には幼少の頃より文武に優れ、彼の才を見た吉宗は、不安ありまくりの家重廃嫡を見送ったと云われている(家重が無能だったとしても、いつかは嫡孫家治が将軍となれば幕府は安泰と見たのである)

 意次にはそんな二人の将軍の期待に応えようと云う気概が有ったのだろう。彼の政策(詳細は下記の「実像と評価」に詳述)はすべてが上手く行った訳ではないし、その都度反発や反対派相次いだが、それでも意次はそれまで祖法に捉われて誰も着手しようとしなかったことに挑み、徳川家治が危篤に陥るまでは決して降格することはなかった。
 これには「家治意次を信頼していた。」とも云えるし、「家治意次に完全に政治を丸投げしていた。」とも云えるし、「家治家重の助言を重んじていた。」とも云えるし、すべてが当てはまるだろう。

 「君側の奸」と呼ばれる成り上がり者の中には、純粋に自らの能力で成り上がる者もいるし、大して能力もないのに主君の寵愛に引き立てられて成り上がる者もいる。意次にはその双方が有ったことは間違いない。



末路 田沼意次の権勢における翳り天明四(1784)年に息子で若年寄の田沼意知が江戸城内で佐野政言に暗殺されたことを契機として始まった。

 追い打ちを掛ける様に天明六(1786)年八月二五日、将軍家治が死去。死の直前から「家治の勘気を被った」としてその周辺から遠ざけられていた意次は、将軍の死が秘せられていた間に失脚するが、この動きには反田沼派や一橋家(徳川治済)の策謀があったともされる。
 八月二七日、家治の死を伏せられたまま意次は老中を辞任させられ、雁間詰に降格となった。
 閏一〇月五日には家治時代の加増分の二万石と、大坂にある蔵屋敷の財産を没収され、江戸屋敷の明け渡しも命じられた。
 更には意次は蟄居を命じられ、二度目の減封を受けた。相良城は打ち壊し、城内に備蓄されていた金銭・穀物は没収、と徹底的に処罰された。

 これはもう罪人に対する処罰と何ら変わることはなかった。近くは「君側の奸」と見られた柳沢吉保や間部詮房・新井白石も後ろ盾となった主君の死とともに失脚したが、大権力者としての地位は失ったものの、石高や財産まで失った訳ではなかった。

 そんな失意の日々を送ること二年後、天明八(1788)年六月二四日、意次は江戸で病死した。田沼意次享年七〇歳。
 田沼家は孫の龍助が陸奥一万石に減転封の上で辛うじて大名としての家督を継ぐことを許された(殺された意知以外の息子達はすべて養子に出されていた)。



評価と実像 田沼意次は長く、「賄賂政治の代表選手」の様に云われて来た。彼自身がかなりの収賄を行い、彼の重商主義政策が貨幣経済を発達させた上でその悪しき面としての贈収賄横行が顕著化したことは否めないし、庇う気もない。
 勿論、古今東西所謂『賄賂政治家』は意次一人ではないが、「先生「田沼、お前なんであんなことやったんや?」 生徒「柳沢君がやったからです…。」 先生「ほな、柳沢が死んだらお前も死ぬんか?!」」という掛け合い漫才的云い訳も通じないだろう。まあ、現代の政治家に田沼意次を声高に非難出来る奴がいたらお目に掛りたいが

 ただ一応、賄賂について一点触れておくと、贈賄側がいて収賄側が存在すると云うことを見落としてはならない。意次の出世を妬み、陰口を叩きながら賄賂を送ったものは数多くいただろう。何せ、あの松平定信が賄賂を送ったことを日記に残しているのだから。
 勿論、喜んで送ったものではなく、渋々ではあったが、両者の関係で贈収賄が行われてたいた賄賂横行状況からして、当時の賄賂に関する病根は相当根深かったことが伺え、少なくとも全面的に意次のせいにするのは少々酷である。


 それゆえここでは「賄賂政治家」としての田沼意次は余り重視せず、意次がどのような政策を行おうとした人物で、どんな成果・失敗・反対があったかと、後世の評価を紹介したい。

 まず政策だが、一言で云えば「重商主義」である。米価の安定とやりくりに苦労した八代将軍吉宗を見て来た意次は従来の「重農主義」に限界を感じていた(豊作でも凶作でも武士は苦しむことになるのだ)。
 ゆえに意次は商業の奨励を基本としたが、朱子学を官学とし、その思想に染まっていた保守派は「士農工商」の最下位にある商業を蔑視し、それを重視する経済政策に反発したのが基本構図となる。

 まずは意次がやろうとした政策としては下表を参考頂きたい

田沼意次の採った政策(個人的な物も含む)
政策内容
平賀源内への援助 発明家として有名だった平賀源内のことを意次は大変気に入っていた。源内の才を伸ばす為、彼をオランダ商人のいる出島に(自身のポケットマネーで!)遊学させた。後に源内が殺人事件を起こしてしまったため、意次は彼との繋がりを全面的に否定。もしこの事件が無ければ意次は後述の蝦夷地開発の責任者を源内に任じていた、とも云われている。
貨幣経済振興 郡上一揆の裁定に従事し、それ以前に米相場の乱高下に頭を悩ます先々代吉宗を身近で見ていた意次は市中に流れる貨幣の流通速度をコントロールして経済を活性化し、そして商人に対する課税によって幕府の財政を健全化させようとしたと云われている。
 つまりは景気を刺激し、内需を拡大し、その結果利を得た商人に課税しようと考えたのである。そのため、広く人材や献策を取り入れるなか、怪しい人物やコネを求めて賄賂が横行すると云うマイナス面が目立ったが、重税を課すような苛政ではなく、民衆を富ませた上で、結果としての増収を図ったのは現代からみてもかなりの仁政である
 実際に、意次在任中の幕府への貨幣収入は増大した。
蝦夷地開発 仙台藩医の工藤平助が『赤蝦夷風説考』を天明三(1783)年に献上され、ロシア脅威論と蝦夷地の開発を重視するようになったことで蝦夷地調査団を編成。
 青島俊蔵、最上徳内、大石逸平、庵原弥六等がそのメンバーで、調査開発をすすめる事務方も充実させ、潤沢な資金を注ぎ込んだが、余り良い結果は出せず。
 意次失脚後、松平定信によって蝦夷地開発は中止され、関係者は厳罰となったが、程なく蝦夷地近海に頻繁に現われるロシア艦船に不安を感じた幕閣は意次の調査を元に、蝦夷地の天領化、北方警備に取り組み始めたのだからゲンキンなものである。
相良藩での藩政 自身は江戸定府で幕府内に常勤していたので、国元の藩政に関しては城代・国家老などの藩政担当家臣を国元に配置。町方と村方の統治を明確化し、築城、城下町の改造、後に田沼街道(相良街道)と呼ばれる東海道藤枝宿から相良に至る分岐路の街道整備、相良港の整備、助成金を出して(相良で起こった大火の後に)藁葺きの家をことごとく瓦焼きを奨励して防火対策とするなどのインフラに力を注いだ。
 郡上一揆での調査・裁定経験を重んじて家訓で年貢増徴を戒めていたので、年貢が軽さを領民からは喜ばれた。
 また養蚕や櫨栽培の奨励、製塩業の助成、食糧の備蓄制度も整備して藩政を安定させた。一国の藩主としては全く問題なく、しかもこれを間接指導で為した手腕は高く評価出来る。


 世の中には多元的な見方があり、一つの価値観が押し付けられた独裁体制下にない限り賛否両論があって当たり前である。それでも意次が散々にこき下ろされ、悪徳政治家や「君側の奸」として(確かにそのような側面があるにせよ)丸で代表選手の様に史上に叩かれるのは、意次の「過去・現在・未来」を通じて常に彼をボロクソにけなす者達が最悪のタイミングで現れたことにあろう。
 「過去」で云えば、家重の代からの異例の昇進への妬みにあり、「現在」で云えば、彼が権勢を誇る中、贈賄資金捻出にきゅうきゅうとする者や彼の革新的な政策で過去の栄光を奪われた守旧派の怨み・反発があり、「未来」で云えば失脚した意次に対する後出しジャンケン的且つ苛斂誅求を極めた弾劾である。

 殊に朱子学徒(つまり商より農を重んじる守旧派)で、吉宗の孫として一時は将軍候補になりかけた松平定信による意次への仕打ちはひどいものがあり、意次失脚後に彼の政策をことごとく否定したのは松平定信によるものである。
 一説よると、定信は意次の讒言で自分が将軍職を継げないどころか、白河藩の藩主と云う立場に「左遷」されたと思っていたので恨み骨髄だったと云う。
 それが史実だったかどうかは薩摩守には分からないが、そう云われて「なるほど」と云いたくなるほど定信が意次を嫌い抜いたのは史実である。

 だからと云って、松平定信が単なる讒言者かと云うとそんなことはない。昨今、田沼意次が見直されるに連れ、それに反比例するように定信がこき下ろされる傾向にある(←特に井沢元彦氏によるそれはかなりくどい)が、定信は少々(否、相当)頭が固かったものの、真剣に世の中を良くしようとしていたし、意次の後釜となったのも、天明の大飢饉に際して出来る限りの手を打って、被害の大きかった東北地方でありながら藩内に一人の餓死者も出さなかった手腕を買われればこそである。

 また松平定信が譜代・親藩による寛政の改革においていも、水野忠成・田沼意正(意次の四男)等によって一時見直されたこともあった(大御所家斉の浪費が効果を帳消しにした(苦笑))。
 結果、定信の祖法(重農主義・商業蔑視・鎖国重視)に徹し、着物の柄まで制限するほどの質素倹約に徹した政策は世の中を窮屈なものにした。いつの時代でもそうだが、真面目過ぎる人間は憎まれはしないが、煙たがられるものである(特に同僚や目下からは)。
 そんな江戸町民の気持ちを詠った狂歌が有名な下記ものである。

 白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき
 白河の清き流れに魚住まず 濁れる田沼今ぞ恋しき

 白河は松平定信が藩主を務めた地で、清らか過ぎる川の流れには(天敵から身を隠せないので)帰って魚が住まず、濁った水が求められるように、田沼時代を懐かしむ意である。

 ともあれ、意次の悪評はその後も続いたが、前述の狂歌を始め、彼を認める声もまた細々と続いていた。最後に下記の表に意次を評価した近代の声をまとめてこの項を締めたい。

田沼意次を評価した声
評価者評価内容
川路聖謨(幕末の外国奉行)「よほどの豪傑」「正直の豪傑」であったと評した。
辻善之助(大正から昭和にかけての歴史学者)『田沼時代』を大正六(1917)年に著し、政策の進歩性などについて大きく評価。意次が開明的政治家としての再評価を高める契機を作った。
大石慎三郎(大河ドラマの時代考証にも尽力した歴史学者)「賄賂政治家」という悪評は反対派によって政治的に作られていったとしている。
ジョン・ホイットニー・ホール(日本研究者) ハーバード大学院在学中に「Tanuma Okitsugu」において「意次は近代日本の先駆者」と評価した。



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令和三(2021)年六月三日 最終更新