第参頁 高師直……傍若無人のバサラ者

名前高師直(こうのもろなお)
生没年?〜正平六/観応二(1351)年二月二六日
寵愛してくれた主君足利尊氏
寵愛された能力面の皮の厚さ
嫌った者達足利直義、塩冶高貞、上杉能憲
略歴 源八幡太郎義家の末裔で、同じ家系である足利家の代々執事を務める高家の当主・高師重(こうのもろしげ)の嫡男に生まれた。
 生年は詳らかでないが、六〇代で死亡したと見られているので、弘安の役から数年〜10年後に生まれたぐらいか?

 足利家の執事として数々の戦に従軍。当初は鎌倉幕府より京の倒幕派を追討する命を受けた主君・足利高氏が後醍醐天皇につくに及び、六波羅探題攻めに参加し、建武五(1338)年、(高氏改め)尊氏が征夷大将軍に任じられ、室町幕府を開くと将軍家の初代執事 (←管領が創設される前の正式な役職名)に就任した。

 高師直は性格も役割も完全に軍人で、将軍尊氏とその弟・直義がそれぞれ政務と軍事を分業して取り仕切る二頭体制下で軍事に携わった。弟・師泰とともに一族で侍所・恩賞方の要職を占め、河内・和泉・伊賀・尾張・三河・越後・武蔵など数ヶ国の守護職も兼任した。
 南北朝が対立・抗争を繰り広げる中においては執事就任の年に和泉堺浦で北畠顕家を討ち、正平三(1348)年には四條畷の戦いでは楠木正成の遺児である楠木正行・正時兄弟を自害に追い込んだ。更には吉野を焼き払い、南朝方を賀名生(現:奈良県五條市)へ撤退させた。

 だが、やがて役割だけでなく性格的にも正反対だった直義との間に利害対立が頻発。
 師直は直義側近の上杉重能・畠山直宗らの讒言によって、執事職を解任された。その報復に師直は弟・師泰とともに挙兵して京都の直義邸を襲撃。直義が尊氏邸に逃げ込んでも執拗に追い、尊氏邸を包囲して、尊氏に対しても直義の身柄引き渡しを要求した。

 尊氏の仲介を受け、直義を出家・引退させることを条件に和睦に応じた師直・師泰兄弟は幕府内における反対勢力一掃に成功。条件通りに直義が出家すると師直尊氏の嫡男・義詮を補佐する立場で幕政の実権を握り、尊氏に次ぐ地位に昇り詰めた。



主君の寵愛 軍人働きの目立つ高師直だが、戦に強かったのは間違いないが、戦闘能力以上に勝気且つ乱暴とも云える性格が良くも悪くも彼の人生を決定づけていた。
 そしてその能力を愛で、信頼した主君・足利尊氏はその優しさゆえに、師直の暴走に余りに甘い男だった。

 とにかく、師直は権威を丸で恐れず、身分秩序を無視した現実主義者だった。
 もっともこの様な性格の持ち主が珍しかった訳ではなかった。元寇の影響で凋落する鎌倉幕府が頼りにならない存在に成り下がっていたことが影響したのか、身分秩序を軽視・無視した実力主義者達が公家・天皇といった名ばかりの権威を軽んじ、豪奢な振る舞いや粋で華美な服装を好む、「ばさら」と呼ばれる者達が現れ出していた時代でもあった。

 師直以外にも有名なばさら(後の世の「下剋上」や「傾奇者」の萌芽となった)に佐々木道誉(近江守護)、土岐頼遠(美濃守護)等がいたが、殊に師直の考えは権威無視が徹底しており、「王(天皇)だの、院は必要なら木彫りや金の像で作り、生きているそれは流してしまえ!」との暴言は有名である。

 特に、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇とその取り巻き達は王政復古を目指していたにしても武士を蔑視し過ぎたの。ゆえに北朝に付いた武士の多くにとって、後醍醐達による冷遇は我慢ならないと同時に、師直の権威に恐れない強気姿勢はカッコよく映った。
 いつの時代においても既存の権威を恐れず、相手が誰であれ云いたいことを云い、為したいことを為す人物はかっこよく映るものである。

 尊氏にとっても、師直のこの強気姿勢で人を率い、戦にも積極果敢に挑む師直は頼もしい部下だったのだろう。本来なら師直が目的に向かって突っ走る姿勢に手綱捌きを担わなくてはならない尊氏だったが、暴走の果ての生まれる罪科に対する処断が丸でなっていなかった。
 足利尊氏と云う男は、薩摩守も人としては好きである。夢窓疎石によると「戦場で勇猛、部下に優しい、気前がよい。」と来ており、現代の企業戦士でも是非とも上司にいて欲しい様な人物である。
 ただ、過ぎたるは何とやらで、尊氏は勇猛であったが故に軍事以外を他者に丸投げする傾向が有り、優しかった故に罰するべきを罰することが出来なかった(自分を裏切った畠山国清・斯波高経を何度も許している)男でもあり、これが師直の増長を生んだと云っても過言ではあるまい。
 尊氏公には酷な云い方かも知れないが、ここまで来ると「寵愛」と云うよりは「甘やかし」だろう。個人的に自分と肌が合う軍人然とした師直を部下として寵愛したり、庇ったりするのは良いにしても、師直による害を蒙った人々のことも少しは考えて欲しかった。



末路 ばさらな生き方は順風満帆時には痛快だったろうけれど、諸人の嫌悪を生まない筈はなかった。勿論高師直自身、この様な生き方をする以上、戦いと無縁でいられない自覚はあっただろうし、敵対するものはその手で叩き潰さんとの決意もあっただろう(←無かったら只の乱暴者である)。
 だが、世の中目に見える攻撃・襲撃だけではないのである。

 実際、出家・引退に追いやった筈の足利直義は報復の機会を虎視眈々と狙っていた。
 正平五(1350)年師直は足利直冬(尊氏の妾腹の子で、直義養子)討伐のため尊氏とともに播磨へ出陣していた。その間隙を縫って直義は京を脱出し、南朝に降伏。南朝・直冬と組んで師直を討つ為の挙兵に踏み切った。
 正平六(1351)年、摂津国打出浜の戦いで尊氏は直義・南朝方に敗北。今度は師直・師泰兄弟の出家を条件とした和睦が成立した。
 だが、和睦成立にほっとしたのも束の間、師直・師泰兄弟は摂津から京への護送中に武庫川畔(現:兵庫県伊丹市)にて、直義の家来で、かつて師直に殺されていた上杉重能の養子・能憲の待ち伏せ襲撃を受け、呆気ない最期を遂げた。高師直享年不明。
 首を取られて残った遺体は川に放り込まれたと云うから尋常じゃない恨みを買っていたことが分かる。



実像と評価 古今東西いつの世にも権威を恐れず、自らの力で邪魔者を排除してやりたいことをする者達は存在し、鎌倉時代末から室町初期に世を闊歩した高師直を初めとするばさらもそんな類の武士達だった。

 だが、ばさらを貫くには力が必要で、貫く方は気分が良いが、貫かれる方は堪ったものではなく、ゴリ押しされた分、やられた側の恨みは深いものとなった。
 何せばさらの様な人間の中には初めは自分なりの「筋を通す」と云う生き方を重んじていても、「力でどうにかなる。」と思う内に思い上がって暴走するものが少なくなく、筋も理も無く、力で押し通される側には乱暴者と何ら変わりなく映る
 更に性質の悪いことに、押し通した側は「それが普通」と思ってしまっているから、「自分が正しいから相手が退いた。」と本気で思っていることも珍しくない。当然ながらと云おうか、残念ながらと云おうか、高師直も例外ではなかった。

 鎌倉時代末から室町初期を見る上でよく参考にされる『太平記』ばさらに対して否定的な記述をしており、ばさらが原因で国が乱れると断じているから高師直を見る上においては多少はそのハチャメチャ振りを軽減してみるべきだろうけれど、それでも無茶苦茶やっている。
 政敵を追う為とはいえ、主君尊氏の邸宅を包囲したのもそうだし、それ以前に主君の弟(直義)に弓を引いているのである(尊氏と直義が対立する前にである)。戦に強かったり、敵対する権威に怯まないのは長所だが、その長所は欲望の暴走強かったり、倫理に怯まないという短所と見事に直結した。早い話人妻に手を出すと云う羨ましいとんでもないことを仕出かしている。

 その具体例が『仮名手本忠臣蔵』のモデルとなった、塩冶高貞の妻への横恋慕事件である。横恋慕した師直は吉田兼好に恋文を書かせて口説こうとしたのだが、高貞妻の拒絶を逆恨みし、高貞に謀反の罪を着せて誅殺した事件である。どれだけ弁護しようとしても高貞が殺されなければならない謂われは微塵もなく、現代の悪質ストーカー顔負けである。
 この余りな悪辣振りが、元禄時代に赤穂事件が勃発した際に、時の権力を悪く書けない時代だった故に、浅野長矩を塩谷高貞に、吉良義央を師直として仮託したストーリーに利用されたのである。

 権威や倫理に畏怖しない「力」(行動力・武力)は乱世においては役に立つが、平和な統治を望むものにとっては平安を乱すヤクザ者に過ぎないのが世の常である。足利直義も室町幕府の基本方針である『建武式目』にてばさらを禁じた(両者の仲が悪かったのも根本的に肌が合わなかったのもあるだろう)。

 前述した様に、高師直を悪玉とし、ばさらを嫌って書いている『太平記』の記述は誇張を考慮しなくてはならないが、『太平記』以外にも師直の傍若無人振りを伝える当時の書は少なくない。正直、薩摩守も師直の人物像を追っていて気分が悪くなることはあっても、良くなることはまずない。
 だが、「片手落ち」を極力排する拙サイトの趣旨に従い、師直が愛されていた一例を最後に挙げておきたい。それは他ならぬ『太平記』にある記述である。
 楠木正行との四條畷の戦いにおいて、上山高元という家臣が師直の陣中に訪ねてきた。その時、楠木軍の攻撃が始まり、鎧を着ずに師直陣を訪れていた上山は鎧の拝借を師直の配下に申し出た。
 配下は断ろうとしたが、その様子を見掛けた師直は、「今、師直に代わって働いてくれようとする者に、何を鎧一領ごときを惜しもうぞ。」と云って、上山にその鎧を与えた。
 感激した上山は南朝の猛攻撃に遭って窮地に立たされた師直の元に現れ、師直を庇って討死したという。

 やはり、「優しさ」を除く、「勇猛さ、気前の良さ」で師直尊氏は似ていたのかも知れない。所謂「悪党」が幅を利かせた時代、師直の様な男は決して珍しい存在ではなく、武士が再び虐げられそうになった時代に「期待の星」となっていた面は否めない。嫌いだけどね(苦笑)。


次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る

令和三(2021)年六月三日 最終更新