第肆頁 細川頼之……強制隠居と黒幕復帰

名前細川頼之(ほそかわよりゆき)
生没年元徳元(1329)年〜元中九/明徳三(1392)年三月二日
寵愛してくれた主君足利義満
寵愛された能力尊氏以来の細川家への信頼と義満との師弟の日々
嫌った者達斯波義将等を筆頭とする有力大名
略歴 元徳元(1329)年に父・細川頼春、母・黒沢禅尼の嫡男に生まれた。幼名・弥九郎 (やくろう)。
 少し細川氏について触れると、前頁の高師直を輩出した高氏同様、足利家の支族で、鎌倉時代より足利家に仕えていた。初代・細川義季(ほそかわよしすえ)が三河国額田郡細川郷を領有したことから細川姓を名乗り、二代・俊氏、三代・公頼ときて、公頼の次男に生まれ、京兆細川家の祖となったのが頼春である(主家は後に没落して、この京兆細川家が実質の本家として現在に至っている)。

 物心ついた時には主家・足利家は将軍家となっており、時代は南北朝の争乱に突入していた。必然、細川頼之一族もまた高家同様、足利家に従って西国を転戦する身となった。
 正平七/文和元(1352)年閏二月二〇日に父・頼春が南朝方との戦いの中、七条大宮にて戦死し、頼之は家督を継いで阿波守護に就任した。
 正平九/文和三(1354)年には伊予守護を兼任、正平一一/延文元(1356)年には中国管領となった。

 主に足利直冬の残党を追討する中、正平一七/貞治元(1362)年に幕府を裏切って、南朝についていた従兄で宗家当主の細川清氏を讃岐にて討ち取った。
 南朝が正統な皇位の証である三種の神器を保持していたこともあって、北朝はなかなか一枚岩たり得ず、管領の斯波義将とその父・斯波高経が佐々木道誉等の陰謀で失脚すると頼之は幕府に召還された。
 正平二二/貞治六(1371)年一二月七日、二代将軍・足利義詮が逝去。その直前に頼之は道誉、赤松氏等の反斯波派の支持、鎌倉公方足利基氏の推挙を受け、管領職と一〇歳の足利義満の補佐を義詮から委託された。

 義満を三代将軍として、劣勢を挽回せんとして、種々の政策や軍略で幕府権力と将軍権威の強化に努めたが、これが諸将の反発を受けて、頼之リコール運動が激化。義満もこれを庇い切れず、天授五/康暦元(1379)年に失脚し、入道して常久と号して領国讃岐に隠棲した。

 だがほどなく、力を付けた義満の赦免を受け、元中六/康応元(1389)年その西海巡歴に全面協力。元中七/明徳元(1390)年、備後に山名時煕を討ち、翌年に弟で養子でもあった管領細川頼元を後見するなど、見事に権力中枢に返り咲いた。



主君の寵愛 主君・足利義満との縁はその父・義詮から義満の補佐・教導を託されてから深く、正平二三年/応安元(1368)年四月には細川頼之を烏帽子親とした元服が行われた(二年前の義詮生前中に「義満」の名を後光厳天皇から賜ってはいたが、正式な元服はまだだった)。
 頼之が烏帽子親として加冠しただけでなく、それに伴う理髪・打乱(うちみだり。理髪で刈った髪を容器に入れる儀式)・?坏(ゆするつき。整髪の一種)の四役をすべて細川氏一門にて執り行った。

 過去に拙作『師弟が通る日本史』でも、頼之義満の関係を取り上げたことがあるが、両者の身続き関係に関してそのときに研究不足で触れなかったことがある。それは義詮の遺言である。
 頼之義満の補佐・教導を義詮から遺言されたのは既に前述しているが、その際に義詮は義満を指さして頼之「われ今汝のために一子を与えん」と告げ、次いで頼之を指さし義満「汝のために一父を与えん。その教えにたがうなかれ」と告げたと云う。余程の親不孝者か聞かん坊でない限り、義満頼之を慕うのは必然で、義詮のこの台詞は非常に重いと云えよう。
 そしてこれには、頼之の父・頼春が尊氏から厚い信頼を寄せられていたことも大きく影響していた。

 ここまでの経過を経て頼之義満に尽くさなかったり、義満頼之を蔑ろにしたりするようなら「忘恩の輩」と揶揄されても反論出来まい。
 史実だけを見れば前述した様に頼之は一度失脚しており、それは正式な幕命によって隠居させられたものだが、義満の本意でなかったのは明らかである。
 少し詳しくその状況に触れると、頼之失脚事件は所謂康暦の政変で、管領就任から一三年後の康暦元(1379)年閏四月一四日、反管領細川頼之勢力である京極高秀・土岐直氏以下の諸将によって頼之追放が強訴されたものだった。

 リコールを呼び掛けて花の御所を包囲した軍勢は数万騎に及び、後には誰も逆らえない大権力者となった義満も、まだ二二歳の若輩の身で、状況には抗し得なかった。
 結局、不本意ながら頼之の屋敷に使者を走らせ、京都からの退去を命じ、頼之は失脚・出家して領国の阿波へ下った(←このとき頼之は京の自邸を焼いている)。

 そして「主君の寵愛」として特筆すべきは、頼之が一〇年後に政界復帰していることである。一見、大権力者に成長した者が寵愛する家臣を復帰させることに何の不思議もない様に見えるが、政治とはそんな単純なものではない。
 一度クビにしたものを再登用するということは、「以前の判断は間違いであった」と認めることに等しく、面子や強気姿勢にこだわるものほど躊躇するところである。

 しかも頼之追放時の反頼之派による追及は執拗で、頼之が出家・両国への引退をして尚納得せず、後任管領の斯波義将がくどい注進を受け、義満頼之誅罰の御教書を下さざるを得なかったのだから、頼之再招聘はこの非を認めることにもなるのである。

 ただそこは頼之義満ともに我が強くとも、馬鹿ではなく、過去の経緯をよくよく踏まえて、互いの立場を重んじていた。
 明徳二(1391)年、斯波義将の管領職辞任というタイミングを見計らって頼之復帰は為された訳だが、赦免はその二年前で、それも厳島神社三渓の途中で讃岐に立ち寄って行うという表立たないものだった(翌年(←ややこしいが斯波義将辞任の前年)には明徳の乱平定にも従軍)。
 そんな義満の気持ちに応えてか、頼之義満に上洛を命じられた再度管領に就任する様要請された際に、「出家の身」として辞退し、代わりに末弟で養嫡子でもある細川頼元(←頼之失脚中も熱心に赦免運動を行っていた)を新管領に立て、自分はその後見として幕政に復帰した。勿論、しっかり権力を握ったのは云うまでもない(笑)。
 いずれにしても互いが互いを想い合っていたのは間違いなく、特に将軍職を譲った息子義持と半ば憎み合っていた義満がここまで頼之を寵愛したのも、細川家累代の忠義と師弟としての日々があったと結論付けても過言ではなかろう。



末路 この手の人物にしては珍しく、細川頼之は畳の上で天寿を全うしている。
 幕政復帰に前後して、頼之明徳の乱(←有力大名弱体化を狙った足利義満が山名氏を討伐した者)に従軍し、その戦後処理にも尽力しており、頼之が京都に復帰した明徳二(1392)年から翌明徳三(1393)年に掛けての年末年始はその戦後処理に頼之義満も多忙を極めた。  そしてその最中に風邪を患っていた頼之は明徳三(1393)年にはいって、これをこじらせ、同年三月二日に逝去した。細川頼之享年六四歳。
 葬儀は義満主宰の元、相国寺で営まれた。最後の最後まで睦まじき主従だったと云えよう。南北朝統一はこの年のことで、頼之もさぞそれを見たかっただろうし、義満も見せたかったことだろう。



実像と評価 概して、細川家の人間は先見の明に優れている。足利家の支族から派生して、現代に至るまで。勿論細川頼之も例外ではない。
 足利義詮に遺児を託された頼之足利義満の将来を見据え、義満の将軍就任から積極的に先を見た行動を開始した。勿論最重要事項に南北朝統一で、同時に将軍家の権威昂揚を狙い、頼之義満が成人に達するや、速やかに官位昇進を計ったところも彼の先見性が伺える。

 ただ当初の幕政運営は困難を極めた。それは偏に室町幕府が有力大名連合だったことにあり、管領たる頼之は有力大名間の調停役として矢面に立たされることになり、一方を立てれば一方に恨まれ、一方を立てれば、また一方に疎まれるという、際限なく敵対勢力を生み出すという状況に置かれていたからに他ならなかった。
 つまり、細川頼之ならずとも、当時の状況下で管領となれば、寵愛と権力に対するやっかみと、必ず敵対する者がいることで「君側の奸」と中傷・逆恨みされることは不可避だったと云える。まあいつの世でも権力者は多かれ少なかれ世人の怨みを買うものではあるのだが。

 かくして隠居に追いやられ、後に復帰した頼之だったが、いくら義満の寵愛があったとはいえ、かかる権力闘争を生き抜いたこの男、良くも悪くも「曲者」だった。

 前述した様に、康暦の政変で失脚した際には、領国に引きこもって尚、反対派による追討が行われんとした。しかし頼之は先制攻撃を仕掛けて幕府の機先を制し、追討軍の気勢を挫いた上で赦免運動を行うという離れ業で追討令を解除せしめた。

 似た例を挙げると、朝鮮半島の新羅と云う国と薩摩島津家が似たようなことをやっている。前者は朝鮮三国時代において当初最弱だった新羅が、大国・唐の力を借りて、百済・高句麗を滅ぼした後に唐から侵略を受けた際に、軍事面では徹底的に抗いつつ、外交面では「謝罪使」を唐に送って、独立を守り通した。
 後者は関ヶ原の戦いで負けて薩摩に帰った後に、国境を固め、軍備を充実させつつも、徳川家康に謝罪に使いを送って、こちらも(西軍方で唯一の)本領安堵を勝ち取っている。

 つまりは、頼之も新羅も島津も「手荒なことをしなければ従いますし、詫びもしますが、やると云うなら徹底的に抵抗しますよ。そうなったら貴殿が勝つでしょうけれど、相当な痛手を被るでしょうなあ…ひっひっひっ…」という意志を示した訳だが、これはタイミング一つ間違えると相手の過剰な怒りを買って徹底殲滅を呼びかねないので相当難しい話であることを失念してはなるまい。

 そんな頼之のやり手ぶりは失脚前にも随所に見られる。
 足利尊氏存命中、足利直冬討伐の大将を担った際、頼之闕所処分権(←敵から奪った土地の処分権)を望んだ。将軍尊氏は幕府権限の不安定化にも繋がるのでこれを許可しなかったが、頼之は大任を固辞して阿波に帰った。
 最終的に細川清氏の説得で大任を引き受け、闕所処分権が与えられたかどうかは不明なのだが、尊氏相手にここまでの行動が出来たのも単純な忠義者でない証左と云えよう。
 この行動が政治的パフォーマンスかどうかは今一つ不鮮明だが、確かな史実として、頼之管領就任後も失脚までの一三年間に四度も辞任を申し出ている。
 何度か過去作で触れているが、細川家の人間は生き方が上手く、「不利」と見た際には権力に固執しない。既得権益にしがみついて身を滅ぼしたものは歴史上枚挙に暇がないが、細川家にはそれが無いのである。
 四度の辞任申し出は政治的パフォーマンスだったかも知れないし、政局不利からの一時撤退を狙ったものかも知れないし、有力大名間朝廷の重責からの逃避だったかも知れないが、頼之が権力に固執しなかったのは確かである。

 実際、康暦の政変で阿波に戻る際、頼之はこんな漢詩を詠んでいた。

 人生五十愧無功
 花木春過夏巳中
 満室蒼蠅掃難尽
 去尋禅榻臥清風

 薩摩守に漢詩の心を求められても困るが(苦笑)、権力争いに生きるよりも、心豊かに生きたいと望む姿があるように思われる。幼少時に夢想疎石の法話に感銘を受けた頼之は、終生信仰を貫いたとのことだが、そんな禅宗の影響もあったのだろう。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新