第伍頁 長坂釣閑斎……最後の最後に殉じた者

名前長坂釣閑斎(ながさかちょうかんさい
生没年永正一〇(1513)年〜天正一〇(1582)年三月一一日
寵愛してくれた主君武田勝頼
寵愛された能力信玄と乳兄弟の縁、重商主義経済観念
嫌った者達穴山梅雪、高坂弾正等
略歴 一般に、長坂釣閑斎の名で知られるこの男、「釣閑斎」というのは出家名で、実名は長坂虎房 (ながさかとらふさ)で、後に光堅 (みつかた)、頼広と名を改めている(面倒くさいので本作では「釣閑斎」で通す)。

 永正一〇(1513)年に武田信虎の家臣・長坂昌房の子として生まれた。
史書には天文一二(1543)年五月に諏訪郡代となった板垣信方を足軽大将として補佐する上原在城衆となって上原城(現:長野県茅野市)に入城したところから現れる。

 天文一七(1548)年に上田原の戦い(←信玄の数少ない敗北の一つで、最も痛恨の大敗となった戦い)において板垣が戦死すると後任の諏訪郡代となって上原城に派遣され、翌天文一八(1549)年には高島城(現:長野県諏訪市)へ入城し、諏訪統治の新拠点を任された。
 武田家中にあっては、軍事においては対上杉戦の事前準備として北信濃での索敵任務を担い、一方で外交では対徳川交流への使者として遠江の国衆・天野景泰へのもとへも赴き、本願寺との交渉も担った。

 永禄二(1559)年二月、武田晴信が出家すると、これに倣って釣閑斎も出家した(「釣閑斎」を名乗ったのはこの時からである)。
 三年後の永禄五(1562)年、信玄四男・諏訪四郎神勝頼 (武田勝頼)が高遠城主となると長閑斎はこれを武田家嫡男・義信へ伝える使者を務めた。

 早くから勝頼との関係は深かったようであり、元亀四(1573)年、西上途次で武田信玄が病没。後を継いだ勝頼から武田信豊、跡部勝資等とともに引き続いて重用された(主に行政面で)。



主君の寵愛 長坂釣閑斎が初めて史書に登場するのは三一歳の時なので、物凄く優遇されていたという訳ではない。ただ、信虎の代にようやく甲斐を統一し、信玄の代に急速に信濃・上野・駿河に勢力を拡大し、それに伴って数多くの国人衆を迎え入れた上に、御親類衆まで拡大した武田家にとって、累代の家臣は信頼のおける存在だったのだろう。

 またその様な立場だったから、武田勝頼の微妙な立場を慮って勝頼付きとなり、信玄・勝頼双方から側近としての役目を期待された。
 「勝頼の微妙な立場」とは、彼の母親が関連していた。少し話は逸れるが、釣閑斎を語るにおいて勝頼の立場は欠かせないので、御容赦願いたい。
勝頼の母は諏訪頼重の娘で、彼女にとって武田信玄は父の助命約束を反故にして切腹させた憎い仇でもあった。勿論信玄はそれを承知の上で彼女を側室としたのだが、そんな婚姻を周囲が問題視しない筈がなかった。
 そこで信玄は彼女を娶ったことを「神代以来の名族・諏訪の血を絶やさぬ為。生まれた子は諏訪家を継がせる。」としたので、勝頼は元服した当初、諏訪四郎神勝頼と名乗り、武田姓を名乗らず、武田家代々の通字である「信」の時すら与えられなかった(←信玄の息子の中では勝頼だけである)。

 ただ、後に武田家を継ぐ筈だった長兄・義信が謀反を起こした為に話はややこしくなった。所謂「義信事件」には謎が多いが、結果として義信は命を落とした。本来なら正室の子で、信玄嫡男で文武に優れた義信が順当に後を継いでいればその後の武田家の大揺れもなかったことだろう。そして勝頼もまた諏訪家の当主として武田を支える縁の深い国人衆当主として、権力はなくとも重責を負うこともない猛将でいられたことだろう。

 義信亡き後、信玄次男の信親は盲目ゆえに僧籍に入っており、信玄三男の信之は夭折していた。跡は側室の子ばかりで、兄弟順から云っても四男の勝頼が継ぐのは順当の筈だったが、「武田家を仇と狙う娘の子」と云う立場が周囲をして勝頼に心服せしめず、御親類衆筆頭の穴山梅雪(信玄の姉の子で、正室は信玄の娘)は真っ向から勝頼に対抗意識を燃やし、武田逍遥県信廉(信玄弟)も武田信豊(信玄次弟武田信繁の子で、勝頼の従兄弟)も肝心な所では勝頼の頼りとはならなかった。

 実際、「信玄の後を継いだ」とされる勝頼だが、正式には継いでいない。信玄後継者は孫で、勝頼の子・信勝とされ、勝頼は信勝が成人するまでの「後見人」と云う立場に置かれた。
 拙作『菜根版名誉挽回してみませんか』勝頼を取り上げた際に触れたが、この当主継承問題が勝頼の立場と武田家中の結束を弱め、後の滅亡に繋がった訳だが、そんな立場に置かれた勝頼が頼りになる側近を欲したのは無理からぬことで、そこにやって来たのが跡部勝資であり、長坂釣閑斎だった。

 故新田次郎氏原作の『武田勝頼』における長坂釣閑斎を見ると、細面の釣り目で、誰が相手でも云いたいことをずけずけと云い、「口達者」故に信玄に嫌われ、彼を勝頼に推挙した跡部勝資ともども諸将からも嫌われていた。
 また木曽義昌(妻は信玄三女で勝頼の義弟)の家老・山村由利は木曽家の窮状を訴える際に、姪を勝頼の側室に差し出そうとしたが、釣閑斎の側室にされ、「あの成り上がり者の側室にされるとは…!!」と憤るシーンがあるが、武田家基準で見れば長坂家は累代の家臣で決して成り上がり者ではない(一応、小説の描写で史実とは思っていない。勢力は小さくとも名家である木曽家重臣の姪を還暦過ぎの釣閑斎が側室にしたとも思えない)。

 いずれにせよ、武田勝頼はその出自の複雑さと、御親類衆・宿将・国人衆の支持を完全に得ることは出来ず、長篠の戦い後はそのすべてが徐々に離心していった故に釣閑斎への寵愛は自然発生的なものとさえ云えた。
 御親類衆は穴山梅雪を筆頭に勝頼に復さず、勝頼を立てはしても保身を優先したものが多かった。宿将は「信玄の遺言」を絶対視し、頼りになる者ほど長篠の戦いで命を落とし、長篠の戦い後に武田軍再編を献策した高坂弾正も勝頼の側近就任優勢よりも信玄から命じられた海津城守備任務優先を理由にこれを拒絶する始末だった。
 こうなるとどんな名将でも心服させることが困難な国人衆が勝頼から離反したのも無理からぬことだった。
 重ねて云うが、長坂釣閑斎が跡部勝資と並んで勝頼に寵愛されたのは必然だったのである。正確には、両名以外の面々がどこまで勝頼に忠実だったか、という話になるのだが。



末路 長篠の戦いにおける大敗を潮に武田家は衰退の一途を辿り、長坂釣閑斎の運命もそれに伴って衰退した。
長篠の戦いで多くの人材を失った(釣閑斎の三男も戦死している)のに前後して、浅井・朝倉・長島一向一揆・足利将軍家等の武田とともに反織田信長包囲網を形成していた勢力も次々と信長に滅ぼされていった。そしてそれに伴い、甲斐・信濃・駿河・上野周辺に住まう国人衆の向背は混迷を極めた。

 勿論武田勝頼も指を咥えて見ていただけでなく、北条氏政の妹を継室に迎えることで、甲斐・相模・越後(氏政の弟が上杉謙信の養子になっていたので友好関係が築かれていた)の連携で昔日の勢力を取り戻そうとし、これらの外交には少なからず釣閑斎も尽力した。
 だが御舘の乱(上杉謙信死後の養子達による跡目相続争い)で勝頼は上杉景勝に味方した(厳密には不介入要請に応じた)ことで、景虎(北条氏政弟)は敗死し、北条との関係も瓦解した。

 その間も、国人衆や御親類衆の静かな離反は進み、天正一〇(1582)年に入り勝頼の義弟でもあった穴山梅雪・木曽義昌が相次いで離反、三月に入ると織田信長は徳川家康・北条氏政とともに武田討伐の大動員を発令した。
 「武田崩れ」とも「天目山の戦い」とも云われるが、もはや戦なんてものじゃない御家崩壊に勝頼主従も覚悟を決め、天正一〇年三月一一日、先祖所縁の地である天目山にて武田勝頼は妻子ともども自害し、長坂釣閑斎を初め、跡部勝資、大熊朝秀(←過去に上杉家を裏切っている)、土屋昌恒、秋山親久等がこれに殉じた。長坂釣閑斎享年七〇歳。



評価と実像 世に「君側の奸」と云われた人物は実像より悪く云われる傾向にあるが、長坂釣閑斎ほど実像とかけ離れて悪し様に云われる奴も珍しい。それと云うのも『甲陽軍鑑』並びに新田次郎氏原作の『武田勝頼』の影響が大きいと云えよう。

 有り体に云えば、『甲陽軍鑑』釣閑斎を嫌う余り、史実でもない悪行(早い話でっち上げ)が目に余り、『武田勝頼』釣閑斎を太鼓持ち(というのは些か云い過ぎだが)とし、嫌な役所を押し付けている(逆に同作における真田昌幸はすべての言・洞察・戦略に誤りがなく、美味しいところを全部かっさらっている)。

 そこでこの両書の成立に触れつつ、長坂釣閑斎の書かれ様と実像に触れたい。
 まず、『甲陽軍鑑』だが、この書の史料的価値は間違いなく高い(信虎時代の国内統一を背景に領国拡大を行った武田信玄を中心に、武田家・家臣団の逸話・事跡・軍学・儀礼に関する記述などが豊富で、当時を知るのに参考となる点は非常に多い)のだが、著者の好き嫌いの度合いがかなりひどい。
 それを知る為に著者並びに、同著が成立した過程に注目する必要がある。『甲陽軍鑑』の成立は、天正三(1575)年五月〜天正五(1577)年で、天正一四(1586)年五月の日付で終っている。一説に、長篠の戦いで多くの重臣を失った武田家の行く末を案じた高坂弾正昌信の口述を、弾正の甥である春日惣次郎・春日家臣大蔵彦十郎等が書き継いだという体裁になっている。
 高坂弾正は武田家滅亡の四年前である天正六(1578)年に死去するが、春日惣次郎は武田氏滅亡後、天正一三(1585)年に亡命先の佐渡島において死去するまで執筆を引き継ぎ、翌天正一四(1586)年にこの原本を弾正の部下小幡下野守(武田氏滅亡後に上杉家に仕えた小幡光盛またはその実子)が入手し後補と署名を添えた。
 そしてこれに小幡昌盛(武田家足軽大将)の子景憲が入手し、更に手を加えて成立したもので、景憲は『甲陽軍鑑』を教典とした甲州流軍学を創始した。この景憲は大坂夏の陣にて徳川方の内通者として城内に入り、城に火を放った男として有名である。

 そこで注意するのは、「書を作った本来の目的」と「著者」である。まず前者だが、執筆を始めた弾正は勝頼や跡部勝資、長坂光堅ら勝頼側近に対しての「諫言」が目的だったので、辛口論調になるのが当然だったことである。
 そして後者だが、高坂弾正は武田信玄と男色関係に在り(信玄が浮気を謝罪したラブレターが残っている)、長篠の戦い後、勝頼に「勝手に戦線離脱した穴山梅雪・武田信豊の切腹」、「側近から跡部勝資・長坂釣閑斎を退ける新側近に曾根内匠・真田昌幸を登用する」、「戦死した侍大将の子を安易に継がせず、配下は新しい侍大将の下に付ける」等の案を元に勝頼の采配を絶対とした武田家再生の為の献策を言上した。
 ところが、当の弾正が、勝頼から「ならばそなたが余の側近として実行してくれ。」と云われれば「海津城の守りこそが信玄公がそれがしに命じた絶対遺命。どうしてもとあれば切腹します。」とやんわり拒否。新当主よりも肉体関係のある先代様の遺命を絶対視し、云い出しっぺ自ら勝頼を蔑ろにしたのである。
 結局、内容が素晴らしくても弾正の言動不一致と、一時的でも数多くの怨みを買うことが必定だったこの策を実行出来る者もいなかった(特に釣閑斎は最後の一つに猛反対し、勝頼もこれに反論出来なかった)ことで、これらの策は実践されなかった。

 この様な過程を経て、弾正が逝去した四年後に武田家は滅亡し、『甲陽軍鑑』は本来の目的を失った。書を持って生き残った小幡一族は上杉、徳川に点々として仕えることになった。となると、新たな著者としては、軍学成立の為にも、「旧・主家武田家は軍事・統治・外交に優れた術を持つ素晴らしい国であった」とする一方で、「それでも滅亡したのは、主君とその側近がとんでもない奴等だった」とする必要が生じた、と薩摩守は考える。
 勿論、これは薩摩守の推測だが、そう考えたくなるぐらい、『甲陽軍鑑』における釣閑斎への記述は「ひどい」の一言に尽きる。

 とにかく史実無視で悪し様に論述しているのである。
 同著では、釣閑斎は「長篠の戦いで無謀な突撃を進言して武田家を衰退させた張本人」とされ、「御舘の乱において上杉景勝から受けた資金援助の一部横領し、高坂弾正が勝頼に追放を提言したが、釣閑斎の甘言に惑わされていた勝頼は受け入れなかった」とされ、「天目山の戦い前に逃げたが、織田軍に捕まって殺された」ことにされてしまっているが、史実と異なること甚だしい
 実際には釣閑斎は、長篠の戦いには従軍せず、御舘の乱前後における上杉家との折衝担当は小諸城将・武田信豊で、天目山の戦い釣閑斎勝頼父子と運命を共にしている。
 『甲陽軍鑑』の史料としての以後を尊重するにしても、長坂釣閑斎(及び跡部勝資)を必要以上に貶めた誤りは誤りとして無視してはならないだろう。


 そこをいくと新田次郎氏の『武田勝頼』はまだマシである。
 同著も穴山梅雪と長坂釣閑斎を殊更悪く書いているが、横山光輝氏が描く釣閑斎の容姿や側近振りはこすずるそうでも、私利私欲で動いたり、偉そうに振る舞ったりする所は見当たらない。それどころか満座の中で釣閑斎を「たわけ」呼ばわりしたことで釣閑斎の配下が(浪人した上で)梅雪を襲撃までしている(←つまりは人望があるということ)。
 当然これは処罰対象だが、武田家中は彼等の忠義振りから処分に困りこっそり脱獄させている。同作における釣閑斎はどちらかと云うと「勝頼に忠ならんとして誰にも(勿論勝頼にも)遠慮しない姿勢を煙たがられている」という人物像に近く、釣閑斎と仲が悪かったとされる高坂弾正も彼の側近としての功績は認めていた。
 結果として、武田家の勢力挽回を図る数々の献策に反対したり、間違った策を提案したりしたこともあったが、それは間違っても釣閑斎一人で決まったものではなかった。

 昭和六三(1988)年の大河ドラマ『武田信玄』には長坂釣閑斎は出て来なかったが、人気ドラマに嫌われ者とされた彼が出て来るのが躊躇われたためか、従来の虚像で出したくなくて躊躇われたのか、興味は尽きない。


 史書・歴史小説・あらゆる史料は個々に価値を持つが、プロパガンダを目的としたものでなかったとしても「完全無欠」は有り得ない。著者が虚偽を真実と思い込んでいたり、知らず知らずの内に好悪の感情や偏見が真実を曇らせた書き方をしていたりすることもあるゆえに。
 だから史料を読む際には、著者の好き嫌いをはっきりさせた上で、「決して鵜呑みにしない」姿勢が大切である(例えそれが100%プロパガンダ本であったとしても)ことを長坂釣閑斎を巡る史観が教えてくれる。



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令和三(2021)年六月三日 最終更新