第陸頁 石田三成……生真面目過ぎた男

名前石田三成(いしだみつなり)
生没年永禄三(1560)年〜慶長五(1600)年一〇月一日
寵愛してくれた主君豊臣秀吉
寵愛された能力機転のきく所、経理・実務の才能
嫌った者達加藤清正、福島正則、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興。浅野幸長、池田輝政
略歴 今川義元が桶狭間の戦いでまさかの敗死を遂げた永禄三(1560)年に石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(現:滋賀県長浜市石田町)に生まれた。幼名は佐吉
 天正二(1574)年頃から長浜城主となった羽柴秀吉に小姓として使えるようになり、それに伴って父・正継、兄・正澄も秀吉に仕官した。

 主君・秀吉が織田信長の命で中国攻めの総司令官として毛利征伐に出征するとこれに従軍。天正一〇(1582)年六月二日、信長が本能寺の変で横死すると、秀吉山崎の戦いで明智光秀を倒したことを皮切りにし、織田家中での発言権を強め、次第に天下人として台頭した。当然それに伴って石田三成も台頭することとなった。

 天正一一(1583)年の賤ヶ岳の戦い、翌天正一二(1584)年の小牧・長久手の戦いに従軍し、偵察・兵站に置いて活躍。更に翌年の天正一三(1585)年七月一一日、秀吉が関白に就任するとその配下も次々に出世し、三成は従五位下治部少輔に叙任され、同年末には近江国水口四万石の城主となった(異説有り)。

 以後、各地方の群雄が秀吉に臣従を誓う際に、三成はそれらを斡旋するようにもなり、した。堺奉行に任じられ、当地を兵站基地として整備した。
 秀吉が九州島津氏をも屈服させると博多奉行となり、黒田如水等と共に博多町割り、復興に従事。そして天下統一に王手が掛った小田原征伐では上野館林城、忍城攻撃を命じられ、備中高松城攻めに続く水攻めを忍城にて敢行。ただ、忍城落城は小田原開城後だったため、この戦功は余り評価されていない。

 ともあれ、豊臣秀吉による天下統一は成立し、小田原征伐の事後処理においても、三成は常陸国の佐竹義宣、陸奥の伊達政宗が秀吉に謁見するのを斡旋し、臣従した大名領の検地奉行を務め、これまでの手柄もあって、五奉行に就任したのだった。

 続く朝鮮出兵においても主に兵站・軍監を担当した。文禄の役では渡海して、増田長盛や大谷吉継とともに漢城(現・ソウル)に駐留して出兵総奉行を務め、明軍の講和使・謝用梓、徐一貫を伴って肥前名護屋に戻り、明との講和交渉に積極的役割を果たした。
 だが、この戦いにおける軍監振りと、講和に置いて小西行長と共に追って独断専行が彼の家中における立場を悪化せしめた。
 更に、その後豊臣家において起きた出来事及びその処置は、秀吉三成への寵愛を深めるとともに、それに反比例して三成の人望をますます悪化させたのだった。



主君の寵愛 石田三成がと羽柴秀吉に仕える様になったいきさつには有名な逸話がある。
 鷹狩りの帰りに休憩の為に寺に寄って茶を所望した秀吉に、その寺の小僧だった佐吉が茶碗一杯に温めの茶を出し、御代りを求められると二杯目は少し熱い茶を茶碗半分に、三杯目は熱い茶を少し出した。喉の渇きに応じて機転の効く茶の出し方を気に入った秀吉佐吉を自分に仕えさせる様になった、という有名な「三献茶」のエピソードである。
 これが史実かどうかは薩摩守には断じ難いのだが、仮にこの話を作り話と見る方にとっても、この話が石田三成と云う人物を端的に表していることに異論を挟む方は少ないと思う。

 そもそも「人たらし」と呼ばれた男・豊臣秀吉は、天下を取っただけのことはあり、三成に限らず、様々な人物を登用し、個々の能力を遺憾なく発揮させた。徳川家康・伊達政宗・上杉景勝・島津義久等の様に、自分に必ずしも忠実とは云い難い大名でも上手く付き合いこなした。
 当然、そんな秀吉の配下だったからこそ、出世し得た人物は少なくなかった。彼等は秀吉に忠誠を尽くし、秀吉もまた彼等を寵愛した。
そんな秀吉配下に在って、石田三成の名が一際高い知名度を持っているのは、と「秀吉に可愛がられた」と云う一際強いイメージを持っているのは、関ヶ原の戦いにおける実質上の総大将とされたことに加えて、「人の嫌がることをやってくれる奴」だったと薩摩守は見ている。

 その最たるものが、「秀吉への取次役」・「新領地の検知」・「秀次事件における最初への処刑担当」を務めたことにあると云えよう。
 まず「秀吉への取次役」だが、これは主に秀吉に降伏した大名が、降伏後初めて秀吉に謁見する際に三成が謁見段取りを務めたものだが、この役目は余りイメージの良い役ではない。謁見が穏便に済んだり、厚遇されたりした際には「賄賂を受けたのでは?」と見られ、厳しい処断が下ると「賄賂を送らなかったからか?」、「私的感情で関白殿下に讒言したのでは?」という勘繰りを受け易いからである。
 実際、島津家は三成の仲介に感謝しているし、逆の例を出せば、季節外れの大きな桃を珍品として献上した毛利輝元は三成が取り次いでくれなかったことを恨んだ(季節外れの果物で秀吉の健康を害することを懸念した三成が断ったらしいが、輝元の面子は潰れた)。
 また、伊達政宗を主人公にした作品では、秀吉との初謁見は彼の人生における最大危機の一つで、この時秀吉に近侍していた三成は「ただそこに居るだけ」なのにイメージは良くない。
 まあ、現代企業でも大した役職を持たない人間が社長への取り次ぎ役を務めていたら、面白くないだろう。

 続く、「新領地の検知」だが、歴史上刀狩りとセットで語られる太閤検地豊臣秀吉の内政を語る上において重大なイベントであると同時に嫌われた政策でもある。
 太閤検地は中国史で例えれば秦の始皇帝が行った度量衡の統一に匹敵する大政策で、戦国の世相で混迷を極めた当時の日本には枡の大きさからしてバラバラで、収税側も納税側も己が都合にいい枡を使用せんとしたのを秀吉が京枡に統一した。同時に、各地の石高が実情に即しているか?隠し田による不正蓄財や年貢逃れがないか?を明白にする為に大掛かりな検地が行われた訳だが、秀吉は天下統一前から既に三成に服属した国の検知を行わせていたのは前述した通りである。
 実際、太閤検地は必要且つ卓越した政策だったのだが、必然これによって既得権益を失った多くの者達が秀吉を、そしてその手先となった三成を恨んだ(←世の常ですな)。

 最後の「秀次事件における最初への処刑担当」だが、甥の豊臣秀次を可愛がり、関白の位まで譲った秀吉が、望外の次子・秀頼が誕生したことで悪魔に変貌した事件で、三成は福島正則とともにこの事件における処刑を担当した。
 ただ同じ処刑担当でも、対象の違いがイメージの違いを生んだ。
 秀次は当初謀反の嫌疑で関白の地位を剥奪され、高野山に追放されたのだが、その一週間後に福島正則が同山を訪れ、秀次に切腹命令を伝え、その見届け役・検死役を行った。
 それに対し、三成が担当したのは秀次の妻子の処刑で、秀次切腹の一七日後に京都三条河原にて執行された。
 処刑された人数は三〇名を越え、その数の多さゆえ、三成は文禄四(1595)年八月二日早朝から四〇メートル四方の堀を掘らせ、秀次の生首の前でまず秀次の子供達から斬首された。
 嫡男仙千代丸は五歳、次男百丸は四歳、三男於十丸は三歳、四男土丸は生まれたばかりという幼さで、それについで側室・侍女・乳母等も全員が斬首された(北政所の助命嘆願も通らなかった)。
 更に遺体は大穴の中に無造作に放り込まれ、埋め立てた塚の上に秀次の首を収めた石櫃が置かれて、首塚が造られた。その首塚の石塔の碑銘には「秀次悪逆」の文字が彫られるという徹底ぶりで、処刑見物に慣れていた(←嫌な表現だ)筈の京の人々さえ嘔吐したり、卒倒したりするものが相次ぎ、「余りに酷い!」と奉行(及び三成)に対して罵詈雑言が発せられたと云う。
 秀次切腹には他にも多くの大老・奉行・大名・公家が様々な形で事後の処置に関わったのだが、直接の処刑を執り行う者の精神的負担は計り知れなかっただろうと薩摩守は思う(余談だが、薩摩守は死刑存置論者だが、執行人の精神的負担はもっと考慮すべきと思っている)。逆説的な見方だが、酷刑の執行を担当し、野次馬の罵声を浴びせられるであろう嫌な役目は、秀吉にとっても寵愛する三成だから任せられたのではなかっただろうか?

 秀次処刑後、秀次旧領の内、近江七万石が、三成の代官地になり、同年の内に三成は近江佐和山一九万四〇〇〇石の所領を秀吉から賜ったが、これもまた彼の世評を落としたと思うと皮肉である。

 ともあれ、秀吉にとって、気の効く家臣や、利用して便利な有能家臣は履いて捨てる程いたが、地位がある故に行わなければならない嫌な政治を実践させられる人物は三成を始めごく少数しかおらず、それが他の者達とは一風違った寵愛を詠んだと薩摩守は分析している。



末路 当然と云おうか、必然と云おうか、豊臣秀吉の逝去は石田三成にとって様々な痛恨の出来事となった。
 秀吉の遺命で朝鮮出兵は中止となり、三成は在朝諸将の引き上げを命ぜられたのだが、朝鮮の地にて敵兵よりも玄関と飢餓に苦しんでいた彼等は、肥前那古屋で帰国を迎えた三成に対していきなり毒舌を叩くほどだった。
 それでも秀吉の死直後は偉大な主君を失った悲しみや、新当主・豊臣秀頼を盛り立てることへの使命感の方が強かったが、それも徳川家康・前田利家等が奉行派VS秀吉子飼い派(「近江出身派VS尾張出身派」とも「北政所派VS淀殿派」ともいう)の対立を抑えたが、翌慶長四(1599)年閏三月三日、前田利家が逝去すると加藤清正、福島正則、加藤嘉明、黒田長政、細川忠興、池田輝政、浅野幸長の七人がその日の内に石田三成の襲撃に出た。勿論名分は「君側の奸を除く!」である。

 佐竹義宣の手引きで屋敷を脱出した三成は敢えて宿敵である筈の徳川家康の懐に飛び込むことで七将の襲撃をしのいだが、領国佐和山への隠居を命じられた。表面上は自分の次男・結城秀康を佐和山までの道中警護に付けて何かと気を使ってくれる家康の「皮肉の効いた親切」に切歯扼腕しながらも佐和山に引いた三成だったが、勿論これで終わらなかった。
 それから約一年が経過し、会津の上杉景勝が上洛命令を拒んだことで家康は諸将を率いて会津討伐の兵を出すと三成は淀殿を説き伏せて大坂城から家康討伐の兵を出して会津勢と挟み撃ちにすることを決意した。
 親友の大谷吉継は「無謀だ。」と云って諌めたが、三成は翻意しなかった。一度は佐和山を辞した吉継は三成とともに死地に赴くことを決意し、三成に彼の人望の無さ、能力では家康に劣っていることをはっきりと告げ、三成は家康と同じ五大老の一人である毛利輝元を、同じく五大老の一人である宇喜多秀家を副将として、挙兵し、上杉討伐に従軍した諸将の妻子で大坂に残る者達を人質とした。

 だが、ここまで段取りしても家康の方が老獪さにおいて一枚も二枚も上手で、黒田長政を抱き込んでの調略の手は西軍諸将に次々と延び、下野小山で三成挙兵・妻子人質を知った従軍諸将も真田昌幸・信繁(幸村)父子を除いて誰一人家康の元を離れなかった。
 毛利輝元の大坂城に残し、三成自身、家康を迎え撃たんと美濃大垣城まで出張ったものの、諸将は一枚岩たり得ず、ついに始まった関ヶ原の戦いでは吉川広家が内通していたことで毛利秀元・安国寺恵瓊・長宗我部盛親等が南宮山を動かず、松尾山で陣取っていた小早川秀秋が、ついでその為に備えていた筈の小川・脇坂・赤座・朽木の諸将も東軍に付いたたため、西軍はたった一日でまさかの大敗を喫した。
 結局西軍で最初から最後まで真面目に戦ったのは石田三成、宇喜多秀家、大谷吉継の軍勢だけだった。

 戦場を離脱した三成は領国佐和山を目指したが、戦いの二日後には父・正継と兄・正澄が守っていた佐和山も落城し、父と兄は自害。その四日後に伊吹山中に潜んでいた三成も田中吉正隊に捕えられた。
 関ヶ原の戦いから一週間後の九月二二日、大津城に護送されて城の門前に縄目姿で晒された三成は城門を通る諸将の侮蔑を受けるも堂々と云い返し、その後家康と会見。五日後に大坂に護送され、小西行長、安国寺恵瓊と共に大坂・堺を罪人として引き回された。
 そして彼等とともに一〇月一日、六条河原に引き据えられた三成は辞世の句を残すことも、十念(処刑前に僧侶から授けられる念仏)も断り、斬首された。石田三成享年四一歳。その首は行長、恵瓊、既に切腹していた長束正家とともに三条河原に晒された後、沢庵和尚に引き取られ、京都大徳寺の三玄院に葬られた。



評価と実像 石田三成はまずまず有名な人物なので、長所も短所も良く知られ、二〇世紀中は「豊臣秀吉の生意気な腰巾着」みたいな見方が強かったが、二一世紀に入った辺りから正統な評価が為されている。

 三成への好悪は人それぞれあるにせよ、彼が「経理に長け、秀吉に可愛がられ、忠誠心に溢れるも生真面目過ぎたゆえに人の気持ちを重んじず、多少の傲慢さが伴った。」というイメージは概ね共通するのではなかろうか?
 いずれにせよ、薩摩守は彼を無能呼ばわりする人や、関ヶ原の戦いにおいて叫ばれた様に「秀頼公の名を騙って天下を私せんとしている。」と見做したりしている人は現代人では見聞きしたことはない(笑)。

 正直、石田三成の人物像は拙サイト開設直後に『菜根版名誉挽回してみませんか』を制作した頃には正しく理解され出し、それから一〇年以上を経た現在では薩摩守の出番がないぐらいである。この様なサイトを見て下さる方々に改めて説明するまでもないのだが、二点触れておきたいことがある。
 一つは、三成が単なる秀吉のイエスマンではなかったと云うことと、もう一つは彼より下の立場との関係である。

 よく誤解されているのだが、豊臣家中に在って三成は石高も地位も決して高い方ではなく、むしろ低い方だった。石高は近江佐和山の一九万石で、中の下クラスで、官位の治部少輔は従五位下に過ぎず、豊臣政権下でも重要な五奉行の地位に在ったとはいえ、席次は四位だった(秀吉の身内である浅野長政が筆頭で、第二位は前田玄以、第三位は増田長盛、第五位は長束将家)。
 逆にこれほど少身であれほどまでに主君に可愛がられたとなると、完全な太鼓持ちであることが多いのだが、三成は時として秀吉に諫言することも辞さなかったし、前述した様に地方の諸大名の中には三成の取り成しで秀吉から過酷な懲罰を与えられるのを逃れた者も少なくなかった(これは一歩間違えれば三成にとっても危険な行為である)。
 簡単に紹介したいので下記を参照して欲しい。

秀吉の命令と三成の独断行為
秀吉からの命令三成の行動
朝鮮出兵の講和交渉秀吉・明皇帝双方の立場・性格から「降伏」は有り得ないと見て、小西行長とともに明使節の国書を偽造。
キリシタン弾圧逮捕・処刑の数が極力少なくなるよう秀吉をなだめた
小田原征伐における忍城水攻め既に負けが見えた相手にパフォーマンス的な攻め方をすることを一度は拒否。最後は強権発動に負けて挙行(苦笑)。
九州某地三三万石城主就任拒絶。大身よりも秀吉の側近くに仕えることを誇りとした。

 もう一つの「下の立場との関係」だが、多くの人間に嫌われながら三成は部下と領民にはとことん慕われた。大権力者の太鼓持ちとなった人物は下の立場に留まり続けるものを見下すものが少なくないのだが、三成にはそれが無かった。
 大谷吉継との友情(茶の湯の席での膿が落ちた逸話)は今更云うに及ばないだろうし、関ヶ原の戦いにて西軍勢の多くが日和見を決め込む中、島左近・蒲生郷舎といった配下は黒田長政・加藤嘉明・田中吉政勢を相手に獅子奮迅の奮戦を繰り広げた(黒田長政・加藤嘉明は元々強い上、三成に強い憎悪を抱いていたので戦意は充分だった、のにである)。そして大敗後、伊吹山中を彷徨う三成を多くの領民が匿おうとした(←勿論ばれれば死罪)し、佐和山領民は三成死後に地蔵を建立して彼を偲んだ(←一応、「謀反人」として処刑された人物なので、表立った供養は処罰対象となることもある)。
 ついでを云えば朝鮮出兵直前までは加藤清正との仲も悪くなかった(前線基地構築でナイスコンビネーションを見せた)。
 とかく同僚・政敵・秀吉以外の上司には嫌われたが、親友・配下・領民には慕われた。
 その要因は、「正しいと思ったことはズケズケと云う」と云うことが本当に徹底していたからだろう。直言居士は尊敬されるが敬遠される。現代社会でも「俺は相手が誰であっても正しいと思ったことは正しいと貫く!」と息巻く人間は少なくないが、「本当に誰が相手でも徹底している人間」は極少で、立場が上の人間や実力者には及び腰になる人間の方が多い。だが三成はパフォーマンスではなく、本当に直言居士だった故に本当に尊敬され、本当に煙たがられたのだろう。
 三成が「親友」と呼べた者は少ないが、大谷吉継、直江兼続、佐竹義宣、真田幸村、と錚々たる面子であったことがそれを証明している。
 そしてこの様な人物は自分にも厳しく、配下に優しいので配下や領民には仕え甲斐のある主君となる。

 総論として、石田三成は本当に豊臣秀吉が好きだったと云える。直言居士だったのも本当に秀吉を想えばこそだし、汚れ役も(恐らくは)喜んで引き受け、豊臣家の敵に回りかねないと思い込んだ相手を異常に敵視した(例:徳川家康・豊臣秀次・伊達政宗)。
 こういう人物は主君としては非常に可愛く映るだろう。それを証明するように徳川家康や徳川光圀が「部下としての三成」を評価している。

 ただ惜しむらくは、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」を少しばかり石田三成は知る必要があっただろう。
 最後に完全な余談だが、平成二六(2014)年の大河ドラマ『軍師官兵衛』での石田三成
 ありゃ何だ?!
 完全に二昔前の「嫌な奴」としての三成の描かれ振りじゃないか!!!(怒)


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令和三(2021)年六月三日 最終更新