第拾壱頁 鈴木貫太郎……「君側の忠」or「君側の奸」

名前鈴木貫太郎(すずきかんたろう)
生没年慶応三(1868)年一月一八日〜昭和二三(1948)年四月一七日
寵愛してくれた主君昭和天皇
寵愛された能力実直で懐が深く、「敵」からも認められた人柄
嫌った者達磯部浅一等、陸軍青年将校
略歴 江戸時代も最末期であった慶応三(1868)年一月一八日、関宿(せきやど)藩士にして代官の鈴木由哲と妻のきよの長男として鈴木貫太郎は和泉大鳥郡伏尾新田(現:大阪府堺市中区伏尾)に生まれた。鈴木家が仕官する関宿藩は下総関宿(現:千葉県野田市)にあるが、和泉鳳郡は関宿藩の飛び地だった。
 物心つく頃には時代は明治に移り、明治四(1871)年、鈴木家は関宿藩の本拠である千葉県東葛飾郡関宿町(現:野田市)に居を移し、明治一〇(1877)年に群馬県前橋市に転居したことで、貫太郎は厩橋学校、前橋中学に学んだ。
 中学校卒業後、東京府品川の攻玉社を経て、明治一七(1884)年に海軍兵学校に一四期生として入学し、海軍軍人としての道を歩んだ。

 一〇年後の明治二七(1894)年、日清戦争が勃発し、これに従軍。戦後、明治三一(1898)年に海軍大学校を卒業した。
 だが、薩長出身者が幅を利かしていた当時、海軍においては旧薩摩藩出身者が優遇され、貫太郎のような旧幕府系の者は進級が遅かった。そのため、ドイツ駐在中の明治三六(1903)年、貫太郎は海軍の露骨な差別にうんざりして辞めようとしたが、父からの「日露関係が緊迫してきた、今こそ国家のためにご奉公せよ」という手紙をうけて辞職を思い留まった。
 程なく、父が危惧した通り、ロシアとの戦いが不可避となり、日本海軍はその三ヶ月前に対ロシア戦のためにアルゼンチンの発注でイタリアにおいて建造され竣工間近であった装甲巡洋艦を急遽購入し、「春日」と命名すると貫太郎を回航委員長に命じた。

 「春日」に乗艦し、貫太郎が日本に近付いていた明治三七(1904)年二月八日、日本軍が旅順港にいたロシア艦隊に攻撃を仕掛けて日露戦争が勃発。貫太郎は日本に到着するや「春日」の副長に任命され、黄海海戦にも参加した。
 翌明治三八(1905)年一月、第四駆逐隊司令となると持論である高速近距離射法を実現するために猛訓練を行い、部下からは「鬼の貫太郎」「鬼の艇長」「鬼貫」等と綽名された。
 その成果もあってか、自らの駆逐隊で敵旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」、戦艦「ナヴァリン 」、「シソイ・ヴェリキィー」に魚雷を命中させるなどの大戦果を挙げ、日本海海戦の大勝利にも貢献した。

 日露戦争後の三七歳の鈴木貫太郎は海軍大学校の教官となり、駆逐艦、水雷艇射法について誤差猶予論、また軍艦射法について射界論を説き、海軍水雷術の発展に理論的にも貢献した。
 大正三(1914)年、海軍次官となり、シーメンス事件(ドイツのメーカー・シーメンスから日本海軍高官への贈賄が行われた疑獄事件。山本権兵衛内閣が総辞職することになった)の事後処理を担当。大正一二(1923)年に海軍大将、大正一三(1924)年に連合艦隊司令長官に、翌大正一四(1925)年に海軍軍令部長に就任、と海軍重鎮としての大正時代を過ごした。

 そのまま行けば一流軍人として余生を全うする筈だったが、時代が昭和に入ると、還暦を迎え、予備役となった貫太郎に昭和四(1929)年に昭和天皇と貞明皇后が強く希望し、侍従長に就任した。
 それは寵愛と斜陽の両面を一度に背負い込むと云う奇妙な運命の変遷だった。



主君の寵愛 鈴木貫太郎が侍従長の任を拝命したとき、昭和天皇は二八歳、貫太郎は六一歳だった。「侍従」とは高貴な人の身の回りの世話をするもので、「侍従長」とはその監督役だから、別段彼が甲斐甲斐しく昭和天皇の身の回りの世話をする必要はなく、実際彼は職務の大半を宮中での経験豊富な侍従に委ねた。
 つまるところ貫太郎に求められたのは、いざという時の差配、昭和天皇の「相談役」・「重要時の同伴」で、そして「君側の忠」といえる人物として侍ることで、この体制は功を奏し、貫太郎「大侍従長」とまで呼ばれた。

 当初、貫太郎は侍従長就任に乗り気ではなかった。そもそも彼には「軍人は政治に関与すべからず」との信念があった。これは明治天皇の台詞でもあり、同じ信念を持つ軍人は少なくなかったが、シーメンス事件に辟易していた貫太郎は海軍次官を引き受ける際にも「酒の席で政治の話をしない。」ということを条件にする程だった。
 また、侍従長の地位は海軍軍令部長よりも宮中席次にしてかなり格下で、普通に考えるなら「左遷」と云えななくもなかった。
 だが、昭和天皇から「たっての願い」と云われては「席次の低さで名誉ある職を断った」と人々に思われたくなかったこともなって、これを拝命した。

 貫太郎の妻・たかは独身時代に皇孫養育係として幼少の昭和天皇の教育係を務めてもいたので、昭和天皇は侍従長を務める貫太郎に「たかは、どうしておる?」、「たかのことは、母のように思っている。」と、語ったと云う。夫婦で主君に愛でられた者も珍しいものである。

 そんな侍従長時代を過ごすこと七年、貫太郎「君側の忠」として昭和天皇の厚い信任を得た一方で、国家主義者・青年将校たちからは牧野伸顕(大久保利通の子で、様々な内閣で諸大臣を歴任)と並ぶ「君側の奸」と見做され命を狙われることたなった。

 昭和一一(1936)年二月二六日、実際に鈴木貫太郎の命が文字通り危機に瀕する日が来た。所謂二・二六事件である。
 麹町三番町の侍従長官邸に同日午前五時頃、陸軍大尉安藤輝三の指揮する一隊が襲撃した。
 千葉県野田市にある「鈴木貫太郎記念館」にはこのときのことが絵画で残され、後述する妻・たかの事件当時の台詞とともに詳細に残されている。

 (以下、たかの回想)
下士官:「閣下でありますか?」

貫太郎:「ああ、そうだ。私は鈴木だ。何事が起こってこんな騒ぎをしているのか?話したらいいじゃないか。」(←特撮房シルバータイタン「五・一五事件の時の犬養毅みたいだな。」)

陸軍兵達:「………………………。」

軍曹:「暇がありませんから撃ちます。」(←楽曲房ダンエモン「「暇がありませんから」ってアンタ………。」)

貫太郎:「じゃあ撃て。」(←法倫房リトルボギー「容認するなよ。」)

(下士官が兵士達に発砲を命じ、弾丸四発が発射され、内三発を貫太郎被弾。命中部位は左脚付根、左胸、左頭部だった。そこに安藤輝三が現れた)

下士官:「中隊長殿、とどめを!」

安藤:「…………(無言のまま血の海に横たわる貫太郎にとどめを刺さんとして軍刀を抜く)」

たか:「(兵士に取り押さえられた状態で)お待ち下さい!!老人ですからとどめは止めて下さい!どうしても必要というなら私が致します!」

安藤:「(軍刀を収めて)とどめは残酷だからよせ。皆、鈴木貫太郎閣下に敬礼せよ!」

(隊員一同敬礼)

安藤:「奥さんですか?」(←シルバータイタン「状況から分かるだろ?」)

たか:「そうです。何事が起こってこんなことになりましたか?」

安藤:「閣下の考えていることと、我々躍進日本を志している若い者とは意見の相違です。誠にお気の毒なことを致しました。我々は閣下に対しては何の恨みもありませんが、国家改造の為に止むを得ずこうした行動を取ったのであります。」(と告げて、鈴木家の女中にも自分は後に自決をする意を述べた後、兵士を引き連れて官邸を撤収)



 勿論これは貫太郎が助かる可能性を少しでも保持せんとしたたかの機転で、反乱部隊が去った後、貫太郎は自分で起き上がると「もう賊は逃げたかい?」と尋ねた(←薩摩守「逃げてないって。」)。
 たかは止血の処置をとってから宮内大臣の湯浅倉平に電話をかけて事件を急報。湯浅は医師の手配をしてから駆けつけた。この時点での貫太郎の意識ははっきりしており、湯浅に「私は大丈夫です。ご安心下さるよう、お上(天皇陛下)に申し上げて下さい」と云ったと云うが、撃たれた部位と云い、「駆けつけた医師がその血で転んだ」という風説を生んだ出血量と云い、実際の所、貫太郎の受けた傷はとんでもない重傷で、声を出すたびに傷口から血が溢れ出ていた。
 たかは近所に住んでいた帝国大学の塩田広重医師とともに貫太郎を円タクに押し込み日本医科大学飯田町病院に運んだが、その途中で貫太郎は意識を喪失、心臓も停止した。
 直ちに蘇生処置が施され、枕元ではたかが必死の思いで呼びかけたところ、奇跡的に息を吹き返した。頭と心臓を撃たれたら普通は生きてはいられない(だからこそ安藤達も騙された)のだが、胸部の弾丸が心臓を僅かに外れたことと、頭部に入った弾丸が貫通して耳の後ろから出たことが幸いし、貫太郎は一命を取り留めた。時に鈴木貫太郎六八歳。

 世のどんな戦争でも、クーデターでも、テロでも、「一応」は正義・大義名分を振りかざす(←本当に「正義」と信じ切っているケースも少なくないから厄介だ)。その折に「「君側の奸」を除く」はよく云われることで、「天皇親政の昭和維新」を目指す二・二六事件もまた同じスローガンを掲げていた。
 その為、この事件では貫太郎以外にも、総理大臣・岡田啓介(警備役警察官の応戦中に難を逃れたが、容貌の似ていた義弟・松尾伝蔵大佐が殺された)、大蔵大臣・高橋是清(殺害)、内大臣・斎藤實(殺害)、教育統監・渡辺錠太郎(殺害。憲兵応戦せず)、前内大臣・牧野伸顕(孫娘の機転で難を逃れた)、内務大臣・後藤文夫(外出中で難を逃れた)等がある者は「君側の奸」として、またある者は「陸軍・皇道派の敵」として襲撃された。
 他にも警備役の警察官五名(総理官邸警備役四名・牧野伸顕警備役一名)、鎮圧に当たった歩兵六名が殉職した。

 だが青年将校が錦の御旗とした昭和天皇は長年信頼していた重臣達を何人も虐殺された事態に、

「朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは、真綿にて朕が首を締むるに等しき行為なり!!」
 と云って大激怒。
 侍従武官長・本庄繁が、決起した将校の精神だけでも認めて欲しい、と奏上しても耳を貸さず、「即刻鎮圧せよ!」「朕自ら鎮圧に出る!」と次々と怒りの声を挙げた。
 余談だが、昭和六四(1989)年一月七日に昭和天皇が崩御あらせられ、数日間昭和天皇の人生を振り返る記事が新聞紙面を占めた際に、読売新聞のある頁の見出しに「即刻鎮圧せよ!」と云うものがあった。
 記事の詳細までは覚えていないが、恐らくは昭和天皇の人柄からも陛下の人生における最大の激怒だったからではあるまいか?その大激怒に、鈴木貫太郎等が瀕死の重傷を負わさせられたことへの怒りが含まれているのは想像に難くない。

 ともあれ、有名な、「勅命下る軍旗に手向かふな」のアドバルーンが揚がり、「下士官兵ニ告グ 一、今カラデモ遅クナイカラ原隊ニ歸レ ニ、抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル 三、オ前達ノ父母、兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ」のビラが撒かれ、事件は四日目にして終結した。

 たかを始めとする周囲の尽力で一命を取り留めた貫太郎は侍従長の職を退いたが、昭和天皇の彼への信頼・寵愛は些かも揺るがず、そのことが彼を物凄く意外な表舞台に導くこととなった。



末路 「末路」といっても、単なる鈴木貫太郎の失脚を意味するものではない。二・二六事件の時点で既に六八歳だった貫太郎はそのまますべての公務から引退していておかしくなかったが、それでも枢密院に務め、陰に昭和天皇を支えていたが、そんな彼の最後の出番と共に大日本帝国もまた「末路」を迎えていた。
 だがそれは単なる「失脚」や「滅亡」とは全く異なる、「信頼」に溢れつつも決して「華やか」なものではなかった。

 それは、所謂「終戦工作」である。
 鈴木貫太郎は昭和一五(1940)年に枢密院副議長、昭和一九年に枢密院議長に就任していて、昭和二〇(1945)年四月、戦況悪化の責任を取って総辞職した小磯國昭内閣の後継を決める重臣会議に出席した。
 「重臣会議」とは総理経験者と内大臣と枢密院議長を「重心」=「構成メンバー」として行われる臨時会議であった。

 この時点で既に日中戦争並びにそれに続く太平洋戦争第二次世界大戦の戦局は劣悪を極めていた(同盟国イタリアは降伏しており、ドイツも降伏寸前に追い込まれており、制空権・制海権はとっくに喪失し、連日日本各地が空襲に曝され、沖縄にまで攻め込まれ、ソ連は日ソ中立条約の不延長を宣告して来ていた)。
 現代において、「どうせ誰が総理大臣になっても変わらない…。」と云う言葉は度々囁かれるが、当時も「誰が総理になったとしても戦局を打開できる状況にない。」という状態にあった。
 そんな中、重臣会議にて、次期総理に若槻禮次郎、近衛文麿、岡田啓介、平沼騏一郎等の首相経験者達は貫太郎を推した。貫太郎は驚いて「とんでもない話だ!お断りする!」といって固辞したが、既に重臣達は戦争を終わらせる為には昭和天皇の信任が厚い貫太郎しかいない、とみてその根回しが行われていた。
 首相経験者の中ではただ一人、東條英機のみ「陸軍が本土防衛の主体である」との理由で元帥陸軍大将・畑俊六を推し、「陸軍以外の者が総理になれば、陸軍がそっぽを向く恐れがある」と高圧的な態度を取ったが、岡田啓介に「陛下のご命令で組閣をする者に『そっぽを向く』とは何たることか。陸軍がそんなことでは戦いが上手く行く筈がないではないか?」と云われ、反論出来なかった(←「カミソリ」と云われた東条もこの頃には錆びついていたようだ)。
 かくして重臣会議は鈴木貫太郎を後継首班にすることが決定された。
 これを受けて昭和天皇貫太郎を呼び、組閣の大命を下したが、それでも貫太郎は侍従長就任時以上に乗り気ではなかった。
 というのも、前述した様に、貫太郎には「軍人は政治に関与せざるべし」という信念があり、七七歳という高齢(←実際、平成二七年現在から見ても歴代最年長の総理就任である)でもあり、耳も遠くなっていたこと等からあくまで辞退の言葉を繰り返したが、昭和天皇鈴木の心境はよくわかる。しかし、この重大なときにあたって、もう他に人はいない。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」と告げた。

 さすがに昭和天皇からこうまで云われ、貞明皇太后(昭和天皇母・大正天皇皇后)にまで「どうか陛下の親代わりになって。」と云われてはそれ以上の辞退もならず、昭和二〇(1945)年四月七日、鈴木貫太郎内閣が成立した。
 貫太郎「非国会議員」「江戸時代生まれ」「戦時中」という三点において「最後の総理大臣」となった。

 メディアに「最後のご奉公」と称して国政に挑んだ貫太郎の重大任務は勿論終戦工作である。国民感情や世論とは裏腹に政治家の誰も戦争に勝てると思っていなかった。だから「戦争を終わらせる」ということは非常に難しい問題だった。

 同年六月六日、最高戦争指導会議に提出された内閣総合企画局作成の『国力の現状』では、資材・燃料・施設・人員・輸送手段のいずれの面からも戦争継続は不可能に等しいとの状況認識が示された(←それでも本土決戦との整合を持たせるために「敢闘精神の不足を補えば継戦は可能」と結論づけられたのだから狂っている)。
 二日後の六月八日、御前会議で戦争目的を「国体護持」とした「戦争指導大綱」が決定。この日の重臣会議で貫太郎は「徹底抗戦で利かなければ死あるのみだ」と叫び、テーブルを叩くという強硬姿勢を示したが、これは戦争継続派に対するカムフラージュを目的としたパフォーマンスと見られている。


 六月二二日、木戸幸一(内大臣)と米内光政(海軍大臣)の提言で御前会議にてソビエト連邦(日ソ中立条約の延長を拒否したが、翌年春までは効力を持っており、国交は断絶されておらず、東京に在日ソ連大使館もあった)に米英との講和の仲介を働きかけることが決定された。
 だが、まあ……歴史の結果を後から知っている身としては、仲介を依頼した相手があのスターリンだったと云うのは…………何ともやるせない気分である。
 勿論ソ連並びにスターリンに仲介の意など更々なく、ポツダム会談にてアメリカ大統領・トルーマン大統領に、日本から終戦の仲介依頼があったことをあっさり明かし、「日本人をぐっすり眠らせておくのが望ましい」ため「ソ連の斡旋に脈があると信じさせるのがよい」と提案し、トルーマンもこれに同意する始末だったから、今は亡き下唇の分厚いコメディアンの台詞を借りるなら「ダメだこりゃ。」だった。

 七月に陸軍将校の案内で、迫水久常(内閣書記官長)とともに国民義勇戦闘隊に支給される武器の展示を見学した際に、その武器が鉄片を弾丸とする先込め単発銃、竹槍、弓、刺又であったのを見て、迫水に「陸軍の連中は、これらの兵器を、本気で国民義勇戦闘隊に使わせようと思っているのだろうか。私は狂気の沙汰だと思った。」と呟いて呆れかえった。

 七月二六日、アメリカ合衆国大統領(トルーマン)、イギリス首相(チャーチル)、中華民国主席(蒋介石)の名において大日本帝国に対し、ポツダム宣言が発せられた。
 翌二七日未明、外務省経由で宣言の内容を知った政府は、直ちに最高戦争指導会議及び閣議を開き、その対応について協議。東郷茂徳外相の意見により、暫くこれに対して明確な意見を表示せず、状況の推移を見送りながら、対ソ和解仲介交渉を進め、ソ連の出方を見た上措置を取る、との合意がなされた。
 だが、些細な食い違いの為に貫太郎にとって、スターリンを信頼したことに匹敵する不覚となった。翌二八日付けの各紙朝刊は、政府のこの姿勢をポツダム宣言への「黙殺」と報じた。
 更に継戦派の梅津美治郎(陸軍参謀総長)、阿南惟幾(陸軍大臣)、豊田副武(陸軍軍令部総長)等の圧力もあり、同日午後に行われた記者会見にて、貫太郎が「共同聲明はカイロ会談の焼直しと思ふ、政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、断固戰争完遂に邁進する。」というコメントを述べたことも裏目に出た。
 貫太郎は「ノーコメント」という意図で「黙殺」としたのだったが、翌日新聞各紙は「黙殺」という言葉を大きく取り上げ、このことが連合国側に「ポツダム宣言は強固に拒否された。」と映り、このことを貫太郎は生涯悔いていたと云う。

 そして七月末、アメリカは八月三日以降の原子爆弾投下を決定。八月六日、広島に原子爆弾が投下され、広島は地獄絵図と化した。そして事ここに至って貫太郎を始めとする政府首脳は、細部に意見の相違を持ちつつも、「ポツダム宣言受諾やむなし」の共通認識を持つに至った。

 そして八月九日午前一一時、皇居地下の防空壕にあったポツダム宣言受諾を巡る緊急会議が貫太郎、阿南、梅津、米内、東郷、豊田の六名にて開かれた。前述した様に六名は「ポツダム宣言受諾やむなし」の共通認識を持ってはいたが、その条件について会議は紛糾した。この宣言の第一三条にある文言から、この終戦は良く「無条件降伏」と呼ばれるが、本当に何の条件も示さず、敵の云うがままを受け入れたとしたら、無責任を通り越してホンマ物の阿呆でしかない
 「無条件降伏」ではあっても、相手の付き付けて来た条件を精査し、何処までを受け入れるか決めた上で受諾するのは当然で、会議は受諾条件の数でもめにもめた。

 会議参加者の全員が、「受諾止む無し」と「国体護持の条件は譲れない」という点に関しては一致していた。だが、阿南・梅津は「国体護持」の為にも「占領は短期間且つ限定的」・「武装解除は日本人の手で」・「戦犯の処罰は日本人の手で」の三条件も併せて要求すべし、と主張した。
それに対し、東郷等は「条件を多く付き付け過ぎては交渉が決裂する恐れがあるから一条件で耐えるべき。」と主張し、「一条件提示」と「四条件提示」の対立で議論は平行線を辿った。

 会議直前にソ連が中立条約を無視して攻め込んでくるわ、開会直後に長崎に原爆が投下されるわ、と事態は一刻の猶予もならないのに意見は一致せず、議長の貫太郎は午後二時三〇分に議論の場を臨時閣議に移したが、それでも決定には至らなかった(結局と東郷と阿南の対立が続いただけでしかなかった)。

 実際の所、ポツダム宣言受諾最大の懸念材料は「陸軍の暴走」だった。様々な立場の者達が勝機が無いと見る中、陸軍のみ本土決戦に最後の期待を抱いており、ポツダム宣言にも頑強に反発していた。それも上層部ではなく、中堅どころに血気に逸る強硬派が点在していたので陸軍大臣や参謀総長でも簡単に制御できる存在ではなかった。
 それでなくても当時の内閣は「陸軍大臣を現役の陸軍から出す」(海軍も同様)という組閣条件があり、戦前戦中、陸軍は内閣が意のままにならぬと思うや陸相を辞職させ、内閣を総辞職させると云うことを何度もやって来た。まして貫太郎にとっては僅か九年前に二・二六事件で文字通り死に想いをさせられた記憶があり、五五〇万人という人員数の暴発は物凄い脅威だった。
 貫太郎に限らず、多くの者達が陸軍を刺激しない様に話を進めなければならなかった。

 結局、臨時会議でも結論は出ず、深夜に貫太郎は会議を散会させると最後の手段に出た。それは二・二六事件をも簡単に阻止せしめた「聖断」と云う名の伝家の宝刀だった。
 八月一〇日午後〇時(つまり先の臨時会議散会直後)、貫太郎昭和天皇臨席の御前会議を開催。
 やはり議論が平行線を辿ること二時間、それまで聞き役に徹していた貫太郎昭和天皇に、

「議論を尽くしましたが決定に至らず、しかも事態は一刻の猶予も許しません。誠に異例で畏れ多いことながら聖断を拝して会議の結論と致したく存じます。」

 と告げた。

 「異例」と云うのは本当に「異例」だっただけでなく、戦争終結の重大局面に「聖断」にて決着をつけると云うことは、「聖断」が絶大な効力を持つことで、帝国憲法にて「無答責」とされていた天皇に戦争責任を持たせることになりかねず、貫太郎の要請は本来「有り得ない」要請でもあった。

 だがそれに対して昭和天皇は、

 「私の意見は先ほどから外務大臣(東郷)の申しているところに同意である。」

 と回答し、ここに「国体護持」の一条件だけを連合国側に出してポツダム宣言を受諾することが決定した。

 即座に「国体護持」が守られることを条件にポツダム宣言を受諾する旨が連合国に通知された。だが難題は完全には解消されていなかった。
 というのも連合国側は二日後の八月一二日に回答を寄こしてきたが、日本側の「国体護持」の提示に対して具体的に応えていないものだった。回答文中の「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は連合軍最高司令官の制限の下に置かるるものとする。」の解釈を巡って、再度議会は紛糾。原文の「subject to」=「制限の下」に再度阿南が噛みついてきた。

 阿南等陸軍は連合国側の回答を「国体の破壊」として反発。翌八月一三日午前九時、再度最高戦争指導会議が開かれる運びとなった。それまで余り自分の意見を云わなかった貫太郎がこの日はポツダム宣言受諾に反対する意見を「非常識」とまでいって退けんとした。
 昭和天皇も阿南に対し、「阿南、心配するな。自分には(国体護持への)確証がある。」と諭した。
 午後からは臨時会議が開かれ、それでも阿南は即時受諾に同意を示さなかったが、その背景には陸軍暴走への懸念があったと見られている。

 そして貫太郎も再度、聖断を仰ぐと云う伝家の宝刀を抜いた。
 翌八月一四日午前八時、貫太郎昭和天皇に御前会議の開催を願い出、昭和天皇はこれを承諾しただけでなく、軍部の妨害を防ぐ為、自ら開催時間を繰り上げ、午前一一時に御前会議は開催された。
 その場で貫太郎昭和天皇に、大半の者がポツダム宣言受諾に同意しているが、全員一致ではないので再度の聖断を仰ぎたい旨を述べ、昭和天皇は「自分の先般の考えに変わりはない。国体に動揺を来たすというがそうは考えない。戦争を継続することは結局国体の護持も出来ず、ただ玉砕に終わるのみ。どうか反対の者も自分の意見に同意して欲しい。」と答え、これを受けて全閣僚が「終戦の詔書」に署名し、改めてポツダム宣言受諾が完全に決定した。

 同日、ポツダム宣言受諾並びに戦争終結は翌一五日の正午に玉音放送にて国中に告げられることとなり、午後一一時三〇分に昭和天皇は宮内庁政務室にて放送内容の録音を行い、録音されたレコードは徳川義寛侍従に渡されて皇后宮職事務室内の軽金庫に保管された。
 そして運命の八月一五日の早朝、あくまで降伏に反対する陸軍の一派はクーデターを決行。佐々木武雄陸軍大尉を中心とする国粋主義者達が総理官邸及び小石川の私邸を襲撃した(平沼騏一郎枢密院議長、木戸内大臣、東久邇宮稔彦王等の私邸も同様に放火された)。
 貫太郎は再度殺害の危機に立たされた。だが、護衛の警護官に間一髪救い出され、レコード盤もダミーを利用した裏をかく搬送で無事に放送局に持ち込まれ、最後のクーデターも失敗に終わった。所謂宮城事件であった。

 そして正午、昭和天皇の朗読による終戦の詔勅がラジオで放送され、第二次世界大戦は終結した。この日未明、阿南惟幾が自刃。貫太郎は阿南を除く全大臣の辞表をまとめて昭和天皇に提出し、鈴木内閣は総辞職。その際に昭和天皇は「御苦労をかけた。」といってそれまでの貫太郎の苦労を労った。
 一応、後任の東久邇宮内閣が成立した同月一七日まで職務は執行したが、ここに鈴木貫太郎の政治生命は終幕した。

 終戦後、枢密院議長を務めていた平沼騏一郎が一二月一五日に戦争犯罪容疑で逮捕されたため、再度貫太郎は枢密院議長に就任したが、翌昭和二一(1946)年六月三日に公職追放令の対象とされ、郷里の関宿町に隠棲した。
 昭和天皇からは御紋付木盃と酒肴料を下賜され、宮中杖の携行を許された。

 完全に公職から退いた貫太郎は妻・たかとともに土いじりの日々を送ること三年、肝臓癌に倒れた。死の直前、「永遠の平和、永遠の平和。」と、非常にはっきりした声で二度繰り返し、昭和二三(1948)年四月一七日に天寿を全うした。鈴木貫太郎享年八一歳。
 火葬された際、遺灰の中から二・二六事件にて被弾した弾丸が出て来たと云う。



実像と評価 時に「君側の忠」と期待され、一分の極論者から「君側の奸」とされた鈴木貫太郎。余りに昭和天皇の信頼が厚く、終戦と云う余りにも困難な政治局面に立たされたので、既に「主君の寵愛」と「末路」で貫太郎の人間像は前述してしまったような気もする。
 ただそれは経歴・業績的な物で、実は昭和天皇との信頼関係においても実はまだ描き切れていない程である。それだけ人柄も懐も「深い人物」なのである鈴木貫太郎は。

 一先ず太平洋戦争を抜きに鈴木貫太郎という人物を分析すると、二つの事柄が見え隠れする。一つは「不死身」と云いたくなるぐらい生命運の強い男であったことで、もう一つは言葉の出し所を知っていたことである。そしてそのことが昭和天皇の信頼を得、降伏勧告受諾と云う前代未聞の難事に相対することを可能にしたと云ってもいい。

 まず最初の「不死身」だが、二・二六事件で眉間と左胸を撃たれながら一命を取り留めたのを筆頭に、三歳時に暴れ馬に蹴られかけ、魚釣り時に川に転落し、海軍兵役時にも夜の航海中に海に落ちたりしたが、その都度に奇跡的な生還を遂げたと云われている。そんな貫太郎にとって、杜撰な計画で突発的に行われた宮城事件を生き延びるのは容易いことだったのかも知れない。
 後者の「言葉の出し所」だが、常日頃の貫太郎は寡黙で温厚、自らの主張を大っぴろげにしない人物だった。道場主とは正反対だな……イテッ(←道場主のバチキを喰らった)。
 ポツダム宣言受諾を決定づけた御前会議で昭和天皇の聖断を仰いだ際も、それまでは自らほとんど発言せずに反対派に付け入る隙を与えず、ハードル・クリアの為に後一歩が必要な所でそれを行った訳だが、その際の台詞は丸で決定事項に承認を貰うかのような論調で、それまで黙っていた者のそれとは思えない程理論固めがなされていた。
 そして言葉と共に感情の出し所も踏まえており、それを示すこんなエピソードがある。
 昭和一八(1943)年、会議の席で海軍大臣嶋田繁太郎が(その時点で国民には伏せられていた)山本五十六戦死の報告を受けた貫太郎は驚いて、「それは一体いつのことだ?」と嶋田に問うた。
 嶋田が「海軍の機密事項ですのでお答え出来ません。」と官僚的な答弁をしたところ、普段温厚で寡黙な貫太郎が突如憤怒の形相となり、「俺は帝国の海軍大将だ! お前の今のその答弁は何であるか!」と大声で嶋田を叱責。周囲にいた者はいまだ「鬼貫」が健在であることを思い知らされ驚愕したという。

 そんな貫太郎の一言や人柄は敵味方問わず周囲から重く受け止められた。勿論最も重んじたのが昭和天皇であるのは云うまでもない。
 例えば、貫太郎の総理就任直後である昭和二〇年四月一二日、アメリカ大統領のルーズベルトが急死した。訃報を受けた貫太郎は同盟通信社の短波放送により、

 「今日、アメリカが我が国に対し優勢な戦いを展開しているのは亡き大統領の優れた指導があったからです。私は深い哀悼の意をアメリカ国民の悲しみに送るものであります。しかし、ルーズベルト氏の死によって、アメリカの日本に対する戦争継続の努力が変わるとは考えておりません。我々もまたあなた方アメリカ国民の覇権主義に対し今まで以上に強く戦います」

 というコメントを世界へ発信した。
 それに引き換え、同じ頃、ナチス・ドイツ総統のアドルフ・ヒトラーは、貫太郎とは対照的にラジオ放送でルーズベルトを口汚く罵った。
 アメリカに亡命していたドイツ人作家トーマス・マンは貫太郎の放送に深く感動するとともに、ドイツ人としてヒトラーの言を恥じ、英国BBCで、

「ドイツ国民の皆さん、東洋の国日本にはなお騎士道精神があり、人間の死への深い敬意と品位が確固として存する。鈴木首相の高らかな精神に比べ、貴方達ドイツ人は恥ずかしくないですか?」

 と題して声明を発表し、貫太郎の武士道精神を称賛。
 貫太郎の敵味方を越えた情けある言は第二次世界大戦と云う世界史上最も陰惨な戦時下の世界に感銘を与えたと云う。

 また貫太郎の終戦工作の上っ面だけを見ると、阿南惟幾を始めとする陸軍がことごとく嫌がらせをして来たように映るが、様々な人々が残した手記を見ると、阿南と貫太郎の仲は上辺とは裏腹に、同士としての絆を持っていたことが伺える。

 実際、二・二六事件の例もあり、当時の陸軍の暴走振り、頑迷振りは阿南にも、梅津にも、東条にも、小磯にも、畑にも厄介な問題で、下手に和平に同意するだけでクーデターを生んだり、ひどい突き上げを食いかねない状態にあり、阿南も本音とは裏腹に会議の場で強硬論を述べざるを得ないことが多かった。
 だが、侍従武官として、侍従長を務めた貫太郎と近しい立場にいた阿南は貫太郎の人柄に深く心酔し、彼を人として、政治家として信頼していた。
 一説に、阿南は陸士同期の安井藤治国務大臣に対して、
 「どんな結論になっても自分は鈴木首相に最後まで事を共にする。どう考えても国を救うのはこの内閣と鈴木総理だと思う。」
 と云ったと云う。これ程の局面に「if」を考えればキリがないが、阿南以外の人物が陸相だったら、終戦工作はもっと厄介なものになっていたと思われる。もっとも、このことが阿南の寿命を縮めることとも直結した訳だが。

 八月一四日の御前会議で完全にポツダム宣言受諾が決定した直後、阿南は紙に包んだ葉巻の束を手に貫太郎に、
 「終戦についての議論が起こりまして以来、私は陸軍の意見を代表し強硬な意見ばかりいい、お助けしなければならない筈の総理に対し、色々ご迷惑を掛けてしまいました。ここに慎んでお詫びいたします。
 ですがこれも国と陛下を思ってのことで、他意は御座いませんことを御理解下さい。
 この葉巻は前線から届いたものであります。私は嗜みませんので、閣下がお好きと聞き持参いたしました。」
 と挨拶した。
 それに対し貫太郎は、
 「阿南さんのお気持ちは最初から分かっていました。それもこれも、みんな国を思う情熱から出て来たことです。
 しかし阿南さん、私はこの国と皇室の未来に対し、それほどの悲観はしておりません。我が国は復興し、皇室はきっと護持されます。陛下は常に神をお祭りしていますからね。日本は必ず再建に成功します。」


 と答えたと云う。

 阿南は
 「私も、そう思います」
 と云ってその場を去ったが、貫太郎は閣僚の現実と陸軍の熱狂の板挟みにあった阿南の気持ちとその後が見えていたようで、迫水久常に「阿南君は暇乞いにきたのだね。」と呟いた。
 「暇乞い」とは早い話「別れの挨拶」なのだが、「別れ」の対象は貫太郎だけではなく、昭和天皇、政界、つまりはこの世を対象としたもので、、数時間後、阿南惟幾は「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」の文面で有名な遺書をしたため、割腹自決した。

 そして貫太郎は、昭和天皇に信頼されていたと同等かそれ以上に昭和天皇のことを信頼していたのだろう。聖断を仰ぐのも、昭和天皇貫太郎が信頼した主君と異なっていたら、国体護持への不安から貫太郎を裏切ったこともあり得ただろうし、昭和天皇及び天皇を支える周囲の人々が立憲君主制の中で生き延びることに確信が抱けなければあのような終戦工作は到底不可能だった。実際、昭和天皇は終戦にこぎ付けることが出来たことを後に
 「私と肝胆相照らした鈴木であったからこそ戦争終結は可能だった。」
と語っている。

 勿論、この様な信頼関係は片方が世を去ったからと云ってなくなるものでは決してない。貫太郎の逝去から一二年を経た昭和三五(1960)年八月一五日、昭和天皇は終戦一五周年記念日であるこの日に、鈴木貫太郎に従一位を追贈された。
 国家に功労ある人物が死後に追贈された例は数限りなくあるが、日本国憲法施行後は鈴木貫太郎が唯一の例である。

 「君側の忠」とも「君側の奸」とも云われた鈴木貫太郎だが、ある意味、最も「らしくない人物」を取り上げた気がする一方で、最も取り上げたい人物でもあったことをここに白状したい。



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令和三(2021)年六月三日 最終更新