第玖頁 間部詮房……大奥に入れた男

名前間部詮房(まなべあきふさ) 生没年寛文六(1666)年五月一六日〜享保五(1720)年七月一六日 寵愛してくれた主君徳川家宣、月光院 寵愛された能力色事に無欲だった真面目さ 嫌った者達反甲府派の諸大名・幕閣
略歴 寛文六(1666)年五月一六日、甲府藩主・徳川綱豊(後の家宣)の家臣・西田清貞を父に、光寿院(小川次郎右衛門の娘)を母に生まれた。初めは猿楽師・喜多七太夫の弟子となった。
 貞享元(1684)年、綱豊の用人となり、後に綱豊の命で間部氏の名跡を継ぎ、間部詮房となった。

 宝永元年(1704年)、主君・綱豊が将軍・徳川綱吉の養子となることが決定し、江戸城西の丸に入城した。これに伴い、甲府徳川家家臣団は幕府直臣となり、詮房も従五位下・越前守に叙任され、側衆として一五〇〇石加増された。
 その後も累次加増され、宝永三(1706)年には、相模厚木藩一万石の藩主となった。一万石は大名としては最小ランクの小身だが、猿楽師であった者が大名になった例は後にも先にも詮房のみである(しかもその後も加増を重ね、最終的には五万石の藩主となった)。
 石高だけではなく、役職の昇進も続き、詮房は側衆として若年寄に次ぐ地位になり、老中次席を命じられた。

徳川綱豊改め、徳川家宣を六代将軍とし、間部詮房・新井白石を車の両輪として始まった「正徳の治」は、先代綱吉の政策を否定するかの様に始まった。
 まず真っ先に行われたのは『生類憐れみの令』廃止で、綱吉の葬儀が行われない内に廃止命令が出て、これにより六〇〇〇人以上の罪人が自由の身となったのだから、国中度肝を抜かれたことだろう。但し、家畜遺棄禁止や捨て子・病人の保護等の一部法令はそのまま続けられたのだから、綱吉の人道主義も多少は認められていたし、家宣達も単純な反発や人気取りで廃止した訳ではないのは頭に入れておきたい。

 次いで元禄金銀の鋳直しである。綱吉政治は綱吉が凝り性だったために出費の莫大なものとなったので、勘定奉行・荻原重秀の考案で、貨幣に銀を混ぜて数を増やすことで財政を補おうとしたが、貨幣の価値が暴落してえげつないインフレとなった為、却って幕府財政を苦しめ、庶民も困惑した。
家宣詮房はこの解決を図り、本来なら柳沢吉保・松平忠周・松平輝貞等先代の寵臣とともに荻原も更迭したかった(賄賂疑惑が濃厚で、白石に至っては荻原を「有史以来の奸物」「極悪人」と断じていた)が、他に適任者がいなかったので彼を留任させ、貨幣問題を解決しようとした。
 しかし荻原を嫌い抜いた白石は、荻原罷免の上申書を三度提出し、最後には荻原を罷免しなければ殿中で荻原を暗殺すると教え子・家宣に迫ったため、家宣も師・白石の上申に従い、正徳二(1712)年荻原を罷免した(その後の荻原に対する白石の取り調べはかなりえげつなかったらしい)。
 かくして白石主導の下、貨幣の含有率を元に戻した正徳金銀が発行された。勿論これにより市場に流通する貨幣の量が減るので、デフレになることとその害が想定されたので元禄金銀・宝永金銀の回収と正徳金銀の交換は少なくとも二〇年はかけて徐々に行うように提言したが、家宣政権は二〇年も持たなかった。

 他にも長崎貿易を厳しく監視して日本からの金銀流出を抑えつつも、琉球・朝鮮との交流を様々に見直したり、武家諸法度の一部改訂も行われた。

 この「正徳の治」は一般に評価が高いが、如何せん徳川家宣の天寿が足りなかった(それゆえに家宣統治の評価は断じ難い)。
 正徳二(1712)年一〇月一四日、将軍在職四年足らずで家宣は流行性感冒に倒れ、五一歳でこの世を去った。
 家宣は正室・側室との間にそれなりに子供をもうけたのだが、次々に夭折されており、家宣逝去時に存命だったのは側室・お喜世の方が生んだ鍋松だけだった。鍋松は当時四歳だ、七代将軍就任はこの翌年のことだったが、それでも五歳だった。勿論江戸幕府史上最年少での将軍就任である。

 一説に、家宣は息を引き取る三週間前に詮房と白石を枕元に呼び、七代将軍候補に関して、「尾張の徳川吉通にせよ。鍋松の処遇は吉通に任せよ」、「鍋松を将軍にして、吉通を鍋松の世子として政務を代行せよ」、「鍋松の成長が見込めなかった場合は、吉通の子・五郎太か徳川吉宗の嫡男・長福丸を養子として、吉通か吉宗に後見させよ」等の遺言を残したと云われている。
 勿論先例のない幼君就任に幕臣・諸大名の中にも暗に反対の意を示すものも少なくなかった。結局、家宣が逝去すると白石は「吉通公を将軍に迎えたら、尾張からやって来る家臣と幕臣との間で争いが起こり、諸大名を巻き込んでの天下騒乱になりかねぬ。鍋松君を将軍として我らが後見すれば、少なくとも争いが起こることはない」とし、「鍋松君は幼少であり、もし継嗣無く亡くなられたらどうするおつもりか」という反対意見に対しても、「そのときは、それこそ御三家の吉通公を迎えればよい」と説得した。

 ともあれ、家宣逝去の翌正徳三(1713)年四月二日、鍋松徳川家継と改名し、同日将軍宣下を受けて第七代将軍に就任した。
 勿論この様な幼君にまともに政治を見られる訳はなく、詮房・白石は引き続き将軍を補佐することになったが、世の人々には両者(+お喜世の方改め月光院)の天下に見えた。

 だが、家継もまた天寿に恵まれず、将軍就任の三年後、正徳六(1716)年四月三〇日に風邪をこじらせたことで八歳の幼さでこの世を去った。勿論継嗣はなく、ここに秀忠以来の将軍家嫡流は断絶。同時に新井白石・間部詮房の権勢も断絶のときを迎えることとなった。



主君の寵愛 とかく間部詮房と云う人物は生真面目で、それを徳川家宣を始めとする主君や仲間から愛でられた。
 過去作・『師弟が通る日本史』家宣と新井白石の師弟関係を取り上げた時にも注目したが、家宣自身も学問好きの真面目人間だった(能や酒好きと云う一面もあったが)。
 幕臣が交代勤務だったのに対し、詮房家宣に昼夜片時も離れず勤務したため、そんな家宣詮房は深く信頼された。

そして詮房とともに家宣政治の両輪を為した白石も詮房の人柄・忠勤を高く評価し、両者は一致協力して家宣家継を支えた。

 そんな間部詮房が主君から特別扱いされた事柄の中でひときわ注目されのが、彼が「大奥に入れた男」と云う点である。
 今更説明するまでもないことだが、大奥とは将軍の妻妾(とその幼子)が住まう女の園で、当然「男子禁制」で、征夷大将軍だけがそこに入れる唯一の「男」だった(中国の後宮やイスラム世界のハレムなら宦官と云う例外もあったが)。
 詮房が大奥入りを許されたのは、将軍家継が幼少で、大奥にて母である月光院とともにいる時間が長かったためで、例え実権のない幼将軍でも正式な政令発動の為には将軍の裁可・認印が必要なことが有ったためで、必要に駆られての事でもあったが、当然そんな「例外」を多くの男どもに与える訳にはいかなかった。

 家継夭折当時、大奥に家継の正室や側室はいなかったが、家宣の正室・天英院、側室・月光院、法心院、蓮浄院、その他のお手付きを待っていた者達が住んでいた。彼女達は天英院が五一歳、月光院が三二歳、法心院が三五歳、蓮浄院が不詳だが、恐らくは二人の側室と同じ年代と推測される。勿論、家宣の妻だった立場からは残りの人生孤閨に耐えなければならない(家宣の死とともに仏門に入ってもいるし)。
 そこに五一歳とはいえ亡夫より若い男が入ってきたらどういうことになるか…………………………相当真面目な男でない限り、不義密通が起こり得ただろう。それも何人も相手にと云う羨ましい不道徳の極みとなっていただろう(実際、「江島生島事件」と呼ばれる歌舞伎役者との不義密通事件が起き、刑死者も出た)。

 勿論、いつの世も人間は醜聞が好きだから、真面目な詮房にした所で、頻繁に顔を合わせていた月光院との不義密通は口さがない連中の人口に膾炙した。中には「家継公は詮房の落とし胤では?」などと云う噂まで出たが、これは多分に権勢と多く立ち入り特権を得た詮房への嫉妬もあっただろう。
 詮房に限らず、誰が大奥に入る権利を得たとしても、故家宣の妻妾達に手を出すなど言語道断の大罪となる訳だが、「バレなきゃ手を出したい…。」、「美女達を見るだけでも目の保養になる…。」と考える者も多かったことだろう(笑)。
 それにしても天英院が五一歳、月光院が三二歳、法心院が三五歳かぁ……………ここにうちの道場主を放り込んだらエラいことに…………ぐぎゃあああああああああああああああああああああああああ〜(←道場主のケブラドーラ・コン・ヒーロを喰らっている)



末路 間部詮房・新井白石の政権参画は徳川家宣の寵愛によるところが大きかったため、当然の様に、徳川家継の死とともに終焉を迎えた。

 周知の通り、八代将軍には紀州公徳川吉宗が就任し、江戸城には吉宗が紀州から連れて来た加納久通・有馬氏倫等が乗り込んできて、家継将軍就任時より門閥層や反甲府派の反発を買っていた両名はその地位を失った。
 白石は千駄ヶ谷に土地を与えられてそこに隠棲。詮房家継逝去の半月後に側用人御役御免、雁間詰となり、翌享保二(1717)年に越後村上五万石への転封となった。
 石高上は留任だったが、権力的には失脚で、領土的にも高崎から越後村上へと江戸からより遠い地への左遷だった。

 失脚から四年を経た享保五(1720)年七月一六日、暑気中りで死去した。間部詮房享年五五歳。
 家督は弟で養子となっていた詮言(あきとき)が継いだが、幕府紀州閥の詮房に対する嫌悪は解けておらず、越前鯖江に左遷された(間部家は同地の藩主として明治維新まで存続した)。また詮房が生前白石と共に為した「正徳の治」はその多くが否定されるような政策を吉宗政権は執った。
 吉宗は自分を可愛がり、御三家の中でも紀州贔屓の強かった綱吉が好きだったようで、同時に綱吉政治を否定するような人事・政治に走った家宣とその側近であった白石・詮房を嫌っていたようで、彼が行った人事・政策はどこか報復的だった(「正徳の治」も全否定された訳ではないことを詮房・吉宗両名の名誉の為に付記しておく)。



評価と実像 もう殆ど書いている気がするが、間部詮房徳川家宣徳川家継月光院に忠実で真面目な家臣にして政治家だった。
 新井白石とは名コンビで、「正徳の治」は白石の名が出ることが多いが、これは彼が「妥協を好まない論争の鬼」で、何かと口を出す男ゆえに必然的に目立つことになった為で、性格・言動から多くの人々に(悪意はなくとも)煙たがられた白石にとって詮房の様な相棒は物凄く重宝する存在だった。

 それを示すのが家宣死後で、忠誠を誓う主君にして、学問上の愛弟子に先立たれた白石は意気消沈して政治に対して消極的になることも多かったが、そのような白石を励まして能力を引き出すことに尽力したのが詮房だったという。

 短期間に終わり、様々な抵抗勢力を受けたこともあって「正徳の治」の評価は難しいものがあるが、少なくとも悪政ではなかっただろう。
 また、口さがない連中の醜聞が有ったとはいえ、詮房は頻繁に多くに出入りしつつも問題を起こすことなく、噂に関しても殆ど完璧に否定されていることからして、彼の人格・品格が伺えると云うものである。

 少なくとも、彼や白石が本当に「君側の奸」だったら、当時の人々はもっと痛い目を見ただろうし、それこそ幕府を二分する争いが起きていたかも知れなかった。詮房の真面目さは世の救いだったと云うのは過言だろうか?



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平成二七(2015)年六月二二日 最終更新